1. 【体験者の証言】戦争の記憶(Memories of War)
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2014-09-01

【記憶18】河村守泰さん/Memories18_Kawamura Moriyasu

【記憶18】河村守泰さん/Memories18_Kawamura Moriyasu


00:00
こんにちは、プロインタビュアーの早川洋平です。
戦争の記憶、今日は河村守泰さんにお話を伺います。
河村さん、よろしくお願いします。
河村さんは、1922年、大正11年の生まれです。
今日、この取材日現在だと91歳。
もう間もなく92歳ということなんですけど、
とても90代を言ってらっしゃるようには見えない、
大若くてお元気なんですけども、
今日、いろいろとお話を伺えればと思います。
早速なんですけども、河村さん、ご出身というのはどちらですか?
東京。ここではないんですけど、もう一つ向こう。
ここは海岸3丁目です。
今、海岸2丁目というところなんですよね。
その橋が、日の出橋って橋があるんですよ。
そのたもとに日の出味噌という工場があったわけです。
そこで燃えたわけです。
今日、その辺のお話を伺いたいと思うんですけど、
今、河村さんは日の出味噌醸造元の会長でもいらっしゃって、
多分、過去に遡るとその辺の経緯もいろいろ伺えると思うんですけども、
今日も実はこの会社の中でインタビューさせていただいてるんですけども、
ずっと基本的には出身は東京で、
その後、いろいろあったと思うんですけども、
今も東京にという感じで、
91年の人生の中で、やっぱり東京が一番長いですか?
一番長いですね、ほんまに。
あと3年だもんね、みんな。長くて3年。
戦争の記憶といってももう幅広いですし、
いろんな方がいらっしゃると思うんですけども、
いわゆる、ちょっと絞るとですね、
来年で戦後70周年を迎えますけども、
ちょうど1945年、昭和20年より少し遡って、
その辺りからの記憶を伺いたいんですけども、
河村さんの中で最初に、いわゆる第二次世界大戦とか太陽戦争の辺りでの記憶っていうのが、
なんか戦争始まったなみたいな、
その記憶ってどこからありますか?
広島の専門学校にいて、実験室でも実験してたんだよ。
実験?
実験室でね。僕らが腸臓科だからね、化学実験をやるわけだから。
やってるときに、東京が空襲を受けたって話を初めて聞いた。
そのときに、えーって言ったのが初めで、それからいろいろな戦争になったみたいだね。
僕らは全然知りませんんだけど。
あ、そうだったんですか。
分かんない。それから広島は何もないもん。
ちょうどその東京の空襲があって、実はこの間、まさにその初空襲があった方にお話がかかったんですけども、
いわゆる東京の空襲っていうと、僕らなんか大空襲のイメージしかないんですけども、
パールハーバーの確か半年後ぐらいに、東京とか名古屋でその空襲があったっていう。
たぶんそのタイミングですね。
そのタイミングですね。
じゃあ報道はあったんですね、そういうニュースは。
だからあの頃ラジオで言ってまして、空襲がどうやってきたんだろうな、じゃあ国防ができたのかなとか、なんかそういう話ですね。
そうすると、そのとき醸造の勉強されてたってことですけど、その当時って何歳ぐらいでした?
03:06
専門学校3年生ですよね。18区じゃないかな。
ですかね、おそらく18区。
で、その醸造を学ばれてたっていうのは、これ聞かれてる方も当然経緯がわからないんですけども、先ほども少し会社の話も出ましたけども、
なぜ醸造を学びに広島へ行かれてたんですか?
それはまたあるんだよ。
うちの親父がね、大阪大学、今大阪の大学のまた高等工業のときにその醸造学を卒業してるんです。
はい。
で、僕に行けって、大阪の高等工業の醸造学へ行けって言われるんです。
で、行くつもりでいたら、ところが僕が行くときになったら、大阪の大学、大阪が高等工業が大学に昇格しちゃって、どこか僕は行かれないから、
そしたらそのときに広島に醸造学ができた。
あ、そういうことだ。
それで僕はそこへ行きます。
今って、その高等学校も広大になってると思うんですけど、
醸造家っていうのは昔もそうですけど、今も普通にそういう、どこでもあるんですか?
今醸造家っていうのはね、東京農大にしかないですよ。
やっぱりそんなに一般的ってわけじゃないですね。
あのね、戦争中にね、醸造団ってとんでもないって言ってね、名前変えさせてあげて、発光工学って名前変えられたんで。
あ、そういう経緯があったんですね。
で、醸造家っていうのは今ないよ。国立ではどこにもない。
あの、私たちの農大の中に醸造家って今ありますよね。あとはないんです。
当時、その醸造を学ばれてた方っていうのは、どういう方が?
酒屋さんの息子。
あ、もうそうですよね。ある程度絞られますよね。
あとは醤油屋さん、あとは店屋と、僕に決まってましたよ。
35人のうちでね、30人までそうだったね。
あと5人が、なんでもないとしていたりいたけどね。
でも9割ぐらいはほぼ。
で、その中で学ばれてる時に、さっきの話で、何か情報が入ってきて、
当然その広島はその当時は爆撃受けてないわけで、
河村さんとしてはどういう気持ちというか、なんかすごい怖いなとかなんかすごい遠くのことで。
全然怖いともなんとも思わない。空襲があったんだって、どうやってやったんだろうなんて。
どっから来たんだろうなとか、そんな話だよ。
それ気になかったんだよね。
一番、もう空襲がなかったし、みたくなかった。
来られなかったんだよね、もうね、結局。
もう金かかんない、あれ。
B29ができるようになって、キャラだよな、さっきから。
そうですね。
そうすると、それこそ全然恐怖も感じなかったっていうお話でしたけど、
ただその今お話があったけど、最初に戦争が始まったっていう私から質問させていただくことからすると、河村さんとしてはそこがあってあったと思うんですけど、
実際その後、日本もどんどんいろんな戦争がひどくなっていく中で、その後、その時にちょっとこだわりますけども、
06:05
そのニュースがあった後も、この後日本がどうなるんだろうとか、自分が命の危険に巻き込まれるかもとか、そういうことも何にも思わなかった。
全然感じなかったね。
それはたぶん、城塚にいた他の同級生もみんなそんな感じだった。
みんなそうですよね。
ところがね、兵隊検査受けなきゃいけないんだよ。
そうすると、専門学校卒業する人はみんな受けなきゃいけないよね。
あの当時、専門学校に所属があって、大阪大学には大学の所属が残ってたわけですよ。
そうするとね、1クラスから1割、35人のクラスですからね、3人から4人、大阪大学に行けるわけですよ。
そうなんですね。
そうすると、あと残った人はみんな兵隊検査受ける。
で、俺はなんとその時に4番になった。
ずっとね、4番だと外れちゃうわけだよね。
あ、4番だと外れちゃうんですね。
それで、僕は兵隊検査受けたんです。
それが後で兵器になってくるんです。
受けたらもう兵器がありますからね。
そうすると、専門学校を、あの時は3月じゃなくて9月に卒業したんですよ、前の年の。
そうなんですね。
3月じゃなくて9月に。
で、そうすると、僕は4番だから、大学に行く資格を持っているから大学を受けたんですよ。
で、大学に行くことになったらね、兵隊検査を受けていたもんだから、
大学に行ってから9月に卒業して、11月に広島から大阪に大学を変えてたら、そこで昇進が来ちゃったんですよ。
兵隊検査を受けているからしょうがない。
受けていなければいいんですよ。
3月27日は兵隊検査を受けていないから、そのまま大学に行っていますよ。
こっちは俺一人だけは兵隊検査を受けているから、赤髪をしている。
上位、成績ですか?
そうです、成績。
そうすると、3位以内の方は受けていないって話ですね。
4番の河村さんは成績いいし、大学も行けるけど、兵隊検査も。
そこは微妙なところでね、3番までっていうことだったんですよ。
だから僕は4番だから資格ないんだけどね、一人病気になって危険しちゃったのよ。
それで僕は上手く転がり込んだってことだね。
そこまで良かったんだけど、兵隊検査受けていったらダメなんだよ。
それで大学入って、10月に入ったのかな。
そして一粒ぐらい経ったら招集礼状をしたわけよ。
招集礼状、いわゆる赤髪、僕も名前だけは知ってますけど。
どこかにあるよ。
本当ですか?
