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改めて皆さんおはようございます。
今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。感謝します。
だいたい1ヶ月ぶりにまた、こういうふうに報じさせていただいていることを本当に感謝いたします。
また皆さんも、最近多分、ワクチンを打たれた方もこの中にいらっしゃるかなと思いますけれども、
なんとか守られてね、教会に来られて、一緒に礼拝できることを本当に感謝いたします。
また私のこの癒しの治療のためにも本当に皆さん熱く祈っていただいて、本当に感謝いたします。
今も肺炎の治療はしばらく薬を飲まなくてはならないので、特にこれとした危ない症状はないんですけれども、
落ち着いて守られて、よく食べて過ごしております。
少し時間がかりそうなこの糖病になるかなと思いますけれども、
主のあわれみと、また主が癒してくださることを信じながらやっていきたいと思います。
では短く一言を祈りたします。
天の父な神様、主の恵みとあわれみを心から感謝いたします。
今日この世にして一人一人を愛して、主の教会に招いてくださって、
心を一つにして主を礼拝できますこと、本当に感謝いたします。
どうか主よ、神様御自身がここに立ってくださって、一人一人にお語りくださいますように。
私たちがこの朝、神にお会いし、神のあわれみにお会いし、
そして主を心から賛美し、また慕っていく決心の時、感謝の時となりますように祝福してください。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
さあ今日は創世記の18回目ですね。
皆さん今から4,000年前、BC2,000年頃、日本は何の時代だったのかご存知ですか皆さん。
縄文時代と言われる新石器時代だったんですね。
まあこれとした文明がまだなかった時代なんです。
ところがですね、このBC2,000年頃、すでにエジプトには巨大なピラミッドとかスピンクスが建てられたわけなんです。
またミイラを作ることもできたわけなんですね。
それほど聖教でまたすごい文明を持っていた時代、建築とかですね、星のいろいろですね、
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科学もミイラを作ったわけですから、それほどの理科、科学が発達していたわけなんです。
今日聖書のアブラムが生きていた時代、そして今から行こうとするエジプトがそういうことなんですね。
アブラムはだいたい今から4,000年前の人だと分かっていらっしゃればと思います。
アブラムとですね、その家族たちは、しばらく滞在するためにやむを得ずエジプトに下っていきました。
聖書をじっくり見てみますとですね、10節見ると、アブラムはエジプトに永住するためじゃないんですよね。
そこにもうね、ずっとそこで暮らそうじゃないんですね。
しばらく滞在するために行ったわけなんです。
だからですね、この一言葉だけでよく考えるとですね、アブラムはその家族を連れて、課長としてですね、
カナーンにそこに定着しなさという神の心を完全に無視して、それを振り切ってエジプトに行ったというのは無理があると思うんですね。
今から4000年前です。しかもですね、そのカナーンという園地は、そもそももう雨が降らない、なかなか降らないんですね。
1年中は寒気みたいな場所ですし、しかもその時にちょうどというふうにね、
気金が起きてしまったわけです。そもそも水がない、足らない、そこに気金まで起こってしまったから、
またですね、アブラムはいわゆる遊牧生活をしていたわけなんですね。
移動しながら、少しの家畜があったでしょう。それをね、当然草があるところに移動して食べさせて、
またそこがなくなったら、また移動して、そうすることが当然のことなんですよね。
食べて生きていくために。そこでですね、アブラムはきっと悩んだ悩んだということだったと思うんです。
課長として自分の妻もいるでしょう。で、老いの老党もいる。その家族もいる。あるいは家畜もいる。
少しの数人の奴隷もいたかもしれない。
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そのもうね、課長としてどうしたらいいんだろう。
このカナンで、もう雨が、神様が雨を降らせてくださるまで待つか。
あるいは、あのエジプトにはですね、大きなナイル川もありますしね、そこに行ってこの気金をちょっと
逃れようと、いろいろですね、悩んだんじゃないかなと思うんですよ。
いやー、このカナンを離れるのは不信心じゃないのかなと悩んだかもしれない。
一人のね、人間として。
それで、アブラムはある意味で大きな決断を下したわけですね。
