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2021-06-27 35:06

2021/06/27:創世記(20)わたしがあなたに与える

2021/06/27 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 -18


00:00
みなさん、おはようございます。
今日も、守られて共に礼拝できますこと、本当に心から感謝いたします。
一言短くお祈りいたします。
神様、感謝します。
礼拝する我ら一人一人を覚えて、主のお言葉を語ってくださいますように。
聞く私たちは、心を素直にして、
あなたを切に求める信仰をもって、主の御前に近づきます。
どうか主よ、主の御臨在に、この場所が、私たちの魂が満たされますように。
主よ、お助けください、満たすけください。
主のお言葉を待ち望みつつ、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
葬式のメッセージが続いています。
今日は20回目。
私があなたに与える。私があなたに与えるという題です。
お話は、ロトがアブラムから別れていった後の話です。
この二人はなぜ別れたのか、その発端については先週学びました。
土地が狭いことと、彼らの財産が多すぎるからでした。
ところで、体が分かれるまで、神様は沈黙でした。
神様は、アブラムにもロトにも何も言われませんでした。
このような神の沈黙の時こそ、信仰が試される時だと思います。
その時にどう行動するかが、信仰の証になるでしょう。
これを考えたら、私たちにも当てはまることが多くあると思います。
人は生きていく中で、何かをしなければならない時があります。
何かを決めたり、選んだりする時です。
そのような時に、神様が夢にでも現れて、答えを聞かせてくださったらいいのですが、
むしろ沈黙の時が多くあります。
その神様の沈黙の時、しかも私たちが焦っている時に、
私たちはだいたい二つの中、一つの道を選びます。
一つの道は露頭のようです。
03:03
自分で目を上げて、自分で考えて、自分で決めます。
自分が主体になっています。
そして自分でやります。
もう一つの道はアブラムのようです。
自分は何もしません。
自分で目を上げることすらしないんですね。
どこを見渡すかも自分で決めません。
自分が主体になることを諦めます。
神様が目を上げなさい、見渡せなさいと言われるまで動きません。
これは弱い様子でも無力な様子でもありません。
むしろ神様だけに頼る様子です。
力を抜いて、完全に神様に委ねているからできる信仰の様子でしょう。
そしてその根底には神様への信頼があるからです。
しかし私たちの現実を見てみますと、
時には路頭のように歩むことも多くあるかなと思います。
時には神様を必要としません。
自分でできるからと思って、
自分の力で自分の決断で何でもかんでもしてしまいます。
力を抜いたらよかったのに、人間の気合があまりにも入ってしまって、
その逆、苦渋を飲まされたり恥をかいたりすることも多くあるでしょう。
しかし時にはこのような以前の失敗からちょっとずつでも成長して、
今度はより多く強く深く神様に委ねて、
見事に神様に導かれる時もあるでしょう。
信仰生活のことを振り返ってみるならば、
このような失敗も成功もあるのが信仰生活です。
しかし成長するにつれて、自分が主体になってする失敗がどんどん減ってきて、
ほとんどなくなるところに成長したいんです。
06:03
委ねること、導かれることがとても上手になりたいです。
いつまでも、私は神様に委ねることが下手です、苦手です、難しいです、
神様に導かれるのが未だにも分かりません、のような状態ではなく、
こういうふうに成長したいんですね。
さて、続いてアブラムのことを考えてみましょう。
もしアブラムがロトと別れる前に、神様から別れても大丈夫だよ、
私がこの地をあなたに与えるからといった約束を別れる前に言われたら、
アブラムは別れやすかったかもしれません。
ロトにいくらでも先に選んでもらえるでしょう。
しかしどうですか。
神様はいつアブラムに現れましたか。
アブラムはロトと別れるまでに、神様から、この場でですね、
神様からいただいたものは何もありませんでした。
何の約束もお言葉も与えられていなかったんですね。
神様は彼らが別れる前ではなく、別れた後に現れました。
神様のタイミングは絶妙ですね。
この時は信仰が働くかどうかが試される時でした。
実はこの時、アブラムもロトも信仰や信頼が試されていたんです。
その結果はどうなったんでしょうか、皆さん。
神様をどこまでも信頼して、信仰によって神様の現れを待ち望む信仰がアブラムにはありました。