うん、それ探してたんだけど。
この部屋にある可能性もある?
09:00
可能性あるね。
後でみんなで探しましょうか。
これがあの人のやつ、誰かに見せてやったんだから。
どこかにあるんだよ。
今言葉で表現するのって難しいかもしれないですけど、どういう…
赤い髪だよね。電報用紙みたいなもんだよね。
何があったのかにどこどこ連帯にしろって書いてある。
スタートはそれだけだよ。それこそ一線五輪だよ。
あの頃、馬は600円だった。兵隊さんは一線五輪だった。
そんな違うんですね。
実際に赤髪が来た時は、そっち向いてどういう…
しょうがないじゃないか。
その時ちょうど、カシワル神宮に…
大学に入って場がないからね。みんなでカシワル神宮にお参りに行ってた。
帰ってきたら召集練習を来てるぞっていうわけで。
それっきりその練習とは会えなかったわけだね。
一緒に大学に行ってる人たちはそのまま…
大学に行ったから。
僕はまた軍隊から帰ってきてから行ったから、2年か3年遅れた。
その時、今しょうがないっておっしゃいましたけど、
実際その時の感情っていうのは本当にしょうがないんだけど、
例えば怖いとか、行きたくないとか、
俺死ぬのかなとか、そういうことは?
そういうことは全然ないですよ。
あ、そうですか。
不思議にそういうことはなかったね。
みんな行くんだもの。
それが当たり前って言っていいか分からないですけど、
そういうやっぱり空気だったんですかね。
空気がね、まあそうですね。
その当時、大学へも行かれる時で、
お父様はもう会社を起こされてたんですよね。
もちろんもちろん。
日の出みそ。
お父様は東京にいらっしゃって、
ご兄弟とかはどういう感じだったんですか、河村さんは。
僕の兄弟は、一番上の兄はもうその時すでに出生してまして、
あとは二番目の兄も出生してたね。
お台場辺りにいたみたいだけどね。
そうなんですね。
僕はそういうことで平気に伸ばしてもらってたから、
兵隊検査を受けていたからそこまでいたけど、
そこで切れちゃったから。
それで初めて兵隊に。
その時というのは、上のお二人のお兄さんもってことでしたけど、
やっぱり直接お話されたか分からないですけど、
お父様にも当然その焼酎令状が来たって話はしてるわけですよね。
僕はその時大阪にいたんだからね。
親父は東京にいないんですか。
電話がかかってきてね。
焼酎令状が来たよって言うわけだ。
どうして?って。
結局、兵隊検査を受けているからダメだって言って、
12:01
焼酎令状が来たよって。
そうか。
ご自宅というか、東京の方に焼酎令状が来て、
むしろご両親が先に知っているっていう。
そうそう。
その時ってお父様とかお母様からかけられた言葉とか。
何も言っていなかったよ。
何も。とにかく来たぞって。
それでね、短期現役って特別な、すぐ偉くなれる生徒がいろいろあったんだよ。
軍隊でもね。
それでやってみろって言うことはちょっと親に言ったけどね。
それはどういうことですか。
短期現役ってすぐ偉くなっちゃうんだよ。
それは何か試験を受けるとか。
試験、試験、試験。
昔は漢北応政というのがあったけどね。
漢北応政の他にもっと特殊なのがあったんですよ。いくつも。
これは確かね、海軍のやつかな。海軍なんか受けたんだけど。
何かどっかで引っかかってね。
ダメだったんですよ。それもダメだったんです。
だからいいよいいよ焼酎令状の効果を出して、やらなきゃいけないよって。
幸福の連帯ですよ。
幸福。
幸福は当時黒絵連帯なんだよ。
黒絵連帯っていうのは、救助を守る。
救助。
救助を守る。
救助を守る。
救助を守る軍隊ですよね。
それ何で幸福にあったのか、俺今でもわかんないんだよ。
あとはみんな、三連帯という方がいた。
その他に黒絵一連帯ってあってね、みんな黒絵の周りにいたでしょ。
幸福にあったんだよね。そこへ行けって言うんだよ。
そこへ結局入隊したわけです。
入隊される前に、大阪にいらっしゃるときにご両親から連絡があって、
すぐ大学にはそういう事情を説明して、
給約届出して、
そうですよね。
そして12月1日だよ。入隊。12月1日に幸福の連帯に行ったわけです。
そのときに学徒指示につながったんだよね。
あれはね、僕知らないんだよ。
だから僕は学徒指示ではないんだよね。
とは違うんですね。
同期の奴らはみんな学徒指示で、
幸福連邦状で一気に一気にやったのは、
確か1日だったと思うけどな、12月5日。
ちょっと僕も後から知らない。
確か5日の日だったと思う。
そういう逃げやがな送られ方はしてないんで。
1回そうすると、12月1日の前に幸福に行かれる前に、
1回ご自宅には戻ってきましたね。
そう、帰ってきました。
そのときって、僕もどうしても何か聞きたくなっちゃうんですけど、
やっぱりお父様とかと何か食事とかもしてるわけですよね、何日間かは。
15:04
そうそう。
そのときの会話って何か覚えてる会話あります?
何にもないよ。
父親って2人だけ行ってんだもん、連邦に。
じゃあ普通にご飯食べて。
そうそう。
あなた、例えばお母さんが何か体気をつけなさいよとか。
そういうことないよ。
何かどうしても僕も経験してないので、
これすみません、僕の個人的な感覚ですけど、
当時、出生する子供たちがいたら、
いくら時代がそうで、空気がそうだとしても、やっぱり心配だっただろうし、
口に出して、家族の会話だったら何かそういうの見せそうだなと思ったんですけど。
結局出生だからね、
11月の末がね、
そのときは、
例えば真ん中の、住居は住宅があるでしょ。
会社の。
会社、あれは後ろ工場だけどね、
あれは心場ですよ。
あれは前はあいかっこしてた。
あそこ住宅の前に、一番左に向かって、
左の端が玄関ですよ。
そこじゃない、そこじゃない。
そこの玄関。
そこの前にね、旗を立てて、
町の連中が送りに来たわけで、
愛国牛婦人会とかそういうやつがいっぱい来てさ、送ってくれたんだよ。
そこに行ったんだよ。
私、あれはとにかく先人に言うけども、
これからね、
こっちの内地の方がね、
空襲の状況を見るとね、
大変なようだから、皆さん気をつけてくださいって言って、
行って行ったのを覚えてるんだ、俺。
こっちはどこかわからないけども、
もう日本はそのときに空襲が何回かあるんだ。
少し戻ってしまうんですけども、
どうしても全部経験したことないんで、
何でもお聞きしたくなっちゃうんですけども、
兵隊検査ってどういうことをやるんですか?
召集令状が来る前の受け手らしいんですか?
年齢が来ると、みんなやられたわけだ。
普通の検査ですよ。
いわゆる健康診断みたいな?