エジプトにしばらく行って、この気金が終わったら戻ってこようと思ったんじゃないですかね。
まあ、それぞれの家族たちもですね、彼の意見に賛成して、みんなエジプトに行きました。
ところが、このエジプトに行くアブラムの心に気になることが一つありました。
それは何ですか。 自分の妻があまりにも美しいということでした。
とても美人だったんですね。 自分が考えてもですね、自分の奥さんがもう
美人、超美人なんです。 今が4000年前ですからね、もう男性として
美人を妻に得ることは、それは誇りでですね、もう
よく考えたらですね、その当時の文化としては、このおさらいが自分の妻だ。
しかも超美人である。 もうエジプトがですね、すごい文明を持っている。
しかも権力を持っているパラオという王がいる。 自分たちはもうね、
もう本当に数人で弱いものですからね、 相手にならないんです。なれないんですね。
だから、 アブラムは考えたと思うんですよ。
自分の命も守ろう。何とか家族のこの群れを守るためにどうしたらいいんだろうか。
まあそれですね、人々にこの人は私の妻じゃありません。 私の妹ですよ。兄弟ですよ。
というふうに嘘をついた。
もし自分が殺されたら、このアブラム一家というのがもう滅んでしまうわけですから、
何とか守ろうとしてこんなことをしてしまったと思うんです。 皆さん、
私はこういうふうに考えてみました。 もし皆さんが、私が
アブラムだったらどうしたと思いますか。 アブラムのように
するしかなかったかもしれないなぁと思うんですね。
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何とかこの危機を逃れようと思ったかもしれません。 もちろん妻のサライも同意せざるを得なかったでしょうけれども、
サライの立場から見れば、ちょっと戸惑いを感じたかもしれません。 あるいは夫のアブラムが情けないなぁと思ったかもしれません。
でもサライから考えても、到底相手になれないんです。
仕方がなく、命を守るために、この一家を守るために、 やむを得ずアブラムの考えに同意したのかもと思います。
それでみんなやってきました。エジプトに行きました。 どうでしたか。
嘘通りでした。14節ごらん目です。 アブラムがエジプトにやってきた時、エジプト人はサライを見て非常に美しいと思った。
天国に行ったら見てみたいですね。サライさんがどれぐらい美人なのか。
エジプト人は多分、その時の首都か遠くなのかわかりませんが、そこに行って多くの人々が見てですね。
エジプト人とアブラムはそもそもウルという、 今のイラン、イラク、サウジアラビアあたりの人種だから少し違うでしょう。
見た目でわかると思うんですよ。 他の国からやってきた、でも大きさめっちゃ美人だって、みたいに噂が広がってですね。
パラオの宮廷の皇冠たちもそれを見て、絶対権力を持っている王様だからね。
それでサライを進めたわけですね。皇冠たちが。
それでサライはパラオの宮廷に召し入れられまして、多くの妻の中の一人になったわけなんですね。
ところがですね、その代わりに、いわゆる花嫁寮みたいな感じでですね、アブラムはどれくらいのものをもらったんでしょうか。
16節ご覧ください。 アブラムにとって物事は彼女のゆえにうまく運んだ。
それで彼は羊の群れ、牛の群れ、ゴバ、それに男奴隷と女奴隷、メロバ、ラクダを所有するようになった。
もう非常に多くの財産をですね、持つようになったんですよ。
それほどサライが美人だった。パラオが大満足したということなんでしょうね。
ある意味ですね、妻を失って財を得たと言えると思うんですね。
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ところが皆さん、実はですね、この財は、この物は、後からロットとの別れの種になりますし、
いいものが最後までいいものではないんです。 その話はまたね、次回から次回にお話をしたいと思うんですけれども、これに対する神様の裁きはちゃんとなされるんです。
さあ、ではですね、今日の聖書は私たちに何が話したいんでしょうか。
アブラムが自分の妻を妹と嘘ついたこと。 嘘つきが悪いですよ、という話をしているんでしょうか。
実はですね、アブラムが嘘ついたことは、ある意味で小さなことに過ぎないんです。
ここでアブラムは、本当にアブラムは、重大な失敗をしてしまったわけなんです。 それは、神の約束を忘れてしまった。
神の契約を忘れてしまったということなんです。 どんな約束でしょう、皆さん。
12章の1節から見ると、神の約束が出てくるんですね。 私はあなたを大いなる国民とする。
私はあなたを大いなる国民とする。どういう意味ですか。 分かりやすく言うのは、アブラム、あなたとサライ、この夫婦の中で子供が生まれて、その子供の子供が生まれて、また子供が生まれて、そして大きな民族になるよ、という約束なんです。
