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2024-05-05 31:05

2024/05/05:止まる中でこそ

2024/05/05 聖日礼拝

加藤満牧師

出エジプト記 20:2-11


00:01
それでは一言お祈りをさせていただきます。
愛せる天の父なる神様、
尊い皆を心から賛美をいたします。
今日も私たち一人一人を、あなたの御前へと招いてくださり、
命の言葉によって、私たちをここから楽しめ、
死が共に終わられるという約束に励まされて、
ここから立っていけることを感謝をいたします。
あなたは私たち一人一人を、心から愛し抜いてくださいました。
その現れとして御子を、あの十字架へと捧げてくださり、
御子が流された血潮によって、私たちの罪を完全に許し、
神のことなし、それだけではなく三神に生みがえられた主の命、
復活の命を、私たちにも与えてくださり、
永遠なる主と共に生き続ける永遠の命を、
私たちのうちに輝かせ、
そしてまた御国が来ますようにと祈らせてくださるように、
主は私たちを通して、あなたがこの世界を新しくしようと
用いてくださることを心から感謝をいたします。
神様、私たちの周りに本当に多くの戦い、争い、混沌があふれています。
私の家族の中に、そしてまたこの世界の中に、
そしてそれを見る時に私たちは無力であることを覚えますが、
しかし私はもはや一人ではありません。
永遠なる主が私と共におられます。
私の力となって、そこに私の腕があると約束をしてくださいます。
あなたの身力をあらわしてくださいます。
どうか今日も主よ、生けるあなたを仰がせていただきたいと思います。
どうか私たちに命の言葉を語りかけ、
そしてここからあなたの礼によって励まされ、
立ち上がっていくことができますように、
この時を粛視導いてください。お願いいたします。
特にこの気候の中で、体も心も疲れているお互いであります。
どうか主がお支えくださいますように。
ここに来たくても来れない方がいらっしゃいます。
気持ちが主から離れてしまって、いや、傷んでしまって来れない方がいます。
施設で礼拝を守っておられる方がいらっしゃいます。
どうか神様、あなたはお一人一人を覚えていてくださっていますから、
どうか慰めて、またあなたの身元へと通うことができるように、帰りに来てください。
お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。
御言葉を開き、あなたが私たちを導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
ゴールデンウィークの中で礼拝を守っております。
03:00
皆さんは休めているでしょうか。
なかなかゴールデンウィークも休みが取れないという方もいらっしゃるかもしれません。
富に今朝のメッセージにも関わるんですが、
止まるっていうことは本当に大切だなぁと思わされます。
私は今、関西学院大学という大学に通わせていただいていますけれども、
いわゆるミッション系の大学なんですね。
その大学は1コマ目と2コマ目の間の約30分間なんですけれども、
全学部でチャペルアワーという時間があるんです。
各学部にチャペルという場所があってですね、
そこで賛美をして、短い聖写の話であったり、教授の本が紹介されたりするんですけれども、
ほとんど、大学は総合大学ですからほとんどの学生はノンクリスチャンです。
最初結構ショックを受けるそうなんですね。
いやいや、私たちは勉強しに来たのに、
なんでキリスト教を布教されなあかんねんやってことを思うそうです。
確かにそう思うのも無理もありません。
私も逆の立場だったらそう思うだろうなと思います。
でもそのような学生のために、大学の宗教主治の方々が、
前学期始めに、なぜこのチャペルの時間があるのかということを説明されるんですね。
こういう説明を私は聞いたことがあるんです。
みなさん、大学生は忙しいでしょう。
授業があり、サークル、部活があり、バイトもする。
資格取得のための勉強もするかもしれません。
友達と遊ぶ時間も大事でしょう。
きっと寝る間も惜しんで、あなたたちは学生生活を走り続けるでしょう。
けれども、ぜひ覚えておいていただきたいのは、
私たち人間は走っている時より、
止まる時にこそ大切なものを得ることがあるということです。
走る車に乗っていれば、道端に咲いている小さな花の美しさに気づくことはできないでしょう。
それと同じように、
止まらなければ見えないものがあります。
止まらなければ聞こえない声があります。
チャペルの30分は、みなさんの日常で止まる場所にしてください。
止まる場所にしてください。
止まらなければ得られない大切なものを受け取ってほしいと願っています。
