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2023-10-15 36:15

2023/10/15:王である神

2023/10/15 聖日礼拝

加藤満牧師

申命記 -20


サマリー

イスラエルの民は目に見えないが、民を導く神様ご自身が王であるとされています。イスラエルの周辺諸国では、このような事態が起こります。組織的に組み立てられた軍隊を持つ王による戦争と権力への欲望に関して警告され、イスラエルの民が自由から奴隷に逆戻りする可能性があることが指摘されています。イエス様は人々を癒し自由にするために権力の言葉を語り、弟子たちの足を洗った後、ペテロのために祈りました。その後、イエスの敗北者としての姿や権力の示し方が説明され、私たちも同じ痛みを経験することで権力を誤解しないように心掛けるべきと訴えられました。

00:01
一言お祈りをいたします。
それは、王の心が自分の同胞の上に 高ぶることのないようにするため、
また、命令から右にも左にも外れることがなく、
彼とその子孫がイスラエルのうちで、 長くその王国を治めることができるようにするためである。
愛する天の父なる神様、 今日も私たちを主の御前へと招いてくださって、
あなたの御言葉に聞ける幸いを感謝をいたします。
あなた御自身がこの場所に御臨在くださり、 私たちはただ、目には見えませんけれども、
諸文はここにお読みます。主をお語りくださいと、
あなたへと心を開いて、 今この場所へといさせていただいている、
その幸いを感謝をいたします。
神様がどうか、この一時を通し、 私たちをどれほど愛し、
また私たちと共に歩んでくださるのか、 そのあなたの恵みを知ることができますように、
あの十字架において現されたイエス・キリストの その使徒、その復活によって、
私たちの罪が許され、神のことされ、 永遠なる使徒結ばれて生きているその幸いを、
本当にその恵みを知ることができますように、 この人と恐縮し導いてください。
お願いをいたします。
祈られたように、今週様々な戦いが 現れた方もいらっしゃるでしょうし、
また今も施設におられる方、 家で礼拝を守っておられる方々もいらっしゃいます。
どうか同じように主が届いてください。 あなたの恵みをお一人一人に表してくださいますように。
また今、世界は本当に争いに満ちています。
ロシアの侵攻のこと、またイスラエルで起きている 戦争のことを覚えています。
私たちにとっては、ある種遠くない国の中で 起きている争いに心を痛めています。
どうか主がそのうちに届いてください。 あなたがその争いの最中で、
その争いに立つ一人一人を、 どうか主がご支配くださいますように。
お導きを与えてください。 お願いをいたします。
これからの時を見てに委ねます。 あなたが御言葉を開き、あなたご自身が語ってくださいますように。
これからの時を委ねして、 イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
戦争のニュースが連日のごとく流れています。
映像で映し出されている爆炎と、 一瞬で崩れる建物を映像で見ることがあり、
大勢の死者が出たというその数字が流れるたびに、 失われた命を想像するだけで、ただただ胸が痛みます。
今朝のニュースでもイスラエルが 総統作戦を始めたということに、
どうしてよいのかなと心が騒ぎ続けています。
どちらかが銃弾を放ったが最後、 戦争はどちらかが動けなくなるか、
もしくはどちらも絶えがたい痛みを 飲み込むことでしか終結はありません。
それは何十年続く争いであってもいいえ、 それは人間の争いのすべてに言えますが、
そういう形でしか終結はありません。
そしてその痛みを飲み込むことが絶えがたいために、 ある種、相手を許すという痛みを飲み込むことができないがために、
尽きることのない報復という誘惑を断つことができない。
ニュースで流れている、戦争を指揮する 指導者の方々の顔には、
国民の怒りを代弁するような、 そのような怒りが満ちています。
そしてその怒りの視線の眼差しには、 その先にはきっとある意味、まず敵がいるわけですね。
敵がいる。 そしてその次には周囲に対する眼差しがある。
この怒りに同調してくれるのか、 付いてきてくれないのか、
そのような眼差しがある。
その怒る顔を見る限りに、私自身思わされています。
ああ、戦争はなかなか終わらないんだなということ。
もっと多くの命がこの怒りの炎に飲み込まれてしまう。 そのことを思うと本当につらくなります。
ふとその時、私自身がニュースを見ながら思わされたことは、
