1. 【体験者の証言】戦争の記憶(Memories of War)
  2. 【記憶17】檀上直門さん/Memor..
2014-06-30 56:37

【記憶17】檀上直門さん/Memories17_Danjou Naoto

【記憶17】檀上直門さん/Memories17_Danjou Naoto


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こんにちは、早川洋平です。【戦争の記憶】今日は広島県、ここは尾道市ですね。尾道市の浦崎町の檀上直門さんにお話を伺います。檀上さん、よろしくお願いします。
先ほどもちょっとこのインタビュー始まる前にお話を聞いたんですけど、この浦崎町というのは、この尾道ですけど、ちょっと福山とかがいいんですかね。
そうですね、昔はここ半島になっているからね、船が昔はここから直接尾道、海藻店からその近くへ行く、尾道近いんです。
福山というと松永というところからずっと、ですから便利は合併した方が、今は交通、昔は船は儚かったから交通自然に便利が悪い。
ここから尾道普通に行く前に松永というところへ出て、そこからバスに乗り換えをやれば、何時間もかかる。
ここから船が尾道市になると、船が出ているからね、この近くから。
さっきフェリーがありましたね。
30分くらいかかるから、浦崎から尾道、松永側に湾になっているここですから便利があるんでさ、
福山、尾道、陸を回って行くによる海を回って行ったらもう近いんでさ、福山へ合併しなくても、
そういう条件、治理的な条件があったんです。
そんなこの浦崎町で今日お話を伺おうと思うんですけど、男女尚人さんは昭和2年10月23日生まれ、今年88歳になられるということで、
今日は色々とお話を伺いたいんですけども、今回このインタビューの企画は戦争の記憶ということで、男女さんの戦争の記憶というのは本当に色んなことがあったと思うんですけども、
ご自身にとって今思い出して、最初に戦争が始まったという記憶ってどこにありますか?
例えば日本が改正したみたいなニュースが入ってきた時なのか、ご兄弟が例えば何か戦争に行かれるとか。
いやそれがね、私の家庭は兄弟が全部長男が陸軍、そして次男が海軍、三男が陸軍、四男、私が四人目でみんな戦争兵席あったんで、
若い時は日本のために一応、うちはもう家の家で一人くらい歴代、うちは四人軍人の家族ということで、私は四男で、他の兄弟もみんな軍人で育ったわけで、
03:00
兄弟がみんな戦死したんでさ、私が一人くらい残って、全部亡くなって、
あの頃は、私らの若い頃は、普通であったらみんな軍人になりを絶やすね、この調栄検査もあったんですが、
21歳で調栄検査、昔は男はみんな一応調栄検査あったわけでさ、
でも、私は20歳、19歳であったから、ちょっと早く学校を校長が推薦して、
高校4年生のおり、その校長がエレア人で、男女軍学校を代表して、君軍人になってくれんかということで、
私は三原工業学校を当初、そこで校長が学校を代表して、校長もやっぱり自分が少々じゃけり君少々いうもんじゃけ、
誰か学校でも戦争華やかな頃で、私も返事したんですが、一人だけ代表して、
俺の考えを君受けてくれんか言って、校長が言うから、
私も家で、みんな3人、辰夫、新吉、私で4人兄弟あったんですが、みんな軍人でね、
私はまあ、校長が頼むから、学校を代表して、君軍人になってくれんかということで、それで行ったんですが。
その先生から、校長先生から頼まれた時っていうのは、3人上のご兄弟は、もうみなさん、
みんな元気なかったですね。
その時、校長先生から言われた時っていうのは、例えば今の現代の人だったら僕もそうですけど、
頼まれても行きたくないっていうのもたくさんいると思うんですけど、
当時はむしろやっぱり名誉なことみたいな、どういうご心境だったんですか?
あのね、昔はこの町内、紫村にいたんですが、紫村にいてね、
戦争で軍人家族は、一人行ったら毎日ね、日の丸の旗家の門に立ち寄ったんです。
で、親父らもやっぱり軍人家族、軍人ならそう思ってね、
4人男があれ、みんな行き合いを思って、親父さんは考えておったんじゃないかと思うんですが、
06:05
当時、私もそれが、昔、戦争に行っている軍人の家は、
入口大きな日の丸をね、立ち寄ったんです、田舎で。
で、一人行っとったら一つ、二人行っとったら二つの竿の長い竿を立ってね、
ああ、ここは軍人家族じゃないが、みんな村で別れを出すね。
直人さんに校長先生から言われた時に、もう直人さんその場で即到して行かせていただきますみたいな感じだったんですか?
