宗教改革記念日の背景
では一言、お祈りをさせていただきます。お祈りをいたしましょう。
愛する天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
私たちをまた主の御前へと招いてくださって、
私たちそれぞれの内には祈られたように、日々の中で様々な重荷があり、戦いがありますけれども、
すべて疲れた者を重荷を負って苦労している者は、私のところに来なさい。
私があなた方を休ませてあげようと。
イエス様御自身が御臨在くださって、私たちに様々な恵みを注ぎ、
私たちを慰めてくださることを感謝いたします。
どうかこの礼拝のうちに、あなたが御臨在くださり、一つ一つの御言葉を通して、
あなたがお一人一人を養い、励ましてくださいますように、お願いをいたします。
何よりも、あなたが私たちを愛し抜いてくださったことを、私たちはあの十字架で知り続けています。
御子の流された血汁によって神の子とされ、復活の命によって永遠なる死とともに、
死をも超えて生きる命を与えていただきました。
恵みによって歩みなさいと、私たちは招かれています。
今朝は宗教改革記念日を祝おうとしていますけれども、
そのことを500年前に発見したルターという人物に、今朝はまた目を止めます。
あなた御自身がそのことを通しても、私たちに恵みを表してくださいますように、お願いをいたします。
特に今、私鉄でその日々を送っておられる方々、御自宅で礼拝を送っておられる方々、
また今朝は御親族の不幸によって、遠くの地で礼拝を守っている兄弟姉妹もいます。
神様がそれぞれの場所において、豊かな恵みを注いでくださいますように。
ここから離れてしまった多くの兄弟姉妹がいることも覚えます。
それぞれの痛みを主が慰めてくださって、またあなたの御前に共に通うことができますよう、かえりみてください。
世界の中になおも争いがあり、多くの人たちの命が今も奪われていることを覚えますが、
主がどうかなおも、この世界にあなたが介入し続けてください。
平和を築き上げてください。
そのために祈るものとなるしてください。
お願いいたします。
これからの時を見てに委ねます。
主がどうか私たちを導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
今朝は宗教改革記念日を祝うそのような時です。
プロテスタント教会ではそのような日が定められているんですね。
10月の最後の日曜日が宗教改革記念日と言われます。
これは今から遡ること500年ほど前、1517年の10月の31日に
ドイツのビッテンベルクという城の城門に
マルティン・ルターという人物がA4ほどの一枚の紙なんですけれども
95カ所の亭台というものを張り出してですね。
それをきっかけにヨーロッパを巻き込むような
大きな改革の渦が生まれたまさに宗教改革と言われますが
そのようなことがこのところから始まったことを覚えて
この最後の10月の日曜日をそういう記念日にしております。
私たちの教会もプロテスタント教会です。
そういう意味で言うならばある種私たちにとっても
宗教改革を覚えるというのはルーツを確認する
そのような時でもあろうかと思います。
さてではですね、宗教改革とは一体何なんでしょうか。
世界史の教科書にも載っていますが。
ある先生はいろいろ説明ができるのだけれども
こうなんだと言いました。
それは宗教改革とは見言葉運動なんだと言ったんです。
見言葉運動なんだと。
当時の教会の様相というのはだいぶ今と違いました。
カトリック教会が全てのキリスト教の教会でしたし
その中での最高の権威はローマ教皇でした。
そして教会自体も無名性と言いまして
教会の決定には誤りなどあるわけがないと思われていました。
しかしながらですね、ルターはある種見言葉を通じて
見言葉を通してそれらは間違っていると批判し続けるんです。
見言葉を通してなんですね。
そしてそのように彼が動いた確信を与えたきっかけがありました。
それは何かというと、そのような教会理解や信仰理解では
彼の中にあった信仰の葛藤というのが解決できなかったんですよ。
その問題は何かというと、罪はどうすれば許されるかということです。
私のこの罪はどうすれば許されるのか。
それは当時の教会の理解でも信仰理解でも
それを克服することが彼はできなかったんです。
悩み続けた。
その結果彼は見言葉を通して神様にお出会いをする。
そして当時の信仰の常識というものを
見言葉を通してことごとく塗り替えていくんです。
