00:02
おはようございます。今日もようこそいただきまして、メッセージを入る前に、先週のメッセージの中で、少し訂正したことがありまして、
統計を終わらせたところを確認しましたが、私たちの教団は、1999年対2014年の在籍数は、約-7000人から約-1000人ぐらいに形成いたします。
データの誤りでした。失礼いたします。
では、いつものように隣の方と挨拶しましょうか。では一言お祈りさせます。
よくやった。より忠実なしもてだ。あなたは、わずかなものに忠実だったから、私はあなたにたくさんのものをまかせよ。主人のよろこびをともによろこんでくれ。
アーメン。主よ、この諸羅さんの言葉は、私たちが、イエス様の再臨の日に、イエス様にお会いした時に、イエス様が優しく肩をなでてくさって、肩を上げてくさる言葉であることを、私たちは信じ、期待しております。
今日もこの朝、主よ、この場にいる私たちが、ここで神様にお会いし、あなたの御声を聞く、恵みの時、よろこびの時としてくださいますように。そして、神様の中にある希望を見出す時としてくださいますように、お願いいたします。
霊とお誠をもって、主を礼拝するものを、主は探し求めてやがれるわけですから、主よ、この朝、最初から最後まで、霊とお誠をもって、主を礼拝できますように、我らを導いてください。このものを隠して、神様御自身の身胸と、そして、言葉をあたたきに教えてくださいますように。イエス様の皆によってお祈りいたします。
コリン・トビトへの手紙、大事なメッセージが続いている中で、先週に続きまして、終末論と言いましょうか、終末についてもう少し御言葉の恵みをお受けしたいと思います。
03:03
皆さん、私たちがイエス様を信じている中で、大事なのがたくさんあるかと思いますが、その中に最も大事なことが一つあって、それを言えるならば、私たちがイエス様を信じていて、自分にとってイエス様はどのような方なのか、ということではないでしょうか。
私にとってイエス様はどんなお方なのか。
例えば、イエス様は裁判官のような厳しい方だというイメージを持っていれば、その人にとってイエス様はそんな厳しい、怖い方になるかもしれません。
あるいは、イエス様はいつもゆるってくださる、慰めてくださる方だという信仰のイメージを持っていたら、その人にとってイエス様はそのような方として交わりをさせてもらうでしょう。
では皆さんにお聞きしたいと思います。
あなたにとってイエス様はどのようなお方なんでしょうか。
自分にとってイエス様はどんなお方なのかが大事だと思うんですね。
それにお答えできるクリシャーになりたいと願っております。
今日のいわゆるタラントの例え話のこの世紀は何度も皆さんがお口になったことだと思いますが、
今日のお見言葉をどの角度から、どの視点から見るかによっていろんなメッセージがここから出てくると思いますけれども、
この中で私たちはイエス様が、特にシャイリンのあのイエス様がどのようなお方なのかを私たちに教えている言葉であります。
イエス様は再びおいでになります。
ところがそのときシャイリンのイエス様がどんなお方なのかということが今日のポイントになります。
まず第一、シャイリンのイエス様は私たちの労苦を褒めてくださる方です。
今日の例えの話で主人が手元に大きな莫大なお金を預けて長い旅をしました。
そして帰ってきて生産をしました。
一人の手元には5タラント、もう一人の手元には2タラント、もう一人の手元には1タラントをそれぞれ主人が預けました。
06:05
このお金の個数は、ここで大事なのはそれがいくらなのかということではないんですけれども、
ちなみに言いますと、このタラントが金のタラントなのか銀のタラントなのかでちょっと違いますけれども、
例えば銀1タラントだったら約20年分の賃金にあたります。
金1タラントだったらその15倍ですから約300年分の賃金にあたる相当なお金になります。
もう専門学的なお金を預けて、こういう素晴らしいものが神様から預けられたということであります。
ところが主人が帰ってきて生産をしました。
その時に5タラント、それから2タラントを預かった二人の妻は、
主人が預けてくれたお金を持って一生懸命商売をして、そしてお金を儲けました。
ところが二人の妻は、この御言葉の行間を見ていきたいと思います。
この5タラントと2タラントを預かった妻は、この御言葉を見たらすぐに出て、そして商売をした。