そうですね、やっぱり若い時は、あの頃は信濃地変が始まっている時でしたね。
信濃地変の前は満州地変にもあって、長男は満州地変に行って、
行った時、みんな家には軍の席が入っていました。
朝、登り、四つ日の丸を立ち寄った。
みんな知っているけどね、一人行っている時は、一人だけの人は日の丸の竿を立てて、
ああ、ここは軍人家族なので、そういうやり方をしていましたね。
校長先生から言われた時に、受けるということになった時に、お家に帰って、お父様とかお母様はすごく喜んだ。
戦争から帰って。
校長先生から行ってくれないかと言われた時に、ご両親はどういう感じだったんですか?
後取、辰夫、新吉、高市、岩嶋夫という4人行ったのは、浦崎でもオラなんだろうですね。
親さんがやったら、父親が軍のために兵隊に行くならいいだろうと思って、みんな志願させたんだろうと思うんですけど。
僕も当時生きていなかったのでわからないんですけど、それを逆に拒むということはできたんですかね、もうできない雰囲気という。
それが何本のおりかな、19ぐらいのおりで入ったんだね。
少年飛行兵もあったんですが、これは高等2年生の小学校から資格があったんです。
私は幹部校生で、昔の中学校でないと資格がなかったので、あの頃、やっぱり日本のために。
嫌だとか、怖いとか、死ぬかもしれないとか、そういう思いはもうない?
09:01
思わないですね。兄が3人みんな軍人だったからね、姿を見とるからね、日本のために。
まあそれはちょっと後の方から、日本のために出たのかなと思ったりするんですが、この町内でも4人軍人になった家庭はなかったですね。
そこで尚人さんが校長先生から言われて、実際そうすると空軍の学校か何かに入ったんですか、その後。
三戸の飛行学校、うちの兄も三戸の飛行学校、高一院だけどね。
何番目のお兄さん?
3番目のお兄さん。
で、同じ兄は私が入る時より早く卒業して、フィリピン霊天島で特攻隊で亡くなって。
で、次は海軍の兄、これは駆逐艦乗って、これもやっぱり潜没やられてね、どっかシンガポールの海軍で。
で、長男は辰夫で、これは福山の保衛連隊、若い時ですからね、約4人みんな軍人家族で育ったわけです。
三戸の学校ではどんな訓練とか。
三戸は当初決まったのは最初入ったところは笹山いう総合県のね、そこから三戸の飛行学校へ行ったんですね。
これは機関教育で最初部隊へ、笹山の何連隊だったかな。
そこを出て、何年くらいだったかな、2年くらい練習ばっかりしてね、それからみんな別れ別れになって、笹山いうとこから。
私は三戸の飛行学校へ行くし、飛行場も陸軍よくあちこち別れとったけどみんな別れ別れになって、ほとんど戦死しましたね。
あの特攻隊で同期が。私は台湾の方へ命令を受けて。
尚人さんはそのゼロ戦のパイロット。
ゼロ戦、爆撃機ですね、軽爆撃機、何人か、3人、4人乗るんで、戦闘機乗るような体格もいいしね、
同じ飛行機乗りでも家庭の事情とかいろんな条件があったんですね。長年あたるは戦闘機なんかなるべく軍隊、やっぱり後取るだけね。
12:02
命の危険は少しでも低い方がいいみたいなそういうのがあったんですか。
家庭の事情、やっぱりああいう戦争中でもね。
そういう考慮されるようなことがあったんですね。
そうですね、3男4男はどこへでも行けることで、命令だけね。長男はやっぱり避けとったんじゃないかと思いますね。
尚人さんは三戸の学校に入って、いわゆる戦闘機じゃないようなものに乗るっていう。
爆撃機ですね。一緒に台湾の法輪飛行場、花蓮航空飛行場、3、4箇所を転々としたんですね。
ゼロ戦っていうのは爆撃機じゃなくて戦闘機?
戦闘機一人で全部操縦から、爆弾なんかつまんこうにほとんど戦闘機はね。
尚人さんはゼロ戦に乗ってたわけではなくて。
はい、爆撃機ですね。
ご兄弟が乗ってらっしゃった。
あの時は戦闘機乗りが高いっていうのがね。やっぱり体格、私あんまり大きくなかったけ。
まあそこらあんまり違うけどね。多少細いとか大きいとかではなしに。家庭の事情もエリア下はみんな考えとったようですね。
長男坊は戦闘機は乗らないようにね。
学校の中で訓練って、爆撃機とか飛行機に乗るための訓練だったり座学だったり、どういうことをやってたんですか?