まさに見言葉による改革運動ですね。
彼が張り出した95カ条の定題というのは
正式名称が職優の効力を明らかにするための討論定題です。
長いです。でも簡単に言うならば
職優というのは罪の許しということです。
罪の許しのためにみんなで話し合おうということを
張り出したのが95カ条の定題です。
そのように張り出して
彼はまさに見言葉の運動を始めました。
これは実にプロテスタントの性格を表しています。
次も回していただけますか。
これは沢村先生の言葉を引用していますが
沢村五郎先生が本の中でこう言いました。
軽く聞いてくださいね。全部書かなくてもいいです。
真理の御霊は必ず真理の言葉と共に働き給うのである。
救済の真理はことごとく聖書の中に掲示されている。
真理の御霊は真理の言葉に矛盾したことは決して掲示されない。
そのように神の言葉を食べてこれをよく消化するならば
御霊は共に働いて
私たちの心も思いも品性も生涯も養われ
全人格が育成されていくのであると
これは沢村先生の大いなる救いという本の中の一節ですが
私たちは言うまでもないですが
塩屋の新学校の初代校長ですね。
プロテスタントに立っているんですよ。
見言葉が私たちをつくるんだ。
それが基準なんだということを先生は言われている。
そうであるならば私たちの妙谷教会の歩みもあるし
それは見言葉運動なんです。
これは確かのことです。
ルターの信仰の葛藤
さて今朝はルターの信仰の葛藤というものに
注目をしていきたいと思います。
すなわち罪の許し。
彼がそこでどのような発見をしたかです。
そしてそのような葛藤を見ながら
見言葉からどのような解決を得たのかを見ていて
見ながら私たちはその道筋において
なおもいろいろな気づきを与えられていきたいなと願っています。
さてですね。
ルターの人生を少しだけ簡単に触れていきたいと思いますが
彼は1483年にドイツに生まれます。
ルターの家庭というのはとても特殊でして
お父さんが実業家なんです。
ハンスルダーといいますけれども
一代で銅の製錬事業を成功させた
とても叩き上げて頑張った人なんです。
ルターの一家はだからこそ
家風としてあったのは上昇志向だといわれます。
とにかく努力をして身を立てなさいという一家でした。
ルターはそれこそ5歳のときから
英才教育を受けるんです。
当時は珍しいんです。
5歳から英才教育を受けて
彼はラテン語であったり論理学であったり
さまざまな勉強をしていく。
珍しく当時では珍しく大学院まで彼は進んでいくんですね。
ただルターが最初専攻していたのは
法学、法律学でした。
それは親が期待してそこに送り出して
後には最小ではないかといわれるほど
彼は優秀な成績を収めるんです。
でもあるとき
彼が実家の家から大学のある町に帰っていく途中で
雷に乗っている馬車が撃たれるんですよ。
そこで彼は死の恐怖を感じたときに
神様に祈っちゃったんですね。
神様私をここから助け出してくれるならば
私はこの身をあなたに捧げます。
そして彼はそこから一転して
法律学の大学院から離れて
彼は修道会に入るようになるんですね。
親の期待を思いっきり裏切って
彼はそのような道に進んでいきます。
そしてとても厳しいことで有名な
エスティネス修道院というところに入るんです。
ただこの修道院生活の中で
ルターが直面したのがまさに
罪の問題、自らの罪でした。
罪と言いますと
簡単に言うならば
神様が喜ばれないことですよね、罪というのは。
当時の社会でも
罪というのは実戒に代表されるような
例えば偶像を持ってはいけない
盗んじゃいけない、人を傷つけちゃいけない
そういう表向きの行動をやっちゃいけないのは当然ですけど
それだけではなくて
新約聖書でイエス様が言われる通り
心の中でさえ
神以外に何かに手を打ってはならない
殺したいという思いを持ってはならない
内面まで問われる
そういうふうな基準に自分を照らし合わせて言うなら
ルターは自分がすごい罪人だということに悩むんですよ。
悩んで彼は修道会の中で
厳しい修道会の中でも
もっと厳しい基準を自分に当てはめて
その基準に則って
彼は足茂く懺悔室に通い続けるんです
徹底して悔い改めるんです
けれども
彼はなかなかその中に平安を持てなかった
徹底して悔い改めて懺悔室に行くんです
でも懺悔室から帰っていく途中に
何か横島の思いが少しでも浮かんだら
また部屋に戻らず懺悔室に行くような生活をする
でもそれじゃ何も解決をしない
当時カトリック教会の
罪の許しの理解は現在と全然違いました