そうそうそうそう。
なんか特別な、例えばわかんないですけど、
何分間に何回腹筋できるかとか。
そういうことはやりません。
それはね、後で話に出てくるかもしれない。
それはね、経理学校の試験のときにやらされた。
そうなんですか。
兵隊検査は本当に健康診断で、
よっぽど何か病気があるとか。
僕は第2オッツっていってね、
公衆合格ね。
第1オッツ、第2オッツ、
それから兵衆合格かな。
4つぐらいに分かれてたんで。
僕は第2オッツだったんで。
3番目なんですよ。
だから僕は召集が来ないと思ってたんだ、もともとは。
そんなに日本の兵隊には人間がいないわけないと思ってた。
18:00
要は順番があるわけですね。
そうそう。
だから僕が行くようになったんだから、
これ日本大変だなと思ったんだから。
なるほど。
それは普通に考えればみんなわかるわけですね。
そこまで順番で来たんだ。
そうそう。
そこは公衆合格でみんな行ってた。
だから第1オッツは公衆に編入されて行ったとか。
僕は第2オッツだから、その次だから朝が来ないと思ってるよね。
それが来たんだから、
これは相当下手だったんだよなと思った。
そういうことは分かったけどね。
そこで先ほどの幸福、
行かれてそこではどういう生活だったんですか。
幸福ってあれは訓練ですよ。
軍事訓練。
具体的に例えはどんなことを。
プレミアムは乗ってるけど、
航軍したりさ。
その航軍っていうのはどういう。
要するに足の訓練。
走ったり。
走らない、歩く練習さ。
これから先行くんだよ。
こっちにいる間に歩く練習してるわけだよ。
歩くっていうのは行進する。
行進、航軍、航軍。
だって向こう行ったら車があるわけじゃないんだから。
そういう意味ですね。やっと理解できました。
歩いていい。
足が大事だからさ。
まず靴もね。
靴だって。
当時の靴は。
みんな履いてるんだから。
軍隊の靴って。
靴には足を合わせろって言うんだから。
なるほど。
横断靴なんてとんでもないですね。
そういう靴はみんなこういうときに教わるわけで。
それはすごい距離を歩くんですか。
8里くらいだね。
8里。
8里だから30キロを歩く。
まず一回目の段差する。
だって戦地行ったら歩くしかないの。
だからそういう訓練をしたわけだよ。
第一回目はこれだった。
他の人はどうか知らない。
僕らはここだった。
そういうことですね。
そのとき、河村さん結構体力ってあった方ですね。
僕はあった方だね。小さかったけども。
そうなんですか。
味方がね、62キロ。
いや58キロ。
軍隊に入ってから62キロぐらいになった。
増えたんですね。
それからずっと62キロだった。
最近はそれからやっぱり年をとった。
航空軍のそういうことをやられた。
あと他には何か。
あとは射撃練習とかね。
要するに、あんなことは知らないけど。
昔は学校で軍隊教練があったんだ。
そのときに鉄砲の撃ち方とか、
航空軍とかみんなやったんだから。
これでみんな集まって、
体力テストをしたわけだよね。
それで今度は12月に。
21:01
あれはワクチンの出陣はいつだったっけな。
これが11月って書いてありますね。
11月に行くって書いてある。
日はないですね。
これは招集されたのが、
11月の一日招集だからね。
あ、そうですか。
それから1週間か10日の後だよね。
それで11月の一日のときですよ。
学徒出陣の更新。
よい練兵場と思ってやったじゃない。
女学生がみんな来て泣いたってあるんだ。
僕らはそれは出てないんで。
タイミングがちょっと違うわけですね。
実際に入られて、
さっきの敷地はやっぱり違うのかなと思うんですけど、
とてもじゃないけど、
例えばこれ泊まる寮みたいなとこあるわけですよね。
連帯で。
そこで一緒に何人かが部屋に寝るわけですよね。
そのときに夜とかって、
就寝って言われて、
そのあと一言も喋っちゃいけないとか。
そうそう、大変だよ。
それからいろんな話、伝説にあるじゃない。
いろんなこと、小江さんにいじめられるって話だよね。
どうですか、ご記憶としては。
僕は割に楽だった方だけど、
僕は戦地にすぐ行っちゃったからね。
すぐだったんですか。
ここに1週間しかいなかったからね。
そうなんですね。
戦地に行っちゃったんですよ。
戦地に行っても何々することはあるんで。
小江さんと言ってね、
あんまりこういう言葉を使わないけど。
入ると二等兵ですよね。
星が一つ。
一等兵、上等兵。
それから金属士に入って、
軍長、星が二つ、軍相、三つになって、
総長。
今度は特務総長として、
ベタ金になっちゃうんだね。
それくらい階級があるんだからさ。
一等兵っていうのはね、
入ったらすぐに二等兵なんだけど、
それからだいたい一つ月か、
最低でも三ヶ月経てば、
一期の間にあって、
一等兵というのが二つ星になるわけよ。
程度の悪いのがいるんだよ。
それは慣れないんだよ。
慣れない人も。
一等兵なんだよ。
二等兵なんだよ。
今度はこっちが二つ星になっているのに、
向こうが一つ星だ。
まさか呼びつけもできないし、
何と言ってもいい。
それで小兵さんと言うんだよ。
小兵だろと言うんだよ。
星はこっちの方が上なんだけど、
小兵だろと言わなきゃ。
あいつらが仲間になって、
24:01
世の中にみんないじめに行くんだから。
そうなんですかね。
そういう話が伝わっている世の中にはね、
運指の谷渡りだとか、
いじめ朗報がいっぱいあるんだよ。
僕も思い出すような2つくらいあるよ。
もうひどいものがあったら。
思い出したくないかもしれないけど、
もし話せる範囲でいいんですけど、
どんなことがあるんですか。
僕らは戦地に行った話だよ。
戦地に行ってね、
まだ初年兵だからね。
守衛というのがあれ。
万兵して世の中に、
ずっと部屋の中を誘拐して歩くんだよ。
1時間ごと交代でやっていたけどね。
何でもないと言うけどね、
全戦から帰ってきたやつがいたんだよね。
何か面白くないことがあったんだと思うけど、
その時の兵隊関係の申し送りに、
この犬を蹴飛ばしたりして、
気をつけろとそういう申し送りがあったんだよ。
何でもない大事なことだよ。
分かったって言って。
そしたらね、
世の中にクンクンと鳴くんだよ、犬が。
よしよしよしよじゃんって言ってたらさ、
それこそ行って、
小兵さんのところに行ったら、
ちゃんと来いって言うんだよ。
何でありますかって言ったら、
あそこで犬がクンクン鳴いてるの分かんないかって。
小兵さんだから気をつけろって言われ、
そういう申し送りを受けてますって言ったらね、
そんなあそこでどうするよって言ってね、
そしたら大学の教育部のやつが、
分かんないんだけど、
クンクンさんが犬をぶら下げて、
ベルトがあるんだよ。
その手に巻いて、
バーンって引っ張らなかったよ。
ホコリも貼れちゃったけどね。
そういうことが一番ひどかった。
そういうことはやられてたんだよ。
個人的にやられるのもあるし、
団体でやられるのもある。
それがよく今でも言われる話がある。
嘘じゃない、本当に。
それは結構当時そういう状況だった人は、
何らかの形で経験してるんですか。
上官の命令っていうのはね、
兵隊じゃないんだよ。官だからね。
下士官以上の命令は、
天皇陛下の命令と思えっていうのが本当なんだよね。
それがあったら一つの試合だけで、
それやらせちゃいけないんだって言ってた。
軍隊というのはやっちゃいけなかったんだけど。
戦地だからね、みんな駆け立てるからだった。
そんな話は書かないほうがいいよ。
27:02
そうですよね。
今少し戦地の方に話が飛びましたけども、
もう1週間で幸福の故郷って話でしたけど、
その戦地ってのはどこへ?
それで軍隊は北進行ったんですよ。
中国の北進行。
家屋省ってとこだね。
家屋省、今の家屋省ですね。
家屋省の進行、それはね、どっかに書いてあったかもしれない。
家屋省、進行、進行ってとこ、新しい郷だ。
新しい郷。
新しい郷。
郷はね、
ふるさとみたいな。
京里の。
京里の。
進行。
進行、そこに行く。
そこに警備隊があったんですよ。
警備隊。
そこへ配属になったんですよ。
で、僕は運が良かったのが、
岡田の家はみんなね、
50人ぐらいかな、
小隊、1個小隊ずつ配属になったんです。
俺と3人ぐらいがね、
通信隊に配属になったんです。
通信隊。
その警備隊の中の通信隊に。
で、こっちは何もできないからさ、
できないけど、ただ訓練だけ受けたけど。
それから人数が少ないから飯なんかいっぱいあるわけだよ。
50人いるとこなんか飯ないんだから。
飯がもう、きゅんきゅんみえきゅんして食ってた飯がね。
食事はちゃんと取れたんですね。
僕は取れたんだけど、
岡田の家は取れない。
腹が入ってしょうがないんだ。
俺は飯終わってさ、
岡田さんの場所に持って、
バケツでみんな洗いに行くでしょ。
みんな残してあるじゃん。
みんな他の所に行ってね、
じゃあ来てね、
こうやってすくって食べてたりして。
やっぱりそうですよね。
ないんだろう。
何も起こるのはそれしかないんだ。
それはあんまり言いたくないんだけどね。
実際はそうだよ。
そういう事実がやっぱある。
で、我々の方は悪いよ。
運がいいからさ。
小池さんがいるから、
小池さんは飯食わないからね、
古い家は。
みんなわざと小池さんの所少なくして、
自分たちの所弱物にして。
よく食ったな、あんなに沢山。
食事ってどういう食事だったんですか。
バケツにライスカレーがあったり、
シチューがあったり、
色々ありましたよ。
カレーライスに?