私は機場通信で飛行機乗ったらレシーバーにやって下との飛行機同士の交信をやるんですが。
そこへまだ写真もあるんですが。
後で見せてください。
そこの期間ミトにはどのくらい、何年とかなんでしょうか。
ミトで1年くらいおったんですかね。笹山にいるところへ1年くらい。笹山は軍人として初めて高校から入ったところ。
山の奥の、昔は笹山は猿どころで、猿が行ってみれば兵の中駆けで歩く場所が笹山兵庫県、ここに最初入って。
そこから今度はなんぼかその人、人間によって飛行機も車種部、そして通信関係、飛行機と機場と基地との通信関係、レシーバーをやって連絡しようとしたんですが。
その学校にいる時っていうのは、訓練とかの日常の中で何を考えてましたか。つまりもうその戦争のこととかしか考えなかったのか。将来戦争終わったらこんなことしたいなんてとても考えられなかったとか。
15:08
そうですね。あの頃は若い時はみんな中学校、高校でも、家は勉強が好きなんで、みんな兵庫県に行ったんですね、軍人として。
その学校の水戸でっておっしゃってましたけど、そこから。
台湾の。
それは実際にもう戦地へって感じだったんですか。台湾へ行くっていう時はどういう命令というか目標のもとに台湾へ行ったんですか。
いやこれは学校、連隊長あたりがみんな把握してるんでしょうね。北市行くのがおるし、台湾に行く、もちろん私は台湾の方へ決まったんだけど、満州へ行くのがおるしね。あちこち南とから別れになったんですね。
さっきもお聞きしたことと重なるかもしれないですけど、台湾へ立つ時とかに、僕だったらっていうわけじゃないですけど、やっぱりもう二度と生きて帰ってこれないんじゃないかとか、そういうこととかってのは何にもそれはみんな思わないのが当たり前だったのか、感覚がどういう感覚だったのか。
まだ台湾へ行った頃は負けてない戦争中だったんですね。
命令を、水戸の飛行学校に出るおりはシンガポールのハエブサセンターへ行って、そこへ命令を受け取った。
ハエブサセンターは日本の特攻隊の部隊で一番有名でもある。
戦況が押され気味になって、そこまで行かれるなんて台湾でもあるしシンガポールまでは寒いと思うと、行くほら寒い、水戸を出てやったんですが、
それが夏服を着て、もうだいたいわかった。満州とか行くときはみんな服が違うんです。
南方、シンガポールとか台湾あたり行くときはみんな夏服みたいな、着るものから。
実際に台湾へ行かれるときは、まだその戦況としてはそんなに日本も負けてないという感じで行かれて、実際に台湾へ行ってどんなことをされていたんですか?
私は父同士の台湾でも飛行場があったかな。
有名なのが台北、カレンコ、ギラン、キール、5か所くらい飛行場があったですね。
18:04
そこで基地間の連絡、通信関係は何かしていたんですか?
無線も聞くし、大事なことは通信で、大事でないことは無線電話、連絡が。
聞かれても困らないような。
大事なことは無線通信で、これは生文で、あじゃったらつーつーとつーつー、いがとつー。
いまだに覚えているから、それが1分間に60文字くらい。
もう一時間違えたらもうみんな解読できない、解けない。
軍事秘密のために、そういう意味で年中レシーバーをやっているから、教育を受けているから。
直人さんが台湾に行かれてからは、実際に飛行機には乗っていないんですか?
ほとんど基地は通信所有で、どっちでもできる分だけどね。
私は兵隊に行っているから、いろんなところはもう配慮。
部隊長が配慮したんじゃないかと思うんですね。
その配慮というのは、先ほど冒頭から何回も直人さんがおっしゃっていて、
僕もそういうのを初めて知ったんですけど、それは明らかに配慮しているんじゃないかな、じゃなくて、
例えばその部隊長が、お前は四男だからそう配慮しているんだよって直接口に出したわけではない。
ただ明らかにそういう配慮というのは当時あったんじゃないかという感じですか。
口は出さないけど、もう記録をみんな家庭の記録は持っていたからね、部隊長は。
台湾でそのまま終戦を迎えられたんですね。
台湾にどのくらいの期間にいたんですか?
台湾に何年行ったかな、19年に卒業して、台湾は1年半くらいかな、2年くらいですね。
当然その間に戦況が悪化して、その辺の情報というのは直人さんにどのくらい入ってきていたんですか?