そのようなチャペルの大学の宗教主治がそういう話をされたんです。
私はそれを聞いて、いい話だなと思って聞いていたんですね。
そして終始の2年間大学にまた通いましたから、
06:00
チャペルの時間は積極的にくまる時間にしようと思って、
ほぼ2年間、私はほぼ毎日チャペルに参加しました。
ただ、参加しながら実感をしたことは、
自分はいかに止まれないかということです。
止まれないかですね。
座席に座るんです。
賛美歌を歌うんです。
前で聖書の話がされるんです。
でも私の頭の中には、
追われる仕事と研究のことがぐるぐるぐるぐる回っている。
ああ、あれがある、これがあるみたいなことがずっと回っている。
その中で、暇あればああしよう、こうしようということをずっと考えているわけです。
おそらくこれはきっと私だけの話ではないと思うんです。
安息日、この日曜日に礼拝に集う私たちもまたある意味ここに
泊まりに来ている。そう言えると思うんです。
泊まりに来ている。
けれども、そこで私たちは本心から、
主も部屋はここにおります。主よどうかお語りくださいと
願って私たちはここにいるんですけれども、
けど主の御声以上に
私の中で反響する私の声がある。
ああしよう、こうしよう、どうしよう。
私の声がある。
そのような、私も含めてですけれども、
そのような私たちに
今朝の第4回の言葉がこう語りかけます。
安息日を覚えて、これを聖なるものとせよと。
安息日を覚えて、これを聖なるものとせよと。
この安息という言葉のもともとの本来の意味は、
そのまま停止するという意味なんです。
転じてそれは
混沌とした状況から安定した状況に落ち着いていく。
落ち着いていくということを表現する言葉でもあります。
ある種、神様は
礼拝に集う私たちに
落ち着きなさいと言われるんだと思うんです。
落ち着きなさい、止まりなさい。
何度も確認をしていますが、
実戒というのは本来の私たちの姿、
神の形である私たちの姿を
回復させるための言葉ですね。
止まれない、私も含めてですけれども、
止まれないという私たちは
何かの問題をはらむわけです。
止まれないという状況は何かをはらむ。
今朝は、じゃあ、なぜ止まらなければならないのか、
そのことを今朝、三言葉から聞いていきたいと願っています。
さて、この一つ目ですね。
この第四回というものは、先ほども読みましたが、
こういう言葉です。
安息日を覚えて、これを聖なるものとせよという言葉ですね。
09:00
この規定は、十節を見ますと、
これはイスラエルの民全体に言われています。
あなた方というのは、あなたも、あなたの息子も娘も、
それにあなたの男奴隷や女奴隷、
家畜またあなたの町革命になる起流者も、奴隷も、
そのうちにする外国人たちも、
全部休みなさいということを言うんです。
奴隷も働かないということは、
共同体のすべての機能が停止するということですね。
いわば、目に見えて実に非生産的な一日になるわけです。
何も生み出すことのない一日。
無駄に見える一日。
でも、何のためにこの日をわざわざ持つのだろうか。
その理由は十一節に説明されています。
二十章の十一節。
それは、主が六日間で天と地と海、
またそれらの中のすべてのものを作り、
七日目に休んだからである。
それゆえ、主は安息日を祝福し、
これを聖なるものとしたとあります。
なぜ安息日に休むのか。
それは十一節の言葉だと、
天地を作られた創造の出来事に関係するのだというのです。
ご存知の通り、皆さん、創世紀の最初を見ていただくと、
神様は七日というある種時間の設定の中で、
この世界を創造されました。
よく言われるのは、これは一つの説ではありますけれども、
一日から三日目は、神様がこの世界を秩序正しく分割をして、
その土台を築いた、分割と秩序の時で、
四日目から六日目は、
この一日から三日目の間の土台に命が満ちていくという、
命が満たされる四日目から六日目。
そういう区切りが時々されます。
そして、神の形である人間も、
この六日目に創造されるわけです。
で、この七日目に神様は全てをやめられるんですね。
せっかくだからちょっと、今更ですが開きましょうか。
創世紀の二章の一節から三節というところを、
ちょっとお読みしたいと思います。
何か挟んでいただいて、
創世紀の二章の一節から三節というところ。
創世紀の二章の一節から三節、こういう言葉になります。
お読みいたします。
こうして天と地とその晩商が完成した。
神は第七日になさっていた業を完成し、
第七日になさっていた全ての業をやめられた。
12:00
神は第七日を祝福し、その日を聖なるものとされた。
その日に神がなさっていた全ての創造の業をやめられたからであると言われます。
やめられた。
読んでいただいたらわかる通り、
七日目に何が起きたかということの言葉としては、
二章の二節に全ての業をやめられた、