これもちょっとだけ確認をしておきますと
当時の教会の罪の許しは
簡単に言うとポイント性なんです
人が罪を犯して
教会に行って
懺悔室で司祭様の前で罪を告白するんです
そしたら司祭さんがそれを聞いて
あなたの罪はマイナス2ポイントですね
という罪の重さを確定してくれるんです
その罪が許されるために
じゃああなたはプラス2ポイントの
こういうことをしなさいということを
言われるのが当時の教会罪の許しでした
でも人は軽い罪だけじゃないわけです
重たい罪を犯すわけです
マイナス100ポイントぐらいの罪を
例えば犯してしまう
償いきれない
じゃあどうするのか
ご安心ください
教会にはこれまでの偉人たちが
蓄えてきた
教会の宝と言われる徳が
100兆ポイントぐらいあるんです
それをお売りしてあげましょうと言うんです
あなたが教会から徳を買ったら
あなたの罪も許されるし
あなたの先のご先祖様が
地上でのマイナスポイントを返済するために
煉獄で苦しみ続けているわけです
でもそれもあなたがここで
この職優状といいますか
免罪符というものを買うならば
それは許されますよということが
カトリックの中で言われていました
これは当時のカトリックです
今は全然違いますし
私はカトリックの信仰を尊敬していますが
ただそのような感覚だったわけです
ルターは話を戻しますけれども
見言葉による解決
ルターは修道院で
罪の問題に悩み続けたわけです
神様は儀なるお方
正しいお方なんです
正しい神様は
私の罪をどんな小さな罪でさえ
見逃さず裁かれるに違いない
だから自分は罪を全く捨てて
罪を犯さない
考えもしない人間にならなければならない
そのように彼は頑張ったわけです
そしてルターは何よりも
このことに妥協しなかったんです
真剣に取り組み続けたんです
けれども
彼はそのようなことをし続けるのだけれども
全く平安がない
いつまでも平安がない
当時のルターが自分の悩みを振り返って
言っている言葉があるんですけれども
こういう言葉ですね
いかに欠点のない修道士として生きていたにしても
私は神の前では
全く不安な良心を持った罪人であると感じ
私の償いをもって
神が満足されるという確信を持つことができなかった
できなかったわけです
そのような内面の葛藤を抱えたまま
ルターは修道院を卒業してしまいます
彼は司祭として現場に使わされるんです
ただ最初の
今でも記録が残っている
最初のミサで
ルターの義の発見
彼はミサから逃げ出そうとするんですよ
処人地で典礼文を読もうとして
彼は最初にこういう言葉を典礼文にのっとっています
いとも聖なる大いなる神よと
いとも聖なる大いなる神よと
その言葉を最初に読んだ途端に
彼の言葉が止まっちゃうんですね
彼は恐ろしくなるんです
私は死にそうになった
彼の言葉です
私は死にそうになった
小さな罪人に過ぎない私が
神に向かって
いとも聖なる大いなる神よと
呼びかけるとは何事か
そうやって自分を責めるんです
私は罪人なの
神に呼びかけることなどできない
罪人である自分を
聖なる神はきっと受け入れてなどいない
彼は罪というものの本質的な問題に
とことん向き合って
そこから抜けられなくなっていくんです
罪というものそれは何か
それは
罪というものは人間の徹底した食い改め
人間が努力をして
そのようなものからどうにかできるというほど
罪というものは全く甘くないということです
自分自身ではどうしようもないということです
しかしながら同時に
人間である以上
神様の前に罪を犯さず生きることなど不可能である
そのことにも気づいていく
どうすればいいのか
その解決が見えなくなって
彼は葛藤のどん底にまで落ち込んでいくんです
しかし
そのようなルターに対して
神様は聖書の言葉を通して語りかけてくださいました
ルターはこの後司祭としても苦闘するのですが
彼はとても優秀な男だったのです
その後彼は
ビッテンベルクの新しい大学に召し掛かえられて
修道会を卒業後
進学教授として
ビッテンベルクの大学に派遣をされていきます
その大学で
重なるなと自分で見て思いますが
博士課程を勉強しながら学生に進学を教え
司祭の仕事も続けるわけです
彼が最初に学生に講義をし始めたのは
まさに旧約聖書の詩編だったのです
詩編を1点ずつ
これはこういう意味だというふうに
講義をしていくわけですが
読み進めていく中で
彼はとある詩編の言葉に直面するのです
それが今朝礼拝の最初に読んでもらった
詩編の31点の言葉です
ちょっと読みますと
詩編の31点
今日はルターの話ばかりで申し訳ありませんが