イエス様がこの人の前にいたら 一体どうなさるだろうかということです。
愛する人が殺された。家族がさらわれた。
何の躊躇もなく報復へ向かうような、そのような激しい怒りによって、
いや、怒りによってある種、覆いつくせないほどの悲しみを隠している。
そのような人たちにおいて、イエス様は一体何をなさるのだろうか。
聖書において殺人というのは悪です。これは悪です。
罪に陥った人間が行う最初の悲劇として描かれています。
ですから、聖書の中に殺人を肯定するような言葉はありません。
ただ、そうであれば、イエス様がそこにいたらきっと、
人が人の命を奪うという不自然な光景に心を痛めて、
きっと傷つける人、傷つけられた人を抱きしめようとされるのではないかなと思う。
しかし、抱きしめられても怒りなど収まらない。
その時にイエス様は何をなさるのだろうか。これは勝手な妄想ですけれども。
私自身はきっと、ご自身の釘打たれた手のひらをお見せになるのではないかなと思う。
釘打たれた手のひらを一人一人の前にお見せになるのではないか。
三日目に復活なされたイエス様は、弟子たちにご自身の傷跡をお見せになりました。
復活の体からイエス様は、十字架で釘打たれた傷跡を消されなかったんですね。
そのまま残されました。
それは十字架で経験されたこと、裏切られた、あざけられた、拷問を受けた、
リンチされた、神に見放された、絶望と孤独を感じた、
そして十字架の上で苦しみ抜かれて、殺されるという経験を、
手のひらの傷というのは、そのすべての痛みの跡なんです。
そしてその傷跡が物語る言葉というのは、きっと、
私はあなたの痛みを知っているなんです。
どんなに許せない痛みがあなたにあろうとも、私はあなたの痛みを知っている。
その手のひらを見せたら怒りは治るでしょうか。分かりません。
けれども、分かられまいとも、おそらくイエス様はそうなさるのではないかなと、勝手に想像をしております。
今朝は新明義の17章の14節からを読んでいただきました。
権威とは何か
この16章の18節から、18章の最後というところまでは、実は一つのテーマが流れています。
それは何かと言いますと、権威というものです。権威。権威について書かれています。
16章の18節からは裁きつかさについて、そして17章の14節からは王について、
そして18章の後半には預言者のことについて書かれてあります。
どれもそれらの権威を立てると神様が言われる、そのような箇所です。
そして、この権威は例外なくですけれども、
神に立てられた権威は、神の前に跪かなければならないということが書いてあります。
それは当然なんですね。
なぜなら、この世界で本当に権威のあるお方というのは、神様ご自身だけだからです。
そしてこの世界で権威を与えられた人たちの権威というのは、
神ご自身に由来するものだからです。
だから神様の前に跪かなければならない。
ただ、少し最初に言葉の整理をしたいと思います。
権威と聞きますと、私たちは日本語だと、
上の人が下の人間を服従させる力というニュアンスで取りやすいんです。
人を支配する力、服従させる力、もしくは何かの専門家のことを何々の権威と言いますけれども、
でも、支配する力と理解をしがちなんですが、
聖書の権威という言葉は少しニュアンスが違います。
聖書の権威というのは神様の主権なんです。
それはこう言えるでしょう。
この世界の主権者である神様が、この世界をより良く支配するための力です。
じゃあ、神様はそれを人間を服従させるために使っておられるのか。
そうじゃないんです。
神様は人間を服従させるためではなく、
人間に自由意思を与え、互いを愛し、お互いが神様の使命に生きることができるように、
そのためにご自身の力を使われます。
これは大きな違いで、結局今日言いたいことはここだけなんです。
この違いをちゃんと理解しなければならないということです。
人間に委ねられる権威というのは、その神様の力に由来するものですから、
つまり権威というのは、服従させることが第一の意味にあるのではありません。
人間に与えられている権威というのは、誰かを服従させるための力ではない。
それは、より良くみんなが自由に愛し合って、神様の使命にそれぞれが生きるために委ねられた力です。
聖書の権威というのはそういうものです。
しかし、この権威の意味がある種、誤解をされ続けていく。
そして、このような意味でまさに、人を服従させる力としての権威というものを求めてしまって、
様々な失敗を繰り返すというのが、聖書の物語というか、聖書の歴史でした。
そして、その中でいつも権威に重なって問題の中心となったのは何かというと、
今日読んでいただいた王についてです。
