相対的 VS 絶対的
しゅうとひょうのみちのりへのみちのり
この番組は、文字通りしゅうとひょうの気が向いた時に
適当に好きなことを話しながら
まだ知らないことわり
つまり
みちのりを探していくみちのりを描く番組です。
下手をしたら、下手をしたら、二人の持ちっぷりを探すだけの気のままな旅。
ゆるーくお付き合いいただけたら、うれしいです。
前回からの続きです。
今までの話を聞いていて、
相対的に人と比べるものっていうのと
絶対的に自分が思い込めばいいものっていう、なんか二つあるなぁと思っていて
セラビさんがやっている番組の方の話、先ほどちょっと
作家はシンプルだ。
そちらで、どちらかというと絶対的な方の話がされてたのかなというか
人と比べるんじゃなくて、自分が得意だと思ったら
それは得意なことになるんだろうっていうか
なんかそれが私すごくしっくりきて
私自身も結構そういうようなことを思うんですけど
一方でやっぱり社会の影響を受けてしまっていて
自分を労働市場に売り込まなきゃいけないですとか
学生の時から偏差値っていう言葉があったりして
人と比べて自分の能力っていうのはどの位置にあるんだっていう
そういうふうな見られ方だったり
社会的にそういうことを求められたりしているので
やっぱり相対的っていう方の考え方っていうのがやっぱり
強く残ってしまっていて
仕方がないんですけどあんまり良くないなっていうか
結局その絶対的な方がいいじゃないですか
自分がこれが好きでこれをやる
飽きてしまうってことはあると思うんですけど
自分がこれだと思ってやってこれが得意だっていう気持ちの中に
人がどうこうっていうのは別に入る余地はないと思うんで
そのまま突っ走ればいいところに
ちょっと社会的要請邪魔が入るんで
その辺が難しいというか
自分の気持ちの持っていき方ですよね
なかなか社会に出たりとか学生になって
ちょっと競争みたいなところに晒されていく中で
どういうその絶対的っていう方にどういうふうに自分を持っていくか
っていうのがなかなか難しい環境なんだなぁと思いましたね
バランスですよね
そもそも今僕たちがこう
生命を維持するっていうのに
お金が必要な資本主義社会があるので
もうそれがある以上
相対的なところからは切り離せないというかですね
だからそしてそれがあるがゆえに
そのそっちの相対的なところの評価だったり
そういったところをある程度重視しないと
生命活動が維持できない
そっちをしないといけない
そっちに時間を割かないといけないから
その絶対的なところに没入することもできない
できないみたいな状態になりますよね
だからやっぱりそこのバランスをどう取っていくかっていうのが
自分との競争
それぞれの課題だったりしますよね
でも一方で
自分の絶対的なところだけっていうのも理想だと思うんですけど
それだと自分の中だけの話になっちゃうじゃないですか
イノベーションみたいなものが起きるのって
遠くの者同士が繋がった時というか
自分の中だけじゃなくて他との
感覚反応みたいなところがあるんで
自分の中での好きっていうようなのと
違うところもですけど
同じ分野の中でも多様性があるじゃないですか
その辺とは相対化することで
生まれるものも多分あると思うんで
自分の中の絶対的なのだけが一番理想かっていうと
そうでもないのかなとはちょっと思ったりして
やっぱりそういう意味でもそこの
捉え方のバランスみたいなのがすごく難しいんだなってちょっと感じましたね
そうですよね片方だけっていうのがやっぱりまずいんでしょうね
絶対的だけとか相対的だけっていうとか
なんかあったな
どっかでチラッと見たフレーズなんですけど
iTunes LOVEのYouTubeの題目とかだったかもしれないですけど
自分と競争をする
過去の自分とか今の自分と競争する方がいいのか
その周りと競争する方がいいのか
みたいななんかちょっと文言を見かけた気がして
なんか面白いなと思って
そこもそれぞれの良さが多分やっぱりあるから
なんかこれと多分似たような話なのかなってちょっと今ふと思いました
