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2018-07-01 29:46

2018/07/01:ヨハネの福音書講解説教(34)イエス様について行くということ

2018/07/01 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 -26

00:01
みなさん、おはようございます。
今年も半分が終わりまして、残りの半分が始まっていますけれども、
でも、私たちは変わることなく、この聖日の朝、教会に集まって、一緒にですね、礼拝できること、
信仰が、あるいは健康が、心が守られていることは、本当に全て神の恵みでございます。
その恵みに感謝しですね、捧げてまいりたいと思います。
それでは、周りの方と挨拶しましょうか。
おはようございます。よくいらっしゃいました。
はい、それでは一言お祈りいたします。
私に仕えるというのなら、その人は私について来なさい。
私がいるところに、私に仕える者もいるべきです。
もし私に仕えるなら、父はその人に報いで下さいます。
アーメン。
私たちが世の者ではなく、あるいは自分自身ではなく、偶像ではなく、
誠の神、その御子イエスキリスト、御霊、聖霊様に仕えること、
それが許されていて、信仰が与えられていること、本当に主よ、全ては神の恵みです。
主よ、その恵みを覚えて。
私たちがイエス様にお仕えする者として、どこまでもどんな道でも、
イエス様に最後の最後までついていくことができるように、
従っていくことができるように、どうか私たちの信仰も人生も生活も心も体も、
主が守って導いて下さいますようにお願いいたします。
そして私たちの普段の生活、あるいは明かし、あるいは信仰を通して、
神の栄光を表すものとさせて下さい。
イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
感謝します。
ヨハネの福音書の公開説教続いております。
今日34回目でありますが、
説教題は、イエス様についていくということ。
イエス様についていくということがタイトルです。
今日は一緒に、果たしてイエス様についていくということは何だろうか、
03:03
ちょっと深く掘り下げて、考えて学んで、また接親するときでありたいと願っております。
イエス様がいよいよエルサレムに入られました。
そのときに、そこにいた群衆は、イエス様を、
このローマの支配から、圧縮から救ってくれる、いわゆる政治的指導者として考えていたり、
何かあのイエスがすごいことをやってくれるんじゃないかなと、
それぞれ勝手な期待を持って迎えたのではないかと思います。
ところが、私たちは知っているように、イエス様はただの政治的な指導者として、
軍関に乗って入所する外戦将軍ではない。
むしろ、使えるため、十字架にかかられて死ぬため来られた神の御子であるということ、
私たちはそれを知っていますし、また、そうからイエス様がまた私たちに何を願って求めておられるのかが知ることができます。
そういう状況の中で、イエス様は、今日の特に24節から25、26節のお言葉を語られたわけです。
その中で、私たちが普段よく使っている聖書の言葉として、イエス様についていくということについて考えていきたいと思います。
イエス様はですね、最初のペテロとかアンデレとか、弟子たちを、両子だった彼らを弟子にするときに、私について来なさいとおっしゃいました。
そして今日も26節に、こう語られました26節だけをもう一度一緒にお読みしたいと思います。
私に使えるというのなら、その人は私について来なさい。私がいるところに、私に使える者もいるべきです。
もし私に使えるなら、父はその人に報いて下さい。
ここにイエス様がはっきりと語っている人がですね、私に使えると言うんですか?そしたら私について来なさい。
皆さん、私たちはイエス様に使えることを決心して、イエス様が私の救い主であり、主であり、王であることを自分の人生心の中に迎え入れて、信じて、使えて、ついて来ているんですね、皆さん。
06:10
ここまでね、今日まで。ある方は1週間、ある方は10年、ある方は50年、60年、イエス様について来ているわけなんです。
ところがイエス様について行くということはどういうことなんでしょう?