シチューもあるしね。
コロッケなんか普通ですよ。
立派なもんだから。
結構ちゃんとしてるんですか。
ただね、それを予想しないといけないんだよな。
偉い人の所でちゃんとするけど、
兵隊さんはみんな、
小池さんは逆にペッペッペッやってやるんだよ。
そうかね。
そういう状況だったんですか。
30:00
水児軍曹っていうのがいてね、
監督してるわけだよな、水児場を。
だから水児の軍曹は、
自分の肉に糸つけてさ、
出来上がったら取り上げて食べちゃったって、
嘘もないな、本当の話があったみたいだよ。
そうなんですね。
水児の軍曹を取って、
兵が痩せるなんて歌があるんだよ。
軍隊の裏話ってそんな話ばっかりじゃない。
食事はね、確かに本当になかったら、
みんな必死ですよね。
毎日がひどかったですよね。
僕はね、こうりゃんのご飯だけどね、
腹いっぱい食いましたよ。
僕らはね。
だからその、
何ていうか、
集団教育でやられた連中は、
それはね、
本当食いや食われちゃったんじゃないかなと思うよ。
会うたびに、
俺何かないか、何かないかって言ったもんね。
同じ連中がそうです。
同じ、卒業したら。
確かにその隊だったり、
そのいろんな立場によって、
なんか運よく食べれた人とか、
僕もいろんな方の話聞いたんですけど、
やっぱりアンラッキーで全然食べれなかった人とか、
この間広島で、
メレヨンと言ってた方、
肉のことになっちゃったところで、
もう半分が餓死したっていうか、
そこは本当に大変だった。
もう非常にひどかったらしいよね。
あの僕、
試験費して酒屋さんの、
あの、
なくなっちゃったけど、
社長だったら、
僕らより、
1級上だったんだけど、
なんかそこで、
駅クラスが一緒になったんだけど、
なんか、
無限ブルー、
行ってたんだってね。
それで、
本当に食うものなくてね。
もうネズミでもないのに、
全部食べたんだよね。
ただ食わなかったのは、
5級ぶりだって。
5級ぶりだけは食えなかったです。
彼は死んじゃったけどね。
彼は無限一つ教えられたんです。
あれは、
広島の専門学校で、
1級上だった。
それで、
その新業に行かれて、
警備隊?
新業の警備隊。
警備隊って言うんですよ。
警備隊って、
僕らのところは、
警備隊の中の、
教育隊ですよ。
教育?
要するに、
少年兵を、
教育するとこですよ。
教育するほう?
されるほうです。
そうですよ、
私はされるほうでした。
ですよね。
どういう教育を受けるんですか?
鉄砲の撃ち方だと。
やっぱりそこを。
そこは、
そこは保衛だからさ、
軽機関銃とか、
それから、
僕らは通信だから、
無線のね、
途中をやったりね。
ただ、やってるだけですよ。
それで、
駆け足したり、
してるだけ。
だけどね、
ここに写真もあるけどね、
オクシジンとか、
何にもないんだよね。
何にもない。
春になるとね、
青くなると、
小麦を蒔くんだよね。
小麦。
だから、青くなる。
33:01
冬は何にもないんだよ。
何にもないってことだよ。
荒野みたいな感じ?
そうそう。
だから、
これは70代で、
これはもう戦地ですよ。
これが。
これオクシジン。
オクシジン。
これはね、
神経って書いてありますね。
神経書いてあるでしょ。
これね、
何してやるとこだったらね、
一面の荒野なんですよ。
何にもない。
本当に荒野ですね。
荒野なんですよ。
そこでね、
うさぎ屋にあった。
どうやってやるかというと、
そのとこにうさぎ屋がいると思わないと。
何にもないんだからね。
するとね、
竹の棒を持ってね、
こうやって引き出すんだよ。
すると砂が立ち上がるじゃないの。
それでね、
うさぎ屋ね、
うさぎ屋前にあるとダメらしいんだよね。
わーって飛んでくると
うさぎ屋の地上が終わっちゃうんだよね。
皆で見て
鳥がこんなに捕まえるって。
そういうことをやったんだよ、
このときね。
やったんだけども、
これは、
これ一匹は持ってるんだ。
ありますね。
で、
全然取れなかったんだよ、
本当は。
本当は取れなかった。
僕これはその、
その中の、
先言ったら、
教育隊連のじゃない方の
無い方の通信隊内の電池だけでね 当地から吉井に平和めぐらしたところがあるんだよ
そこに鉄砲口があってね 当地からって言うんだろうな
その中にウサギが入っていく その中で兵隊がいろんなものを食う食べるからウサギが入ってくるわけだ
だからその当地からウサギが中に取り込んだらそれを捕まえたのがこれなんだよ
だから我々はウサギを食べたから
他の連中は大勢何百人ってやってウワーってやったけど一匹も捕れなかったんじゃないか
そういう経緯があったんですね そんなことをやって訓練してるわけだよ
福祉でね 何もないところで福祉をしてたらもう全部砂か土が流れ
その時って今この福祉行ってる時っていうのは
一応一日の流れとかっていうのは例えば何時に起床してどうこうって決まってるわけですよね
決まってる
当然別に土曜日日曜日とか関係ないわけですよね
自由になっても荒野だから特に何もすることない
何もない何もない
ただ手法っていうのがあってね
そこでまんじゅうがあったんで
手法
手法手法 酒のたぼつって書いてある
手法
そこは行けばおまんじゅうとかあるんだけど
ところがその辺の間そのとこ行けないんだよ
小江坂みんなが占領しちゃって
やっぱそうですよね
その時なんかどういう会話されてました
36:02
基本的にもちろん訓練というかですから
無駄口はたたけないでしょうけど
そうは言っても喋る時間とかあるわけですよね
同僚というか
たまには彼女の話をしている奴もいたよ
そうなんですか
手法行ってまんじゅう帰ってきて
あとたぼこの訳ですとか
何もすることないんだもんね
あとは訓練だもんね
例えば当時河村さんもそうですけど
二十歳になるかなんないかとか
前後の今で言えば大学生のぐらいの年の男の子たちが
今彼女の話なんかもありましたけど
戦地というか
そうですよね
行ってて
自分たちが例えば帰れんのかなとか
日本帰ったらこんなことやるんだとか
それはねあるよ
あるよ
あったってね
俺の一緒に行ったやつは三井物産の福祉屋ってあるじゃないですか
たまたま初年兵の教育のとき隣に寝てたんで
河村日本も負けるよってそのとき言ってた
ああそうですか
もうねアメリカの戦力ってこういうもんだと
とても前方からはないよなんて言ってた
だってバカなこと言っちゃいけないよなんて言ってたけどさ
そういうとこにやっぱり情報が流れてたんだね
その彼のところに
彼は慶応で出てきてたんだよね
俺は専門学校途中だから
途中はスクッと受けたの頃はね
分かっていたみたいで
俺はそういうこと言うとか知らなかったけどね
いろんな当時青年はいたと思うんですけど
河村さんは僕もいろんな方聞くと