そうすると、サライがパロの妻になったら、この約束は破られてしまうわけです。
神の約束がダメになってしまうわけです。 だからアブラムは、自分が神様から証明を受けた時に、呼ばれた時に、
あなたとあなたのサライの体を通して、神の約束の子孫が生まれるんですよ、という神の約束を忘れてしまった。
それをもう、破棄してしまうような重大な失敗をしたわけなんですよ。 嘘ついたのは、浅い表面の話にしかならないんですよ、皆さん。
どうですか、神様はですね、すごい長い遠来なプランを持っておられたわけですね。 アブラムとサライから誰が生まれますか、イサクが生まれる。
そこからヤコブが生まれる、そこからヨセフが生まれる、そしてそして、後々に誰が生まれますか、イエース・キリストが生まれになるわけなんです。
これが神様の大いなる計画なんです。 その始まりが、アブラムとサライから始まるということなんです。
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神のこの約束を忘れてしまったこと、これがアブラムの失敗なんですね。
彼は、考えるとですね、夫としても失敗してしまった。 男としても失敗してしまった。
神の人としても失敗してしまったということなんです。 本当に恥ずかしいことなんですね。
ところが皆さん、アブラムだけではなくですね、私たちも自分の人生の中で、 ああ、あの時のことは本当にもう
消せるんだったら消したいなと、そういった失敗のことがあるんじゃないですか、皆さん。
1回、2回、あるかなと思うんですよ。
もう、変えることができるならば、あそこに行って、 あの時のあれをもう全部消したい、みたいなね。
自分もですね、自分のことを考えたら、30代初半の時ですね、 夫として、男として、キリちゃんとして、本当にもう
詳しくは言えませんけれども、本当に恥ずかしくてですね、 大失敗をしたことがありました。
もう私の人生のストーリーから、もう消したい日々があったわけです。 エジプトでのアブラム、
この時のこともですね、アブラムはもう消したいほど、もうね、 大きな失敗でした。
だからアブラムの人生の中でですね、このエジプトでの出来事は、 そのタイトルを付けるんだったら、人生失敗の現場
と書けるかもしれません。
ところがですね、その後不思議なことが起こりますね。 神様の約束を忘れて嘘をついて、サライを
パラオに召し入れたのは、アブラム自分が超本人なんです。 ところがですね、神様は
そんな約束を忘れてしまった情けない自分じゃなくて、 自分とサライのことで、
パラオとその宮廷を大きな災いで撃たれたんですよ。 17節をご覧ください。
しかし、死はアブラムの妻サライのことで、
パラオとその宮廷を大きな災いで撃たれた。 皆さんどうですか?大きな災いで撃たれるべき者は誰でしょう?
アブラムじゃないですか。
でもですね、神様はアブラムではなく、パラオとその宮廷を撃たれたんです。
この出来事はですね、アブラムとその家族たち、 サライとかロトとかね、
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理解しがたい、本当に難しい、 神の行いだったわけなんですね。
きっとアブラム、ここを考えたんじゃないですかね。 悪かったのは俺なのに、なんで神様は俺じゃなくて、パラオとその宮廷を撃たれたんだろう。
私が罰せられるべきじゃないのか。 ところがなんで神様はパラオを撃たれたんだろう。
と、ふうにね、 アダム学会でですね、悩んでいたと思うんですよ。深く考えさせられたと思うんですよ。
皆さん、アブラムはこのようにして、 少しずつ少しずつ神様を知るようになっていくんです。
そして同時に、自分自身がこの人間というものがどれだけ弱くて悪いものなのか、 自己中心なものなのかを悟っていくんですね。
最近、家にいる時間が多いんですけれども、 いろいろ本をたくさん読んでいますが、ある読んだ本の中でですね、
信仰とは何なのか。 そこでですね、こういうふうに書かれていました。
信仰とは結局、神様がどれだけ偉大な方であるか。 神様がどれだけ憐れみ深い方なのかを知っていく旅路であり、
同時に人間自分自身がどれだけ弱くて罪深い堕落したものなのかを知っていく旅路である。
と書かれていまして、線を引いてですね、なるほどと思ったわけなんです。 皆さん本当にそうなんですよ。
信仰、その成熟、それが成果であろうが何であろうが、
行けば行くほど、神様がどれだけ偉大で、約束に誠実な方なのか、 憐れみ豊かな方なのかを
知っていく歩みである。 同時に自分自身がどれだけ弱くて、悪くて、
罪深いものなのかを知っていく歩みなんですね。 だからですね、こういった神を発見すると同時に自分を発見する目が、
早ければ早いほど、祝福されると思うんですよ。