そしてお金を儲かったとあります。
皆さん、なぜこの5タラント、それから2タラントを預かった妻は、こんなに一生懸命に商売をしたり働いたんでしょうか。
なぜなんでしょうか、皆さん。
それは主人が怖いからでしょうか。
商売をしないと怒られるからでしょうか。
クビになるから、それを怖くて一生懸命やったんでしょうか。
直接に書かれていませんが、1タラントを預かったものの言葉から、私たちは考えられることがあります。
それは、5タラント、2タラントを預かった妻は、自分の主人は、私たちが一生懸命商売して働くと、それを褒めてくださる。
そして、もっと良いものを預けてくださるという主人だということを彼らは分かっていたから、喜んで商売をして、喜んで働きをしたのです。
このしもべたちは、この時に雇われてお金が預けられたしもべではないでしょう。
前からこの家の主人のしもべでした。
09:00
だから、このしもべたちは、自分たちの主人がどんな人柄のどんな主人なのか、よく知っているはずなんですね。
一生懸命働いたら褒めてくれて、認めてくれて、励ましてくれる良い主人であることを、この二人はよく知っていたのです。
だから、この二人のしもべは、主人がお金を預けたら、旅を出て、すぐに出て、商売をしてお金を儲けたので。
だから、主人が帰ってきて、この二人のしもべに何と言ったのでしょうか。
二十一節をもう一度一緒に読みたいと思います。
二十一節、一緒に読みますね。
この主人は彼に言った。
よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたはわずかなものに忠実だったから、私はあなたにたくさんのものをまかせよ。
主人の喜びを共に喜んでくれ。
皆さん、このようにサイリンのイエス様は、私たちを処罰するために来る方というより、
私たちたちのために、教会のために、神の国のために、あるいは兄弟姉妹のために、あるいはこの世の人々のためにやったことを、
それを評算するため、励ますのために来られる方ということなのです。
私たちは皆、必ず、いずれかイエス様の御前に立つ日が来ますね。
そしてこのところは、今日のこのござらんと、にざらんと預かったしもべが言われたように、
私たちのイエス様から賞をもらおうとこになるのです。
よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたはわずかなものに忠実だったから、私はあなたにたくさんのものをまかせよ。
主人の喜びを共に喜んでくれ、というイエス様の褒め言葉を、イエス様から賞をもらう日が祭輪の日なんです。
今まで皆さんが、ある方は十数年、ある方は数十年の間、
この99%がイエス様を信じない、信じないどころか反対する、
クリスタンをバカにするというようなこの社会、あるいは学校、あるいは家庭、仲間の間で、
皆さんは今まで立派に信仰を守っておられたわけです。
12:05
イエス様を信じてきた日が長いかもしれませんが、時には嬉しい日もたくさんあったでしょう。
しかし、イエス様のために、あるいは信仰のために、その信仰を守るために涙を流した日も多かったのではないでしょうか。
特には、バカにされたこともあったかもしれない。
時には、変わったものだな、変なものだな、そういうふうに言われたこともあったかもしれない。
イエス様のために恥を見たことも、それを耐えた日も多かったかもしれない。
恥を愛して、捧げ物を精一杯捧げて、時間を捧げて、汗かいた日も多くあったでしょう。
何度も何度も断れましたけれども、イエス様を愛するから殿堕ったこともたくさんあったのではないでしょうか。
皆さんが今まで、そしてこれからも、イエス様を愛してお仕えするその献金と涙と汗と、あるいは忍耐を、私は全てご存じであられる。
そして、この世においても報いてくださるんですけれども、
帰臨の日には、私たちが今まで見たことも、受けたことも、もらったこともないような、もう想像を超えるような、
あまりにも素晴らしくて、そっとするような表を神様が上位して与えてくださるということであります。
皆さん、信じますか。期待していらっしゃるでしょうか。
最近、ショーテッド会で伝道者の書の見言葉が終わって、カタカタに入っていますけれども、
伝道者の書の見言葉に、本当に私たちを励ましてくださる見言葉が一説あります。ちょっと説きたいと思います。