やっぱりその時代が時代だったから
それがいい悪いではないと思うんですけど
やっぱりもう軍国少年だったっていう人が
やっぱり話聞いて多いんですけど
河村さん当時どういう
軍国少年ではないね
どういう感じだったんですかねもう
ただ毎日毎日やってただけだよ僕は
すごいお国のためにっていう意識とか
言うこともないしそうじゃないってことでもないよね
とにかく僕は早々死刑だからね
この時はまだ低いじゃないよ
普通のなんでもないんだけど
死刑になっちゃってからはもう
それはもうね
もう天下大平だよ
車の話なにみんなあんの
本当はね話は面白いのはね
中戦後の話が面白いんだよ
あそうなんですか
戦争中はさやっぱり何だったっけ
敵中だからね
勝手なことはできないよね
言っとくけどね
僕は戦役にはいたけども
戦争っていうのはさっき言ったとおり
戦争は向こうが3つの軍隊が勝手に戦争してるんだって
39:00
我々はその中戦じゃなくて
眺めては
部落があそこの部落が荒されてるから
助けに行くそんなことしかやってないから
3つの軍隊って言うとすみません
一応聞いてる方にも分かるように言っていたけど
どういう
一番北にはペイロッツという
第6方面軍というのが共産軍ですよね
それから真ん中にはチンシグ
第4師
要するにこれも共産軍
それからセイキン軍が紹介してきます
これ3つ
みんな戦争してるんだもん
お互いに部落を占領して
いろんな物資を持っていっちゃうんだね
そういうところにこっちは
中産やグッズになるか
なんだろうねあれ
でも敵中は敵中だよね
だから保証が時々打たれたり
してましたよね
だけども戦争っていったことは
戦争に
これが戦争だなって言えるようなことって
いっぺんしかないんだよ
いっぺんあるんだよ
それはもう終戦に近くなった頃だな
同じようにどこそこの村に
部隊が来て
村の中を
税金を取って歩いている
そういう情報が入ってくるんだよ
それを討伐としようとして
討伐に行こうじゃないかと
いつもだいたい
1個小隊かな
だいたい100人前後だね
約100人はいないかな
山下はだいたい100人ぐらい
大隊で行くわけだね
うちの部隊から約
1キロぐらい離れたところの村に来ているって言うんだよ
それをやっつけるじゃないか
部隊長は面白かったんだけど悪いんだけどね
そこに一中隊で
野収掛けろって言って
あの頃の一中隊は
モダンボーイでね
ちょっと洒落だったことで
部隊長は面白くなかったんだよね
部隊は野収しようと
一中隊行けって
こっちはね
ちょうど丘になっていて
その向こうの約1キロ先
ちょっと虫田村がある
そこへ共産兵が来て
税金取ってるらしい
情報が入ったからさ
部隊長が
野収しようと
一中隊はお前
一中隊中隊長呼んで
兵隊何人連れて
野収行ってくれって命令出したんだよ
こっちからね
迫撃砲って
42:01
知らないけど迫撃砲ってね
大砲じゃなくて
ちつがあってね
弾をボンと振り込むと
ボーンと出て行って
迫撃砲って
歩兵なんかは
簡単に持ってやるわけ
一発で撃つぞって
それを
突撃にしろって
それやったら
こんなちっちゃいの
一発撃つんだよ
司令部の命令が
許可がいるんだよ
それで
夜が来たからさ
死刑は行くかって
死刑は余裕はないんだよね
あと
荒らされたところ
行ったり
物を持ってきたら
金払ったりすればいいんだけど
行くかって
行きましょうって
俺が死刑
軍医だった
あと兵隊
全部30人
山のこっちにいたんだよ
死んで
ちょうど6時だった
すぐ泣くのが
部隊長がよしって言ったら
迫撃砲ってボーンと撃ったんだよ
動いてスターッと
そしたら
時の声が上がったんだよ
なんとか戦争してみたいだろ
確かにバーって火が上がった
そして部隊長が
なんだあいつ
なんで時の声を上げるんだ
夜襲ってのは
声をワーッと言っちゃいけない
黙ってシーッとやらなきゃいけないんだ
それで俺も初めて聞いて
そんなのか
美術部隊長
怒られる怒られる部隊に
お前一生とかしろとか
って言われて
その時に
山にいた時に
弾がピューンって音が
飛んできたのを覚えている
それだけで弾が上がろうと聞いていた
それは夜襲っていうのは
経験しない当然あれなんですけど
今ので1個ボーンってやって
そっから何か
銃撃をするとかそういうことじゃないんだ
それだけ
直接それで誰か向こうで
相手がなんか
亡くなったとか
でもそれなりにその威力はあるわけですよね
それはあるはず
バーンって外に火が上がる
ただの発煙筒なわけじゃないわけですよね
だから指令部の人がいるんだ
そこから
それに対してそこから何か
応収戦とかになるってことではない
もうみんな逃げたっていない
こっちも
そのそばまで行ってるんだから
1個銃弾いってる
ボーンって鳴ったら
行ってね
敵を捕まえなきゃいけない
って言うんだろうな
だけど
45:01
時を超えたから
みんな逃げた
それで怒られた
そういう戦争をやったのは1回だけあるよな
確かに
その時の偽らざる環境を聞くと
そういう状況でも
遠くとかあんまりなかったですか?
ないないないないない
だって離れてるんだもん敵が
この100メートルはもうここにいる
という
情報が入ってるだけ
ただ1個銃弾が
第一銃弾いってることは確かなんだよね
そこへ
確かに迫撃を撃つんだから
この兵隊の方が怖いよねやっぱり
そうですよね
だから思わずワーって声が上がっちゃうんだよ
それで怒られたんだよ
そういう話だけは
これは実戦の話だよ
それはもう南京にどこですか?
九甲
戦争
弾を撃ったっていうのは
弾を撃ったじゃない
弾の音を聞いたのが
それだけ
そういう意味で間接戦は見たというか
戦争ってのは
どんどんバチバチやったって
言ったことがないの
だってこれは死刑だもん
死刑って言葉ですけど
聞いてる方も分からないと思うんで
教えていただけますか?
経理部
経理って言うと
お金の管理
それをやってらっしゃった
昔商業学校出てた
千葉商業出て
当時中国で経理って
どういうお金の管理
何をやるんですかね
もうちょっと具体的に言うと
軍標だよね
18円
18対1だったのあれ
日本の1円
1円がお金で18円ぐらい
お金いっぱい持ってさ
それで
兵隊に飯を貰わなきゃいけない
日曜日から米買ったり
それで
野菜買ったり
いろいろしなきゃいけない
それは中国の人から買う
普通に
普通にって何でしょうね
武隊
僕ら大映ってところに
いたんだからね
そこにいた時は
武隊本部だから
そこにみんな
1個だいたい1000人いるわけだよ
米でも
持ってこなきゃ間に合わない
その時って
単純な話ですけど
直接河村さんが
買いに行くとかっていう係ではない?
係ではないけど買いに行った
行きました
街の中に
武隊ちゃん何か食いていい?
