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皆さん、おはようございます。
今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。特に総会員の陛下でよろしくですけれども、
共に神様を礼拝できるこの恵みを心から感謝いたします。
それでは、周りの方と挨拶をしましょうか。
おはようございます。
ありがとうございます。一等とお祈りします。
シリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に述べ伝えた。アーメン。
神様、主は私たちにも口を開かせて下さって、イエス・シリポの救いを述べ伝えるものとさせて下さい。
そのため、主なる神様を愛する心、その愛をまき加えて、主を厚くて深めて下さいますように。
主への愛で満たして下さいますように、お願いいたします。
神様、ご自身が一人一人にお語り下さいますように、私たちは心を祝福して、
また心を開いて、あなたの御言葉を起きてきますように、祝福して下さい。
イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン。
今日は創会が開かれますので、2019年度の教会票後であります、
一人が一人をイエス・キリストに導くというところから、
聖徒はその働き、8章26節からですが、
愛すれば伝導するということから、神の御言葉を共にお受けしたいと思います。
皆さん、私たちを動かす力には様々なものがあるかと思います。
例えば、ある人はただの何かをするときに、純粋な動機で動く人もいます。
あるいは、ある人は楽しみだから動く人もいたりします。
あるいは、ある人は自分に有益になれば動く人もいたりします。
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あるいは、私たちのようなクリスチャンは信仰によって動きます。
そこに、人を動かす最も大きなパワーは、愛ではないかなと思います。
愛が人を動かすと言っても間違いではないと思います。
今からスクリーンの写真を3枚ありますが、見ながらお話をしたいと思います。
2010年、オーストラリアのある病院で起きた奇跡のような不思議なことが起きました。
ある病院の名前は、ケイト・オックサという双子を産みました。
ところが、弟は無事に出産しましたが、お兄ちゃんの子は生まれて900グラムだったそうです。
ところが、お医者さんが20分にわたって救命活動をしましたが、
結果的には息ができなくて、いわゆる死産ということになって、息が死亡を告げたそうです。
ところが、その死亡と告げられたときに、
お父さんがぶったりと言っている長男の方、ジェイミーと言ったそうですが、
毛布から赤ちゃんを取り出して、そしてママのガンを抜いて、
胸の上に赤ちゃんの素肌を振り合わせるように抱かせたそうです。
そしたら、実際にYouTubeに動画もありますが、
その母親、お母さんが2時間、軽く抱っこしながら、英語でしょうね、
ジェイミー、アイラビー、アイステルヨー、アイステルヨーと2時間ずっと抱いて、名前を呼んで、なでいていたそうです。
2時間もあきらめずにいたそうです。
そしたら、2時間が経って、不思議なことが起きて、
全然2時間の間、息をしていなかった赤ちゃんが、歩くように息をしてはじめたそうです。
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そして、お母さんがボニを指でつけて、櫛に当てたら、それを軽く舐め始めたそうです。
それでその子が、もう2時間、3時間経って、普通の赤ちゃんのように呼吸するようになって、
そして、今は普通の少年に大きくなっています。
2010年だから9歳ぐらいになっているでしょう。
その家族のフェイスとかがあったんですけれどね。
それでオーストラリアでは、まるでカンガルが赤ちゃんを抱っこするように、カンガルケアと言われる療法があるそうです。
その記事を、私はそれを読んで、そのお母さんの間、もちろんその中に医学的なことがあったそうです。
ホルモンが分泌されて、そういうようになったといろいろ、医学的なことがあるかと思いますけれども、
素人の私から、牧師から見れば、あのお母さん、お父さんの愛が、
その赤ちゃんはお医者さんから、もう亡くなりましたよと言われても、抱っこして名前を読んでいたときに、
動きがあった。そこには、そのお父さんお母さんの愛の家じゃないかなと思ったんですね。