絶対的な信頼
なんかアスリートにも似たような通じるような話ですね
そうですね
なるほど
どっちにも捉えられるんですよね
なんかなんでしょうね
僕もしょうまさんと同じように学ぶことが好きで
好奇心最高って思ってる人間なんで
やっぱりどちらかというとその絶対的なものを持つ方が
価値があるだろうって
最終的になんか自分に困難が降りかかった時に
どれだけ絶対的なもので自分を信頼できるかみたいなところが
やっぱ最後の最後で効いてくるのかなって思ってるんで
なんかちょっと相対的な方を軽視しているわけではないんですけど
まあやっぱり相対的な方を軽視してるんだろうなっていう感じはありますね
なんか人になんかアーダ・コーダ・ガイアに言われた時に
いやけど俺は自分で
なんか自分自身はこの絶対的なこれをやりたいんだっていうか
まあ人に大迷惑かけることなのかもしれないんですけど
なんかやっぱりそういうものがあるっていうのが
なんかずっとダンバーになって効いてくるような気がしていて
自由の性質について
なるほど面白いな
そこになんかすごく価値を感じるんですよね
なんか自由であれるかどうかみたいな話にもつながるような気がして
なんかその絶対的なその自分の中でのものを持っておけば
その範疇でもう本当に自分の自由が究極の自由だと思うんですね多分
で一方で相対的な話からいくと
変にその周りと比較して気にするとかそういうのじゃなくて
その依存先をいっぱい持ってるっていうのは
また一つの自由じゃないですか
ここもここもここもそれぞれいろいろ依存してるというか
関係性があるような状態で
自分たとえばある一つのところでなんかちょっと違うなってなった時に
そこしか依存先がなかったら縛られちゃうけど
別にいいやみたいな感じで他にもいっぱいあるしみたいなのっていうのも
自己責任について
一つの自由のあり方だから
なんかこの自由のあり方自由の性質みたいなものが
絶対的なものと相対的なものであるような気がしましたね今の話聞いて
そうですね今の話を聞いても自由には責任が伴うって言葉が浮かんで
最終的にだから自分が腹座って何かを決断する時に
これはもう俺はこういうふうに決めたんだから全責任は自分で取るみたいな
そうですよね
結局それで自分は自由を手に入れているという一方で
責任は自分で取るっていう決断をしているので
自分のことについての責任っていう意味ですかね
そうですね自分のことだったり何でしょうね自分が何か会社でやってるプロジェクトだったり
まさにあれですよねこの前の上水さんの話ですよね
そうですね
どんな話でしたっけ
今富士山とはちょっと分かるんですけど上水さんが
サイコパスのラジオですかね
サイコパスのラジオで個展辞められた時の話で
そこでリプライされてて僕もまさにそうだみたいなのでちょっとのっかって言ってたんで
その時の話に通ずるなと思ったんですけど
結局自分でこう
全部決めれるっていうのが楽というか
結局その自分で決めたら自分のせいだって納得いくから
それが自分に責任を持つということで
責任の捉え方
それで自由にやれるっていうのが一番なんかこう
やりやすいなっていう風な話
かなり乱暴な言い方しましたけど
そんな感じでそういうところの話いかなと思ってちょっと今
話をちょっと上げさせてもらったんですけど
確かに
そのなんて言うんですかね上水さんも僕のツイートは知らないんですけど
個展を辞められた経緯としてやっぱり自分が持ってる意見っていうのを伝えずにはいられないし
それを誰かの意見に沿わせるみたいなのが苦手な性質だから自分にとってはその生き方が一番しっくりくるみたいな
表現されてた感じがしてだからすごいぴったりくる生き方されてるなぁと思うと同時に
僕とかはあそこまでのなんか強い芯みたいなのが持てないタイプでもあって
そこが多分つながってるんだろうと思うんですけど
責任っていう言葉を聞くだけでちょっと怖い自分がいたりするんですよ
僕、しゅうさんを見ると
しゅうさんご自身で責任取られてるというかもうしゅうさんが自由にやって
しゅうさんはもうなんていうか
