そしたらちょっと歴史変わっていきますよという。
すごい勢いのある時代ですね。
ですね。
確かに確かに。ロラパルーザとかそういうところでの勢いがあるような。
グランジオルタナティブが火がついたのがジェーンズアディクションの解散ツアーだったロラパルーザ。
そこからいろんなバンドが火がついてますもんね。
1991年ですというところで。
名番ラジオもれっちり結構やってますって話さっきしましたけど、
意外とメンバーの老いたちとかバンド結成あたりの話ってしてないんで、
今回はその辺いろいろ見ていきたいなっていう感じです。
これを聞けばねれっちり初期の歴史にめっちゃ詳しくなれるんじゃないかなと。
ありがたい。
というところをね。
ありがたい。
紹介していきたいなと。
叱咤できるぞと。
叱咤していただきたい。ぜひ。
じゃあ早速いきますが、れっちりはね、歴史長いんですよね。めちゃくちゃ。
そうですね。
メンバーチェンジもありますから、通算15人ほどメンバーがいるらしくて、
元れっちりとかを含めて。
15人もいる。
日本のなんとかいうバンドみたいですね。
なんとかジャパンみたいですね。
特王さんとかね。
まずはメンバーですけど、
今回のブラッドシュガー時のメンバーというか、
れっちりって言って多くの人が思い浮かぶメンバー4人。
アンソニー・キーディスとフリー・チャド・スミス・ジョン・フルシアンテですね。
アンソニーとフリーは同級生なので、高校からの。
1962年11月1日生まれがアンソニーで、
10月16日生まれがフリーで、半月ぐらいしか青年月日的にも離れてないとは。
チャド・スミスは1歳年上ですね、フリー・アンソニーの。
上なんですね。
ちょうど丸1年ぐらい上。
で、ジョン・フルシアンテはもう全然下で、1970年の誕生日が3月5日。
あ、マジで?やっぱり3月生まれなんだな。
ナイブなセンシティブな野郎は。
いやーこれなかなか面白いなと思って、3月5日だったんだって。
すごくないですかこれ。
すごいすごい。
3月567ってすごいじゃないですか。
567ってね、この明晩ラジオの。
明晩ラジオ的にはすごい。
関係者が。
そうですね。
ジョン・フルシアンテ、えんぞうさん、さくらやつし。
やっぱそこらへんなんですよ。
3月生まれでも特に6日前後という。
やたら繊細に生まれるというね。
ちょうど春の匂いがしてきたみたいな。
ジョン・フルシアンテは70年生まれですから、僕は明晩ラジオ的に言うとルナシー世代ですね。
あーそうですよね。
わかりやすく言うと、深夜の2ヶ月後、流一の2ヶ月前みたいな、誕生日が。
誕生日って生年月日ですね。
なのであの辺は本当にもう同い年って感じですね。
なんかそう見ると結構面白いですよね。
面白いね、なんかそういう同級生並べてみるとね。
スギソーの方がちょい年上なんだみたいな。
ジョン・フルシアンテとスギソー。
みたいな感じですけど。
確かにそういう比較画像っていうか並べたやつちょっと作ったら面白そうですね。
なかなかね、日本とミックスしてやると面白い。
こっからメンバーの生い立ちとか見つつ、れっちりの血性とかに入っていきたいと思いますけど。
まずはアンソニー・キーディス。
アンソニーはですね、アメリカのミシガン州で生まれ育つと。
ミシガン州。
ミシガン州はゴダイコとかある方ですね。
北の方の。
シカゴとかあっちの方の。
で、父親が俳優なんですよね。
芸名が。
アンソニーの父親が。
芸名がね、ブラッキーダメットっていう。
ググったらね、ちゃんと出てきて顔が結構似ててね、すごい面白かったです。
顔が似てて、アンソニーがなんかふざけてるのか、本当のお父さんなのか、どっちなんだろうぐらいの。
あー似てるな。
似てますよね。
似てる似てる。
似てますよね。
結構面白いですよね、似てる度合いが面白いですよね。
すごい特徴をちゃんと受け継いでんだなみたいな。
あー確かに。