愛には、人を動かす力がありますし、人に素晴らしい元気を与える、そのような力がある。
私たちは願います。私たちは神様を愛し、兄弟姉妹を愛するから、信仰活動をする、奉仕をするクイシャンでありたい。
主を愛するから、教会を愛するから、兄弟姉妹を愛するから、だから礼拝も奉仕も伝道も捧げ物も献身も、
神様を愛するから、教会を愛するから、させていただきたい。
そういうように願うクイシャンでありたい。何もかもそうなんですよね。
前もちょっと話をしましたように、もう仕方がなく、あるいは死なければならないんだから、
死ないと怒られるんだから、義務感ですることは、みんな非常に苦しいことなんです。
普通の教会の奉仕でもあろうが、教会の奉仕でも、しかし愛するから、喜んで礼拝をする。
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そこには命がありますし、喜びがあるんじゃないでしょう。
さて今日の聖書箇所は、イエス様が天に昇られた後、エルサレムにある教会、そこの信者や弟子たち、
教会のリーダーとして立てられた主人たちによって行われた伝道の働きのお話の中の一つですね。
当時の人物の名前はピリポです。彼はエルサレムにある教会の忠実な信者であり、教会のリーダーです。
ある日のことでした。今日の二十六節ですね、そこを見ると。
ミツカイが彼に南へ行って、エルサレムからガザに下る道に出なさいと言われたんです。
ピリポさんはその道で何が起こるかわからないんです。今からほぼ二千年前ですから。
そしてそこにね、強盗に出会うか誰に出会うかわからない、知らないままミツカイの声に従って下って行くんです。
ところが今日の二十六節の最後を見ると、格好の中にね、このガザは今荒れ果てているとあります。
他の政府は、その下って行く道は荒野であるとも訳されている。
その道がどれだけ荒れ果てているのか、ピリポさんは知らないわけではないんです。
なぜなら、今彼が下って行こうとする道路はですね、イスラエルとまたガザを通っていく、そしてエジプトに行く海岸道路という唯一、貿易とか商売、旅のために通る道なんです。
だからそれを知らないわけではない。しかもエルサレムからガザまでは約百キロメートルくらいあります。
ところが皆さん、二十七節を一緒に読みたいと思います。
そこで彼は立って出かけた。するとそこに、エジプト人の女王があんだけの公館で王の財産全部を管理していたカンガンのエチオピア人がいた。
彼は礼拝のためエルサレムに登り、最初にですね、そこで下って行きなさいと言われました。
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そこで彼は立って出かけたわけです。
ミスカイの声を聞いたピリポさんが取ったコードは何ですか。
すぐに来た。迷うこともなくすぐに立って出かけたということです。
今から行こうとする道は遠いです。しかも荒れ果てたところです。
それからガザのどこに行ったらいいのか、それも具体的な場所もわかりません。
けれどもピリポさんはどうでしたか。立って出かけました。伝道に出かけたということなんですよね。
魂の救いのために知らないところに何が起こるか誰に会うのか一つもわからないまま、ただ神の見こえに従って向かって出かけた。
皆さんピリポさんのこのような働き行動をどう説明したらいいんでしょうか。
何が起こるかわからない。何をしたらいいのかわからない。誰に出会うかわからない。しかも100キロメートルを行かなくちゃならない。
あるいはミスカイに旅費やお金をもらったわけでもありませんしね。
ガザにあるどこかのホテルのバウチャーをもらったわけでもないんですよ。何にもないんですよ。
でもピリポさんはミスカイにどこに行ったらいいんですか。何で私が行かなくちゃならないんですか。そこに何がありますか。旅館は準備してありますか。
何も聞かずに従順に従ったということは不思議だと思いませんか。
当たり前の意味は私だけは考えやすいんですよ。ピリポさんだから、あるいはパフォーマンスさんだから、ベテランさんだから当たり前でしょうね。
そういうふうに思いやすいですけれども、それは当たり前じゃないんですよ。ひとつも。
では何がピリポさんを動かしたと思いますでしょうか。
それは主なる神様への愛、他には説明しようがないと思います。主を愛するから。
その主への愛がピリポ彼自身を遠い前途の旅に出かけるようにまるで引っ張り出したと思うんですね。