これを切り口に、少し今朝は権威ということについて考えてみたいと願っています。
イスラエルの民の望む王
先ほど17章の14節から、王の職責という箇所について読んでいただきました。
考えてみると不思議なんです。
と言いますのも、新明記を語った孟子の時代には、王様はイスラエルにはいませんでした。
初期、隣の国にはいたんですよ。
エジプトの王ファラオがいたりだとか、モアブの王のバラクがいたりだとか、他の国に王様はいたんですが、
イスラエルには王様はいませんでした。
なぜなら、王がいないのではなくて、
イスラエルの王というのは、目には見えずとも民を導いておられる神様ご自身が王なんです。
目には見えずとも民を導かれる神ご自身が王です。
ですから、イスラエルには王はいませんでした。
孟子は王ではありません。
しかしイスラエルの民は、神様という王がいるにもかかわらず、
この17章でも予見をされていますが、
まさに周りの諸国に、
習って王が欲しいという人たちが出てくるだろうということが予見されるわけです。
そしてそれは、まさにそういう事態が起きてきます。
少しその箇所をお読みしたいと思うのですが、
第一サムエル記の8章、
第一サムエル記の8章の4節から9節というところ、
少しお読みしたいと思います。
第一サムエル記の8章の4節から9節。
旧約聖書の新科学2017だと、490ページの上の段ですね。
サムエル記第一の8章の4節からお読みいたします。
イスラエルの長老たちは皆集まり、
ラマにいるサムエルのところにやってきて彼に言った。
ご覧ください、あなたはお年を召し、
ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。
どうか今、他の全ての国民のように、
私たちを裁く王を立ててください。
彼らが私たちを裁く王を私たちに与えてくださいと言ったとき、
その言葉はサムエルの目には悪しきことであった。
それでサムエルは主に祈った。
主はサムエルに言われた。
民があなたの言うことは何であれ、それを聞き入れよ。
なぜなら彼らはあなたを拒んだのではなく、
私が王として彼らを治めることを拒んだのだから。
私が彼らをエジプトから連れ登った日から今日に至るまで、
彼らのしたことと言えば、私を捨てて他の神々に使えることだった。
そのように彼らはあなたにもしているのだ。
今彼らの声を聞き入れよ。
ただし彼らに自分たちの治める王の権利をはっきりと宣言せよと。
10節以降にその王の権利が語られますが、
イスラエルの民には目に見えない神様よりも目に見える王様を求めました。
そしてその理由は他の全ての国民のようにと、
新明紀の17章の14節にもさっき書いていましたが、
他の全ての国民のようにと書かれています。
イスラエルの民の周辺諸国というのは、
王様による権威と戦争の問題
ある種強いリーダーシップを取る一人の王様によって
組織的に組み立てられた軍隊を持っていたのです。
それが戦争を強めたのです。
だから権威が欲しい。
自分たちを面倒を見て自分たちの意見をまとめてくれる王様が欲しい。
そういった。
確かに権威というのは、
いろんな考えを持っている人たちを一つの方向にまとめ上げていくという力があります。
そしてそれはある種魅力的ですらあります。
自分たちで何かを考えて主体的に行っていくよりも、
信用できる誰かに考える手間を委ねることができるわけです。
しかし、神様はそのことを嘆かれます。
組織的な軍隊がなかろうとも、私が今まであなたたちを守ってきたじゃないかと。
私が守ってきたじゃないかと言っているのに、民は忘れてしまう。
そして神様を王を立てることを容認なさいますが、
この警告を10節以降するのですが、ちょっと長くなるので割愛しますが、
ただ17節の言葉だけを見せます。8章の17節。
あなた方は羊の群れの十分の一を取り、あなた方自身は王の奴隷となると言うんです。
端的に言うならば、王様によってあなた方は王様の奴隷になりますよと警告をするんです。
この奴隷という言葉は実に皮肉なんです。
なぜなら、イスラエルの民というのは、エジプトの奴隷の地から解放された神の民だからです。
奴隷から解放された民が、再びここで奴隷に戻りますよということを言っているわけです。
せっかく神様があなた方を解放したのに。
イスラエルの民は、エジプトの奴隷から解放され、神様ご自身を王とする民となりました。
その下で、神様の言葉、ある種立法を通して、神様と隣人と共に生きていくという本来の人間の姿を回復して、
自由にされていくという、前も言いましたが、そのような神様を仰いで礼拝するという、