しかしロトにはそれがなかったんですね。
ロトがアブラムから別れていった後、神様が言われました。
まるでアブラムがロトと別れるのを待っておられたかのようです。
でもこのタイミングが大事なんですよ、皆さん。
09:02
別れるまでにアブラムは神様から何も聞いていません。
約束を聞いたこともありません。
別れたら私が現れるよといった話も聞いていません。
しかしアブラムには自分の信仰によって目に見えないものが確信されていたのです。
どこに行くか、どこに住むか、この先はどうなるかについて、彼は信仰によって見ていたのでした。
これは新約聖書のヘブロ人への手紙11章1節が証するところです。
信仰は望んでいることを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
もう一度お読みします。
信仰は望んでいることを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
アブラムはその信仰によってこれからどうなるか。
肉の目には見えませんが、信仰によって目に見えないものが確信されていたのです。
これがロトとの大きな違いでした。
二人は同じ状況にいたのですが、一人は信仰によって目に見えないものを見ておりました。
もう一人は肉の目に見えるものしか見ることができませんでした。
みなさん、なぜ人生にこのような違いが起きるのでしょうか。
同じ状況にいるのに、なぜ違う反応が起きるのでしょうか。
それは信仰によってなのか、そうでないかの違いですね。
一人は信仰に生きる決断をし、もう一人は自分の欲望に従います。
これは私たちの姿をとてもよく表していると思います。
信仰が働いている人は、危機や試練のときに、その働く信仰によって種の道を選びます。
しかし信仰が働いていない人は、危機や試練のときに、ロトのように欲望に従う道を選びます。
12:01
目に見えないものを見られるか、目に見えるものしか見られないか、それは信仰によりますね。
みなさんはいかがでしょうか、この時世の中で。
みなさんの置かれている環境の中で、目に見えないものも見ていらっしゃいますか。
目に見えるものしか見ていないでしょうか。
アブラムに現れた神様は、彼にこう言われました。
14・15節
さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から、北・南・東・西を見渡しなさい。
15 私はあなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。
ここで注目したい言葉があります。
それは、目を上げてです。
みなさん、この文脈をよく考えてほしいのですが、
アブラムは、自分が見たいところを見たのではありません。
音のようにですね、あの定地がいいなあとか、
あのツワルはうるおっていて、そののようだなあとか、
自分が見たい、自分が欲しいところを自分で見ているわけではありません。
神様が目を上げなさいと言われました。
そして彼は目を上げて見ました。
ここに、アブラムの行動や考えや行いの主体は、アブラム自分自身ではありません。
神様です。
神様が上げなさい、見渡しなさいと言われたので、その見言葉に従って、アブラムは目を上げて見渡しました。
これが簡単にできると思うんですけれども、実はみなさん、難しいことだと思いますよ。
私たちは、自分に何かができるとき、持っているとき、
たくさんの経験があるとき、あるいはいろんな知識を持っているときに、
自分で目を上げて、自分で見渡して、そういうふうにしやすいものです。
15:07
自分でできるからと思うからです。
今、ロトのように神様を必要としないんです。
しかし、アブラムは違いました。
自分で見ることも、見渡すことも、決めることもできるはずです。
できます。
しかし、アブラムは何もしませんでした。
決めることも、目を上げることも、見渡すことも、どこに行くか、どこに住むか、何をしようか、思うことすらアブラムはしていないんです。
まるで諦めているようです。
それは、信頼からできる安心だと思うんです。
私がやらなくても、私が目を上げなくても、私が決めなくても、神様は必ず教えてさせてくださるんだ。
そのときを待ちましょうといった信頼があるから。
こういうふうに導かれるものになります。
みなさんは神様に導かれるのが上手ですか。
自分が先走るのが得意ですか。
これがロトとの大きな違いです。
10節を見てみますと、
ロトが目を上げて、ヨルダンの定地全体を見渡すとありますね。
ロトが目を上げてとあります。
神様が見上げなさい、見渡しなさいとではないんですね。
彼は自分で自分の目を上げて、自分が見たいところを見渡しました。