やめられたという言葉がありますし、
三節にもこの日を祝福したのは創造の業をやめられたからである。
やめられたという言葉が繰り返されます。
神がこの働きをやめられたからこの日は聖なる日となったというのは、
一体どういう意味なのでしょうか。
ちょっとわかりづらいです。
ただ大事なのはこのやめるという言葉なんです。
やめる。
このやめるというのは、先ほど安息日という言葉を読みましたけれども、
安息日の元になっている言葉と、このやめるという言葉は一緒です。
ヘブル語で言うと、さばすという言葉なんですけれども。
安息、さばす、やめる。
おそらくそれは何かが停止するであったり、
状況が落ち着いてくるという、そういう言葉ですね。
いわばこの一生に神様が本当に人の目には混沌としか見えない、
すごく大きな混沌とした神様の創造の業がなされていって、
秩序正しくそれが整えられていって、
それが創造、神様が全てが良いと言われた世界ができて、
それが落ち着いていったわけですよね。
そして神様は創造の業をやめられた、いわば完成された状況が落ち着いた。
この世界は非常に良いものとして秩序正しく立って、
よくなったわけですけれども、
七日目にこの仕事をやめられた神様は、
一体この七日目から何をされるのでしょうか。
七日目に神様は何をされるのでしょうか。
実は創世記には詳細にそのことが書いていないです。
やめたということしか書いていない。
けれども、よくこの神様の七日目に何がなされたかということは、
よく二つのことが指摘されます。
一つは神様は言葉通りやめて休まれた。
神様は創造の業を終えて休まれたということが言われます。
6日働いて7日目に休む。
これはちょっと大げさに聞こえるかもしれませんけれども、
これは神様の創造のリズム、創造の秩序と言ってもいいかもしれません。
創造のリズム、秩序。
神様が七日目に休まれたのだから、
神の形として創造された私たち人間もまた、
15:00
七日目には休まなければならない。
ひらたく言うならば、6日以上働いちゃだめですよ。
なぜなら6日以上働き続けるならば、
私たちは何かきっと大事なものが人間として壊れてくる。
人は永遠に働き続けられるようにはデザインはされていません。
働き続けられると言って働き続けていくと、
難しいですが、ワーカホリックという言葉があります。
働くことをやめられないという、
またそれも何かにとらわれていってしまうわけです。
ですから7日目はお休みです。
特に神様はこの定めを、ちょっとだけこれも私だけ開きましょうか。
でもよければ箇所だけ言います。
七曜日時の23章の12節というところでは、
神様はこの休むということを、
何よりも気流者たちを気にして言われたことがわかります。
七曜日時の23章の12節というところにこういう言葉があります。
ちょっと読みますと、七曜日時の23章の12節。
6日間は自分の仕事をし、7日目にはそれをやめなければならない。
あなたの牛やロバが休み、
あなたの女奴隷の子や気流者たちが息をつくためであるとある。
これはとても当時の言葉としては珍しいです。
奴隷や気流者のことを気にして休めって言っている。
これは本当に聖書のとても素敵なところですね。
神様はそのように一人一人の命を案じて、
働き続けたら壊れてしまうからまず休みなさいっていうことを言われる。
これ大事なことですね。
ただもう一つ、この休む、サバスという言葉が導き出す意味は、
それは神はこの世界を創造し状況が安定したからこそ、
神様がこの世界にご自身の支配を始められたということを意味する。
それも言えるんです。
これを調べますと、ヘブル人たちの感覚からするならば、
何か状況が落ち着いて安定をするということが意味するのはやっぱり二通りあるんです。
一つは安定したから休みましょうということ。
でももう一つは、安定したから通常の働きがここから始められますよねっていう意味です。
世界が完成して良いものとして作られて、それが安定したからこそ、
神は神としてこの世界に王としての支配を始めていかれた。
それがナノカメンの意味です。
神はこの世界を正しく治め始めた。
ナノカメンに神様は創造の技を負え、休んだだけではないんです。
今や世界は良い秩序で完成をしました。
だからここから私はこの世界の支配を始めるということを意味するんです。
18:05
そのため、先ほど神様が働きをやめたから聖なる日って言われた。
何となく意味が分かりにくいですけれども、
こっちの意味だと何か理解ができるような気がするのです。
神がこの世界を創造すること、ここに座って王として治め始められたから、
ナノカメンは聖なる日なんです。
それは神がこの世界の創造を完成されたから、
そしてこの世界への神様のご支配が始まったから聖なる日なんです。
特別な日なんです。
世界が完成し、神がここから支配を始められた。