旧約聖書、伝道者の書、第9章7節、1112ページです。
1112ページ、伝道者の書、旧書7節、それでは一緒に読みたいと思います。
さあ、喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたのぶどう酒を飲め。
神はすでにあなたの行いを喜んでおられる。
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ここにですね、三行目の見言葉を注目していただきたいですね。
神は、神様はすでにあなたの行いを喜んでおられるということであります。
どういうのでしょうか、皆さん。
皆さんが今まで、イエス様が言ってきたすべての行いを、イエス様はすでに知っておられる。
そして知っておられるだけではなく、その行いを喜んでおられるということなんです。
何と嬉しいことでしょうか、皆さん。
これは本当に嬉しいことではないでしょうか。
この見言葉、この通りに受け止めていただきたいです。
死のために、教会のために、一人でも多くの人々を救いに導きたくて、
した皆さんの愛の業を、その行いを、その研究を、その奉仕をすでにイエス様は知っておられることなんです。
そして喜んでおられるんですね。
神はすでに、すでにあなたの行いを喜んでおられる。
皆さん、これを知って、これを信じて、
ああ、イエス様は、私にはイエス様はこんなに素晴らしい方なんだ、良い方であって、
喜んでくださるかなと思うんだったらですね、信仰生活が嬉しくなるんじゃないでしょうか、皆さん。
喜んで喜んで、ああ、イエス様が私のことを喜んでくださる。
この奉仕を喜んでくださる。この小さな奉仕が喜んでくださる。すでに知っておられる。嬉しい嬉しい。
だから喜んで死に、なおなおお使いできることではないでしょう。
子供もそうですし、大人になってもそうなんですね。
叱られて叱られて、怒られて怒られて、させられる人と、喜んで死ぬ人とは全くその結果が違うと思うんですね。
皆さん、私たちの残っている人生、イエス様が喜ばれることを知って、そしてその日にイエス様にお会いしたいんです。
今まで皆さんがイエス様のためになっておられたこと、すでに主は喜んでおられます。
そしてこれからも主は喜んでくださるんだという信仰を持って、主のためにお使いしながら歩んでいこうではありませんか。
18:05
そしてイエス様のために生きる、イエス様に喜ばれることをしながらイエス様にお会いしたい。その場に立たせていただきたいと願っております。
2番目、再びのイエス様は私たちがしたことに対して、したことを報いてくださる。
今日のマタイの訓示の二言葉に戻りますと、主人は下部たちにこう言いました。
イエス様が私たちに語ってくださる言葉であります。
おたらんとあずかったものにも、にたらんとあずかったものにも、まったく同じ言葉が、共産の言葉が語られました。
もう一つ私が用意します。
よくやった。よい忠実なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから。
その次ですよ。私はあなたにたくさんのものをまかせよ。主人のよろこびをともによろこんでくれとありました。
つまり、イエス様がみなさんの忠実さをご覧になって、そしてさらに多くのものをまかせてくださる。
これは簡単に言うならば、イエス様がみなさんを一人お一人お一人を、日本語で言うならば同僚者、パートナー、相棒として、
そう思ってくださって、ともにいたい、ともに働きたい、ともに歩みたいという意味なんです。
愛しているから、好きになっているから。
イエス様によってみなさんの奉仕が、献金がもう心強い嬉しいから。
例えば誰々さんと一緒にいるのがちょっと気まずくて、あんまり嬉しくない。どちらかが一緒にいるのがちょっと嫌なんですね。
ところがイエス様は私たちとともにいたい。あなたは私の相棒だよ。
パートナーなんだよ。一緒に働こうとしてくださるということなんです。
それほど喜んでおられる。あなたのこと、私たちのことを喜んでおられるということなんですね。
この言葉にはイエス様が私たちのことをどれだけ喜んで信頼してくださるのかがここに実は記されています。
イエス様がみなさんのことを信頼してくださっているんですよ。信頼してくださっている。
なんと感謝なことでしょうか。
信仰というものは、イエス様が私のことを喜んでおられる。私のことを信頼してくださる。