自分で責任取ってやってるじゃないですか
責任
あまりにもね責任っていう言葉が怖すぎ
そこまで大げさじゃないですよ大げさじゃないんですけど
ついついこう責任っていう言葉が怖い対象として考えているせいで
具体的なところがあんまり多分ね全部のその
藤さんが今表現されてるふわーっとしたこういうふうなことを言ってくれてるのかなみたいなのは
ふわっと感じてはいるんですけど
多分僕の中では全部それをね
違う言い方に置き換えて普段思考してるもんで
人に迷惑をかけないとかそれ系の捉え方であってますかね
まあまあそうですよ
なんかこう
なんて言うんですかね会社とかでこう責任取れるのかみたいなそういう表現って
使われたりするときに
だいたいその金銭面のこととか
使われてるのかな会社会社の売り上げに対してであったり
そんな風に使われてるイメージが強すぎて
なんかでも世の中そのお金で解決できることだけじゃないしみたいなね普段から内省をしてる
その自分の兵器みたいな内省をしてる中で
本当の意味での
責任っていうものってなんかありえないんじゃないかなぐらいな
思考を普段ちょっと一人で勝手にやってるもんで
なんかなんだ
通常の会話の中で普通に使われる責任っていう言葉が
どういうふうに捉えるどんな形だったっけみたいな今その感覚になってて
確かにそうですね僕が話した責任っていうのは
主にやっぱり仕事の中で出てくる責任なのかなと今振り返って思っていて
まあその責任をどういう
責任という言葉をどういう定義にするかによって多分捉え方も全然変わってくると思うんですけど
先ほどしゅうさんがおっしゃったみたいに
人に迷惑をかけないとか
っていう言い方もできますし
僕はちょっと今パッと出てきたのは人のせいにしないっていうか
そういうニュアンスですかね
それはしっくりきますねそれは確かに
基本的にやりたく最もやりたくないことの一つですね
個人の自己責任性
人のせいにしないとか他の人に迷惑をかけないとかで結局その
会社とかでこう何かする人も何かをこう
他の人とチームを組んでやるってなったらこんな
何かしらのその目的に向かって進むわけですけど
結局だからそこの利害関係みたいなものが生まれて
その中で
みんなの考え方意見があるから
自分が思ってるのが正しい正しくないとかっていうのは分からないわけですよ
それこそその別に自分のが正しいからって思ってるわけでもなくて
ただその自分の性質として自分が納得できないままいきたくないみたいなのがあるから
結局それで納得できない状態で折れて
一緒に活動するぐらいだったらもう全部自己責任でやれた方が楽しい
他の人に迷惑かけるわけじゃなくて迷惑かかるとしたら自分だけだからそっちの方が楽みたいな
そんな感じですかね
めちゃめちゃ分かります
一生懸命理論武装っていう言葉を使いますけど
自分の提案を通そうと頑張って武装しても通らないとかっていうことが多かったりすると
しょうまさんが言ってくれたような思考になりますよね
できる限り僕は前の前の会社とかで学んだのは
自分が納得できてない状態で妥協した状態で進んだときに
結局自分にも返ってくるんですよ
それでうまくいけばいいんですけど仮に妥協して進んで
仮に何か悪影響が自分に戻ってきたときにほら言ったこっちゃないとか言いたくないわけですよ
自分も結局そこで妥協をしたっていう妥協するという判断をしたわけだし
でもそこは自分は納得いってなくて組織上折れざるを得ないみたいなところで
自分がやった決断なんでそこを何も言えることではないし
言うのはダサいと思うんですけどだからこそ
絶対納得した状態で組織の中で納得した状態でいきたいし納得できないなら
もう辞めるみたいなスタンスが一番健康的だなと
納得できるか納得できないかってところになってくるとやっぱり
組織との葛藤
組織規模だったりとかいろいろ
いろんなしがらみだったりとかもあると思うので
というかヒエラルキーとして明らかにあるからですね
会社に雇われている以上会社が健全に回るっていう意味でも
自分が少なくとも一人でも生きていける家族守っていけるっていう自信を持っておかないと
