1. 名谷教会 podcast
  2. 2011/02/13:聖日礼拝(旧音源)
2011-02-13 30:15

2011/02/13:聖日礼拝(旧音源)

2011/02/13 聖日礼拝(旧音源)


00:02
本聴の聖書の歌詞を読みます。
マタイの福音書、12章の1節から21節、新約の21ページ、新約の21ページです。
マタイの福音書、12章、1節。
その頃、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは肝じくなったので、穂を摘んで食べ始めた。
すると、パリ妻人たちがそれを見つけて、イエスに言った。
ごらんなさい、あなさの弟子たちが安息日にしてはならないことをしています。
しかし、イエスは言われた。
ダビデとその常の者たちが日もじかったときに、ダビデが何をしたか読まなかったのですか。
神の家に入って、妻子のほかは、自分も共に友の者たちも食べてはならない備えのものも備えのパンを食べました。
また、安息日に宮にいる妻子たちは、安息日の神聖を犯しても罪にはならないということを立法で読んだことはないのですか。
あなた方に言いますが、ここに宮より大きなものがいるのです。
私は憐れみを好むが、生贄は好まないということがどういう意味か知っていたら、あなた方は罪のない者たちに罪に定めはしなかったでしょう。
人の子は安息日の種です。
イエスはそこを去って街道に入られた。
そこに片手のなえた人がいた。
そこで彼らはイエスに質問して、安息日に癒すのは正しいことでしょうかと言った。
イエスを訴えるためであった。
イエスが彼らに言われた。
あなた方のうち、誰かが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。
人間は羊よりはるかに値打ちのあるものでしょう。
それなら安息日に良いことをすることは正しいのです。
それからイエスはその人に、手を伸ばしなさいと言われた。
彼が手を伸ばすと、手は治って、もう一方の手と同じようになった。
パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。
イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。
すると多くの人がついてきたので、彼らをみな癒やし、そしてご自分のことを人々に知らせないように、と彼らを戒められた。
これは預言者イザヤを通して言われたことが成就するためであった。
これぞ私の選んだ私のしぼめ、私の心の喜ぶ私の愛するもの。
私は彼の上に私の霊を置き、彼は違法人に抗議を述べる。
争うこともなく、叫ぶこともせず、王子でその声を聞く者もない。
彼は傷んだ足を折ることもなく、くすぐる闘心を消すこともない。
03:03
抗議を勝利に導くまでは、違法人は彼の名に望みをかける。
以上です。
聖火隊に賛美していただきまして、安息美の精神と題して、高取先生より本庁のメッセージをいただきます。
ゆっくり節のあり
私たちの希望
生きる限りまでは
重ね重ね歌わ
レースは急ぎて
勇気を
敗退
自分
ございます
dj
re
かけられ
イエスは我々を追い咲いて
雪のように白く流せた方
この世は初喜びに見つめた
やがてイエスと仰ぐ
その幸やみから
イエスは我々を追い咲いて
雪のように白く流せた方
06:07
暖かい燃え照らす
家に帰る
君はキレオノ
イエスは我々を追い咲いて
雪のように白く流せた方
君の手寄りたちの
あふりうくる庭で
清き肌をかかる
かざえつつ肩かわる
イエスは我々を追い咲いて
雪のように白く流せた方
イエスは我々を追い咲いて
雪のように白く流せた方
君の手寄りたちの
あふりうくる庭で
清き肌をかかる
イエスは我々を追い咲いて
雪のように白く流せた方
イエスは我々を追い咲いて
雪のように白く流せた方
イエスは我々を追い咲いて
神との交わりが深められますと、さらに神様との信頼関係が生まれてきます。
どんな人であっても、その人を知ろうと思うならば、近づいてその人の友となり、交わることによってその人を知ることができるようになります。
09:01
神様を知ろうと思えば、神を信じ、神と交わること、御言葉を読み、御心を教えていただいて、神様に祈ることが非常に大切であります。