21:05
だから私のために生きようという、こんな信仰を持ちたい。
1ヶ月制度を開きたいと思います。
新約のヨハネの黙示録、22章、12節。新約制度の502ページです。
ヨハネの黙示録、22章、12節、502ページ。
それではご一緒にお読みしたいと思います。
みよ、あたしはすぐに来る。あたしはそれぞれの仕業に応じて報いるために、あたしの報いを携えて来る。
皆さん、イエス様が帰るのに報いを携えて来ると言われました。
この報いと訳されている言葉の意味は、報いという言葉の意味もありますし、
報酬あるいはご褒美という意味もあります。
英語ではリワードという言葉ですけれども、どういう意味でしょうか。
つまり、イエス様はすぐに来られる。
祭輪の日が必ず来る。その時にイエス様がたくさんのご褒美を持って来られるということです。
そして誰々さん、あなたはこれをご褒美、これはあなたのご褒美だよと、それを私たちに与えてくださるんですね、皆さん。
皆さん、もし学生の時に卒業式とかどこかで票をもらったことありますか。ありますよね。ないですか。
あるかどうかわかりませんけれども、その嬉しさがある。
しかしですね、祭輪の日にイエス様にご褒美を今日もらうのは、この市場でもらう票とはもう比べらないことでしょう。
祭輪のイエス様は、私たちの皆さんの労苦を、皆さんの奉仕を、あるいは皆さんの権威心を、皆さんの忍耐を、皆さんの涙を、主が報いてくださって、ご褒美を与えてくださるんです。
皆さん、期待してください。その日を期待していただきたいんですね。
イエス様の祭輪の日は、そのために、道を信仰守って、天神の道、信仰の道を守り通した人々には、もう祭輪の日であってですね、
24:01
今日もらう日であって、イエス様に褒めていただく、認めていただく、そしてイエス様がくださるご褒美をいただく日なんです。
ワクワクしませんか、皆さん。これが祭輪の日なんです。
イエス様のために生きてきた人、イエス様のために献身した人、
時にはイエス様のために薬を見た人、イエス様のために病気を得た人、苦労した人、
イエス様のために涙を流した人々が、その日には褒められて、ご褒美をもらって、そしてイエス様と共に悪人を支配するその日、それが祭輪の日なんです。
だから、このヨハネの目白21章4節にはこのように語っています。
私がお読みしますね。ヨハネの目白21章4節です。500ページですけれども、お読みします。
彼らの目の涙をしっかり拭いとってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
なぜなら、異然のものがもはやつけ去ったからである、という二言葉があります。
皆さん、皆さんが今までイエス様のために流した涙が多かったかもしれない。しかしですね、もはやその日には涙がないんです。
涙する必要はない。あるいは、今までイエス様のために、あるいは祭輪の日までイエス様のために命を失った、準拠した人がどれほど多くあるんでしょうか。
それは多分ですね、数えられないと思いますけれども、ある選挙団体、ワイヤモという団体の推算でしょう、それはね。
イエス様の意向から今まで、全世界でイエス様のために準拠した人数は約1億人くらいはなるでしょう、ということでした。
ほぼ日本人の人口ほどが、2000年の間、イエス様のために命を失われた。しかしその日はもはや死もありません。準拠もありません。
あるいはイエス様のためにどれだけ悲しんで、どれだけ叫んで、どれだけ苦しんできたことでしょうか。しかし、もはやその日には悲しみも叫びも苦しみもあります。
時には理解できなくて、イエス様の御前に、そして叫んだことがたくさんあるかもしれない。
27:03
死をなぜでしょうか、死をいつまででしょうかと叫んだことがあったのではないでしょうか。しかし祭輪の日にはその叫びもないのです。
だから皆さん、イエス様の祭輪の日は喜びの日であって、祭りの日であって、賞をもらう師匠式であって、ご褒美をいただくをしてあります。
そのように楽しみにしていただきたい。その日をもう待ちわびてですね、どうしようもない、そういうクリーチャーになっていただきたい。
だから、ガナテアビトの手紙6章9節にはこのように語っています。公約でお読みしますが、
私たちは善を奉納ごとに生みつかれてはならない。頼まないでいると時が来れば刈り取るようになるとあります。