まあ親父さんが俳優でしたというとこなんですけど、3歳の時に両親が離婚。
で、アンソニーはね、母親側についたらしいんですけど、
ただその後も育っていく中で、毎年夏にはハリウッドまで父親に会いに行くような感じで、かなりなんか慕ってたみたいで。
で、そんな感じにしてて、結局なんか12歳の時に、その親父さんと暮らすためにアンソニーもハリウッドに移っていったと。
へー。
という感じみたいで。
そっから一緒にまた暮らし始めてるんだと思うんですけど、
ただ親父さんがドラッグをやってたので、その親父さんの影響でアンソニーもドラッグを始めるという感じだったらしいですね。
で、アンソニーもコール・ダメットっていう芸名で、子役として映画に出たりとかしてたみたいですね。
へー。
なんかシルベスター・スタローンの息子役とかやってたらしいですよ。
へー、まじで?すごいですね。
すごいですよね、なんか。
それでフェアファックス高校っていう高校、これすごいLAのハリウッドにあって有名な人いっぱい出してる高校なんですけど、
そこでフリーとかヒレル・スロファック、ジャック・アイアンズっていうマレッジンの結成メンバーに出会うというのがアンソニー・キーディス。
では次がフリー。
フリーはですね、オーストラリアのメルボルンで生まれ育つ。
オーストラリア出身なんだ。
ただ4歳の時にニューヨークへ移住。
なので割とすぐアメリカに移ってきてる。
じゃあもう物心ついたら、割とアメリカにいたみたいな感じですよね。
そうだね。
で、9歳の時に両親が離婚。
この辺が、割とこの辺のミュージシャンによくある感じ。
割と離婚されてますねっていう。
なかなか確かにね、家庭環境。
家庭環境がやっぱりね。
そういう人が多いですよね、確かに。
で、フリーは妹と一緒に母親側についたらしいですね。
再婚したママ・チチっていうんですかね、その母親の再婚相手がジャズミュージシャンだったみたいで。
それでよくミュージシャンを家に招いたりとかしてたらしくて。
そこでフリーはトランペットと出会ったらしいですね。
最初はトランペットの方やってたんですかね。
そうですね。
そういう環境だったんで、ロックっていうよりジャズにハマってる少年だったらしいですね。
フリーって結構、ああ見えてって言ったらあれですけど、すごい音楽的に多彩な面であるなっていう印象あると思うんですけど。
そういうのはこういうバックグラウンドから来てるんだなっていう。
トランペットもめっちゃ上手いもんね、フリー。
元々だから楽器のルーツが。
そっちがもうむしろルーツとしては。
先にそっちなんだなって。
そうですよね。
すごいファンクとかファンクロックみたいなイメージ強いけど、少年時代はそんな感じだったらしいですね。
で、やがて一家はLAへ移住して。
で、またこの母親の再婚相手ってことだと思うんですけど、親父さんがアルコール依存症で結構暴力とかもあったらしくて。
それが理由というか、それの反発とかもあったと思うんですけど、13歳ぐらいからフリーもタイマーを始めてたらしいですね。
なるほど。
なかなか環境がね。
環境がそうさせるんだね、人をね。
そうですね。
で、さっきも出たフェアファックス高校に進学。
ここでヒレルス・ロバック、レッチリの結成メンバーのギタリストですけど、
にかなりロックというかファンクでベースとかを教えてもらったらしいですね。
っていうところで、そこで出会い、1982年、アンソニー・キーディスとフリーとヒレルス・ロバック・ジャック・アイアンズでバンド結成と。
当時のバンド名が、トニー・フロー&ザ・ミラキュラスリー・マジェスティック・マスターズ・オブメイヘムっていう。
くそ、うざいね。
長っ。
超長い。
長いな。
こうだったらしいですね。
この超ミラクルスーパー、フォーエヴァーエターニティーみたいな。
いやーいいね。ひねくれてるね。
いやーいいですね。そういう極端なのがいいですよ。