よし
それこそ
今問題になっている
慰安寺状態
監督に行かなきゃいけない
俺も当番のせいで
話があちこちになっちゃうと
困るんだけど
48:01
俺に言わせれば
あれはものすごい喜んでいたと思う
女性のほう
女性の人だったよ
僕らがいた
大映
大映っていうところが
黄色い梅って書いてある
梅って書いてある
場所ですね
前周の
橋本寺のところ
敵の
真ん中だよね
日本軍が攻めて
開けたところ
警備のために
入っていた
結局
警備隊だから
慰安寺もある
慰安寺なんて
僕ら
慰安寺なんて経営している人が
いるんだよ
日本人で
その辺のところは
よく分からないよね
それが
飯食い
おまんじゅうとか
舞台でやっていないで
外に頼んである
専門の
日本人の
向こうに
女の子をみんな宿って
そういうことをやっている
慰安寺もあるんだよ
慰安寺は
検査に
行かなくちゃいけないって言って
お父さんとよく行ったけどね
みんな
朝鮮の人だったよ
そこの
雇われている
そして
俺らが行くとね
砂糖水を
砂糖なんて普通の舞台にはないんだよ
僕ら酒系はあったけど
普通
軍舎に砂糖がないもんだから
アルコールと交換しよう
って
砂糖を売りにしたくらい
砂糖水を
僕らに飲ませてくれた
特別サービスですよ
監督に行ったんだよね
みんな
そういうとこから
彼女たちは強制的に
連れて来られたんじゃないと僕は思うよ
それはなぜですか
喜んでいるんだよ
向こうにいたら何しているか分からない
朝鮮にいれば
だってあの頃
青森とかあの辺の女の子だって
みんな強制的に
そういうとこ言われちゃって
やってたんでしょ
朝鮮の浅島なんですよ
そりゃ
こっちに来たらいい意味になってるんだから
僕らに言わせたら
それはね
強制
強制的に連れて来られた人も
あることあるかもしれないけどね
そこに来てね
一部屋もらってね
でもいい生活してるわけだ
佐藤の女の子だからさ
僕は怒ってたよ
もちろんいろんな意見
いろんな方あると思うんですけど
河村さんからすると
51:01
実際そこの慰安寺にいた
朝鮮の方
何か見たりしてるわけですよね
その感覚でいいんですけど
もちろん
ちゃんとしたところに住ませてもらって
それなりに潤ってたとしても
顔見るとある程度分かるじゃないですか
その人がどういう
でもやっぱりすごい悲壮感
本当にどこって感じではない
全然ない
向こうにいたら何したらいいか分からなかった
朝鮮にいたら
青森あたりにもちろん日本の
人生だってみんなね
売られてて
人それこそして人生になって
軍がやっていいんじゃないよ
みんなねいわゆるその専門家がいるんだよね
いるんですね
僕ら大映というとこにいたとき
そういう慰安寺の設備がなくて
兵隊の
司法のようなことを
専門にやってる人もいましたよ
あんまりモテるんじゃなくても
いろんな人がいろんな形でいた
どうやってあんなとこに
行ってるか分からないけどね
いわゆるボスだな
そうすると
少し話戻りますけど
河村さんは死刑で直接じゃないにしても
結局は直接いろいろ
街に出てて
いろんな人を接してたと思うんですけど
言葉は
どういう
それはもういつ
向こう行ってから喋る
だってね
言いたいよ
言葉ってのはね
エヴァって喋れば続いちゃうんだよ
こっちが上だと思って喋れば
死刑に出てきてね
言葉は続いちゃうんだから死刑で
続いちゃうんだから死刑で
あそこはね
こっちが勝ってるときだからね
中国語は
僕は小学校で中国語
もうちょっと習ってるんですよ
にかんてつんとかね
にーはーとか
ああいうことをしてたから
それをもとにして
ちょっとくっつけたら
続いちゃうんだよ話が
ところが俺
大学は英語はダメなんだよ
俺大学まで行ったけどね
あの頃はね
大学とか専門学校に
英語の死刑がないんだよ
だって適正英語だもん
ああそうですね
だから俺今でも英語できない
全然ダメだよ
中国語なら通じるよ
台湾に行ったって通じちゃうもんね
そういうもんなんだよ
で実際その町に出て
その死刑っていう役割は
南京に行ってるときも死刑?
南京は経理学校
学校に入ってた
死刑の学校に入ってた
南京では?
南京の経理学校に入ってた
あそうなんですか
3月から
6ヶ月間
その経理学校に入ってから死刑になった?
54:01
死刑の学校だもん
死刑の学校だもん
そこに入るために死刑があるんだよ別に
普通の官部合戦ってのは
普通の兵隊の官部になる
死刑もあるんだよ
その他に死刑になる死刑ってのがあるんだよ
それは難しいんだよやっぱり
それは
本当は難しいんだよ
俺なんか通るわけないんだよな
経理学校ぐらいしか出てないと
なかなか通らないんだよ普通は
なぜ通ったかって言ったら
俺大ボロ人やったんだよ
どんだ
お前なんかいなくたって
どうってことはないからね
言うからね
私はね
日本軍はね
少ない金で
立派な
食料
食べさせる自信がある
だって味噌作るなって
味噌作る人は作れないし
自分でやるか
そう言ったら嘘つけーなって言ったけどさ
でね
試験でね
戦時
東西経済の
特殊人質
試験とか
確か覚えちゃうから問題出た
俺分かんないんだもん
って振り返っちゃったんだけどね
でも俺受かってね
招待出てきたぞ
怒ってんだよ
何があったんだよ
面接が良かったんです
南京にはどのくらい期間
南京だから
3月から
半年だったかな
3月から9月まで
昭和もう19年とかですかね
終戦の前の年くらいですかね
終戦の前
さっき最初興風の時が
昭和18年11月って書いてあったので
その翌年
翌年
翌年に全部終わってるね
だからきっと昭和19年だったと思うんですけど
半年
19年の12月には
見慣れ試験になってるね
やっぱりね
報道されてることと
実際こうやってお話がかかることって
いろんな違いがあったり
人によっても感じ方って違うと思うんですけど
さっき守警で町に出た時の話もありましたけど
やっぱり僕なんか
南京って言うと
南京大虐殺南京事件
確かあれが1933年だから
昭和もっと前
僕は
あの時南京に
あれは嘘だと思うよ
というのは
そんなに人がいないもんな
そんなに
人が滑るようなとこじゃないもんな
さっきこうやってるのもありましたけど
南京はどういうとこだったんですか
城壁でずっと囲ってた
その中に
ブレークがあるだけだからさ
だから
20万人もあそこで
殺しようがないじゃん
いないじゃん
実際
57:01
そこからも多分10年ぐらい経ってる時期に
行かれてると思うんですけど
あったと言われてる時期から
そういう話なかったね
実際行って
これはもう本当に川村さん感覚でいいんですけど
中国の人と接してるわけじゃないですか
すごく
どういう風に
接してきましたか
仲良かった
それでね
南京ってお城だから
城壁が囲んだ
その外に契約があったんですよ
当たりに行ったら南京に契約が出てきた
時々城内に
見学会の方々
視察に行くわけでしょ
その中に
レストランなんか
休みながら行くんだけど
そういうすごく
開放的な
ところで
だから
そんなとこで
部隊もそんなにいないもん
だから
あれは作り話ですよ
なんかいわゆる
実際接してられてて
仲良かったって話もありましたけど
半日が渦巻いてるとか
そういう雰囲気は全然ないですか
全然ない
話してるとすぐに
日本に連れてってくる
そうなんですか
日本がいいと思ってたんだろうな
とりあえず
逆に言うとその時日本は結構
内地はあれだったわけですよね
あれ
あの頃は
向こうには
情報がなかった
その情報っていう意味では
なんだろう
さっきの一緒の人が
情報どっかからあって
日本負けるぞってある程度早い時から
おっしゃってましたけど
公としては
情報って別に入ってこないですか
勝ってるって感じの情報しか入ってこないですか
入ってこないね
でもどっかで
官房さんもそろそろやばいなとか
気づいた
やばいなと思うより
終戦の近い頃だよね
アメリカ人がね
我々のところにもね
攻めてくる
どれくらいの勢力で来るか
一粒だから
六尺四方に
爆弾一発ずつ
落とす
そういうことを
部隊長が言ったよ
ひどいなと
みんなとても残念だ
終戦の近い頃だね
その話したよ
今だと
思い出話みたいな感じで
ある意味こういうふうな話されてます
それ聞いた時
いい気持ちで
冗談じゃない
じゃあ穴掘って
掘らなきゃいけないな
そんな話だよ
その時はひょっとしたら
日本帰れないかもとか
思いましたね
その
1:00:01
辺の時って
覚悟しましたか
まだ覚悟はできない
敵が来ないの
ただ
ケリア港にいた時には
もうすでに
B-29がどんどん飛んでましたから
内地へ
内地へどんどん爆発して
南京
南京の城外に
兵器庫がいっぱいあったから
そこに
爆弾を落として
帰って
日本の兵隊
戦闘機があるんだよね
当時優秀なやつ
はやぶさじゃない
もっと優秀なやつがあるはずなんだけど
上がっていかないんだよ
どうしたらいいんだったら
そこに届かないんだって
3000mを上に行っちゃうと
日本の飛行機はやらないんだって
後で火で上がってたよ
それじゃあしょうがない
でから
ケリア港へ
卒業して
自分の部隊に
不倫するとき
城壁の
すぐそこにあった
兵隊の旅館だよね
兵隊用の旅館
空襲があったんだよ
そしたら
グラマン戦闘機だな
日本から商機とか
やって
戦争して
やってんだよ
昨年だったから
あったらこっちに来る
だから
あんまり
いい気持ちはしなかった
向こうの方だけど
そんなことがあったよ
中国行ってたときは
ご両親だったり
手紙とかは書けたんですか
書けましたよ
必ずどこかで閲覧されるんですよね
検査してるんですよね
何回かやりとりは
最後にね
初出戦になってから
帰ってくるときに
おそらく東京はね
やられちゃってるんだろうから
俺は
うちの親父
奈良出身だからね
奈良なら大丈夫だろう
奈良へ帰るよって
届けしたかったんですよ
さっきの話
兵隊を連れて
西海まで来たら
うちから手紙しててね
東京は無事だから
東京帰ってこいって
東京帰ってきたんですよ
それはもう大空襲の後ですよね
この辺何もいられなかったんだ
全部残ってたんですよ
ここは
なんか僕会社のホームページ
見ましたけど
もう来るかっていうところで
数え向きが変わって
ラッキーだったんですね
だから
残ってるわけですよね
その帰ってきた
タイミングはいつですか?