私がもし、こういった素晴らしさを20代に分かったら、よくあるんじゃないかなと思うんですけどね。
さあ、アブラウムの話に戻りましょう。 それでですね、パラオはアブラウムに教えてですね、
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あなたは自分の妻を何で妹として嘘ついたのか。
もう、あなたの妻を連れて立ち去るがよい。 もう帰りなさい。自分のところに帰りなさい。
それですね、二十節をご覧ください。 パラオがアブラウムについて家来に命じたので、彼らは彼を妻と
所有するすべてのものと一緒に送り出した。 今日のこの物語はちょっと
変な感じで終わってますね。
ある意味ですね、パラオだけが悪い人になってしまって、 アブラウムと妻、
すべての家族は、もう神の気一方、怪我することなくですね、 むしろもう大金持ちになってエジプトから出てきたわけなんですよ。
皆さん考えてみてください。 アブラウムとパラオの中で誰が道徳的に正しい人だと思いますか。
パラオなんですよ。 パラオはね、特にこれをしては悪いことをしていないんです。
ちょっと言い過ぎかもしれませんが、 アブラウムは自分の妻を討ってしまったハレンチな人間であって、
パラオはそのアブラウムを行くしてくれて、 彼も彼の妻も命も守ってくれて、
しかも財産もですね、取り上げることもできるんだけど、 そうしなくてですね、そのまま送ってくれたわけなんです。
パラオの方がアブラウムよりもっと礼儀正しくて、 丁寧な人だと言えると思うんです。
ここでアブラウムはまた悟ったでしょう。 情けなくてハレンチなのは私なのに、
災いを受けるべき者は私なのに、それどころか。
こんなものを全部持って帰ってもいいと、 失敗したのは私なのに、神の約束を忘れてしまって、
それが破れそうになったの、この原因は私なのに。
神様は私も、この群れの命を守ってくださった。
神様はパラオを撃たれて、 サライの体を守ってくださった。
とですね、 彼はそこでもう一度深く神様を知るようになったでしょう。
神様がどれだけ憐れみ豊かな方なのか、 アブラウムは悟ったわけなんです。
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それから何より、本当に神様は約束に誠実な方なんだ。
何があってもなさった約束を必ず守ってくださる方なんだと、 わかったに違いないと思います。
こうしてアブラウムは、神様をより深く深く知るようになりました。
今日のこの20章のこのストーリーは、
これをもし、現代のニュースに出る記事としたら、 タイトルをこんなふうにつけたいですね。
人間の失敗と神の憐れみが出会った現場につけたい。 本当にそうなんです。
人間の失敗と神の憐れみが出会った現場なんです。 だから今日の物語の現場はですね、神の約束を忘れてしまって失敗したアブラウム。
神様がなさった約束を誠実に守って成就してくださる神様。
そして人間の失敗にもかかわらず、憐れんでくださる神様が出会った現場なんです。
ところが皆さん、私たちはここで、
このアブラウムが立っているこの現場に、
そこに立っている、そこにいる自分自身を見るようになります。 この現場に嘘つく私がいます。
この現場に許さない私がいます。 この失敗の現場に頑固な私がいます。
この失敗の現場に、
罪を罪と思わない私がいます。 この失敗の現場に信仰と生活が一致していない私がいます。
いや、アブラウムよりもっと悪い人間、私がこの現場にいます。
皆さんどうか、この失敗の現場の中で、そこにいる自分自身を
見つけてほしいんです。
向き合ってほしいんです。
目を逸らす、耳を伏せかす。
この失敗の現場にいる、罪深い自分自身と向き合っていただきたい。
そして、ある意味で悩んでほしい。
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避けてほしい、祈ってほしいと思うんです。
そして、そこでアブラウムが出会ったように、
憐れみ豊かな神様に出会ってほしいんです。 約束に誠実な神様に出会ってほしいんです。
これを見ないでですね、 アブラウムのストーリーは
ただ嘘ついたアブラウム悪い、それで終わってしまうんです。 最近読んだ
カウンセリングの本の中でですね、アメリカの 専門家が書いた本の中でですね、こんな話がありました。
個人と夫婦、家庭、教会を美しい神の国の現場として
建て上げる最も大事な材料の中の一つは、 憐れみだということです。
個人を、夫婦を、家庭を、教会を素晴らしくね、神の国としてですね、
この地上にある天国として建て上げる材料、 木やコンクリートや釘や電気じゃなくてですね、
その材料の中で最も大事な中の一つは、憐れみだということなんです。 そしてこの憐れみは単純なかわいそうだなという感情じゃなくて、