さて、ちょっと遠回りをしましたが、
さて先ほどの実会の言葉に戻っていきますけれども、
実会の20章の8節からを見ていきますと、こういうことですよね。
もう一度20章の8節から11節を読みますと、
安息日を覚えてこれを聖なるものとせよ。
6日間働いてあなたのすべての仕事をせよ。
ナノカメンはあなたの上司の安息である。
あなたはいかなる仕事もしてはならない。
あなたもあなたの息子や娘も、
それにあなたの男奴隷や女奴隷、
家畜またあなたの町囲みの中にいる貴隆者も。
それは主が6日間で天と地と海、またそれらの中のすべてのものを作り、
ナノカメンに休んだからである。
それゆえ主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。
6日間働いて、ナノカメン。
あなたの神の安息であるから仕事をするな。
ということがこの箇所で言われている。
ここには神の安息であるから仕事をするなと言われるときに、
やはり先ほど見た2つの意味が読み取れると思うんです。
なぜ神の安息だから仕事をしてはならないのか。
1つは先ほども言いました。
私たちが倒れないためです。
身体と心と霊というのは休まないと壊れます。
心と身体と霊を仕事から離して一回休みなさい。
これは本当に大事なことですね。
けれどももう一つ考えられること。
それは仕事を辞めて立ち止まって、
あなたは神が王としてあなたの全てを収めておられることを覚えなさい。
そういうふうにも理解ができる。
そう思うんです。
そのように私たちを促すのではないでしょうか。
実はこの理解というのは、
神明記5章にある実解の内容を見てもそうだなと思うんです。
21:02
旧約聖書にある実解というのは2箇所書いてあるんです。
出エジプト記と神明記です。
ちょっとだけ開いてみましょうか。
神明記5章の12節から15節というところに
この安息日についての神明記の言葉があります。
先に言っておきますと、
神明記と出エジプト記の休まなければならない理由は違います。
神明記の5章の12節から15節お読みします。
神明記の5章の12節から15節。
こういう言葉です。
安息日を守ってこれを聖なるものとせよ。
あなたの神主が命じたとおりに6日間働いてあなたのすべての仕事をせよ。
7日目はあなたの神主の安息である。
あなたはいかなる仕事もしてはならない。
あなたもあなたの息子や娘も、
それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛ロバ、いかなる家畜も、
またあなたの町囲みの中にいる貴隆者も、
そうすればあなたの男奴隷や女奴隷があなたと同じように休むことができる。
あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、
そしてあなたの神主が力強い御手と伸ばされた身腕を持って、
あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。
それゆえあなたの神主は安息日を守るようあなたに命じたのであるとあります。
読んでいただいてお分かりの通り、神明記は安息日を守る理由が違います。
安息日は何のためにあるのか。
出エジプトの出来事を思い起こすのです。
何ででしょうか。
おそらく二つほど意味があります。
一つは、彼らがもはや奴隷ではなくて、
神の恵みの民だということを何度も思い出さなければならない。
そしてもう一つは、
エジプトから導き出した神様は周囲のあらゆる外圧を超えて、
あのエジプトを屈服させた力ある神だということ、
いいえ、世界の王である神が私たちの神であるということを覚えるためです。
そのために止まりなさい、止まりなさい。
安息日に止まるというのは、私は神の民であり、
そして私はこの神を神としているんだということを覚える。
ちょっと今日開きませんでしたが、
詩編の46編の10節というところにはこういう言葉があります。
聞いていただいたら有名な言葉なので聞いていただいていいですが、
詩編の46編の10節。
止めよ、知れ、私こそ神。
私は国々の間で崇められ、地の上で崇められる。
私は詩編歌役第3版の役の方が好きですね。
24:02
止めよ、私こそ神であることを知れ。止めよ、私こそ神であることを知れ。
止まりなさい、止まりなさい。
それは、神様こそあなたの神であることを思い出すためですよということを言うんです。
神こそあなたの神であることを思い出す。
具体的にどういうことかなとでも思います。
私も先ほど言いましたが、私自身がそうですけれども、なかなか止まれないんですね。
頭の中で結局ぐるぐるぐるぐると、あれをこれをということを結局考えている自分がいます。
けれども、そういう私がきっと忘れているのは、