そこでまっとうに意見できないし戦えなくなるんですね構造的に
だから僕はずっと自分一人でも生きていける家族守っていける
その一つの会社に依存しなくてもやっていけるっていう自信をずっとつけたいと思って
これまで来てるような感じではいますね
なるほど
葛藤な考えですね
ありがとうございます
僕はそこが今会社っていうものに属してないから
すごくどう自信持っていいかがわからない状態なんですね
なんか今会社の話に寄っちゃってて僕の話がきっかけで会社の話に寄ってて申し訳ないんですけど
逆に今の世の中のメインの人は会社に属してるわけじゃないですか
それを無謀ながらも
そういう状態そのものが僕の目から見ると世の中がどんどんやばい方向に進んでるっていう
僕の個人でやってるしおの話ラジオでは
世の中がたきつぼに向かう船みたいに見えちゃうっていうそういう表現してる
その動きだと僕が感じてるもんで
そこをより解釈するっていうのは必須というか
必要なことっていう感じがしてるんですよね
会社に依存しない生き方
なるほど
でそのさっきというか序盤から藤さんがおっしゃってくれてる絶対的な自信みたいなものを持つ
みたいなことにその序盤さんがちょっと前に今お話してくださった
なんていう表現でしたっけ
途中でその
相対的な方ですかね
会社でのその
あれごめんなさいさっき聞いてうんうん言っときながら
表現をちょっと一部忘れちゃったんですけど
自分でも一人で生きていける自信ですか
そうそう一人で生きていけるという時にその
戦ってっていう表現がどっかに混ざったんですよね
あー戦って
確か
言いましたかね
言ってなかったらごめんなさい
戦ってっていう表現は多分知ってないと思うんですけど
ただその
そういうニュアンスが聞こえたかもしれないですね
自分一人でもこう生き抜いていけるというかさ
なんか
その会社に依存せずとも
で戦うっていうのはその
会社に意見できるというか
はいはいはいはい
そこの
会社に対してその
真っ当にこう
物を載せるかとか多分そういうところニュアンスかなと思いますね
なるほどなるほど失礼しました
あーいえいえそれは大丈夫なんですけど
でも何らかの形でその
もともと会社っていうものがなかった頃から
人が生きていくために
昔はその動物と戦ってたかもしれないし
何か木の実とか植物食べられるものを探すことその自体が自分との戦いだったかもしれないし
何かの戦いが今の形を変えて
会社のその上司と
自分の立場とか身を守るための戦いみたいな
何かしら形が変わってそうなってるのかなみたいに捉えようとする感覚が僕の中にあって
だからそれをなんか解きほぐしつつ
全体がこの行き過ぎない方向に戻していくっていうのを
資本主義社会の中で生きることと自信
常にこう自分の内省もしつつ
そういうこともぐるぐる頭の中で考えてるんですよね
今答えのない話をしてるんですけど
しゅんさんはそれこそその一つの方法として
そういう資本主義社会に乗らないというか
乗らない形で生きていけるっていう
いわゆる自信をつけようとされてる最中でもあると思うんですけど
そこで手段として手放すっていうのがあると思うんですけど
だから僕の場合は
バリバリ資本主義社会に乗っかっちゃってるので
あとはしゅんさんほど手放せないっていう現状があって
その規模が大きいがゆえに
より資本主義社会に支配されるというか影響される部分が多いので
だから資本主義社会の中で生きていける
いわゆるお金をちゃんと稼げる
っていうところにどうしても至高がなってしまう
自分が必要とする分だけちゃんと確保できる自信みたいなのが
最低限家族を守っていけるっていうような
ちょっと話ずれて聞こえるかもしれないんですけど
最近ちょっとイメージが湧いたことがあって
どういう文脈というかどういう思考の流れでそういったかは忘れちゃったんですけど
うおのめについて
いろんなことに結構当てはめられるかなと勝手に僕が思ってるのが
うおのめってわかります?
わかります
藤井さんわかりますかね?
わかります
なったことありますかね?
次回へ続く