詩編の31点
1節の言葉です
ちょっと読みますと
こういう言葉です
主よ、私はあなたに身を避けています
私が決して恥を見ないようにしてください
あなたの義によって
私を助け出してくださいという言葉です
特に後半ですね
あなたの義によって
私を助け出してくださいという言葉に
ルターは立ち止まらざるを得ないのです
それはなぜかというと
神様の義
神様は正しいお方だと聞くときに
ルターの頭の中にバーッと浮かんだのは何かというと
正しいお方は罪を許されない
裁きの神だという印象です
神様は正しすぎる清いお方だ
だから私の罪を絶対に許されない神
神様の義
義なる神とは罪人を裁くための義
正しさであると理解をしていました
ルターはそういう神様に対して
本音ではこう思っていたということも書いています
ちょっと次のページ回せますか
ちょっと長いですが読みますね
私は罪人を罰する義の神を愛さなかった
いや憎んでさえいた
そして神を冒涜するほどではないにせよ
こう呟いて神に対して怒っていた
哀れな永遠に失われた罪人を
原罪のゆえに実戒によって
あらゆる種類の災いで圧迫するだけでは
神は満足なさらないのだろうか
神は福音を持って苦痛に苦痛を加え
福音によってその義と怒りを持って
私たちをさらに脅されるのだろうかと
私の心は激しく動き
良心は混乱していた
そう彼は記録をしています
ただそのような義なる神であるのに
詩編の31編ではその義が
人を助けるということが書いてある
この矛盾は一体何なんだ
ということに彼は悩むのです
一体これはどういう意味なのか
彼はこの意味を咀嚼しきることができないのです
その意味は分からないなと言いながら
講義を進めていくわけですけれども
しかし彼は続けて読んでいく中で
再びそのような言葉に出会う
それが今朝の詩編の71編です
詩編の71編をもう一度
読んでいただいた歌詞を読みますが
主よ私はあなたに身を避けています
私が決して恥を見ないようにしてください
あなたの義によって私を救い
助け出してください
あなたの耳を私に傾け
私をお救いください
私の避け所の岩となってください
いつでもそこに入れるように
あなたは私の救いを定められました
あなたは私の岩を私の砦なのです
我が神よ私を悪者の手から
助け出してください
不正を行う者や残虐な者の手からと
詩編がそのように語っています
特に2節
あなたの義によって私を救い
助け出してください
あなたの耳を私に傾け
私をお助けお救いください
義が人を助け救う
また出てきたということです
けれどもその義
その義なる神様は
3節4節では
この義なる神こそが私の避け所である
岩である
私の岩を砦だと
その義なる神のところに何か逃げ込むかのようなことを
詩人は言っている
この義とは一体何なのか
そんな正しい神様のところに
罪人が突っ込んだら
裁かれるしかないんじゃないか
でもルターはその葛藤の先に
気づくことがあるんです
それは何か
ここで言われている義というのは
神が私たちに与えてくださった
キリストのことを言っているんだということに
彼は気づくんです
この義とは
キリストのことを言っているんだということを
彼は解釈するんです
神の義
それは裁くためだけのものではない
神の義とは
人を救うことのできる義である
この義とは私たちを救われた
あのキリストのことなんだ
ということに彼は気づくんです
彼の新しく気づいた地平なんですね
神の義と聞くならば
今まで私たちの悔い改め
罪を犯さない私が
神様の前にその行いや努力が
神様の前に受け入れられるかどうか
という基準の話しかしていないと思っていた
でもそうではない
そういう問題じゃない
神の義とは
神様から与えられた恵みであって
それはイエス・キリストという
まさにプレゼント
贈り物を通して
人間に与えられるものなんだ
ということを彼は気づく
ルターの中でこの気づいた
神の義の理解が
彼はその後聖書研究を続けていく中で
ローマ人への手紙の
1章の17節の言葉と接続するんです
ちょっとそれも読みましょうか
ローマ人への手紙の
1章の17節
これもとても大切な言葉ですが
ローマ人への手紙の
1章の17節
お読みいたしますと
こういう言葉です
福音には神の義が掲示されていて
信仰に始まり
信仰に進ませるからです
義人は信仰によって生きると書いてある通りです
福音には神の義が掲示されていて
信仰に始まり
信仰に進ませる
義人は信仰によって生きると
福音には神の義が掲示されている
つまりイエス・キリストの十字架の福音