長っ。
長い。覚えられないけど覚えられるっていう感じですね。
長いやつね。
長い、なんかよくわかんないけど長い。名前のやつ。
1982年12月に初ライブ。
で、年が変わって83年レッドホットチリペッパーズに改名。
へー。
突然短くなったなみたいな。
レッドホットチリペッパーズも長いなと思ってたけど、なんか短くなったなって感じがする。不思議。
そうだね。相対的にね、だいぶ。
いやー、本人たちも長いなって思ったのかね。
そうだね。もういいかなみたいな。飽きるよね、その長いの。最初面白いなって感じだけど。
出落ち感がある。
出落ち感あるよね。一回味わったらもうなんか。
そうだね。5、6回目ぐらいでもういいわって感じがする。
人に言うとき困るしね。
そうですね。
あと自分でも覚えてねーみたいになるしね。なんだっけってなるじゃないですか。
いろいろ不都合がもう。
不都合あるなーと。こんな長いのはちょっとなーってなって。
受け入れないでやっちまったけど。
ライブハウス出るときとかもう迷惑でしょ結構。ライブハウスの人に。
書けねーって。
書けねーよ。ホワイトボードみたいな。看板にちょっと細かい人。
そんな感じで83年ライブ活動を続けていて、84年にEMIとレコーディング契約を結ぶっていう話になっていた。
2週間前にギターのヒレルとドラムのジャック・アイアンズ。
その2人当時、What Is This?っていう別のバンドもやってて、そっちがすでにレコード会社と契約してたみたいで。
そっちに集中するって言って、その2人が脱退してしまうと。
その2人にはどっちかというとレッチリはサイドプロジェクト的な感じだったみたいで。
なかなかフリーとアンソニーからしたらショックですよね。
なんだよって感じですよね。
せっかく契約デビューするぜっていう。
できるってなったタイミングでこれですかっていうのはね、確かに。
なんだけど、フリーとアンソニーはなんとか別のメンバーを探して、
ギターリストのジャック・シャーマンっていう人と、
ドラマーのクリフ・マルティネスっていう人を代わりにメンバーとして迎えてアルバム制作。
これが84年の8月10日に出てるデビューアルバム、Red Hot Chili Peppers。
あのアルバムはギターもヒレルじゃないんだね。
そう。
ヒレルなんだと思って聞いてたな。
結構入れ組んでるから、分かりにくいメンバー編成。
まあこの84年デビューですからね。レッチリ。
めっちゃ早いですよね。
早いっすね。
他のバンドより10年ぐらい積み上げた歴史があるなって。
そうだね。
確かに確かに。90年代の時にそうですね。
90年代のイメージありますけど、やっぱり僕ら的には、
いやいや、80年代からバリバリやってますよっていう。
やってますから。
二回りメイムぐらいな感じだからね、彼ら的に90年代って。
一通りやり終えたっていうからね。
30万枚ぐらい売れたらしいですね。
なかなか。
で、そのアルバム出たツアーの85年2月にギタリストのシャーマンが解雇。
これはアンソニーとあんま合わなかったらしいですね。
で、そのWhat Is This?っていうバンドに秋田ヒレルがれっちりに復帰。
こいつ結構いい加減にしろよですよね。
これなかなか複雑ですよね。
秋田から戻るわ。
秋田っていう表現がちょっとね、どこまであれかわかんないけど。
そっちがうまくいかなかったのか。
ヒレルれっちりに復帰と。
これはでもその後の関係とかも考えると結構歓迎されてたんじゃないですかね。
ヒレルが戻ってきた。
戻ってきてくれたってことだったんでしょうね、きっとね。
そういうことですよね。
そこから見るとお前すげえなってなるけど。
どの面下げて戻ってきたのかになりますからね。
そのタイミングではWhat Is This?の方がうまくいってるからそっちやりますよと。
実際にデビューしてみたられっちり割と売れたじゃないかみたいな。
