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スピーカー 2
みょんさん、聞いたことあります? 知ったことあります?って言ったのは。
いや、この土偶を読むを読むで、たぶん僕は土偶を読むを知ったりだとか、ちゃんと本も見切れてはいないですけど、
土偶を読むを読むで、何かそういう、何かの論じてる本に対して、それを疑うような感じの本が出てみたいな。
この餅月さんの縄文人って、小冊子とかの人の方は読んでたりとか、
この餅月さん、たぶん縄文人に相談だとか、そういうシリーズで出されてる本があったりしたので、そういうのを読んだことがあって、
なので、この餅月さんは知っていて、縄文を読むを読むの段階で、こういうのが今、話題になってるんだなっていうのを認識しましたね。
スピーカー 1
なるほど、なるほど。なんと、縄文人の読者だったんですね、みょんさん。
スピーカー 2
そうなんですよ、縄文人の読者でした。
スピーカー 1
これ、もともとですか?当てる人が好きになる前から?
スピーカー 2
そうですね、その前からですね。たぶんフリーペーパーとか、何かそれで認識してて、縄文人に相談だとか、そういうのを読んでましたね。
スピーカー 1
なんだ、じゃあむしろこの騒動のことをすごい知ってるじゃないですか。
スピーカー 2
いやいや、でもそんなに詳しくは知らないです。
なんか、ほんとにこう、むしろ表紙でわかるぐらいの状態でしかないとか、具体的に何を対立し合ってるのかみたいなことまでは全然理解できてないです。
スピーカー 1
いや、僕、ほんとにただのね、一般読者で批判的に読むことができないんで、
最初にね、ドグーを読むを読んだときは、なんて面白い本だって思った。
で、その後にドグーを読むを読むを読んだら、そうだそうだって。この批判はもっともだ、そうだそうだって。
スピーカー 2
はいはい、流れていきますね。
スピーカー 1
流れていくんですよ。
ただ、どんな討論番組見ても、最後に喋ったほうが、なんかもっともらしく聞こえるみたいな。
スピーカー 2
いやでも、よくわかります。
スピーカー 1
素人だから批判的に読めないから、そうだそうだと思ったんですけども。
で、このドグーを読むを読むを読みまして、
スピーカー 2
で、このね縄文人の茂木さんがやってるイベントが吉祥寺とかね、自分が住んでる近くとかでもあって、
スピーカー 1
あの、そういう身近さも感じてたんですけども、
この後、その著者の、ドグーを読むの著者の竹倉さんからの、その再判論みたいなものがなかったんですよ。
スピーカー 2
あ、そっかそっか、ない、そうですよね。
スピーカー 1
で、ないまんま、もう何年も経ち、
すっかりこの議論の論争のことを忘れてたらですね、
今年、世界のドグーを読むって新刊が出まして。
スピーカー 2
あ、えー。
スピーカー 1
出たんですね。
で、当然ながら僕はもう、無垢なアホな読者というか、流される読者なんで、
茂木さんたちが出した、この読む読むね、ドグーを読む読むのこと、読むを読むのこと、読む読むって言おうと思うんですけども、
読む読むが出た後に再判論がなかったんで、
なんかまた根拠の薄いようなことを、出してんだろうなみたいなね、出してんのかななんてね、思ってたんですよね。
スピーカー 2
そうですよね、はい。
スピーカー 1
思ってて、出てすぐ買わなかったんですよ。
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
ところが、このドグーを読む、そして世界のドグーを読むを出してる出版社が、しょうぶんしゃさんという出版社なんですけども、
しょうぶんしゃさんのブログ、まあノートで、編集部のえさかさんという方がですね、
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
この縄文時代とかね、ドグーの研究者をお呼びして、あの時の読む読む騒動とは何だったのかっていうのを、
へー。
振り返りをするっていう座談会が、
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
開かれたんですね。
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
で、そこには著者の竹倉さんはいなくて、
あとはその批判の筆頭に立ってた餅月さんもいなくて、
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
その不在の状態で、やったものではあるんですけども、
結構、あの真正面に向き合っていて、
スピーカー 2
へー。
スピーカー 1
つまりこの本を出した、出して出版した担当編集者が、
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