それを乗り越える石だ、心の石。 本当にそうだなと思いましたね。
私はまだまだ、僕会の進学から数えると20年しか経ってないですし、
まだ50年の人生、振り返ってみればですね、本当にそうと思うんですよ。
神様の憐れみがなかったならば、ここにいることできません。 恥ずかしくて、神の御前に近づくことできません。
私がどれだけ偽善的で、どれだけ嘘つきで、 どれだけ悪いものなのか。
かえりみならば、もう罪だらけのものなんですよ。 こんな私を神様は憐れんでくださって、
それでも憐れんでくださって、 僕死にしてくださる。
選挙死にしてくださった。 僕が良させてくださった。
そして、今ここにいるということなんです。 神の憐れみがなかったならば、今の自分はいない。
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私だけの考えなんでしょうか。 皆さんもそう思われるんじゃないでしょうか。
投票しながら、 夫婦、家族、
教会を建て上げるのは何であろうか、じっくり考える時間を持ちました。
いろんなものがあるかもしれませんけれども、
私は、互いを憐れみ合う心だと、
改めて感じました。 互いを憐れみ合う心。憐れみの心ですね。
妻の弱さ、 夫の弱さ、足りなさ、
悪さ、それを憐れみ合う心。
子どもたちの足らなさ、弱いところ、未成熟なところを憐れみ合う心こそ、
夫婦の家庭を健全に、健康に建てる、
とても大事なことだと思いましたね。
教会も同じではないでしょうか、皆さん。
私たちを主の教会を建て上げるのは、互いに憐れむ心だと思うんですね。
互いの弱さ、悪さを、
互いにその重荷を背負うことなんです。
兄弟姉妹の弱さ、悪さを口を閉じて、
私がそれを背負って、涙をもって祈るところが教会であり、
それがイエス様の、
自分を愛するように他人を愛しなさいという御言葉の実践ではないでしょう。
感情としての憐れみじゃなくて、神の意思としての憐れみをもって、ということなんですね。
そして一歩進んでいきますと、
兄弟の弱さ、あるいは悪さの中で自分を発見することです。
他人の傲慢の中で、それを指差すんじゃなくて、自分の傲慢がもっとひどいことを悟ること。
他人の足らなさの中で自分はもっと足らないものなんだと、それを悟ること。
他人の不信心の中で、自分こそ本当に不信心なものなんだと、自分を悟っていくことこそ、
成熟したクリスチャンの私ではないでしょう。
そして、こんな私をここまで憐れんでくださった神様を考えながら、
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神の憐れみをもって、夫婦、家族、教会でありたいんです。
それこそ、神の国が来ますように、この地上に神の国を、天国を建て上げる、作ることじゃないでしょうか。
エジプトに戻りましょう。
神様はですね、今も急ぎなんですよ。
アブラーマは後でも起こってもいいんです。
もう急いでですね、この再来の体を守らなければならないんです。
もう焦っているのは神様でですね、アブラーマはのんびりしているような気がしますけれども。
その約束を守って、そしてやがてはイエス様が生まれなくならない、大事なですね、もう始めなんだからですね、
神様が素早く働かれて、パロを叱ってですね、アブラーマもサライも無事にエジプトから連れ出してくださったわけなんです。
これはですね、ある意味でアブラーマがいい人だから、サライがいい人じゃなくて、神様がご自分の約束に、その約束を誠実に守られたということなんです。
失敗はアブラーマがして、その後始末は神様がなさったような気がしますね。
約束は人間が忘れて、その約束を神様が誠実に守られる現場でした。
アブラーマはエジプトで、大いなる神様にお会いしました。
彼は理解することのできないほどの憐れみ豊かな神様に出会いました。
彼は自分の失敗が収集するそのプロセスの中でですね、人間がどれだけ悪くて弱くて自己中心的な堕落したものなのかを徹底的に悟ったと思うんですよ。
そして同時に自分が信じる神様がどれだけ偉大なお方なのか、約束にどれだけ誠実な方なのか、
そしてどれだけ憐れみ豊かな方なのかを分かったんです。
こうしてアブラーマは、彼の信仰は失敗を通して成熟していきました。
皆さん、人間の失敗の現場、決して無意味ではありません。
そこで私たちが自分自身の財政を徹底に悟り、神の前に比例をして祈り、悔いを改めるならば、失敗の現場は恥の現場ではなく祝福の現場に変えられます。
そしてそこで約束に真実な神様に出会って、憐れみ豊かな神様に出会うならば、失敗の現場は何にも変えられない深い深い恵みの現場になります。
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この恵みが私たちにありません。心からお祈り申し上げます。お祈りしましょう。