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ピリポさんの主への愛が彼をあらのに向かわせました。その他にはならないと思います。
皆さん本当にそうなんです。主なる神様を愛するから、その愛がピリポさん。
それから今も私たちを動かしているんじゃないでしょうか。私たちの主なる神様への愛が私たちを礼拝へ、あるいは愛の行動へ、放置へ、魂の作りへ、伝導へ、私たちを突き動かしているんじゃないでしょうか。
最も素晴らしい力は愛、他には説明しようがないんですよ、実は。
このメッセージを準備しているうちに、ある選挙主のお若い主を呼んで、とても感動して、また自分反省なり悔やためをしたお若い主がいます。
ちょっと短いですけれども、ちょっとお話ししましょう。
カンボジアのココンという小さな村で選挙している選挙主の話です。
そのココンという村は、とても村がぽつぽつんぽつんある、そういうところですけど、とても眩しくて、本当に山の奥地みたいな、そういうところの村です。
そこで12年間、その村人たちにイエス・キリストを伝えて、そこには本当に親が早く亡くなって、あるいはいろんな薬とか麻薬とかそういったもので、
その家庭がもうゴロゴロになっている、そういう捨てられた小児みたいな子どもも多くいましたから、この先生はその小児たちを自分の子どものように一緒に暮らしながら、
服や、あるいは食べ物や、また英語も少し教えながら一緒に暮らして、小さな教会をやっている先生でした。
まともな電子施設もなくて、病院までは約100キロメートル以上行かなければならない、そんな村だそうなんです。
この先生はそこで、いわゆる風土病といわれる病気にも3回かかって、もう死の直前まで行くような経験もしたそうです。
マラリアにも3回かかってしまって、本当に死ぬほどしんどくて、もう痛くて耐えきれなかったことも多くあったそうです。
でも主の弟子だから、10年間そこで小さな働きですけれども、それをしておられました。
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ところが、また10年くらいになったある日、またそのそこの風土病にかかってしまって、寝込んでいたそうなんです。
20日経って、かろうじていよいよ寝込みが取れるようになって、その選挙主はもう病気も多く、とてもつらくて、
もう韓国の選挙主ですけれども、もう韓国に帰ろうと、帰国するつもりで荷造りをして、なぜか静かにその村を離れようとした夕方。
ところが、その選挙主先生の家のようなボロボロの空き地があるわけなんですね。
そこで遊んでいた一人の少年が先生を見つけて、先生、そこに行くの?って素直な顔で聞かれたそうなんです。
びくっとして、その先生が、いやもう完全に帰るんだとは言えないんですよね。
それで、ちょっと韓国に行ってくるね。大事なことがあってさ、今急に行かなくてはならないんだよ。
もうすぐに帰ってくるからねとね、そういうふうに嘘みたいに話をして、出かけようとしたら、
どこにいたのか、その子供たちが一斉に先生のところにやってきて、先生、行かないで、行かないで、僕たちを捨てないで、
もう地べたに泣いている子供たち、先生のカバンを引ったくるように引っ張る子供たち、
先生の足を掴んで行かないで、もう泣く子供たちがいたそうです。
その子供たちは親から捨てられた子供たちだったり、学校の小学校にもいたことがない子供たち、
小児のような子供たちを数十名、自分の子供たちのように養って、教えて、食べさせてきた、その子供たちだったそうです。
その時のことでした。先生の心の中に神様の声のような声が響いたそうです。
その選挙室に向かってですよ。
我が息子よ、君が私の代わりに十字架を背負ってくれないか。
誰かは十字架を背負って、この子供たちの家になって、牧者にならなければならないのに、
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誰かを滅んでいくこの村人たちをイエス・キリストに導かなくてならないのに、
誰かはこの貧しくてさまよう羊のようなこの村人たちを養って、キリストに導かなくならないのに、
あなたがその十字架を背負ってくれないのか、捨てられたこの子たちを愛してくれないか、というような声が主人だそうです。
その先生はそこで地面にそっと座り込むように膝をまづいて、ものすごく泣きながら神様に祈ったそうです。
主よ、愛がありませんでした。主よ、お許しください。
見えようとしました。僕がいなくても誰かがやってくれるだろうと思いました。
主よ、お許しください。これからこの子供たちのために、この村人たちの魂の救いのために十字架を背負わせていただきます。