回復のプロセスを彼らは歩んでいたわけです。
しかし、王によってあなた方は奴隷に逆戻りすると言われるわけです。
このように見ますと、王様が立つということに、神様は実に後ろ向きなんですね。
なぜなら、王様というのは、神様以外の権威だからです。
そして、それは先ほど言いましたが、その権威は神様に服するはずなんですけれども、
しかし、そのように服した王様というのはほとんどいない。
権威は多く人に誘惑を与えてしまう。
どのような誘惑があるでしょうか。
まず、人間はおそらく、自分を導いてくれそうな人についていきたいという欲求があるんです。
ただ、言い方を変えるならば、それは、自分で決断することに自信がないために、
誰かに決めてほしいということかもしれません。
そのような自分が決断すべきことから逃げるために、誰かに寄りかかりたいという誘惑があります。
しかし、そのようにして王に従う道は、
解放された奴隷が奴隷に戻っていく道であると聖書は語る。
なぜなら、王になる人間はいつもいい人間であるとは限らないからです。
王ですら人間だからです。
また、悲しいことに、その通りに、人間はこの権威というものを誤解してしまいます。
イスラエルの王様の歴史はサウルに始まりますが、
そしてエレミア書の最後の方にある南ユダ王国のゼゼキアで終わりますが、
しかし、その歴史を通して神様の前に跪いた王様、
まさに今日の新明紀17章に書いていますが、
自分の神死を恐れ、この身教えのすべての言葉と、
これらの掟を守りを行うことを学ぶ、そのような王様というのは、わずか数人です。
そのほとんどが、権威を支配のために用いてしまいました。
イスラエルの神様を排除し、自分が支配しやすい偶像を街中にはびこらせて、
自分が神様に勝る権威であると主張して、民を奴隷化する王様、
そういう姿がほとんどでした。
ちょっと自分でしゃべりながら言葉が厳しいなと思いますが、
受け止めていただきたいのです。
ある種、それは自分自身の責任を放棄して、目に見える権威に揺りかかりたいという
人間の弱さというものがあります。
そして、いざ権威を委ねられたら、私こそが神に勝る権威を持っていると、
果てなき欲望にとらわれる人間の弱さがあります。
そして人間の姿というのは、2000年たった今もほとんど変わりません。
そして私たちがこの御言葉に目を向けるときに、
この弱さに私たちは向き合わなければならないと思うんです。
こういうことだと思うんです。
第一に、私たちは目に見える権威に寄りかかるのではないということです。
私たちにおいて、それはここにいる私たちにおいて、
権威を持っておられるのは神様だけです。
誰かを信頼し、その人の言葉に励まされることはあっていいんです。
それは別にいいんですよ。それは大事なことなんです。
でも、私を支えてくれる人、私を導いてくれる人、
その人が私たちが信じている目に見えない神様以上に
私たちを支配をし始めるならば、私たちは立ち止まって考えなければならないということです。
そして先ほども言いました。
人間は人間である以上、必ず失敗をします。
はっきり言います。私はどこかで失敗をします。
イスラエルの歴史は如実にそのことを物語ります。
その度に神様はきっと、私が王としてあなたを治めていることを拒むのかと
私たちに投げかけるような気がするんです。
私は王としてあなたを治めているのに、それを拒むのかと。
そして第二に、与えられた権威の意味を私たちは誤解してはならないということです。
私たちに与えられた権威というのは、人を服従させるための権威ではありません。
人間に与えられる権威というのは、人間が癒され、自由にされ、互いに愛し合い、
その人が使命に生きることができるように、そのために行使される力です。
皆さんもまたそれぞれに権威が与えられているんです。
これは別に誰か偉い人だけの話ではない。
私たちは家庭において、職場において、権威が付与されていない人なんかいないんです。
でもそのそれぞれに与えられた力というのは、誰かをコントロールするためのものではない。
その人がよりよく生きるために、その人が自分の命に、使命に生きるために与えられた力です。
牧師という仕事もともすれば権威のある仕事です。
でも私自身は牧師という仕事の職責は、エペソ書の4章の11節からの言葉にあると思っています。
ちょっとだけせっかくですのでお開きします。
エペソ書の4章の11節から12節というところ、有名な言葉ですのでご存知かもしれません。
エペソ書の4章の11節から12節というところをお読みいたします。
こういう言葉は新約聖書の388ページの下段です。