神様は完全のお方です。ですから、神をますます信頼することのできる私たちは、実に幸いであることを思います。
クエスチャンの生涯は、救われたその時から神を信頼して歩む生涯です。
神様は御自身を信じ、信頼するところの神の子供たちを決して誤った道に誘われるようなことはなさいません。
神様は御自身を信頼して従っているものを、こよなく愛してくださって、常に真実の限りを尽くしてくださいます。
それと一切の責任を負ってくださいます。私たちは、このことをよく理解して、主に忠実に御従いするものであらせていただきたいと思います。
主は、安息日について、このところで私たちに教えていただいてくださいます。
教団の信仰生活の指針には、主日礼拝は教会生活の中心です。
十日に安息日を覚えてこれをせいとせよとあるように、主日は労働を離れて、神を礼拝する日です。
この礼拝において私たちは、一堂に集まり、神の臨在を仰ぎ、御言葉に養われ、主の御前に献身を新たにするのです。
礼拝はクリシャーにとって神聖な義務であり、祝福の厳選でありますから、どんなことがあっても厳守するように心がけなければなりません。と指令されてあります。
安息日はヘブル語ではシャバットとそのように言われていますけれども、
イスラエルの国の偉大人、また世界に散らされている偉大人は、今でも土曜日をシャバット、安息日として彼らは守っています。
しかしクリシャーである私たちは、土曜日ではなく日曜日を安息日として守ってきました。
それは主イエス様が十字架に置きかかりになり、死なれて葬られ、三日目に蘇られたその復活された日が、週の始めの日、すなわち日曜日であったからです。
また聖霊が降臨された記念すべきペントコステの日が日曜日でありました。
安息日は神様によって定められた休息の日であります。
また神様によって成別された喜びの日でもあります。
神様を礼拝するための日、私たち人間は創造主でいます神様が作ってくださいましたので、今日あることができています。
神様がおられなかったならば私たちの存在もありません。
その創造者でいます偉大なる神を作られたお方をですね、礼拝するのは当然のことであります。
12:04
礼拝を通して私たちは神様をいよいよ知らせていただきます。
そしてこの神の偉大なご計画と目的を知って、神様に本当に生かされているそのことを喜びます。
それだけではなく私たちの魂は礼拝を通してこの養われて育てられ、信仰が成長して同じ信仰、一致したその信仰になお成長してまいります。
神様は私たちの益のためにシャバットこの安息日すなわち聖日を備えてくださいました。
この日神の愛と真実、そしてこの神の無条件の罪の許しの福音の恵みが語られ、信じる者を永遠の祝福へと導いていきます。
安息日を守り神を礼拝することは恵みでありそれは祝福であり幸いであります。間違いのない確かな人生を送るものとしてくださいます。
ですから私たちは神の恵みを主体に求めて礼拝を守り主にある幸いを与えられ、さらに祝福されるそのようなお互いと名をならしていただきたいと思います。
けれども安息日を守らず自我の思うままに自分の思うままに身を任せて自分の思うようにして神を抜きにした人生を送るならば神の祝福に預かることはできません。
旧約聖書では安息日は神様と民との契約関係において守られるべき性質のものでありました。契約的な性格から安息日の原始ということが理解されました。
そしてこの安息日を守った者には祝福が与えられ、しかし守らなかった者には裁きが宣告されています。
シトエイジブトキの31章13節から17節に、あなたはイスラエル人に告げて言え、あなた方は必ず私の安息を守らなければならない。
これは代々に渡り私とあなた方との間の印。私があなた方を性別する種であることをあなた方が知るためのものなのである。
これはあなた方にとって聖なるものであるから、あなた方はこの安息を守らなければならない。これを汚す者は必ず殺されなければならない。
この安息中に仕事をする者は誰でもその民から断ち切られる。6日間は仕事をしてもよい。
しかし七神は主の聖なる全き休みの安息日である。安息の日に仕事をする者は誰でも必ず殺されなければならない。
イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として永遠に渡り、この安息を守らなければならない。