皆さん、そうなんです。だからこの今日で頼まないで、善を行って帰りましょう。
時にはですね、生みつかれることもあるかもしれません。がっかりすることがあるかもしれません。
こんなに真似したのにと、しかし聖書は善を奉納ごとに生みつかれてはならないと言います。頼まないでいると時が来れば刈り取るようになる。
皆さんがね、撒いた善のその羽が必ず実になって、大多くの実になって、それを刈り取る日が必ず来るということなんです。
このようにですね、聖書は私たちに希望のメッセージを語っているんですね。
だから皆さん、この今日で私は手を合わせて人を合わせて、善を行ってまいりましょう。
イエス様は私たちの労苦を知っておられる優しいお方です。そしてその労苦を必ず報いてくださるお方です。
だから皆さん、私たちが最初に申し上げたように、イエス様を信じるときに、
ああ、イエス様はこんなに良い方なんだというイメージを持って信じることと、そうでないとは、その結末が全く違うんです。
それが今日の例え話の、一サラント預かったものの結末でした。
皆さん、一サラント預かったヒモ部屋はなぜ商売しなかったんでしょうか。一サラントが少なかったからでしょうか。そうでないんです。
20年分の給料ですから、どれくらいなんでしょうか。これは相当なお金なんですよ。けっこう小さいお金ではないんです。
30:03
ところがあれは、商売もしないで死を掘ってそこにお金を隠したんです。なぜでしょうか。その理由は何でしょうか。
今日の聖書の24節を私が読みたいと思います。
私の勲章25章の24節。この一サラント預かったヒモ部屋はこう言うんです。
ところが一サラント預かっていたものも来ていった。
ご主人様、あなたはまかないところから刈り取り、散らさないところから集めるひどい方だと分かっていましたよ、と言いました。
もっとリアルにリビングバイブル聖書はこのように訳していました。
ご主人様、あなた様は大層ひどい方でございます。私は前々からそれを存じ上げておりましたから、
せっかくお金を設けてもあなた様は横取りなさるのではないかと怖くて仕方がなかったのです。
それであなた様のお金を口の中に隠しておきました。はい、これがそのお金でございます。
ただしこういう意味でしょう。このヒモ部屋に何が間違ったのでしょうか。
このヒモ部屋は主人のことを全く勘違いしていました。主人はもうひどい方だと。横取る主人だと。
そう、全く勘違ったことを彼は思い込みが彼の中にあった。だからもうお金をせっかく儲けても全部取られるからもう意味がない。
それで同じ家の同じヒモ部屋なのに、他の二人は主人は報いてくださる主だと。
ほめてくださって、もっと多くのものを任せてくださる主人だと彼らはそう知っていたから、その結末は素晴らしかったんですね。
ところが同じ家にある同じヒモ部屋なのに、この生きさらんと預かったヒモ部屋は全く間違ったイメージを思い込んでいました。
そんな結末に向かいました。そもそもこの生きさらんと預かったヒモ部屋が思い込んだとおりになってしまったわけなんですね。
皆さんこのように私たちが家様を正しくすることが本当に大事なんです。
間違った進歩、間違った思い込みの結末は、今日の御言葉から考えますと、思ったより結末は深刻なんです。
それほど家様を正しく知って、正しく信じることが本当に本当に大事なんです。
33:01
だから私たちが正しく家様を知ろうではありませんか。
その家様を正しく信じて、そしてその日までお見つかりでいないで、失望しないで、頼まないで、
家様にお伝えする、検診して、そして家様を愛していこうではありませんか。
そしたら必ず家様がお褒美をたくさん携えてこられて、報いでくださって、褒めてくださって、
多くの働きをまた家が共にしてくださるのではないでしょうか。
その日は必ず来ますよ、みたいな。
だから帰りの日はただ怖い、阻かれてどうしよう、もう逃げようかという日じゃなくて、喜びの日なんです。
フェスティバルです。今日をもらう日なんですよ、みなさん。
ですから私たちみんなが家様の祭りの日に、家様に大きな大きなご褒美をいただくことを期待しつつ、
家様と教会と兄弟妻をまたこの世を愛して、支えていこうではありませんか。
お祈りです。
それでは今日の御言葉を覚えて、
それぞれ神様に感謝の祈りをしばらく応答の祈りをさせていきたいと思います。
お祈りいたします。