30万枚売れましたみたいな。
こっちの方がうめえなと。
戻ってきたよーって。
ちょうどギタリストいなくなったらしいじゃんって。
いないでしょって。
俺が来たぜって。
来たよーっとやろうですよね。帰ってきたよーって。
メンバー的には嬉しいという言葉でしょうね。
友達ですからね。
そんなヒレルがまた戻ってきて、
85年8月、セカンドアルバムのフリーキースタイリーリリース。
これでプロデューサーがジョージ・クリントンっていう人で、ここでファンク要素が強くなったという感じですね。
この頃からアンソニーとヒレルの薬物問題が深刻化していったみたいですね。
深刻で悠々しき事態ですね。
そうなんですよ。
次の年の86年4月、ドラマーのマルティネスも性格の不一致を理由に解雇されて。
性格の不一致。
よく続けてたなっていう感じですけどね。
そしてジャック・アイアンズが復帰。
何かと戻ってくるんだね。
来たよーって。
戻ってきたよーって。
俺だよーって。
ということでここでオリジナルメンバーが揃うと。
すごいよね。この序盤でオリジナルラインナップ復活みたいなさ。
右を曲折してさ。
いろんなバンドが何十年後にオリジナルラインナップ復活みたいなことがあるけど、
序盤で。
れっちりは割とそれありがちだからね。
抜けて戻ってきてみたいな。
れっちりの宿命ですよね。
戻ってくるってなかなかそんなないですよね。他のバンドで。
なかなかあんまり思い当たらないけど、れっちり。
最初から結構そういう。
ここでオリジナルメンバー復活って言われても、後の世界的名声を得るメンバーは、
アンソニーとか意識なくて、誰だお前らみたいになる。
復活って言われても。
序盤でそんな。
序盤で言われても、え?みたいな。
ついにオリジナルメンバー復活。
ついにオリジナルメンバー戻ってきたって言われても、知らんけどみたいになる。
まあまあとにかくね、ここで揃ったと。
揃ったと。これは来たと。本人たち的には。
ここで揃って、アルバム作りですよ。
1987年9月、3rdアルバムのThe Uplift Moho Party Plan。
これがなので唯一オリジナルメンバーで作ったアルバム。
これがマイケル・ベインホーンのプロデュース。
すごいね、マイケル・ベインホーンさん。
この人はね、その次のMother's Milkもプロデュースしてますけど。
マイケル・ベインホーンといえばメカニカルアニマルズですよね。
そうですね。マリリン・マンソンのね。
あとホールのセレブリティスキンとかもそうだったんですね。
あーそうだね。
で、この3rdアルバム作ってた頃から、
さっきも出てますけど、アンソニーとヒデルの薬物問題はかなりやばいことになっていて。
一説によると、アンソニーは一時脱退して実家に戻って薬物リハビリ施設に入ったりしてたとか。
あーそっちのことですね。なるほど。
いやなんか、脱退して薬物に専念したっていうのかと思って一瞬。
脱退というか離脱というか、そういうぐらいやばい。
リハビリのために抜けたってことですね。
という、制作時期からそんな感じでやばくて、アルバム作りました。
そのツアー中もかなり深刻な薬物中毒は続いていて、
そのツアー終了直後らしいですけど、
1988年6月25日、ギターのヒデル・スロバクがヘロインの過剰摂取で死亡と。
いうことが起きてしまうと。
これでアンソニーも当時相当同じような状態というかかなりひどかったんだと思うんですけど、
血から出てヒデルの葬儀にも出席しなかったらしいですからね。
えー。
で、ドラマーのジャック・アイアンズはヒデルとついて、
What Is This?も一緒にやってた人ですけど、
このことがショックで脱退してしまうと。
ほうほうほう。
という、かなり壮絶なレッチリの3rdアルバムまでの物語ですね。
88年後半から4枚目のアルバム制作を開始して、89年8月にリリースされたのがマザーズ・ミルク、ボニュー。