イエス様について行くということは、私たちが信じる信仰の方向性、向かって行く方向がどこなのか、それを教えてくれている言葉であります。
今日は4つとして、ついて行く、イエス様について行くという言葉の聖書の全体のところから、また言語の意味から4つのことをお話ししていきたいと思います。
一番簡単に言うと、ついて行くというは英語で言うと、followですね、followする、ついて行くことですけれども、それをまず第一としては、
イエス様について行くということは、イエス様の後について行く、あるいは一緒に行くということであります。
イエス様について行くということは、イエス様の後について行くことなんです。
自分が勝手にですね、こっちに行きたい、自分で行く、イエス様は信じるんだけれども、自分が行きたいところに行っちゃうのではないんです。
どこまでもイエス様の後をよく見て、ついて行くことです。
なぜでしょうか。イエス様が私の主だからです。イエス様が私の王だから、その後について行くことです。
これはですね、他の言葉がいらないほど、とても基本的でとても重要な言葉だと思います。
イエス様だけが自分の主である。イエス様こそ自分の王様である。
だから、イエス様が先に立って行かれる。私はその後について行くこと。
イエス様より先に立たない。イエス様より先走りをしない。
いつもイエス様が行かれた道を、イエス様が行かれた後について行くことであります。
というのは、イエス様が行かれる道であれば、そこがどこであっても、いつでもついて行くことではないでしょう。
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それが弟子であり、それが信者であり、それがイエス様について行くということです。
もしイエス様が平らな道を歩かれた、そしたらそこもついて行く。
もしイエス様が荒野に出られて、荒野を歩まれた、そしたら私たちもその荒野に出て、荒野について行くことです。
イエス様が山に行った、そしたら山にもついて行く。
イエス様が苦しみの道を、しもべの道を、犠牲の道を歩まれたならば、私たちもその道を歩むことなんです。
それがついて行く、後について行くということなんです。
ところがどうでしょうか、皆さん。
現代のことに少なくとも、ほぼ日本にいる私たちは、何でも豊かな生活を、その時代に暮らしていると思うんですね。
少なくとも、ここにいらっしゃる方の中で、食べるものがなくて、寝るところがなくて、着るものがなくて、大変困っている方は、おそらくいらっしゃらないと思うんですね。
他の国と比べたら、日本という国は、本当に足りないものがないほど、あふれて余っているほど、豊かな時代に生きているわけなんですね。
そういう一般の我々の生活が、富んでいる豊かな生活をしている。
だから、あえて苦しもうとね、あえて辛い道を、しんどい道を行こうと思わない。
大体の今の時代の流れは。
私も会社で仕事を丸三年、四年しましたけれども、その四年のうちに、私の十人ぐらいあるチームに、半分ぐらいはそっちで辞めたんですね。
しんどいからでしょう。
ものすごい辛い人でしたけれども、そっちで辞める。
それがいいと悪いと別として、辛い道を、苦しい道、自分が損する道を選ぼうとしないんですね。
そういう生活をしている、そういう今の時代の価値観の中に生きているうちに、私が信号生活というものも、あえてイエス様がいいからだとしても、
それが荒野だったり、苦しみだったり、恥だったり、犠牲する道ならば、いや、そこまでついていきたくはないね、と思いがち。
12:13
平らな道、高速道路、気持ちいい道、苦しみのない道に、みんな歩びたがる時代であります。
皆さんはいかがでしょうか。イエス様の弟子、イエス様の信者とは何でしょうか。
イエス様が行かれた道であれば、どこまでもついていく。
十字架の道ですか。十字架の道を後についていく。
犠牲の道でしょうか。それもついていく。
喜びの道でしょうか。それもついていく。
どこでもイエス様の後についていくこと。
それがイエス様についていくということの第一の意味です。
二番目、イエス様についていくということの意味は、イエス様の後を継ぐということであります。
例えば、日本に三代、四代目の醤油屋、和菓子屋、豆腐屋、うどん屋さんする職人の、そういう人結構いるんじゃないでしょうか。
三代目のうどん屋さんとか、醤油、祖父、祖父、お父さんで、自分が醤油を作る。
後を継ぐわけなんです。
イエス様についていくという意味は、後を継ぐという、後継ぎをするという意味があるんですよ、実は。
つまり、イエス様がされたこと、イエス様がなされたこと、そのイエス様のことを後継ぎをすることなんです。
やめるんじゃなくて。
では、イエス様は、この地上での公の生涯の間、それだけではないんですけれども、イエス様が、もしイエス様を一人の職人に比べるならば、