もうそうですね、シンガポールがまず陥落して渡るしね、
あそこらでみんな飛行場通信関係、みんな通信で連絡し合うんですね。
もう何年あるかな、記憶が。
だけど台湾の人はみんな良かったですよ、一般の話が変わるけどね、地元の。
21:07
あれ日本の寮、昔は日本寮であった関係もあって。
ひょっこりしたら横島へ行くとこから飛行場の近くへ、A別荘の民間の。
そうしたら家へ訪ねて、白壁で台湾の飛行場の横島へ、台湾人を使って畑なんだって言って植えとった。
それが初め、何かの養子にその家を知って、男女さんの名前は後から分かるんだけど、
私も浦崎知ってるんで、私もその人が渡壁へ行くんだけどね、飛行場の近くへ日本から若いとこから行って、地元の台湾人を使って畑を耕して。
遊びに行ったら、ひょろっと桃島へ行くことを言うけどね、桃島へ行ったら浦崎の近くで、ここから桃島から来たんだけど、私は浦崎へ行くと二人がもうおじいさんであってね、
戦争から済んでから私も困ったときに引き上げ車、引き上げ車がもう困った頃、うちは醤油を作っとって、醤油酒じゃなしに困れおって、そこへ桃島へ送ってやると言ってたのでね、私死ぬまで。
その方は台湾で一緒だった?
一緒になって、飛行場の近くに家があってね、その人は。昔はやっぱり台湾に日本から開拓に行った人がぽつりぽつりあっち行っとったんですね。
台湾の方の話も今ちょっと出ましたけど、僕もなんかその本とか読んだときに、日本の領土というか、日本がそう潜入してたけど台湾の人ってすごいなんか親切で、いろんな方から僕も聞いたりとか本を読んだことなんですけど、やっぱりそれはそう?
本当ですね。
直接台湾の人と話したこととか?
日本語もね、ほとんど、あのちょっとした言葉は台湾人が話できるからね、私も飛行場、今の俺が外に出て、ヤシのとかね、パパイヤとかバナナとか、
英台さんこれ、みんな日本人が栽培して、日本人が内地送りようと言えばなんでも台湾あったんですね、そこへ飛行場の近くにあったけ、桃島の人が一番ね、知ってるんが、うちも明日に戦争するんでね、
24:06
引き上げて、その台湾に行ってる頃は、豪勢な政宅、白壁の家での住んどった、日本人が台湾に行った建物がね。
なんで台湾の人は、そういう日本に対して、人にもよるでしょうし状況にもよるでしょうけど、有効的だったというふうに思いますか?
有効的だったんですね。
それはなんでだと思いますか?
なんでかね、日本からやっぱり軍長とか村長みたいなのが、日本人が押さえとったからかね。
台湾の時の、戦況がちょっと厳しくなってからとかにもよるかもしれないですけど、一日の流れというか、例えば当然ですけど別に土日休みだったわけじゃないでしょうし、どういうスケジュールというか日の流れだったんですかね。
例えば何時に起床して何時に同行とか、お休みの日が与えられるとか、きっちり、例えば朝9時にこの地に来て、同行しなさいみたいに決まって、例えば夜7時に終わるとか、どういうふうに一日のスケジュールというのは決まってたんですかね、台湾で。
それぞれみんな責任がある。私は飛行場の通信関係で、無線機をレシーバーでね、これは各飛行場ごと、台湾にも飛行場よくあったんでさ、
飛行機と地上との連絡とか予定あたりをみんな連絡しようって。バッテキなんか4,5人乗るからね、戦闘機はみんな一人でいろんな操作やらないといけないわけで、みんな大変で。
朝、例えばもう基地に行って、9時とかに行って、そこから夕方まではずっとそこでレシーバーつけてって感じの一日だったんですか。
ずっと飛行場の横屋の通信指令書を見て、もうどこの飛行場でもない。連帯とは言わないんだね、飛行場。部隊があったからね、朝はやっぱり軍人として教育を受けた、やっぱり外地でも同じような行き方をしとったんですね。
私はもうすぐ歌手館になったからね、兵隊で、兵隊は1頭兵から、2頭兵から上頭兵まで3つ星が、これが兵隊ですから、それから今度は歌手館に乗ると合唱、陸軍合唱を言うもんからね、歌手館に入れられたんです。
日本で教育を受けた、飛行学校で受けたままのが、みんな軍人は勝手なことはできない。
27:08
みんな外地行ったら掘ったて小屋、ちょっとしたところは家一軒狩り取って、そこへ中隊長、部隊長あたりがおるけど、あと諸々の兵隊は別に近くへ兵舎があって、私らも大尉とか少佐とか、そういうエリアの人じゃなかった。
19、20歳ですからね。歌手館は若かったけど、歳も関係なかったからね、楽なかったですね。
招集兵あたりがみんなご飯を炊いてくれて、歳をとったのが兵隊へ来てね、あの軍人になって、矢を放しに外地へ送られて、そういうとこはみんなうまいこと、私の職場なんかみんな現役兵で21歳で聴役検査を受けたようなのが、あちこちみんなばらけて、飯炊きのほうですね。
食事ってどんな食事だったんですか?
そうですね、ご飯はいろんなもの、その土地によって、台湾には何を食わされようかな、でもみんな結構いろんなものがあった、食べさせてくれようかな。
それこそ台湾の料理みたいなものもあるんですか?