ここまでがマイケル・ベインホーンのプロデュースですけど。
あんまり上手くいってなかったみたいですね、関係性というか。
それでちょうどその後、EMIの契約がたぶん切れるタイミングだったんだと思うんですけど、
EMIを離れてWarnerと契約して、次のアルバムはプロデューサーにリック・ルービンを迎えてアルバム作りをすると。
リック・ルービンはその後もずっとやってますからね、リッチンとか。
もうかなり相性がいいんだと思うんですけど。
で、Warnerに移ってね、またアルバム作ろうというところで、
リック・ルービンが所有するLAの邸宅をスタジオにしてレコーディング。
これはビデオにもなってますね、ファンキーモンクスっていう。
それで作られたのがブラッド・シュガー・セックス・マジックというところですね。
いやーすごいですね。家で撮ってるみたいな。
家好きだよね。
ねー。
結構映像で見てびっくりしたっていうか、めっちゃ家で撮ってるなと思って。普通に。
普通の家だよね。棒とかなさそうな家だよね。
ドラムとかの撮ってるところとか、普通の家の階段とかの下で撮ってるみたいな。
結構レティリって割とプロデューサーのカラー大きくないですかっていうのは感じますよね。今までの話聞いてると。
マイケル・ベイホーンって結構メタル系のプロデューサーというか、そういうサウンドメイク得意じゃないですか。
リリー・マンソンにしてもホールにしてもそうだし、結構ハードでヘビーなっていう。
そのマイケル・ベイホーンがプロデュースしたアルバムの母乳ってやっぱメタルじゃないですか。あれってファンクメタルなんで。
あれってプロデューサーのカラーだったんだなっていう。
ジョン・フルシャンテとかなんか嫌だったみたいなこと言ってた記憶もありますし。
マイケル・ベイホーンがやっぱギターサウンドをかなりメタルに寄せたっていう。
フルシャンテがやりたいことじゃないよねみたいな。
その後、リック・ルービンってビスティボーイズとかランディ・MCとかだもんね。
ジョニー・キャッシュとかアデルとかそっち系もやってるから幅広いんですよね。
幅広いっすね、めちゃくちゃ。
それがやっぱ生きてるというか、それがたぶんジョン・フルシャンテもっと幅広いことやりたいよねっていうのに合ってたんだろうなというか。
それが花開いたのがブラッド・シュガー・セックス・マジックなんでしょうねっていうのは、今の話を聞いてて、あーなるほどなぁと。
割とアーティストを活かすというかなんていうか。
うまく引き出すんでしょうね。
アンソニーとフリーって割となんかめちゃくちゃ画が強そうなんだけど、結構周りの影響を受けるというか、周りを尊重するとこあるよねみたいなのもありますよね。
ジョン・フルシャンテもそうだし、プロデューサーに対してもそうだしっていう。
デイブ・ナヴァロが入ればしっかりその色が出るし。
その色になるよねみたいな。
なんか合わせるのうまいんだろうな意外とっていう。画が強そうなんだけど。
そうっすね。
そういうところが見えて面白いですね。
まあでも結構やっぱ、歴史長いんで、割と懐深くなってるのかもしれないですね。
懐深いんですよね。ミュージシャン数高いんですよね。
もう一通りの出来事は経験してきてるから。
人生経験的にも。
人生経験的にも。余裕が出てきてる。
音楽の経験値もなんか幼少期からフリーはそういう環境にあるし。
アンソニーも俳優とかそういう経験もあるし。
アンソニーもやっぱり芸能ばかりでも嘘だもんね。
確かにそうですね。
ここら辺でなんか受け入れる器が大きいんだろうなっていうのはなんか感じますね。
そうですね。確かに。
でもそこは重要ですよね。
だからこそ続いてるんだろうなずっとっていう。誰が入ってきてもみたいなね。
それはやりませんよとかなんかすごいヘンクスな部分が強いと、どっかで終わっちゃってたんだろうなと思うんですよ。