自分が自分の人生の主体になっています。
信仰によって決めるかどうかが試されていたんですけれども、
彼は見事に失敗してしまいました。
みなさん、この世の中の多くの本や価値観、
さまざまなところで、今この21世紀に
とても深く浸透している考えは、自我実現というものですね。
18:00
あなたの自我を実現します。
自分が主体になってやりなさい。
あなた自分自身が第一で、あなた自分自身が最高だ。
主体になれ、自分で考えて、自分で決めて、自分でやりなさい。
といった思想が、メディア、
さまざまな媒体を通して、深く浸透していると思うんです。
しかし、聖書は、神様は、実は逆を教えておられます。
あなたが主体になって生きるのではない。
私が主になって、あなたを引っ張るのだ。
私があなたを導くのだ、と教えられます。
だから私たちは、その間に立っていて、どれを選ぶか、それが常に試されています。
アブラムの場合には、彼の細かい生活の中に、
実生活の中に神様が登場して介入されました。
入ってくださいました。
何度も繰り返しますが、アブラムは、神様が目を上げなさいと言われたら、目を上げました。
神様が見渡しなさいと言われたから、見渡しました。
アブラムは、実は何もしていません。
どこに行って住むかも、自分で決めていません。
どこを見るかも、自分で決めていません。
自ら主体になって、何かをしようともしません。
まるごと神様に委ねている様子です。
本当に肩の力を抜いているんですね。
やるぞ、やるぞ、みたいな、人間の気合も入っていないんです。
アブラムは、自分の生活の、実生活のど真ん中に、神様に入ってきていただいているんです。
そして、働いていただきます。
指示していただきます。
報告をさせていただきます。
語っていただきます。
アブラムは、これらを学んでいる中でした。
試された時に、見事に信仰を働かせました。
しかし、ロトはどうでしたか、皆さん。
自分の気合が、いっぱい入っていますね。
21:03
神様を信頼する様子が、全然見えません。
私は生きていて、神様は死んでいるかの様子です。
その結果は、私たちは漱石を何度も読んでいますから、それをすでに分かっているはずです。
このところでロトは、今は自分でできるから、神様がいりません。
彼は自分の経験や聞いたこと、見たことなどに振り回されて、ツワールを選びました。
そして、そこからどんどん移動して、やがてはどこに着きましたか。
ソドムとゴモラの町に行って、そこに住むようになりました。
どんどん罪の泥沼に溺れていくロト、その家族です。
彼が選んだ町の様子はどうですか。聖書はこのように話しています。
ソドムの人々は邪悪で、主に対しては華々しく罪深い者たちであった。
皆さん、ロトがそのツワール、ソドム、ゴモラのあの堕落の状態を全く知らなかったんでしょう。
何の情報もなかったと思いますか。そうではないはずです。
たくさんの噂を聞いたでしょう。知っているはずです。
どれだけ堕落した町なのか、十分知っているロトだと思います。
それにも彼はそこを選んでしまったわけです。
信仰のかけた考えや決定は、もっと大きな災いや、堕落をもたらすことにつながります。
この朝、この教訓を心に留めたいです。
愛する皆さん、神様が皆さんの日々の生活の中に入っていただくようにしてください。
心よく、思い切り神様に介入していただいてください。
神様に一生懸命に働いていただいてください。
それが信仰です。それがないと神様はいつまでも仮想の世界の神に過ぎません。
24:00
皆さんには心の中や生活の中に、もしも隠れたドア、秘密の部屋はありませんか。
秘密のドアの向こうには、私だけが楽しんでいる隠れた空間はありませんか。
神様にも誰にもオープンしていない密室です。
もしもそこに、ひそかに罪が育ってはいないでしょうか。
その密室というものは、こういう部類のものです。
隠れた罪、みだらな罪、中傷、憎しみ、虚栄、偽り、偽善、妬み、中毒等々です。
もしもそのような密室があるなら、できる限り早めに神様にその部屋に入っていただいて、
働いていただいて、きれいに掃除していただいてください。
そうして生きていってください。
これを私たちは解決しなければなりません。
ある先生のメッセージを聞いて、「神様が現実になる信仰」という言葉を聞いて、とても心に響きました。
神様が現実になる信仰、どういうものでしょう。
神様が考えの中でもなく、仮想の世界でもなく、遠くにいる存在でもなく、
今ここに、私の日々の生活のど真ん中に、実際におられ、実際に働かれる現実の神でなければならないという意味でした。
密室の話をしましたけれども、なぜキリチャンになってからも、数十年信仰生活をしていても、なかなか変わらないままでしょうか。