いや、それはあるんでしょうが、軍人がやるからね、招集兵と言ってね、そういうのが来たら、現地行ったら飯炊き、一番階級が一等兵、二等兵、上等兵ぐらいまで飯炊きやってくれて、
私らは幹部校舎でもあったけど、和工でもね、金筋が入って焼きみんな持ってきてくれよったけ。
ご飯っていうのは、いわゆる専門の兵の人が作るって話でしたけど、本当に例えばご飯に味噌汁に、どういう感じですか?焼き魚が出るとか、お漬物ぐらいはあったとかもっと。
お漬物があったんですね。台湾は戦争に負けてない場所であったからね、贅沢をさせてくれたんですよ。魚、これはみんな水児軍、そういう兵隊はみんな各部隊におるけど、そこでみんな英語通証をさせてくれて食べよったんですけどね。
そうすると直接ね、すごい戦火に巻き込まれたわけじゃなかったと思うんですけど。
もう場所によってね。
30:01
その時から戦争の状況が悪くなっていく中で、情報も入ってきて、尚人さんはその同期の兵の人たちとだったり、何かそれを話してしたんですか?このまま日本はどうなるんだろうとか。
将来、そうですね。大事なことじゃなくて。うちは醤油のほうやりをたからね。
ご実家が。
戦争を済んでからだけな、復印するんが、復印するんがもう外地から帰るんが、もうその頃、戦争をようやく済んで、日本もこれから平和を迎える後ですからね。
8月15日、年末でしたね、帰るのが。やっぱり台湾から帰るのもすぐ帰るなんだ。戦争が負けてね。
終戦が8月15日頃でしたんかね。
そうですね。どうしてね。8月15日で終わってすぐ帰れなかった。今年末とおっしゃいましたけど、その4ヶ月はなぜすぐ帰れなかったんですかね。
やっぱり輸送船の関係があったんですね。内地に帰る船がおらん。
細々ながら将来を心配してね、部隊長行か、今まで終戦が8月15日だったかな。帰ったのが正月前、正月その間、台湾から食べていくことができんから、
部隊長が稲を植えようと言ってね。
あ、稲。
稲、田んぼ、山の上のほうへあがってね。水があるんですね、普通だったら。
水なんか食べなんかできるんじゃないか。台湾は雨がよく降ってますからね。
そこを耕して、そこで万人猿がおったんです。この連中が稲を作って自分らでやるのを、その稲をもらってね、いつ日本へ帰るかわからんから、食べようなんかもやったんです。
山の上のほうへ水がないのに、できるもんかなと思いおったんですが、
雨も土砂降り、台湾のところも、実際に踏み切って、部隊長が山の上で稲を植えてね、
日本人があちこちで、みんな稲を咲く平地、平らなところでね、ぼろぼろ架く大勢じゃないけど、そこへもらいに行って、
山でもう頂上のほうで行くとこもないんで、上を耕して、そして日本人が作った年寄りの稲をもらって、そこで植えて、
33:09
結局、1年早朝、放棄になるまでもう福音、日本へ帰るようになって、やりっぱなして、
番人がみんな後は処理して、土着の番人がいろんなのが裸で、その連中をみんなやったりして、後引き継いでね。
4ヶ月戦争終わってから帰るまでってありましたけど、そうやって稲を作りながらとか、でもさすがに植えて栄養支障になる人とかはいなかった?
住宅はできたんだが、そうかといって足らんこともなかったですね。
廃棄所があるんですが、各部隊に米だけはね、確保しとったですね、日本も。
部隊の、いわゆる人部隊が食事をやる兵隊が、みんな年寄りがそれを管理しとったんですが、米なんかもあったですね。
下の兵舎なんかは、中国や台湾でも下に住んどったのは、もうここでは行けないので、山の頂上へ上がらされて、1年ぐらいおったかな。
日本にはすぐ帰れんの。連絡がないしね。
ちょっと話が遡るんですけども、台湾にいる時に同期の同期というか、同じ兵の仲間がいるじゃないですか。
その人たちと、例えば兵舎に戻った後に、なんか普通に話す機会ってあったんですか?戦争の話と極端な話関係なくとか、なんかちょっと雑談するとか、そういう時間とか余裕があったのかっていうのはちょっと気になります。
台湾の日々で。
例えばどういう、なんかくだらない話をしたでもいいですし、なんか笑顔とかが毎日にちょっとあったのかなっていうのを知りたいんですけど、つまりもうずっと死の恐怖でだったとか、そういう毎日ではなかった?