こうしてキリスト御自身がある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
それは生徒たちを整えて法師の働きをさせ、キリストの体を立て上げるためです。
牧師の仕事ってこれだなと思っています。
牧師の働きは当然ですが、皆さんを支配することではありません。別に皆さんを支配しませんし。
言い換えるならば、牧師の言う言葉からでしか物事を考えられない奴隷に皆さんをするつもりは全くありません。
そうじゃないはずです。私たちの職責というのは、皆さんが癒やされ自由にされ互いに愛し合い、
それぞれが神様からの使命に、神様が皆さんに与えられた使命に応えていくために、私たちは何がお手伝いできますかということです。
そういう意味において、牧師から自由になっていただきたいと思います。
ただ主の御前に主体的に従っていただきたいのです。
イエス様の権威と王座のイメージ
皆さんの使命に使えるために牧師はいます。
そして互いに、王である神に、教会の貸しならるキリスト御自身に、私も皆さんもともに跪くお互いですね。
そのようなものであることを確認させていただきたいと思います。
さて、新明紀のこの17章に戻りますけれども、
新明紀の17章の18節から20節には、王様ですら立法の巻き元を手元に置いて学び続けなさいということが書かれてあります。
それはまさに立てられた王が、権威というものを誤解しないために、権威というものを学び続けなさいと言われるようなものです。
私たちにおいてそのことを考えるときに、私たちが手元に置いて、この私に与えられた力をどのように用いるべきかを学ぶ、そのモデルは一体何なのだろうか。
はっきり申し上げますと、それはイエス様です。
今日はパラパラ開いて申し訳ないのですが、イエス様の弟子たちも権威について誤解をしていたということをちょっとだけお読みしたいので申し訳ないです。
マルコの福音書の10章の35節から45節というところをちょっとお読みしたいと思います。
マルコの福音書10章の35節から45節。
この箇所は、ヤコブとヨハネがイエス様のもとにやってきて、イエス様が栄光を受けられるときに、私を一人を右に、一人を左に座らせてくださいと言ったそういう箇所ですね。
栄光につくということを言ったときに、彼らの頭の中で考えていたのは、これからイエス様がエルサレムに入って、エルサレムの王宮で王座に着座をされるという絵を描いていたのです。
だからその王様になられる偉いイエス様の右、左、次に偉い人にならせてくださいということを、彼らは願ってイエス様にそう言いました。
けれども、イエス様は彼らに言われました。
あなた方は自分が何を望んでいるのかがわかっていない。
私が王座に着座するということ、その権威を発揮するということの意味がわかっていない。
そのとき右、左にいるということの意味がわかっていない。
イエス様はこう言われました。
10章の42節からお読みします。
こう言いました。
そこでイエスは彼らを呼び寄せて言われた。
あなた方も知っている通り、違法人の支配者と認められている者たちは、人々に対して王兵に振る舞い、偉い人たちは人々の上に権力を振るっています。
しかし、あなた方の間ではそうであってはなりません。
あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、皆に使える者になりなさい。
あなた方の間で戦闘に立ちたいと思う者は、皆の下辺になりなさい。
人の子も、使えられるためではなく、使えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分の命を与えるために来たのです。
そう言われます。
使えるために私は来た。
言い換えるならば、イエス様の権威というのは、この世の王様たちのように、人を支配するための権威ではない。
イエス様の権威というのは、その力というのは、使えるために、いいえ、使いきられるために、その権威を表したということがここで言われるわけです。
聖書というのは、王座というものに対して二通りのイメージを描きます。
一つは、王座というのは、天の王座です。
イザヤ書の6章にも、ヨハネの黙示録の4章にも出てきますけれども、天において神が玉座についておられる。
その周りでケルビムが賛美をしてという光景があります。
しかしもう一つ、聖書が表す王座のイメージがあります。
それは十字架です。
十字架は王座です。
イエス様は王冠ではなく茨の冠をかぶります。
威厳ある姿ではなくて布切れ一枚、無力の極みをそこに見せられます。
そして王座ではなく十字架。
ユダヤ人の王と看板で打ち付けられた光景は、まさに皮肉ですが事実を述べている。