確かに。
もう終わっていいタイミングなんていくらでもありましたよね。
最初の方でありますもんね。
そういうのを受け入れて継続する方向に行くっていうのはアンソニーとフリーの器の大きさを感じるなっていうのは感じますね。
そうですね。
でも本当歴史がすごいですけど、
ここで出したブラッドシュガーセックスマジックがこれが大ヒットするわけですから。
ブラッドシュガーの時点でアンソニーとかフリーとかチャドーとかはもう30ぐらいだったんですね。
21年だからそうですね。30弱ぐらい。
なかなかパケですね。
ベテランミュージアムというかなかなかの。
今までのタクヤさんの話を聞いていると、レッチリの世界的なブレイクっていうのはずっと地道に積み上げたものがあった上でなんだなっていうのを感じますね。
だからこそ強いんだろうなっていうか。
この時代でミクスチャー的ないろんなジャンルの音を合わせて掛け合わせた音がすごいブレイクするわけですけど、
そこに合わせたわけじゃないというか、レッチラレッチリですごい積み上げたものがあって、それが花開いたのがこのタイミングだったんだよっていうだけで。
全然流行りがどうとかではなかったんだなっていうのは感じますよね。
納得のキャリアを経てのっていうところですね。
そうですね。ブラッドシュガーって5枚目ですからね、アルバム。
5枚目って。
5枚目で大ブレイクってなかなかね。
だいたいみんな3枚目とかそれぐらいでブレイクするバンド多いけどね。
多少売れてたんだとは思うんですけど、そんなにめちゃくちゃ大ブレイクせず、しかもあれだけの悲劇がありながら。
やっぱ粘り強くやった結果ですよね。
続けた結果時代が追いついてきたんだなっていう感じがすごいしてますね。
だからフリーとアンソニーがそこまで粘り強くないというか、そんなに懐も深くなく、途中でやめちゃってたらその後のレッチリってないわけですからね。
そう考えるとすごいですね。
よくぞ続けたって感じですよね。
よくぞ。あれだけの。なかなかですよね。
デビュー直前にギタリストとドラマーが別のバンドに専念するからって言いなくなって。
おーいみたいな。
それでもデビューしたら戻ってくるって。
お前ふざけんなよってなるよね。戻るじゃねえよ。
これでセカンドアルバム作って、サードアルバムのタイミングでドラムも戻ってきて、ジャック・アイアンズ戻ってきて、サードアルバムが唯一結成メンバーで作ったアルバムで。
でその後ヒデルが亡くなってしまって、チャドとジョンが入って、マザーズ・ミルク作って、その後ブラッド・シュガーですからね。
そこでブレイクを果たしてっていう。
戻ってくんだったら死ぬんじゃねえよって感じですよね。
俺らがデビューさせてさ、そこに戻ってきてさ、じゃあ死ぬんじゃねえよってなるじゃん。
確かにもう。
どういうことだよってなる。
その辺がなんか余計壮絶ですよね。
壮絶本当に。
アンソニーとフリーからしたら。
やっぱミュージシャンっていう関係性の前に友達なわけだし、この友達が死んじゃうってやっぱね、メンタル的にすさまじいダメージだと思うし。
もう何してくれんだよって話ですよね。
だってもう復活、オリジナルラインナップ復活しましたって時でもすごいめちゃくちゃ嬉しかったはずだと思うんですよね。
高校の同級生の友達ってわけですか。
そのラインナップが復活して、これで俺たちやっぱりそれが最高だよって。
これでやってくんだってなるじゃないですか。
これでやってくんだって。
そこで死ぬってお前どういうことだよってなって。
本当に漫画のアイディアとして出てきたらこれボツにされるストーリー展開ですよね。
いや本当に。
ようやくブラッドシュガーで大ブレイクを果たすわけですけど、
まあそうするとね、今度はもうその名声に不快感を覚えたジョン・フルシアンテがその頃ツアーでね。
ソードボルトに脱退してしまうと。