やっぱりね、朝やっぱり五日城の御静門に行ってね、あの軍人として、私らより階級が下のおっさんらが、私ら幹部構成じゃなくて、すぐ軍曹いう分で帰ったんですけども、
あの赤髪の消臭兵なんかを、台湾はあの風呂が、温泉があちこち、兵舎ではドラム缶で始めはわからん時はね、ドラム缶を作ってみんなして、巻き終わったりして、それで順番に毎日兵のお風呂が入るようだ。
36:19
ドラム缶で。戦争負けてから、負けん時はもっと立派ないろんな町へ行くと、もう兵隊はただやったんですね。私ら飛行部隊は特に融合してくれたんですね。
その温泉に行ったりとか、あとは何か思い出ありますか?
そうですね。万社、みんな人は良かったですよ。台湾はみんな入れ墨を、女も男もな、入れ墨をして、親切、言葉はわからんけどね、お互いに、どう言って言うかね、敵意とかそういうのは持ってないですね。
私らもそういう敵意は持ったことは、やっぱり相手は武器は持っていらずね、戦争から、武器の返事を返すよりみんな、剣とか銃とかみんな、衝撃返事をあいつらにやった。まとめてね、やった。
今、台湾の思いでお話いただいたんですけども、直接すごい、例えば爆撃に乗ったとか、そういうことは直さんないにしても、戦争の状況がいずれにしても最後の方は当然負けてたわけじゃないですか。
日本全体としてはもう戦争が、要は負ける状況に向かっていったわけじゃないですか。
その情報っていうのは、いつぐらいに、例えばこの戦争もう負けたなみたいに伝わってきたっていう、感じるっていうのはいつぐらいだったんですか。
もうその終戦の消極運がありましたね、もう戦争が終わって、それからすぐ内地に帰られる思いを出して、帰るなんだ、戦争するんだよな、8月15日に戦争する、年末でしたね、みんな。
8月15日に内地で天皇陛下の玉音放送があったじゃないですか。その玉音放送みたいなものは台湾では聞けなかったんですか。
やっぱりもう伝わってきとったんですね。
もうそれはほぼ同じぐらいの日にちに、8月15日前後というかちょっと後に。それまでは日本が戦争もう負けるなみたいには全然思わなかった。
つまり8月15日に天皇陛下が宣言する前に、例えば8月入ってからとかにもう台湾にいた尚人さんとかは、もうこの戦争終わるんじゃないかとか負けるんじゃないかとかって、そういうことは何も情報っていうのは入ってこなかったですか。
39:07
そうですね、負けるようなのはなかったですね。台本への発表があって、初めて周知者が、やっぱり外地でもみんな通信支援があるんだよね。
法兵でも機兵でも飛行兵でも、そこにかつして連絡があるからね。もうすぐ分かったですね、これ戦争終結したなという。
その最初の知らせを尚人さんが知った時っていうのはどんな気持ちでしたか。
そうですね、負けるかという、しかしあれらの米軍の砲射砲、砲撃はここから山の福山辺り、下間越えて大砲なんか撃ってきていたからね。
いつどこでどういうことがあるかわからない。正直言って気持ち悪かったですね。まだ目に見えるところならいいんですが、下間越えて台本辺りでも地獄のやつが撃ち上げてきた。
逃げたことはなかったね、もう兵舎でどこへ落ちるかわからないからね、あいつらが戦争中の。
でも終戦後はもうやはりこれで命、未来。
僕もいろんな方にこうやってお話し聞かせていただいて、内地で子育てをしていたお母さんとかだったりは、やっぱりこれで戦争終わった、ほっとしたとかそういうふうに言ってた方もいたりとか、
あとやっぱり軍人だった方は、なかなか戦争終わったって言っても、それを逆に受け入れられなかったっていう人もいたりするんですけど、直人さんはほっとしたっていう感じだったんですか。
まあよかったな、とはもうあいつらの爆撃では何回も、逃げる場所がないぐらいは来るからね、それが戦争はもっと早く終わっても良かったんじゃないかな、思うな。
まあ戦後、戦争中は一生懸命だけど、終戦後、玉音放送があって、いわゆる天皇陛下が、玉音大事な放送があるけ、部隊はみんな正式な軍服を着て、
外地でも玉音放送行きより、天皇陛下が終戦の言葉を述べるんで、それをみんな聞くために、
42:01
そういうふうに普通に入ってきたんですね。
で、ちゃんと制服を着替えてね、何の放送だろうか、入らないんだな。
本当にそこで初めて知ったんですね、玉音放送。
そうですね、玉音放送。それまではやっぱり防御をしたらいけんよ、ダイヤル、無線機なんか厳しい制限をしとったんですね、飛行場。
私も常時レシーバーをしていたので、年中勝手に聞いていました。
戦争が終わるまでの間に、今日実は奥様とお嬢様がここにいらっしゃるんですけども、奥様とは結婚されていたとか、まだどういう状況だったんですか?
まだ知り合ってもいなかった?