これは永遠に私とイスラエル人との間の印である。それは主が6日間に天と地とを作り、七神に休み、憩われたからである。このように記されてあります。
15:06
神様は安息日において創造の神業を完成されました。そして安息日を祝福されたのであります。その喜びに人々は招かれています。
この日、人々は神の恵み深い神業を覚えて、神の祝福に預かっていきます。
私たちはこの安息日を誠実として、この日全ての働きをさておいて、まず神を礼拝し、奉仕する日として、時間とみずからを捧げるように、なお努めるようにいたしましょう。
神波都教会で伝道師の奉仕をさせていただいた頃に、最長老の松本兄弟という方がおられました。
教会から遠いところに住まいがあったために、途中の国道まで出ていくのに、自転車に乗られて、それからバスに乗って礼拝に応じになっておられました。
もう腰も曲がって杖をつきながら、毎週教会に来られるのを楽しみにしておられました。
教会が安息の場であり、恵みの場であったと明かしされていました。
私はいつも本当に慶福するとともに、そして礼拝を守るその心構えを、その長老を通して教えられたことであります。
クレスターになったから、もう礼拝を守らなければならない。守らなければならないから守るというのでは長続きはしません。
それよりも礼拝を守ることが喜びとなり、また楽しみとなり、恵みであるといつも思うことが大切なことです。
丹波政界で中島明先生がアメリカの伝道に行かれたときに、教会生活、すなわち礼拝を守ることを炎上していますと、そのように言われたクレスチャンの方がおられたそうであります。
私たちは喜びと感謝をもって、誠実をなお過ごす、そのようなお互いであらせていただきたいと思うんですね。
そして私たちのために十字架にかかり、尊いその父を流し、その命を犠牲にしてくださったイエス様の大きな愛と救いの恵みを深く思わせていただいて、心から本当に一緒に感謝をするお互いであらせていただきたい。
そしてこの何とかしてイエス様の大きなご愛に報える者でありたい。こうした思いをもって誠実の礼拝を守る者とならせていただきたいと思います。
私たちは自分の理由を全面に出して、神のいましめをしずけてはならないと思います。
個人的な理由、または自己中心的な楽しみのために、またはのんびり暮らすことのために、誠実を守ることをおろそかにするという、そのことはですね、よくないことであります。
18:03
お体のお具合の悪い方とか、または何か本当に特別な事情のために休まれる、そういう方もあるでしょう。
そういう時は仕方がないかもしれませんけれども、それ以外の時にですね、何もないのにこの誠実を、礼拝を休まれるということはどうかと思います。
十字架上の本当にキリストを見上げて、神様がこんなにも愛していてくださる、または真実を持って本当にこの私を救ってくださったというそのお恵みを、さらにですね、私たちは思うべきであります。
クリスチャンは礼拝から始まって一週間を過ごし、礼拝に戻ってまいります。このサイクルを乱してはなりません。
規則正しい生活のリズムとして、聖地礼拝をまず第一に考えに入れておくということが大切であります。
イエス様に従うために犠牲を払い、不必要と思われるものは清別しましょう。
そして主に従うことを最も優先させていこうではないでしょうか。
ある教会でクリスマスの出会いの時に、私は全能の神である。
あなたは私の前には意味全て者であるという御言葉を通して、礼拝を厳守しなさいという神の御旨を受け止められたクリスチャンの婦人がおりました。
しかしこの方には礼拝を守れない家庭の事情があったんですね。
それは御主人の理解を得ることができないということでありました。
クリスチャンになられてから祈って努力されたので、御主人はクリスチャンであることに次第に理解を示すようにはなりました。
が、礼拝出席を中心としたその教会生活には、なかなか理解を示してくれません。
毎日激しい仕事をして帰ってこられる御主人は、日曜日の午前中くらいはゆっくり休みたい。電話にも出たくない。
家にいてくれと本当にそのように言います。
けれども奥さんは御主人に言いました。
礼拝だけはどうしても出させてほしい。信仰が成長するためにもお願いしますとそのように言いました。