本当に滅却じゃない。
もうこのバンドはうまくいかねえなあって。
それで成功したのになんで出てくんだよみたいなね。
フリーとアンソニーの気持ち。
いやーよくぞここにたどり着いてくれたなっていう。
ですです本当に。
本当に一歩間違えれば存在しなかったアルバムですよ。
ずっとそうじゃないですかこの人たちって。
だからこそその一枚一枚のアルバムが輝くんですよね。
確かに一枚一枚が結構奇跡的な。よく出たなーっていう感じですよね。
出たアルバム出たアルバム。
やっぱりジョン・フルシャンティの時点でもう運命感じると思うんですよ。
こんな自分たちの元々のファンの人が音楽的にも素晴らしい才能を持ってて、
凄まじいプレイヤーで、レッチリに全てを捧げてくれるっていう。
これもう運命じゃないですか。
運命ですよね。そんな奴がもう目の前に現れる。
でもそんな奴も辞めるんですよ。
えーって。嘘でしょ。
嘘でしょってなりやすい。
何を信じたらいいんだって。
運命が離れちゃうんですよ。
えーって。
運命が離れた時点でここで潮時だと、これが終わりなんだなと思っちゃうんですよ人は。
でも続ける。
じゃあ自分の先輩バンドの憧れたバンドのジェーンズ・アディクションからいきなり引っ張ってきてやろうとか。
運命であったギタリストジョン・フルシャンテの友達、盟友のクリング・フォファーを入れて、じゃあやろうとか。
何が何でも続けるってこの根性凄いですよね。
そうですね。本当そこですよね。何が何でも続ける。レッドホットチリペッパーズを続けるっていう。
続けるんだって。
本徳感情があっては続けられないことじゃないですか。
尊いな。
すごいよね。
そこになんとなくついてくるチャド・スミス。
チャド・スミスの。
チャドスミス。
すごいな。
今日ここまでチャド・スミスの存在感がかなり欲しかったですけど。
寄り添い方がすごい。
オーディションで入ってきたわけで、行ってみれば別になんてことない人なんですよ。
別に運命じゃないし。
運命的なそうですね。
オーディションしてそこに来て、いいねって入っただけの人なんだけど。
その人がずっといてくれるっていう。
そうそう。
これも尊いですよね。
尊いですね。パタ的ですよね。
そうそうパタ的ですよ。
ついてくれるねお前みたいな。
でもチャドがいる安心感が。
だしあの人のグルーヴなくしてはレッジは成り立たないわけじゃないですか。
それ以降はブラッド・シュガー以降って。
ということで、ブラッド・シュガー・セックス・マジックまでのれっちりの歴史を見てきましたけど、ここまでで本当に壮絶な初期です。
だいぶ壮絶ですよ。
もうこの時点で、これって奇跡のアルバムなんだなっていう。
そうそう。
すごく実感しますよね。
そうですね。
そういうありがたいアルバム。
ありがたいですよ。ありがたみを感じながら聴いていかないと。
今2025年に至るまでずっとれっちりって活動を続けてるんで、
どうすればその1枚のアルバムに対するありがたみとかそういうものは薄れてしまうんですけど、
いやいや、とんでもない。出たことが奇跡というアルバムなんだなっていう。
そうですね。
1枚1枚全部奇跡だなって。
1枚1枚を本当に噛み締めないといけないですね。
すごくいいよね、れっちりって。
世界で最も腹の板状なバンドと言えば、レッド・チリ・フェッパーなんですけど、
80年代の時点でそんななんだかみたいなのが。
まあでもそれを生き延びているからこそ世界最強と言われるバンドですからね。
並大抵の生命力じゃないですね。
ですよね。
ズタボロに引き裂かれても生き延びていくわけですからね。
すさまじい。
ということで、次回からそのブラッド・シュガー・セックス・マジックの1曲ずつ見ていければと思います。
じゃあちょっと心して聞いていかないとですね。
大きなアルバムを1曲ずつ味わっていきましょう。
ということで、次回に続きます。
次回へ続きます。