1:03:01
えっと
終戦の年
翌年の3月かな
翌年の3月
いわゆる終戦の8月15日
10月
3月かな
その終戦はどこで知りました?
もう中国でってことですかね
終戦はそれは
中国のね
さっき言った
九川ってところ
九川ってあそこ
その向かい側に
承志港ってところ
承志港ってところに
うちの部隊の
出店じゃないけど
部隊の
旅館みたいなのがあるんです
あちこちにあるんですよ
部隊
大場行ったとこは
そこから20里多いですからね
3カ所ぐらい
休憩所が
旅館だな
承志港渡って
すぐのところに承志港ってところがあって
そこが一番
よく連絡使ったんだけど
そこで
そう
終戦になる前ぐらいから
部隊が
上からね
承志港の上流から
4人の部隊がどんどん
船に乗ってくる
船って大きな船じゃない
軍用の船
どんどん
2つ来るんですよ
うちの部隊は補給部隊だから
物資を
そこで補給してやれって
命令もらってたから
それこそ大映
大映ってさっき20里も奥だけど
そこから
いろんな物資をみんな運んで
どんどん運んでね
空力を使ってね
やっぱりどんどん
運んでるんですよ
そして
やってるときに
無線が入ったんです
日本全面降伏だったんです
部隊長がびっくりしちゃって
そしたらもう
もう
泣いて帰りに行って
部隊長が言ってね
そしたらみんな
大映は
さっき言ったように20里も先だけど
こっちに
ちょうど
長官は3人か何人か
5、6人いたんですよ
最後にお別れの
会話しようと
そのときに
こんなところに
なんだあれ
トマトが山になって
トマト嫌いだったんだよ
俺トマト嫌いだったんだよ
嬉しくないですね
大映は
馬場に行くんだよね
何も売ってないのかなって
美味いんだよね
なるほどトマトって美味しいもんだ
って思ってよかった
今でも食べないよ
トマトあんまり好きじゃないよ
1:06:01
美味しいと思ったね
夏だなあれ
明日はどうなるか分かんないんだよね
それで
それから
撤収して
協会席の
参加に入って
ヨウスコを約
それこそ10位かな
下ったところに集結しろ
って言われたんですよ
集結じゃないよ
捕虜になりに来いと
向こうはね
協会席の軍にしてもね
へばっていられないんだよ
減らすと
ほうからほうからやられちゃうから
だから自分たちで
警備をしながら
どこそこの間で来いと
こういう命令ですよ
だから僕ら
あれだけみんな
物を持ってさ
船の何十艘って
船があったんでみんな積んで
米もいっぱい積んでさ
それで捕虜になりに行ったんですよ
そして
その頃から船で
船で行けば
半日まで行っちゃうんだろうなって
僕ら肉を張りに行って
馬を回る
その頃
俺らは
試験っていうのは偉いんだよ
馬をもらえるんだよ
馬に乗って
タカタカタカって行ったんですよ
それからが大変だった
10時くらい先にね
こっち詰めて
ここのところをね
日本軍の
うちの部隊に渡すから
ここを警備し
他の共産軍なんかが来てもね
とてもね
昭和時代の運としてはね
守備できないから
自分たちで守れってこういう命令なんだよ
命令かどうかもね
それで
行ってさ何もないけど
部隊に
みんないろんなやついるでしょ
それで
戦警隊が行ってね
座布団も張っちゃってね
それで
その中に兵車がいくつも
こっち側にいて
1個だけあるから約1000人いるんだよね
止まられるようにして
部隊長のところは
ちゃんとした日本のね
タカタカカがこっち側にいてさ
そこへ移って
ほど鳴りに行ったの
だってやったって言ったら
鳴りに行ったんだよ
そしたらね
結局ホルダーから
向こうはこっちに補給しなきゃいけないんだよ
養わなきゃいけない
向こうに養わないゲームがあるんだから今度は
そうですねホルダーからね
すごいんだよその隊員が
米でもね
そしお米ですよ
当時あの頃日本に住んで
寿司米って自然に使ってたのが
そんな米くれるんだよ
こっちはね
教室前だからさ
虫の食ったらどうしようもない
1:09:03
だいたいあの辺は
塩が少ないところだからね
こっちは塩持っててね
塩と交換していろんな物資を集めてたわけだよね
だけどね
塩は食べたくなったから
じゃあ米と交換しようって
野菜持ってたら米やろうって
しーさん米いらないんで
その米食ったら病気になるって
そういうのを教室に
こっちは知らないけどさ
みんな兵隊に食わせてたってさ
それは3年分も
持ってたからね
3年くらいかかるだろうって帰るまで
そういうのになって
思いますよね
しまってたらさ
いい米くれるんだよ
これもったいないこれしまっとけ
悪い米食いって悪い米食わせたんだ
みんなに兵隊さんに
ちょっとそこは
ちょっとね
頭働かせすぎちゃったんだよ
そしたらあんたね
3年くらいいるだろうって
2月経ったら
内地帰るぞって
言ったんだよ
それはでもすごい
3年いるつもりがね
2月だと
内地帰るって言うから
みんな置いてこなきゃいけない
内地帰るのに
みんな置いてきちゃった
最終回みんな置いてきちゃった
それでね
捕虜になってからね
小塚へくれるタバコをくれるね
全部
ヘラさんたちは
こっち金持っているしね
何でも買えるしね
なんか半分理解できて
半分理解できないですね
それで
時期が来て
船は大きい
1万トンくらいの船で
乗せて帰すって言うからさ
船を作る
サンバシを作ろうって
大分から山まで落ちて
サンバシ作ったんですよ
それで時期が来たら
確かに帰りが来たわけ
それでみんな乗って
出発しようと思ったら
ガリガリって作って
サンバシが壊れて
壊れたまま帰ってきた
なんでも使うよ
だから
特に
こんなこと言っちゃいけないんだけど
僕らの部隊なんかは
終戦軍が
一番面白かったね
面白かったし楽しかったね
だってやることないんだから
それで
昭和時代の
軍から
機関銃と
鉄砲を全部貸してくれたんだから
だって
昭和時代の軍
昭和時代に言わせれば
昭和時代の
うちの部隊では
日本軍を守れない
他に共産軍がいるから
自分で守ってくれる
だからその分は銃器は兵器に全部渡す
弾からは全部くれたんだ
それで
1:12:03
僕たちとか
ペンザー部に立ってた
僕たちのところに
山があって地上があって
火屋があって
全部うちで作ってた
そこで
新国芸術の役者がいたんだよね
芝居をやったり
何かをやってた
そこにいた時は
やることないから
昭和時代
どこ行ったったら
どこそこ行きました
今日はイノシシ会だって
イノシシ取ってくれて
今日は何度取ってきたか
みんなに分けて
分けるのは
地形の役だから
部隊長の部屋は
別にあるんだが
そこで兆候みんな集まって
毎日イノシシのアビ取られてるんだ
やることないよね
あとバリナルのマージャンだもん
だから本当に極楽みたいだった
いいのかなって
やることないんだからしょうがないよね
3年はさすがに続かなかった
3年は
3年ずつに帰っちゃったから
軍隊でも
ひどい目にあった人が多いけどね
そういうところもあんだよね
お話を聞くと本当に
その状況によって全く違いますね
一口に戦争の時代と言っても
全然違いますよ
特に中学のね
障害席のところにいたのが
いいですよ
障害席の背後にいたと
それは
そういう巡り合わせとか
運もあったんでしょうけど
実際
いずれにしても
いわゆる戦争という体験とは
違うと思うんですけど
ご自身の中で一つの区切りとして
日本というか
戦争終わったんだなっていうのは
ご自身の中ではいつ終わったと言えますか
それこそ帰ってからなのか