この子たちを愛してまいります。主は私に愛を与えます。
その日以来、それで帰ることをやめた。
先生は不思議に、今までなかったような愛がなかったわけではないでしょう。
なかったら、あんなところで十四年間も活動できないしないわけなんですよ。
でも不思議に、さらに不思議な愛とパッションと言いましょうか、
力が不思議に神様から天から注がれて申し加えられて、今もなおそのカンボジアのココンという村で専居していらっしゃる。
その先生は何かがあって、たまに何年の一回、韓国にも帰国することがあるんですよね。
そしたらすぐにその村に帰るんです。天才のような子どもたちのところに帰りたい。
私の居場所はここ、韓国ではない、あのココンなんだとね。
それで今もなおそこで専居していらっしゃる、そういう先生のお話をクリスチャン新聞で読みましたけれども、
とても専居している自分もありますから、強く感動しました。
そして考えさせられました。
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ああ本当だ、私にあのような愛が溢れているんだろうか。
まだ私たちは神様あるいは兄弟姉妹をどれだけ愛しているんだろうか、と深く深く思わされました。
私はぜひこのメッセージを見せながら悔いを止めました。
そして祈りました。
主よ、私にもこの日本を、日本の魂を、
イエス様が愛されたように、キリポのように、パウロ使徒のように、選挙主のように、
私ももっともっと深く熱く愛することができるようにして下さい。
もっともっと心の底から愛することができるようにして下さい。
そして主よ、こんなものでも良ければ、この地で魂の救いのためにこのものを用いて下さいと祈ります。
今日神様から教えられたメッセージはシンプル、簡単、明瞭です。
愛すれば伝道するということであります。
皆さん、普段ですね、家族関係であろうが、親しい友達関係であろうが、
誰かを愛していれば、好きになっていたら、その人の必要が、心が見えてくるんじゃないでしょうか。
そうでしょう。
愛していれば、その相手を大切にして好きになっていたら、その人が今何を願っているのか、
その人に何が必要なのか、分かってくるんですよ。
見てくるんですよ。
言われる前に、もう分かっちゃいます。
そうでしょう皆さん。
同じなんです。
私たちが神様を本当に心から愛していたら、
愛すれば、神様が何を願っておられるかが、分かってくるはずなんです。
いや、見えてくるんですよ。
ああ、神様は、今私が魂の好きなために働くことを願っておられるんだ。
あの人に出会ってイエス様をノーマンションすることを願っておられるんだ。
この人を集会に誘って、またこの人のために祈ることを願っておられるんだ。
などなど。
そういうふうに、神様の御心が見えてくるんですよ。
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分かってくるんですよ。
感じられるんです。
何でしょうか。
愛するから。
他には答えがない。
愛すれば、見えてくる。
神の心。
このような格言のような言葉があります。
何かをするとき、賢い人は、命を懸けてする人を勝つことができない。
しかし、命を懸けてする人は、楽しくする人を勝つことができない。
しかし、楽しくする人は、愛でする人を勝つことができない。
だから、最も素晴らしい、私たちを突き動かす最も素晴らしい言語のことを言いましょうか。
根本的な力は、一生懸命やる努力でもない。
あるいは才能でもない。経験でもない。
愛であるということだ。
福祉も同じだなと思います。
奉仕も同じだな。
伝道のすごいノウハウを知っている人より、
とても豊富な信仰経験を50年70年持っている人より、
あるいは一生懸命何でも頑張る人より、
神様を愛して喜んで伝道する人より勝る者は。
これから皆さん、私たちに多くの今しめを教えて、
その中で一番大事な第一として教えてくださった今しめがあります。
そこをしたいと思います。
新約聖書のマタイノ福音書22章37節です。
マタイノ福音書はこれが最後の方に書かれていますけれども、
マタイノ福音書22章37節、私の聖書では46ページです。
そこの37節、一緒に読みたいと思います。
そこでイエスは彼に言われた、
心を尽くし、思いを尽くし、視力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。
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アメン。