私の中にぐるぐる回るあのことこのことを支配しているというか、
あのことこのことをどうにかできるのは誰なのかということです。
忘れているんです。
私の中できっとあのことこのことがぐるぐる回って足をこうしようという考えから離れられない。
あのことこのことは結局私がどうにかできるとずっと思っているからです。
私がどうにかしたらいいんだ。
けれども、安息日に神様が私たちに思い出してほしいのは、
私のそして皆さんの頭に回り続けているあのことこのことを支配しているのは、
神であってあなたではない、私ではないということです。
罪によって歪められている私たちは、
全てが私の手の内にあり、全て私が何とかできるという誤解を持っています。誤解です。
しかし第4回というのは、この歪みに対して修正を施します。
そうではない。あなたは神ではない。あなたは神ではないし、
あなたは自分の願いを叶えるために周囲をコントロールしようとすることや、
支配をすることから離れなければならない。
なぜなら神こそ支配者であり、神こそ最善を知り、
私たちの世界と私たちの生活の主人だからです。
あなたの全てを覚えている私に委ねなさいと、
神様は止まるときに私たちに語りかけるのではないでしょうか。
止めよ、私こそ神であることを知れ。止めよ、止まれ、私こそ神であることを知れ。
そして安息日に、神様こそが私の王であり主であることを思い出し、
このお方に私の重荷を委ねるだけに終わらないわけです。
27:00
私たちは神の子として、神の御心を生きる勇気と力をいただきます。
イエス様は安息日に病人を癒された箇所がありましたね。
マルコの3章あたりにありますが、イエス様はこういうことを言われました。
安息日に立法にかなっているのは善を行うことですか、それとも悪を行うことですか、
命を救うことですか、それとも殺すことですか。
イエス様の時代に安息日は止まる日だ、
止まることだけが目的だというふうに理解した人たちがいて、
その日にイエス様が誰かを助けようとしたことを批判した人たちがいましたね。
でも安息日の目的は止まること自体に目的があるのではないんです。
止まるんです。
でも止まって、止まることを通して私たちが神様の御心を生きる力を得る日です。
止まることを通して私たちは神様の御心、神こそは私の主であり、
このお方の御心を生きるんだという思いと力を与えられる日ですね。
止まることを通してですね。
もう終わりますけれども、なかなか、そうは言いながら今日何度も言ってしまいますが、
なかなか止まれない私たちです。
けれども私たちのごちゃごちゃした思い、整理しきれないことを抱えて、
神様はそれでも礼拝に来なさいと私と招いてくださいますよね。
安息日にごちゃごちゃした思いを抱えながら、それでも礼拝に来なさい。
そして礼拝の場において手を止めなさい。
そこで止めよ、私こそ神であることを知れと安息日の度に私たちは言われる。
頭の中でごちゃごちゃしているあれもこれも、それはあなたの手にあることなのか。
ここであなたが仰いている主こそがそのことを握っているのではないのか。
あなたはそのことを手放さないのか。
そのところから私たちは私が何をしなければというよりかは、
じゃあこのことにおいて神様の御心は何なんですか。
そういうことを求めていくお互いになるのではないでしょうか。
神こそ神であり、私は神ではない。
そして神はこの御方に委ね、この御方の御心に生きればいいのだ。
そのような方向修正がなされていく中に、私たちの本当の安息というものがあるんです。
マタイの福音書の教和11章の歌詞を招きの言葉に読んでいただきましたが、
イエス様は私のくびきを追い、私に学びなさいと言われましたね。
そうすれば安らぎが来ます。
本来の私たちの歪みから、本来の形に形が整えられていくときに私たちは安息があるんです。
30:02
私が主ではなくて神が主であると認めることの方にこそ実は安息があるんです。
これを自分の手でどうにかしなければならない。
神がこれを支配しているから神の御心がなりますようにと認めることの方にこそ実は安息があるんです。
私たちはそれがちょっと怖くて手放せないことが多いですね。
止まらなければしかし見えないものがあります。
止まらなければ聞こえないものがあります。
安息日の礼拝が私たちにとって大切なものを受け取るときになればと思っています。
安息日の度に私たちは語られます。
これを聖としなさい。
それは結局神であるお方を仰いでいる。
そのような私たちがその日になればということですよね。
やめよ私こそ神であることを知りなさいと私たちは今朝語られます。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
31:05

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