十字架において
イエス様が私の罪を全て担われた
それが十字架の福音であるとするならば
罪をイエス様が全面になってくださった
そういう理解がある
そしてもう一つルターが気づいたことは
じゃあイエス様が持っていた神の義はどこに行ったのか
それは十字架によって
私たちに与えられたんだということを理解する
罪はキリストが負われ
キリストの義が私たちに与えられた
それこそが十字架であったんだ
ということを彼は気づく
そしてそれが私たちの悔い改めの先に
努力の先に得られるのではなくて
信仰によって
義人は信仰によって生きると書いてあるように
ただイエス・キリストを主と信じるだけで
それは得られる
そのような恵みなんだということを
彼はこの時に気づいたわけです
神様は
ですから神様は
今現在私がどれほど罪深いものであったとしても
あのイエス・キリストの十字架を通して
私を義なるものとみなしてくださっている
どんなに今私に問題があったとしても
罪があったとしても
そうじゃない
十字架を通して神は私たちを見られるんだ
それを知る時に私たちは
罪人である
そのような現実を知りながらも
そこに絶望しながらも
ああ私は義人とされ
神のことをされているのだという事実を
喜ぶことができる
そのようなことを彼は発見をした
それが信仰義人と呼ばれる距離です
信仰義人です
ちょっとだけ私たちに近く話しますと
罪という言葉がありますが
これは別に特殊なキリスト教用語の言葉ではないんです
私たちが誰しも直面する現実なんですね
罪と言いますと
そもそも罪という言葉は
元の意味は
的外れという意味です
神様が
人間は神様を見つめて生きるはずなのに
神様とは真反対の方向を向いて生きてしまっていて
神様を知らず好き放題
神様を傷つけ
自分自身を傷つけ
そして自分の愛する人を愛すべきなんだけれども
傷つけてしまっている状態というのが
罪と言われる状態です
神様の方向けない状態のことを
罪と聖書は言います
そしてそれは
ドロドロとしたものなんですね
どれほど心の奥底から正しくあろうとして
知恵を巡らせたとしても
その罪というのは人の力では消せないという
人間が罪から救われるためには
人間の知恵や努力ではもはや不可能であるということを認め
実はイエス・キリストに信頼をするしかない
そのようなことをルターは発見した
このルターの発見
このルターがこのことを発見して
驚いて感動をして
95箇条の定題
そうなんだってことを分かって
彼は95箇条の定題を書いたんです
バーンって張り出して
すごいことが聖書には書いてある
救いというのはお金で買えるものじゃない
救いというのは人間の努力で得られるようなものではない
ただ十字架に書かれたイエス・キリストを信じることでしか
救いは得られない
そうではないか
そうなんじゃないかということを問ったのが
95箇条の定題です
このようなことを書いた結果
ルターの破門
ルターは3回の裁判を受けて
最終的にはカトリック教会を破門されます
2023年になってもこの破門は解かれていません
ただこの破門の最後の裁判で
彼が言った言葉があるんです
ちょっとだけ映せますかね
長いですがお読みしますと
彼はこう言いました
聖書の証言と明白な根拠を持って
伏せ占められない限り
私は私が挙げた聖句に
聖句に伏し続けます
私の良心は神の言葉に捉えられています
なぜなら私は教皇も公会議も
信じていないからです
それらはしばしば誤りを犯し
互いに矛盾していることは明白だからです
私は取り消すことはできません
取り消すつもりもありません
良心に反したことをするのは
確実なことでも
得策なことでもないからです
神よ私を助けたまえ
アーメン
これ裁判の場で言っているんですよ
これを言ったら破門
もう自分の命ヨーロッパにおける
市民権がないようなものです
ルターの信仰の葛藤
でも私は神の言葉に立つ
神よ私をただ助けたまえ
神は我が矢倉という賛美をさっき歌いました
これはルターの歌です
最後のほうの4番くらいの歌詞を見てください
いろいろなものが敵対して
でも神の言葉
神だけが私の助けだといって
そこを突破するんですね
彼は言いました
ローマ教皇よりも
実は聖書の御言葉にこそ権威がある
教会は謝り得ます
教会は人の営みですから
謝り得るんです
けれども聖書の言葉は
謝り得ない神の言葉である
教皇が
いいえこの世界が何を言おうとも
最後まで彼は神様から御言葉を通して
与えられた確信から
彼は逃げなかった
それを導出し続けたんですね