そうだね、まだ福井さんが何歩だったのかな、兵隊から戻ったのが。
22歳くらいかな、それよりも父はそれから家が醤油漬けの家業があったんで、それを手伝ったんですけども、父のすぐ上の兄の今ゼロ戦に乗ってた兄の青春の方がもっとかわいそうで、その人は婚約者がいたんです。
私が小学校の時に、その女の人は父のすぐ上のお兄さんと婚約していて、私が小学校の時に私の名前を見つけて、あら、あなたあそこの子って私に聞かれて、私は何のことかなと思って、それをかえって父に言ったら、
それは自分の兄と婚約する人だったんだっていうことを私は小学校の時に聞いて、なんかちっちゃかったんですけど、先生をしてたんで。
あそこの隣の部屋をちょっと見て。
それが初めて戦争のことをすごい身近に感じて、初めてのそれが思いました。
その一つ上の特攻隊で亡くなったお兄さんとは、いつぐらいまで連絡って取れたんですか。戦争行っちゃったらもう。
台湾に行く船の中で兄が戦死したんですか。
兄はレイテ島で特攻隊で飛行機、おなじみとの飛行学校に出てね。
台湾に行く船の中で戦死されたんですか。
45:02
お兄さんがレイテ湾で戦死したことはお父さんが台湾に行くときに聞いて、今男女君のお兄さんがレイテ湾で亡くなったっていうのを。
それ連絡聞いた、みんな。
みんなが教えてくださって、みんなが海に向かって敬礼してくれたことは、お父さんはすごく嬉しかったっていうか、そういうのを話してました。
お兄さんはさっき3歳、3歳、3つか4つか。
すごい大好きで憧れてたお兄さんだったんですかね。
そうですね、4つ違うんか。
大正13、13、14、15、4つ違いです。
私は2年だけ。
それでも戦争の話はあまり聞いたことがなくて。
姉貴は水戸の飛行学校、私と同じような学校に出て、姉貴はレイテ湾で、姉貴は飛行機の操縦をやろうと。
操縦と通信と分かれているからね、あの飛行機。
それでそのお兄さんもレイテ湾に飛び立つのは台湾の招待所から一晩寝て、そこから飛び立ったんで。
父にとっては台湾っていう土地はもういっぱいいろんなことが詰まった土地で。
それでもう何十年も心の中にあったんだろうけど。
あまりそのこと自体は私深く聞いたこともないし、父も話したこともなかったんですけど。
4、5年前に戦友がどんどん亡くなったりする中で、台湾に行ってみたいとか言ったことがある。
一旦一緒に。
私はもう父も年だからいい思い出も悪い思い出もあるかもしれないけども、
中でも少し親友とこっちに帰って落ち着いた世の中になってまた交流が始まって、手紙を出したりそういうのを見ているうちに、
父もすごい戦争だったけど台湾で少し楽しい思い出もあったみたいで。
もう一回連れて行ってみたいなと思って、私は娘と二人で父を連れて行ったんですけども、それは良かったと思います。
娘さんが台湾に行った話を改めて聞きましたけども、
48:03
改めて直人さんから台湾に何年前に最近行かれたのか、4、5年前?
そうですね。
それまでは戦争終わってから一回も台湾には行っていなかったわけですよね。
人によっては今お話しあったように楽しい思い出があったにしてもやっぱり戦争で行ってるわけですから、
辛い中で行かない人がたくさんいる中で、なぜ4、5年前に台湾に行こうかなって思ったんですかね。
そうですね。やっぱり昔、戦争中飛行場に寄った場所はその後どうなってるかなと思ってね。
最初台北、そして花蓮湖、それから台中、台南、まあ一回り台湾を回って帰ったんですけど、
まあみんな行かないところはない場所です。
今は台湾もすごく懐かしいんでね。
そうですよね。
その南の方とか向こうは有名でみんなが行くんですけど、台東の方は全くコースもなくて、旅行の行く場所でなくて、
それで旅行に連れて行くのもすごく大変で、父が行ったところを全部印をつけて、
行ったところを少しでも忠実に連れて行ったらいいなと思って、行ったら現地の人の案内をお願いしたんですけども、
もうすごく優しくて丁寧で、もう父が若い時に住んだところ全部回ることができたんです。
それでまあこれ本にしてるんですけども、父は初め台湾に着いた時に、
なんか日本人である自分を台湾人の人はなんか嫌だと思うんじゃないかと思ったらしくて、
ちょっと不安があって、行ってもいいのかなっていうようなことをちょっと言ったのが私はちょっとこう、え?と思って引っかかったんですけど、
台湾の通訳の人だったら、もうすごく日本が大好きで、台湾の人は日本人が大好きだよって言ってくれたんで、
もう父はすごい安心して、いっぱい聞きたいことも全部連れて行って、
自分が食べた果物、ガバとか、だんだん思い出して、行ったところを思い出して、