罪との戦いだけではなく、その人格も行いも品性も変わらないままでしょうか。
罪との戦いから勝利するのがなぜまだまだ難しいでしょうか。
そのメッセージでは、神様が私たちの人生に生活において、現実になりきっていないからだと話していました。
27:01
今、皆さんの前に私がいるように、皆さんの日々の生活、その中、皆さんの隣にイエス様が実際に現実におられるなら、どう生きるでしょうか。
罪を犯せるでしょうか。誰かに電話して悪口ができるでしょうか。偽りができるでしょうか。
偽善者のままでいられるでしょうか。できませんよね。私の隣にイエス様がおられるから。
イエス様が現実の神として私の隣におられるから、できないんですよね。
しかし私たちは、神様は天上にだけおられる神として考えているかもしれません。
あるいは、私が必要とする時にだけ引き出せる存在として思っているかもしれません。
まるで霊囑子や引き出しのように、慰めが欲しいなあ、引き出す。憐れみが欲しいなあ、引き出す。みたいにです。
自分に何かニーズがある時にだけ神様を探す。
必要としない時には忘れてしまう存在として過ごしている様子です。
ごとです。そこには罪に負けることが続くでしょう。
アブラムは神様が現実になっている人でした。神様が彼の実生活におられました。
彼には神様がリアルでした。仮想の神ではないんです。
この私は、当病を通して自分に密室があることを悟らされました。でも幸いでした。
もしそのまま悟らなかったなら、私は滅んだかもしれません。
しかし、主は私を憐れんでくださって、病気を通して悟らせてくださいました。
考えたらですね、強制的にでも悟らされることは幸いなことだなと思いました。
私の密室には偽善や偽り、妬み、罪、虚栄のようなものでいっぱいでした。
30:09
気づいていながらも見ようとしませんでした。先に回しているばかりでした。
神様はそんな私の密室に突然入ってきてくださいました。
そして、汚れに汚れた私の密室をきれいに掃除してくださいました。
今も神様のクリーン作戦中だと思います。本当に感謝なことです。
本当に命にあふれる日々です。皆さん、よく聞いていただきたいですが、
身体は元気であっても、もし魂が死んでいたら何の役にも立ちません。
むしろ、魂が生きていて身体が病んだ方がマシです。
愛する皆さん、皆さんの身体の健康に注意を払ってください。
コロナ感染に注意を払ってください。十分にです。
しかし、コロナ感染や身体の健康よりはるかに大事な魂の健康のために、何十倍も十分注意を払ってください。
いかがですか、皆さん。
コロナに感染されないためにワクチンを打ったり、予防したり、接触したりすることは良いことです。
それ自体が悪いことではありません。十分注意を払って気をつけてください。
しかし、どうでしょうか。その分、それ以上に皆さんは、皆さんの魂の健康のために、どれだけ祈り、注意を払って、熱心を注いで、関心を持って、励んでいるでしょうか。
勝手な私の想像ですが、今、世界中の人々がこのコロナ感染の対策を立てて、国中が対策を立てて、教会があらゆる方法を立てて、一生懸命取り組んでいる。
その分でも、私たちが福音宣教に、自分の霊性のために、自分の清めのために、励んで取り組んだら、どんなことが起きるんだろうな、と私は思いました。
あなたの皆さんの密室のドアを主に開けてください。どこまでも主を信頼してください。
33:04
そうして生きていってください。
今日の物語の結論部分を見ていきたいと思います。信仰によって神様に導かれたアブラムは、神様からどのような約束を与えられたでしょうか。
神様はアブラムに見上げて、あなたがいるその場所から、北、南、東、西を見渡しなさい。
私はあなたが見渡しているこの地をすべてあなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ、と言われました。
皆さん、この地はアブラムが、今彼の力で取れるものではないんですよ。戦って取れるものではありません。すでにカナン人、ペリジ人がそこに住んでいるからです。
とんでもない主曲が、その約束が与えられている場面なんですね。
それは、神様に主体になっていただいて働いていただくことは、私たちの力や能力をはるかに超える奇跡につながるんだよ、ということを証しています。
アブラムは、これらの出来事を通して、神様の御業をすごくリアルに体験しているのです。
失敗しやすい私たち、悪魔の罠に陥りやすい私たちですけれども、私たちもアブラムのように素晴らしい体験をしたいです。
神様が働かれる人生、神様が介入される人生の主人公になりたいです。お祈りしましょう。
35:06

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