ルターはこの後に
聖書をドイツ語訳に翻訳していくんです
それはなぜかというと
教会が人を信仰に導くだけではなくて
誰しもが御言葉によって養われ
義と認められながら
なおも罪深い私たちが
一歩一歩御言葉を通して
本当の義人に作り変えていかれる
御言葉にはそのような力があると
彼自身が信じているから
まさに神の言葉を食べて
これをよく消化するならば
御霊は共に働いて
私たちの心も思いも
品性も生涯も養われ
全人格が育成されていく
沢村先生のおっしゃる通りですよ
私たちはここに立っている
晩年ルターがですね
もう一つ次の言葉ですが
晩年ルターが
自分の学弟のメランヒトンに
このような言葉を送ります
今日の最後の引用ですが
こういう言葉です
あなたが恵みの説教者であれば
作り物の恵みではなく
本物の恵みを説教しなさい
もしそれが本当の恵みであれば
作り物の罪ではなく
本物の罪を負いなさい
神は作り物の罪人を救われはしない
罪人でありなさい
大胆に罪を犯しなさい
しかしもっと大胆に
キリストを信じ喜びなさい
これ有名な言葉ですが
本当に大事な言葉ですね
作り物の罪人を神は救われないというのは
まさに本当に罪に悩み続けた
ルターにしか語れない言葉でしょう
私は罪人かな
いやそうではなくて
本当に自分にある種絶望したと言いますか
でもルターは勧めるんです
あなた方は作り物ではなくて
これは上手に聞いていただきたいんですが
ただあなた方は作り物ではなくて
自分の罪深さにある種
徹底して絶望しなさいとから勧めるんです
あなた方は罪人である
自分がいかに自分を救えないのか
ドロドロとしているのか
その事実にしっかり絶望しなさいと勧めるんです
しかしそれと同様に
ここで書かれているのはそれ以上に
確かにそれ以上に
もっと大胆に
神があなたを義としたことを
徹底して受け入れなさいということです
それ以上に
そして喜びなさい
喜びなさいと言います
キリストが罪を担われたこと
私たちの罪に対する神の義なる裁きは
十字架においてイエス・キリストが
受け切ってくださったということ
それゆえにあなたは罪許され
神に義と認められ
確かに神のこと今はされているのだ
その事実を徹底的に喜びなさいと言います
私たちはよくこのことを誤解をいたします
でもルターが語るのは
自分の罪深さに対する絶望よりも
義とされ神のことされたという喜びは
必ず絶望以上に大きくないとおかしいんだと言うんです
そうじゃないと信仰は何かがおかしい
私たちは罪深いことは知っているんだけども
ああでも私はそういう私は
神の子にされているんだという事実
なんて素晴らしいんだろう
そこに喜びがある信仰こそが実は
相応しいと言いますか健全な信仰なんですね
許されているんですよ
あなたは自分の罪深さ以上に
神の恵み深さを知らなければならない
そのようにルターは招くんです
ルターの信仰の葛藤
罪への葛藤というのは
私たちとは無関係ではありません
そういう誤解を私たちはよく
私も含めてしてしまいます
私は罪深いからと
でも神様は罪深くて
自分自身を全く救えない
そういう私たちを愛し
そういう私たちを救うために
信仰による喜び
救い主を送ってくださったんです
御子を十字架に捧げてくださったんです
自分の罪深さにばかり注目をして
息苦しい信仰生活を送ることを
神様は絶対に望んでおられないんです
そうじゃないんですよ
もっと大胆にキリストを信じなさい
そして喜びなさい
喜びなさいです
御言葉はそのように語っています
あなたの義によって私を救い
助け出してくださいと
詩編の71編の2節は語りましたが
御子イエス様の十字架と復活は
この約束を私たちに
実現してくださったんですね
神は義によって私たちを
救い出してくださった
あなたはキリストを確かに信じ
確かに罪許され神のことされている
喜びなさい
喜びなさいと御言葉はそう語ります
私たちはプロテスタント教会に属しているんです
そうであるならば私たちの姿勢というのは
自分がどう実感するかが基準じゃないです
御言葉がどう約束しているかです
信仰によって救われるというのは
神の御言葉の約束に対する信頼なんです
神が私たちをどのように見てくださっているかという
ことへの信頼ですね
御言葉の約束を今朝御一緒に受け止めたいと思います
義によって私を救い
神は私たちを助け出してくださった
十字架によって
もっと大胆にキリストを信じ
そして私たちは喜びたい
喜びのある群れになりたい
そのようなことを願っております
これでメッセージを終わります