38節を再び読みますね。
これが大切な第一の今しめです。
心を尽くし、思いを尽くし、視力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。
あなたの神である主を愛せよ。
なぜでしょうか。
愛すれば、愛が一番の大きなパワーだからです。
2024年の教会祝福は、一人が一人をイエス・キリストに導く。
覚えられたでしょうか、皆さん。
一人が一人をイエス・キリストに導く。
でもね、私は皆さんに、伝道しましょう、伝道しましょう、何をしないんですか、とね、
そういうふうに強引にお願いする気持ちは、
ただ、私も皆さんも、
このマタイの22章の37節、イエス様が言われた見言葉通りに、
心を尽くし、思いを尽くし、視力を尽くして、
私たちの神である主を愛しましょう。
それは、お話しなくてはならないですし、お願いしたい次第でございます。
皆さん、今までも皆さんは本当に主を愛して歩んでおられます。
そこからさらに深く、心から主なる神様を愛しましょう。
その愛が、私たちを主のために、主の教会のために、この国のために動かしてくれる素晴らしい、
今日は、第26回教会総会がまもなく開始されました。
今まで26年間、多くの兄弟姉妹たちが、本当に心を尽くして、思いを尽くして、
視力を尽くして、神である主を愛して、応援してくださいました。
お名前は申しませんが、ある方は教会役員を20年以上務められました。
ある方は、教会役の法師も20年以上、10年以上された方々も、大勢おられます。
本当に、主への愛によらなければすることのできない、尊い国家だと思います。
他の方々も同じだと思います。
ところで、今、八谷教会も日本の教会も、きちっと言えばきちっと言える時代を迎えているのではないかと思います。
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もちろん、物事を主観的にもう仕方がありません。そういう話をするわけではない。
社会の消費化、高齢化、働く若い人々が足らない。
現状は、ある意味だけでも厳しいところに私たちは今来ています。
キリスト教の信者の数は横ばい状態ですし、教会の数も増えていない状態です。
教職者の人数もどんどん減ってきています。進学者の数は減ってきています。
今まで一つの教会に一人の牧師がいることが当たり前の時代でしたけれども、
今からは二つ三つの教会に牧師が一人になる時代が既に来ています。
教庫のある教会は、両大の教会より年齢的にも人数的にも良い状況ですが、
2019年度からは他の教会と二つの教会を一人の先生が見牧することになりました。
この教会にはお二人の先生の夫妻は病気で早めに引退されることになりました。
こういう状況の中で私たちは何をしてどこを目指していったらいいのでしょうか。
もしも状況がこのまま続きますと、牧師はどんどん少なくなっていくかもしれませんし、
あるいは今ある牧師は力も命も尽くして倒れていくことも起こるかもしれません。
あるいは両大教会もこのままだったらどこかの教会と合併することが起こるかもしれません。
あるいは一人の先生が両大の教会と他の教会を一緒に牧会することも起こるかもしれません。
ある意味で私たちは今駆けぶちに立っているのではないかと思います。
こんなところで私たちは昔はあれをやってよかったのに、今そんなことで寂しいんだとか、
実は私たちはそういう場合じゃないです。
教会、教団の牧会をすると、とても危機感が漂っているんです。
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全部は皆さんには言いませんけれども。
しかし、いくら状況が難しくても変わらないものがあります。
それは私たちの父なる神様の力と救いへのその御心は、パッションは変わっていません。
善のなる神様の力とその知恵と救いは変わっていません。
そしてその神様は今もなお、一人でも多くの人々を救おうとしておられますし、
救われることを望んでおられますし、私たちを通してその働きを委ねてくださって、
神様を私たちはどこまでも信じて、どこまでも従ってついていきたいと願っております。
そしてその力は、ついていける力。
それは神様への愛から湧いてくるものではないでしょうか。
一斉に言われたいと思います。
愛すれば伝導します。
愛するから伝導をします。
新しい一年、これから本当に心から心を尽くして、
思いを作って、力を作って、
私たちの神である今日を愛してまいりましょう。
お祈りします。