著者の竹倉さんに代わってというか、再反論してるっていうことなんですね。
なるほど、なるほど。
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
で、そのドグー読むを出した後に、読む読むで、まあ反論が出ましたと。
でもところが、そこで反論だと言われてる内容って、まあ全く反論になってないんじゃないんですかと。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
それについて、当の研究者の皆さんはどうお思いですか、みたいな。
で、それ本当に腹を割って全4回でこう語るっていう内容なんですけど。
へー。
そこに、いや、そこからが面白かったですよね。
スピーカー 2
へー。
スピーカー 1
つまり、そのドグー研究者とか縄文研究者の中でも、
餅月さんの見解を支持してる人ばっかりじゃなくて、
スピーカー 2
うんうん。
スピーカー 1
まああの反論は筋が悪かったよねっていうふうに思ってることだとか、
スピーカー 2
なるほど、なるほど。
スピーカー 1
あとはその、竹倉さんのその考え方の中に、一定のその論理っていうか、認めてるみたいなこともどんどん出てきて、
あれそうだったの?みたいな話になってきて。
それで興味持って、じゃあちょっともう1回最新版を読んでみようと思って、この世界のドグーを読んでみたら、
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
なんとなんと、日本のドグーからね、世界のドグーにパワーアップしてるから、
スピーカー 1
この変年形式学的研究っていう、変年っていうのは時代ごとの、例えば何万年前、何千年前とかっていうふうに時代ごとに土偶を並べて、
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
それを形式、この土偶のこの形がこう似てる、例えば、だんだんとこういう形になってきたとか、だんだんこういう取っ手がついてきたとか、どんどんこういう模様がついてきたみたいな。
うーん。
その、クロニックに、時系列に、変年にやるやつと、その見た目の形式を近いものを並べていくっていう形で、
何万年、何千年もこう考古学的に掘り起こされたものを分類して保存して研究していくっていうスタイルでやってるんだと。
で、この研究を一切無視してるじゃないかっていうことを、まあ言われてることだね、その読む読む側から言われてることなんですけども、
竹倉さんはその方式の批判を全く意に返さず、つまりなんていうか、機能的にやるんじゃないかと。
つまり事実をたくさん集めると正しい論理が出てくるんじゃなくて、正しい論理を見つけた後に、その事実を発見していくっていう、演劇的にやろうとしてる。
だから、むしろその変年形式学的方法に寄ってないこと自体は批判に当たらずに、
土偶っていうのは、なんか人間がね、食物、食べ物を得るために、そもそも大問題じゃないですか、食べ物を得るって。
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
で、特に穀物とかね、みたいな澱粉質、麦とか米とか芋とか、おもろこしみたいな、そういうものを得るってことにすごく、
飢餓と戦うためにすごい重要なことだったと思うんですけど、その植物を、植物の精霊をね、道具になってるんじゃないかっていうふうに閃いて、
で、そういうものとして、世界中にその証拠を探していくって、逆のやり方をやってるわけ。
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
じゃあ、なんでその機能的に、変年形式学的にやると植物であるって結論に至らないかっていうと、っていう話がまあまあいろいろあって、
スピーカー 2
へー。
スピーカー 1
そうさ、石器時代とかさ、縄文時代とかって、石とかセラミックの話じゃないかな、つまり何万年経っても残っているものがあるから、
それを考古学的に掘り起こせるから、あの時はみんな石ばっかりを使ってた旧石器時代なんだろうと。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
みんな、その、雪が降ってる中、洞窟に毛皮を着て、たけびを焚いて、あの石を持ってマンモスを捕ってたんだろうって、なんとなく思うよね。
で、縄文時代って言うと、なんか縄文土器で、なんかどんぐりを煮たきして、
スピーカー 2
はいはい。
スピーカー 1
なんかそれで毛皮で暮らしてたんだろうって、なんか思うよね。
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
でも、あの、それって、たまたま石とか、セラミックとか、骨が残ってるからそう思ってるだけで、
最も身近な素材、マテリアルって植物じゃん。