イエス様は何に力も、関心も、精神も、汗もかいて、何にイエス様は冒頭して全てを注ぎ出したと思いますか。
イエス様は、魂の救いのため。イエス様は、魂の救いのために、全てを注ぎ出した。
だから、イエス様についていくこと、イエス様の後継ぎをするということは、イエス様がなされたように、魂の救いのために、
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全ての関心を、情熱を、献身をそこに注ぐということなんです。
それは、テレビでたまに見たら、醤油作りの商人は、朝も二時、三時起きて仕事を始めるんですね。
一日中、醤油がまるで自分の赤ちゃんみたいに、大切にして、大切に、きれいにして、何百年も何かの、何と言いますかね、
昔ながらの原油みたいなものを大切にして持っていく。
それ、とても誇る。日本一だとかね。日本一はたくさんありますけどね。
イエス様は、一人の魂の救いのために、自分の命を捨てた。全てを注ぎ出した。
ならば、イエス様についていくという私たちは、その道を歩んで、後継ぎをすることなんです。
魂の救いのために、魂は何を注ぎ出しているんでしょうか。魂の救いのために、祈ることもできますし、
証をすることもできますし、愛することもできますし、おもてなしすることもできますし、できることを数えたら、山ほどあると思う。
イエス様についていくということは、イエス様の後を継ぎ出して、求霊の職人に、匠になることなんです。
クリエイチャンが一番上手にできることは、魂の救いと。
どうか皆さん、イエス様の後を継ぎ出し、そして魂の救いのために専念して、情熱を注ぎ出して、
愛しさも関心も、そのように歩んでいこうではありません。
三つ目、イエス様についていくということは、イエス様の命令に従うことです。
ついていくことです。当たり前かもしれない。
例えば皆さんが誰かに恩師についていくならば、その恩師の師のお言葉とか、アドバイスとか、何かの示しとか、あるいは指示とか、あるいは命令に従順に従うことが、ついていくという意味なんです。
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例えば、私はあの先生について行ってるんだけどね、その先生の言うことは、ひとつも聞きませんよ。それはついていくことじゃないんですよ。矛盾している。
イエス様についていくということは、イエス様の言葉、その御命令にも従順に、自分の都合に変えることをしない。
好きなことを守るんだけれども、しんどいことはやめる。ではない。
すべてに対して、その命令に従うこと、それがイエス様についていく、クリスチャン信者であるということなんです。
イエス様はこう言われました。私を愛する者は、私のいましみを守る。その通りなんです。
皆さんは、イエス様の言葉をその通りに守っていらっしゃいますか。そしたら皆さんは、イエス様を愛しているリアル信者なんです。
しかし、守っていない。適当に守っている。自分の都合に変えて守っている。
そしたら、イエス様の御言葉から言いますと、私たちはイエス様を愛している人ではありません。たまには愛しているかもしれない。
そうでありながらも、もし私が自分自身が気づいていないならば、自分を欺いていることであって、神を欺いている。
イエス様についていくということは、イエス様の命令に従うこと。それがイエス様を愛する人なんです。
皆さん、それぞれ自分自身の信仰、御言葉の守ることを、それぞれ変えに見て考えていただきたいと願います。
もしも、イエス様の命令の中で守っていないものがあるならば、私たちは一日も早く悔い改めて、立ちかえて、イエス様の御言葉を、その命令を守らなければなりません。
イエス様は私を愛しておられる。本当の羊飼いである。本当の羊飼いであるから、羊が勝手に断崖絶壁に向かって走っていこうとする。
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間違った方向に向かっている羊をそのまま放っておく。そういう羊飼いはいますか、いませんか。いないんですよ。本当の羊飼いならば。
で、呼んでも来ない。そしたらどうするんですか。棒で鞭で叩いてでも、そこにいたらあかんで死ぬわって。
それでも引っ張ってでもですね、それでも頑固で向こうにいたら、もう叩いて叩いて半分殺ししてでもね、死なせないんですよ。それが本当の羊飼いである。
では私が思っても、神様がほら快適で優しくね、今優しく呼んでいる。でもいいですね。従わない。本当の羊飼いなんだから。
神様は愛の神様であるから、どうしても私が悔やためない、守らない、立ち返るとしない、頑固である。そしたらわかりませんけど、神様に叩かれますよ。
私も今まで人生の中で叩かれたことがたくさんありました。皆さん叩かれて何もかも失って病気になって、お手上げして悔やためるよりは、気づいているうちに悔やためて、
イエス様の御命令を守ること、それが実は祝福。イエス様についていくということは、イエス様の命令を守ることです。