すると御主人は、お前はもう十分信仰が成長しているじゃないか。それ以上になる必要はない。
それに私が疲れ切っているのに放っておいて、礼拝に行くことを神様は喜ばれるだろうかとそのように言いました。
このように言われてしまうと、なかなか踏み切ることができません。
けれども御言葉が与えられました。
そしてこの堅い決心を持って御主人にどうしても誠実は教会の礼拝を守らせてほしいとそのように言いました。
御主人はそれほど言うなら、もう離婚するしかないなとそのように言いました。
仕方ありません。礼拝を守ることは私にとって命そのものですから、そう言ってから礼拝出席を始めたそうであります。
その結果はどうなったと思うでしょうか。
21:00
神の恵みによって離婚しないで済むことができました。
そればかりではありません。御主人は神様に従うその妻の姿の中に神の力を認めるようになりました。
こうしてこの方は礼拝を守るごとに神の恵みを受けて信仰がぐんぐんと成長していきました。
そして家庭集会を行うようになって、おばあちゃんが救われました。
御主人は職場の部下の結婚式の名行動をしたときに、十回の父と母をおやまえという御言葉を引用して挨拶をされました。
クリスチャンの奥さんはこの時ほど嬉しかったことはなかったとそのように明かしをされたのです。
誠実礼拝を守ることはクリスチャンにとってはどうしても確立すべき大切なことです。
それは自分自身のため、そしてこの神の栄光のため、神様に全てを委ねて喜びを心に抱きながら、
ますます主イエスを愛し、教会を愛して、誠の神様を礼と誠を持って、
精霊の全て支配の中にあって、私たちは礼拝を捧げていきたいと思います。
今読んでいただいたこのところに安息日の聖詩について書かれてあります。
イエス様は安息日の聖詩についてそれが何であるかを教えておられます。
一節を読みますと、その頃イエスは安息日に麦畑を通られた。
弟子たちはひもじくなったので、穂を積んで食べ始めた。
麦畑の穂を積んで食べることは立法で許されておりました。
それにもかかわらず、パリサイウッドたちはイエス様に、
あなたの弟子たちが安息日にしてはならないことをしています、とそのように言って責めています。
安息日に麦の穂を積むことは収穫の仕事をしている、とそのようにとったわけですね。
だからそれは安息日の立法に違反しているとなじったわけであります。
安息日に働くことは固く禁じられていました。
これに対してイエス様は反論しておられます。
第一に、ダビデがひもじかったとき、紙の家に入って備えられていたパンを食べたことがあったと、その事実を指摘されました。
第二に、安息日に神殿で奉仕している祭祀の礼を挙げています。
パリサイウッドは安息日には働くことは一切禁じられていると言っていました。
けれども、礼拝に奉仕する祭祀だけは神殿で働くことが許されていました。
これは厳密に言うと、安息日の規定を破っていることになります。
安息日の本来の目的は、労働を禁止することにあるわけですね。
24:00
労働を禁止することにあるというのではありません。
目的は神を礼拝することにあるわけです。
したがっていたずらに文字にのみこだわって、安息日を守ろうとするのは誤りであると主張なさっています。
これはパリサイウッドから見ますと、全く新しい見方・解釈と言えます。
しかし、イエス様は自分は宮より大きなものであって、自分は召しやすくいにしてあると、
その権威を示して御自分の解釈こそ正しい解釈であると主張されました。
次にイエス様は再び、保世話書6章6節のお言葉7節、
私はアーレミは好むが、池には好まないというこのお言葉を引用されて、
神様が求めておられるのは儀式のような形式ではない。
神が求めておられるのはアーレミであるという、そのことをここで語っておられます。
立法の精神はこれ以外であってはなりません。
他人を非難することばかりに無情になっていないで、他人に対するアーレミの心を持つべきであると迫られました。
そしてイエス様は御自分がメシアであり、安息日の主としての権威をお持ちであること、
安息日を守ることの解釈を示すことができることを主張されています。
マルコ2章27節に、安息日は人間のために設けられたのです。
人間が安息日のために作られたのではありません。