ここで短髪したっていうところまで連れて行ってもらったら、不思議なことに美容院っていう看板ができて、そのまんままだあったりしたんです。
ここに小学校があって、この裏はこうだったとかいうところが全部まだその通り、
こっちの台東の方は原型がそのまんま残ってて、あそこに飛行場があったっていうところも、
51:02
現地の人にあの辺に昔飛行場があったんだって言ったら、その人がわざわざ連れて行ってくださって。
台湾人に親切もなかったな。
本当に家紙のうすを落としている中に、不思議なことに日本人が飛行場を作って、石のローラーで飛行場を作ったんですけども。
それは牛車で引っ張って、昔は牛車で飛行場を作るのにね。
石の丸い石を真ん中に穴を開けて、それを牛に引っ張らせて飛行場を作ったり。
それは現地の台湾の人もガイドの人も驚いて、こんな養子の中にまだこんなものがあったって。
台湾のほとんどのそういうものにも言いたいなっていうくらい、まだそのままの状態でいっぱい残っているものがありました。
台湾の人で悪いとは一人も思わないですね。
いい人ばっかりの記憶ですね。
私も兵隊から戻って旅行にも行きましたが、みんな心術にしてくれましたね。
じゃあそういう意味では、昔も今も変わらない。
変わらないですね。
そのお話の前に、お兄さんの戦死された話もありましたけれども、
一つって難しいと思うんですけど、戦争の記憶を振り返って一番辛かったというか、一つ挙げるとしたらどんなことがありますか?
そうですね。
一番やっぱり平和を考えたり、この戦争がなかったら、動機もよくなくなっているからね。
台湾だけでなしに、私の水戸の飛行学校に出たら、シンガポールへよく配布させないというか、
加藤建夫という日本でも特攻隊の最右翼というんですか、動機もそこへ亡くなったりしたのがよく飛行学校に出てね。
多分いろんな運命が織り重なって、今直人さんは生き残っていらっしゃると思うんですけど、
ちょうどもうすぐ来年で戦争終わってから、一応70年経つと思うんですけども。
70年もなるかな。
今回ね、中国新聞に記事が出て、そこからまたこういう機会をいただいたんですけども、
改めて、奥様も娘さんも話したらってこともあったと思うんですけど、
直人さんとして今回このタイミングで、こういう僕の取材を受けて話そうかなと思ったことっていうのは、何か理由とかきっかけってあるんですか?
54:03
そうですね。戦争というのはもう世界中、もう弾が飛び散る中でね、やったらいけんですね、思うのは、最終的に。
私もやっぱり飛行兵で、鉄砲持ったんですよ、個人個人もみんな。
あの外地行っとる実弾も鉄砲と一緒にね。
それはあったらいけんな、思って。
今、もうすぐ70年経つっていう風に、戦争から。
直人さんちょっと驚かれてましたけど、そんな70年もご自身の中では経った気はしない。結構あっという間ですか、この今日まで。
どうかな、もう。いやまだ本当、そう古い、まだ記憶はあるですね、当時の。
今回のこのインタビューは、インターネットでずっと残るんですよ、この声が。
だから、僕今33歳なんですけど、それこそ僕が将来この世からいなくなっても、ひょっとしたらこれ今後は残る?
それでも価値があると思ってるんですけども、今お孫さん、暇子さんもいらっしゃると思うんですけど、暇子さんとかお孫さんとかに戦争の話って今までされたこととかは?
ないな、まあそれぐらい。子供に言うても、もうおらんであら。
これはもう話したことはないんですが、あんまりね、昔の。
やっぱりその話、今あんまり話したことがないっておっしゃいましたけども、当然楽しい思い出じゃないですし、なんか自ら例えばお孫さんとかにも何か伝えようみたいな気持ちにはなかなかそういうのって、もしくはやっぱりお孫さんとかから聞いてきたら話してあげようみたいな、どういう心境なんですかね。
そうじゃね、もう戦争の話は聞きたがる。まだ孫もおるわけじゃけど、あまり戦争の話はしたことはない。
なので今回お役に立てればわかんないですけど、やっぱりこういう感じでお話し聞かせていただいて、もちろん日本中にいる、これ海外でも聞いてる人がいるんですけども、そういう方にも聞いてもらって、かつね、機会があればお孫さんとか暇子さんにも直接お話しするのも大変でしょうから、これも聞いていただいて。
今日はですね、広島県の尾道市、浦崎町ですね。
そうです。
ダンジョウ・ナオトさんにお話を伺いました。
ダンジョウさんどうもありがとうございました。
いえいえ。
56:37

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