スピーカー 2
うんうんうん。
スピーカー 1
植物を食べるし、植物を編んで切るし、植物をロープにして縛るし、植物を使って暮らすじゃん。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
でも植物ってあっという間に、真っ先になくなるものだから、
スピーカー 2
そうですね。
スピーカー 1
その、掘り出されたものだけで調べようとすると、植物に包まれてた世界観だったっていう風に思わないの。
スピーカー 2
うんうんうん。
スピーカー 1
石と土器に包まれたんだと思うじゃない。
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
でも、いや、そんなわけないじゃんっていう、その、ないものを想像して、きっとそういう風にやってたんだろうみたい風に、
まあそういう考え方をする、演劇的にするんだけど、まあそういうのって割とこう、なんていうかな、積み上げてきた研究者からすると、なんか面白くない部分がなんかあるじゃん。
そうですね。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
っていうようなことなんだけど、まあね、っていうことなんだと思うんですけど。
スピーカー 2
へー。
スピーカー 1
僕みたいなね、全然縄文の研究とか知らない人が。
スピーカー 2
はい。
スピーカー 1
独立研究者の竹倉さんの本、面白いって盛り上がること自体が。
スピーカー 2
うん。
スピーカー 1
長年研究してきた人からすると面白くないっていう。
そっか、なるほど。
僕みたいな、僕みたいなやつが面白くないっていうことだと思うんだけど、そういうのも含めて書いたんですよ、こう、セキララに。
スピーカー 2
へー。
それがね。
スピーカー 1
そっか、いいですね。
スピーカー 2
それが面白いですよ。
スピーカー 1
なるほど。
スピーカー 2
そっか、確かにそういう意味で捕獲されてるさっきのあのこう、なんだ、肝というか縄というか。
だから、ああいうのもそうですよね。
スピーカー 1
まあ、みたいな感じでですね。
えらい面白かったんですよ。
スピーカー 2
はいはい。
いいですね。
確かに。
スピーカー 1
いや、でもなんか本当にこう、縄文時代の人たちがどういうことを考えてたかとか、
あるいは縄文っていうか旧石器時代か、後期旧石器時代の数万年前の人たちがどういうものの考えをしてたかとかって、
すごいもう、面白くて。
スピーカー 2
いやー、すごい難しいですよね。
確かになんか、あれと多分、あれですよね。
作られた絵見紙の話ともなんかこう、ちょっとだけ近そうというか、
まあ、何を根拠に歴史を解明していくかっていうことですもんね。
なんかその物体、遺跡として出てきたものを見るのか、
史実的なものを見るのかとか、なんかそういうのでも全然昔の見え方が変わってくるとか、
でもなんかそういう意味では竹倉さんのこうじゃないかっていうことに従って、
ものを見つけて分析して調査していくみたいなのも、
もうすごく面白そうだしいいなと思いましたね、今聞いてて。
スピーカー 1
絵見紙もね、遺跡とかね、そういうものはないからね。
スピーカー 2
はい、そうなんですけど。
スピーカー 1
むしろあれはないというか、むしろ全くないみたいなことだもんね。
スピーカー 2
なるほど、本当は竹倉道夫論によって考古学界どれほどダメージを受けたのか。
スピーカー 1
考古学者たちは突撃すべきではなかったと。
いや、これどういうことかというと、例で出てくるのが、山対国はどこにあるのかみたいなものって、
ずっとなんか議論の的になったりなんかするじゃないですか。
機内なのか、九州なのかと書いてある。
で、あれがね、この話は面白かったのが、
要は九州なわけないじゃんって研究者は思ってるんだが、
九州説を唱えた非研究者、一般の著者がそういうことを唱えたからといって、
研究者が総出になって攻撃したりしないじゃん。
もうあれは一般書として、そんな説もあったら面白いよねみたいな感じで。
いいじゃないかと。むしろ研究者はそれをうまく利用すべきだと。
例え山対国が九州にあるわけないじゃんと思っていても、
研究内容が九州にあるって説を支持していなかったとしても、
九州に貴重な遺跡があることには間違いがないんだから、
その遺跡保存するって大変じゃん。
その建築計画とか辞めなきゃいけないし、
その保存のための市の予算なのか文化予算で取り続けなきゃいけないから大変なんだけど、
その時にあれ秘密の墓でも何でもないですよって決着つくと、
誰もそれを保存しようと思わないけれども、
かもしれませんよっていう期待がある方が、
その遺跡の発掘・保存・再活用が進むから、
研究者としてはそれをうまく使い分けて、
保存のためにそうするぐらいの余裕を持った振る舞いをするべきなんだ。