人の子は安息日にも主ですとそのように言われています。
イエス様は、安息日は人間のために定められたものだから、
人間が本当にそれに縛られて、上も我慢しなければならないということがあってはならないとそのように言っておられます。
しかしイエス様は決して安息日をおろそかにしてもよいと言われているのではありません。
パイサイ人のように表面的な意味で安息日を守るのではなく、
安息日の精神、すなわち哀れみの心、愛の精神で守るべきであるとおっしゃっています。
なぜなら立法の精神は哀れみ以外の何者でもないからであります。
そしてこの10節、9節から21節を見ますと、この片手の泣いた人が出てまいりますが、
この街道しなごこの中にその方がおりました。
すると人々は安息日に癒すのは正しいことでしょうかとそのように質問しています。
これはイエス様を訴えるためにわざとなされた質問でありました。
イエス様は安息日には穴に落ちた羊を助けて引き上げてあげることが許されているのだから、
ましてや困っている人を助けてあげるのは当然であると言われています。
人間は羊よりはるかに値打ちがあるものです。
それなら安息日に良いことをすることは正しいのだとそのように言われています。
イエス様はその人に手を伸ばしなさいと言われました。
27:01
彼が手を伸ばすと手は治ってもう一本の手と同じようになりました。
廃材人は安息日にあれをしてはいけない、これもしてはいけないと立法を否定的にのみ受け止めてやってきました。
しかしイエス様は良いことをすることは正しいと積極的かつ肯定的な面から
この立法を理解されていたのです。
私たちは安息日を守る場合、何をしたら神様が最も喜ばれるかという面から考えて、
この安息日を守ろうとならせていただきたいと思います。
この論争の結果、廃材人はイエス様に対する敵意をますます強め、
どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談したと書いてあります。
イエス様は無益な争いを避けてそこをたし去り、多くの人々を癒してあげられました。
そしてご自分のことを人々に知らせないようにと彼らを見ましめられました。
このことは予言の成就であったのです。
十七節から二十一節、それは伊沢書四十二章一節から三節の予言が成就していることを表しています。
イエス様は神様が選ばれた下人であります。
父なる神様から与えられた使命を果たすためにこのようにおいでになりました。
イエス様の上には神の霊が置かれ、用心に対しても抗議を述べ伝えます。
そしてこの抗議をもって支配下さいます。
彼は大声で自己主張することをなさいません。むしろ穏やかにしておられます。
そして傷んだ足を折ることもなく、くすぶる闘心を消すこともない。
弱っている人とか、また傷ついている人々を助けます。
神の義によって最終的な勝利を得てください。
こうしてメシアとして全世界を支配されるわけですね。
私たちは安息日の精神、この憐れみの心、これを失わないで安息日を守るものとならしていただきましょう。
聖霊の恵み、また清めの恵みを受けて、見た目の自由をいただいて、喜びと感謝を抱いて、
精一礼拝をさらに守るものとならしていただきたいと思います。
それではお祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、私たちのために神様が安息日を備えてくださり、
こうして毎週毎週、神様の名前に礼拝を捧げるこの時が与えられていますことをありがとうございます。
この礼拝を通して神様を深く知ることができ、また神様の愛するものとならしてくださり、
また私たちにこの御言葉の知識をなお増し加えてくださって、信仰を深めてくださることをありがとうございます。
どうぞ主よ、安息日を守る精神、立法の精神が憐れみであることを思うときに、
私たちも本当に人々に対する憐れみの心を失うことなく、どうぞ絶えずこの思いを持って安息日を守り、
また神様生活の中でもそのことを生かしていくことができるように助け導いてください。
30:06
全てを教えに委ねます、神様の名前によって感謝してお祈りをいたします。
アーミン
30:15

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