そのようなイメージを聖書は語る。
イエスの権威と使命
十字架。イエス様は人々が癒されるために、自由にされるために、病や悪霊に権威ある言葉を語られました。
弟子たちが互いに愛し合うために、まず弟子たちの足をイエス様が洗ってくださいました。
イエス様が、そして弟子が、ペテロが裏切りの後その使命に生きられるように、イエス様ご自身がまずペテロのために祈ってくださいました。
敗北者の姿、人の目から見れば何の栄光もない敗北者の姿です。
しかしそのように使い切られたイエス様が生かれたその末の王座は十字架であった。
そこでイエス様は使い抜かれるという権威を示されたわけです。
神である私はそういうものなのだと示された。
そしてマルコの十章の言葉に則るならば、弟子たちが理解しなければならなかったイエスの王座の右と左に座るということはどういうことなのか。
イエス様と共にイエスが生きた、使い抜くというあの権威にあなた方もついていって、私の十字架の右左につきなさいです。
あなた方はその意味がわかっていないと言います。
私はその与えられた権威を与えられているならば、それをキリストが用いられたように用いなさいと言われます。
あの十字架の右左に進むように用いなさいと招かれます。
でも私たちに与えられている権威というのはそういうものなんです。権威を誤解してはならない。
今朝最初に私は戦争の現実に少し心を馳せました。
そんな話を講談からしなくてもいいともつくづく思わされますが、本当に悲惨なことが始まっています。
ニュースを見ながら思います。イエス様がここにいたらどうされているだろうか。
人を報復へと向かわせるのは拭いがたい痛みです。あいすらあの人の命が奪われた。それは簡単に感化できるものでは決してありません。
しかしだからといって報復を容認することもできない。どうするのか。
仮にここに大きな声で絶大な軍備力のある国がやってきてですね、
俺たち、俺が一番力を持っているんだから右向け右って言ったら、戦争は収まるかもしれません。
でも傷つけられた痛みというものはずっと残り続けて、何代にもわたってそれが残って、
ふつふつと報復の炎は消えない。消えずにどこかでまた暴発をする。
そういう歴史を人間は繰り返しています。しかしイエス様がここにおられたら、
イエス様はご自身の権威を持って大きな声を発するよりも、
痛む兵士の傍らに行かれる。怒りと恐怖に心を占められ銃を向けているその傍らで、
その存在を抱きしめ、ご自身の権威の印である手のひらの傷を見せられるのではないかなと思うんです。
神である私もまたあなたと同じ痛みを経験した。あなたの痛みは痛いほどにわかる。
わかるのだ、そう言われるのではないでしょうか。
それがわかられるかわかられないかはわかりません。
けれどもイエス様とはそうであり、神の権威とはそういうものなのではないかと思うのです。
世界は痛み続けています。その世界の中で意義のある権威とは何なのだろうかと考えさせられます。
権威の誤解と使命の重要性
私は十字架に進まれたイエス様の姿に何かちゃんと学べるような気がするんです。
私たちも王である神ご自身に跪きながら、あのイエス様の十字架の右左に向かうようにと招かれている。
決して難しいことではない。それは権威を誤解しないことです。
権威とはこの世界にある人が癒され、私たちの目の前にある人が私たちの力を通して癒され、
自由にされ、互いに愛し合う方向へと向けられ、それぞれが神様からいただいた使命に生きられるようにと励ましていく。
私たちに与えられている権威とはそういうもの、そしてそのために使えることです。
牧師とはそのためにいますし、そして皆さんはそのためにそれぞれの場において権威が与えられているんです。
御言葉を読んでも終わります。新明紀の17章の18節から20節を読みいたします。
新明紀17章の18節から20節。
その王国の王座に就いたら、レビビトの妻子たちの前にある書から自分のためにこの見教えを巻物に書き写し、
自分の手元に置き、一生の間これを読まなければならない。
それは王が自分の神、主を恐れ、この見教えのすべての言葉とこれらの掟を守り行うことを学ぶためである。
それは王の心が自分の道法の上に高ぶることないようにするため、また命令から右にも左にも外れることがなく、
彼とその子孫がイスラエルのうちで長くその王国を治めることができるようにするためである。
権威を与えられている私たちは、権威を誤解することのないように御言葉に聞き続けたい。
そのように願っております。一言お祈りをしてメッセージを終わります。
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