4番目、イエス様についていくということは、イエス様に習うことです。イエス様を見習うことです。つまりイエス様の真似をすることです。イエス様が考えられたように考える。イエス様が言われたように言う。イエス様が歩まれたように私も歩むことです。
これがイエス様についていくことです。そうでしょう皆さん。例えば柔道とか剣道とか何かその先生に教えてもらうときに、大体最初は真似しながら習うんじゃないでしょうか。恩師に見習うこと。
信仰も似ていると思うんですね。私の信仰の模範であるそのイエス様がおられるんですね。そのイエス様についていくということは、確実としたものではない。イエス様が行われた通りに私たちも行うことです。
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それを聖書の御言葉にたくさん書かれている。イエス様が何を語られたのか。イエス様が何をしたのか。その弟子たちが何をしたのか。聖書を読めば誰でもわかるわけなんです。イエス様が語られた御言葉。
行い。あるいは愛。あるいは許し。あるいは憐れみ。あるいは神様に対する愛と人に対する情熱。そういったものを見習うことね。それをお手本にして。そして私でも信仰も人格も精神もどんどんどんどんイエス様はそっくりものになることなんです。
みなさんは誰とそっくりものですか。お父さんですか。お母さんですか。イエス様にそっくりのものであり。それで誰かがみなさんを見て、いや誰々さんあなたは本当にもう聖書に書かれているイエス様とそっくりですねと言われたら何と光栄なことになる。お墓の寺席にイエス様のそっくりのものを誰々が寝ていたと。それもいいかもしれない。
ところがみなさん、真似をしたくても、見習いたくてもイエス様を知らなければ、イエス様の御言葉を知らなければ真似することはできないんです。見習うことはできないんです。
イエス様が何を語ったのか、何の話をしたのか、こんな時にどう行われたのか知らなかったら真似することはできないわけなんですね。
だから見習うために、お天本にするためにどうしたらいいんですか。まずイエス様を知ることが大前提なんですね。
だからその御言葉を知ることです。学ぶことです。目想することです。あるいは研究することです。あるいはメッセージを聞くことです。
みなさんの中でも朝8時に起きられてですね、聖書を読まれる方々、あるいは朗読される方々、あるいは商店に来られる方々、あるいは家が遠いからネットで見られている方々、あるいは人から来れない時には録音してでも聞かれる方々。
本当にそういう方々がおられることは本当に感謝のことです。みなさんまずイエス様を知ってください。イエス様の御言葉を知ってください。そうすると見習うこと、お天本にすることができるわけです。
人は誰とよく時間を過ごしているのか、誰と長く過ごしているのか、誰と交わって、しょっちゅう交わっているのか、誰を見ているのかによってその人に似ていくんですよ。
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子供がなぜ親に似ているんだろうか。親とよく一緒に過ごすからです。食事の習慣、何かの癖、なぜ似るんでしょうか。よく見つけるからです。
だからみなさん、私たちも常にイエス様を見上げていきたいんですよ。そしてイエス様を知りたいんです。その中でイエス様の信仰、生活、人格、言葉、行いをお天本にして見習って、見習っていこうではありませんか。
それから最後になりますが、イエス様についていくということは、イエス様を愛することです。愛するからついていくんですね。
古風の方がおられますけれども、愛するからここまでついてきたんじゃないでしょうか。もちろんこれからでもそうでしょうけれどもね。愛するからついていくんです。愛するから情熱も関心も力もそこに献身するわけなんです。
だからみなさん、愛していないのについていくことは本当にしんどいことなんです。人間関係もそうですけれども。もし私がイエス様をそんなに愛していないならば、ついていくこと、御言葉を守ることは本当に難しい。
もしみなさんのように愛して愛して愛している、イエス様が大好きであるとならば、そのイエス様についていくこと、イエス様の言葉を守ることが大楽しみ、喜びなんです。なんでしょうか。愛するから。
イエス様についていくことはイエス様を愛することです。逆に言うと、イエス様を愛していれば、イエス様についていくことにも決まっているんです。
イエス様についていく者は信者です。その人はイエス様に後についていくんです。イエス様の後継ぎをする者です。イエス様に見習う者です。イエス様を愛する者です。
この信仰が人生の生活がこういうものでありたいと切に願います。お祈りします。
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