やっぱりさっき言った
トマト食べた頃ね
やっぱりそこ
暑かったんだよね
その時はね
もう一つ
その時にね
荷物をね
向こうの部屋
クリっていうのかな
荷物を運んでたんだよ
サボってやったから
市内持ってたら
パッパッパッと当たったんだよね
それを後でね
死刑で頭殴られたんで
行って歩いてやったやつ
罰ゲートしたかと思ったけど
何もなかったけど
サボってるからやったんだけど
トマトの時に
あるいは河村さんの中では
終戦って感じですね
それから後は
そこから行っちゃったね
やることないと馬に乗って
ハイキングで馬に乗って
1:15:01
豚いちばんがみんな一緒に
行くわけ
それから
ちょうど
上海に来て
帰り
近海を持って帰ろうなんて
いろんな相談したやついたんだけど
当時
金属探知機があってね
見つかったら船乗せれないぞ
って言われて
みんなあそこに埋めてきちゃった
2、3年前に
掘りに行こうかなって
そういう出来事だったんですね
それで帰ってきて
さらっと言える年代じゃないですか
70年近く経って
そういう意味では直接
悲惨な体験をされていた
ちょっと違う
河村さんご自身もおっしゃってましたけど
そう言っても戦争を体験され
広い意味での時代を生きていた方として
これはいろんな意見があっていいと思うんですけど
やっぱり今
戦争に対する想いとか
当時の戦争もあるし
日本世界でも戦争はありますし
集団的自衛権だったり
憲法のことだったり
その辺はどう河村さんは見てらっしゃいますか
感じること
やっぱり
軍隊って必要だろうね
必要
そこはみんな持っているんだから
日本に何にもいらない
いられるわけがない
みんなどう考えているのか
軍隊なしで
打て勝てでやれるわけないな
やっぱり
株主票を入れ上げられたら
何とかそれをしなくちゃいけない
避けるか
もはうかどっちかだな
確かに他国が軍隊を持っているのは事実で
日本だけが持ち勝てる理由で
言うわけはいかないだろう
と僕は思うけどね
でも戦争して
ジロッチになるよ
もちろんもちろん
だけどまたこれは話だけどね
原爆なんてたくさんみんな持っているでしょう
そうですね
あれをね
ボタン押して押すと
全部破裂しちゃうのは
科学者がいないといいと思うよ
もういるかもしれない
そうしたらね
みんな持っているらびっくりしちゃうよね
いるはずですよそれは
電波を飛ばせば
爆発すると
それくらいやってるんじゃないかと
やらなくちゃ
技術者さん何やってんだって
言われちゃうよ
憲法9条の話もありますし
当時日本は
軍隊を持たずに
戦争もしないし
という話もありますが
当時そういう憲法とか
9条できた時とか
っていうのは
河村さんどう感じたんですかね
むてかたに言うでね
いければ一番いいなと思ったよ
そうはいかないだろうなと
相手が言ってたから
1:18:01
思ってました
実は
そのままずっと
みんなそんなに
同じ考えの人ばかりじゃないもん
どこかで
出馬式始まれば
残したてに思えちゃうよ
人間がいる間
人間じゃなくて犬だって
喧嘩するんだから
犬よりは
友好だろうけど
分かんないな
そうですね
何千年って戦争やってるわけですからね
人類がいる
その中でいろんな意見あっていいと思うんですけど
河村さんも当然おっしゃってたのは
戦争はしないほうがいいし
っていう話がありましたけど
その中でもやっぱり
今後戦争を体験したくない
する世代も出てくるかもしれないですけど
第二次大戦中を
そういう意味で経験された
河村さんとして
聞く方って若い人
僕も含めて戦争を全然知らない人
これから生まれてくる子どもたちも
聞くと思うんですけど
今日のインタビューそのものがまさに
残せるメッセージだと思うんですけど
こういうことだけは伝えたいとか
知っておいてほしい
あと個人的なメッセージでもいいんですけど
そういうものをもしいただけるとしたら
今の問題は
何が問題なのかだって
あれは必要悪だっていうことなんだ
必要悪
必要悪なんだよね
必要悪ってないと
頑張るとどうしても片方になっちゃうんだよね
それは
これは話が全然違うんだよね
この辺が
中戦の時にさ
新中軍の
駐留の
場所になってたんだよね
そこにアメリカの
兵隊がいっぱい来てるわけですよ
女の兵隊も
諸国いるわけじゃん
僕の
同隊の仲間ももう死んじゃったけどね
そのあらゆる連中がね
そういうところで
女の
諸国から呼ばれていくんですよ
言ったんですよ事実
そんなことがあったんですか?
知らないんですよ
それ本人から聞いてるんだから間違いない
本人も死んじゃったからもう行かないとも構わないんだけど
そういう
そんなもんなんです
戦争して
そういうことをやっちゃいけないって
言うほうが間違いだよ
戦争しなきゃいけない
やはりどんなもんなんだ
そんなこと言ってると
勝てば官軍だよ
今言った
女の諸国が
そういうことして
その連中どうしてたの
朝昼会の後ね
チョコレート屋の中に
従事者兄さんとして
従事者兄さん
そんなことがあったんですか
おそらくそんなこと誰も知らない
知らないしあんまり言われてこない
もう死んじゃってていないからね
夜に言ってましたよそれは
この近所の人だった
1:21:01
元は水田さんと
今息子やってるんだから
それ事実だからあるんだからね
だから
今日本だけが
悪いのと言われてるけど
そんなことないんだよ
戦争するんだったらそれぐらい覚悟しないとだめなんだよ
戦争なくすっていうのは
難しいかなとは思うんですけど
どうですかね当然
河野さんも
お孫さんもひまごさんもいらっしゃる
子供はいないの
おじいちゃんと言われたときの
戦争の事実そのものを語ってくださったと思うんですけど
ただやっぱり
僕らが運がいいほうの話だからね
ひどいのはね
かわいそうですよそれは
そのために
一人一人できることっていうと
理想論みたいな話を聞きたわけじゃないんですけど
何ができますか
今僕ら
できるというか考えるということでもいいかもしれないですけど
そういう意味で
僕としては
いろんな意見あっていいと思うんですけど
こういったものをインタビューして
日本とか世界の人に聞いてもらって
その上で
軍隊必要だとか
理想かもしれないけどやっぱり絶対いらない
そういう意見が何にもないのが
無関心が危険だと思うので
僕は自分ができることはこういうことをやっていくことかな
と思うんですけど
まさに経験されている先輩から
何かそういう何も知らない人たちに
何か残すとしたら
どういうことがあるかな
人間がいたらね
争いがある
争いがあったら必ずそういうことが起こる
これはもうしょうがないんだよね
しょうがないので済ませるんだ
だけどやっぱり
人間の知恵では解決できない
きっとそれは
そこまでだね
そこまで
そういうものだということですよね
やらなきゃいけないこと
やらなくて済むのは一番いいよね
さっきの英語の話じゃないけど
俺は英語を使わなくて済んじゃったから
今は覚えて
全然英語できないけど
中国語はさ
必要量に減らされて
やっちゃったから
中国語を今は通じて
この間台湾に行ったんですけど
通じちゃうんでしょ
どっちかはどうだろうね
そうですね
今日はですね東京都ですけども
こちらで河村森安さんにお話を伺いました
河村さん長時間ありがとうございました

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