1. 名谷教会 podcast
  2. 2016/04/24:聖日礼拝(旧音源)
2016-04-24 41:31

2016/04/24:聖日礼拝(旧音源)

2016/04/24 聖日礼拝(旧音源)




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今日は開かれています、古臨闘美典の見言葉から、神の教会と聖祖という意味にしまして、
今日からこの古臨闘美典の手紙のシリーズメッセージに入りたいと思います。
ではメッセージを入る前に、お互いの方々としてね、挨拶をしましょうか。
よくいらっしゃいました。
お久しぶりです。
はい、それでは一言お祈りします。
主は私たちの主、イエス・キリストの皆を至る所で呼び求めている全ての人々と共に聖徒として命され、
キリスト、イエスにあって聖なるものとされた方々へ。
主は私たちの主であると共に、その全ての人々の主です。
アーメン、主よ、私たちの主なる神様を褒めさせます。
今、主よ、天の窓を開いて、あなたの恵みをはすめ求める魂、この群れの上に主の心を示して下さい。
あなたの愛を示して下さい。
そして神様を深く正しく知り、深く交わり、その御心が何であるか知って、
そして従い、そしてそのイエス・キリストの輝きが我々の人生の中でいつも輝く、光るキリストになりますように。
どうぞ主よ、この御言葉の時をもって、主の皆があためられ、また主の御言葉が宣言され、
そしてあたたけを心に開いて、その御言葉に従う。
まず耳を傾けて聞くことができますように。
信仰は聞くところから始まりますので、聞くことを妨げる全てを、我々から主を取り除いて下さい。
全てを主よ、どうぞあなたが全てを納めて下さい。
イエス様の皆によってお祈りします。
アーメン。
私が日本語を学ぶときに、あるいはまた一時期は教室で日本語を教えたときもありますけれども、
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そのときに多分皆さんはご存知のサザエさんのアニメーションをよく見て学んだり教えたりしたこともありますけど、
その前、Googleで何かを検索していたときに、偶然サザエさん兵庫軍という言葉が3個あって、何だかとクリックしてみたら、
日曜日の6時半、フジテレビでそれをやっていますよね。
そしたらみんなそれを見ながら、ああ、休日も終わったな、明日からまた学校だな、仕事だな、ああ、嫌だなって。
それでブルーになって憂鬱になるんですって。
それでサザエさん兵庫軍という言葉があるらしいんですけれども、
今日はこの御言葉を準備しながらこういう思いがしました。
新しい一週間を始まる朝日は、素晴らしいお方、麗しいイエス・キリストに今日お会いして、
そしてその方を賛美して恋愛して、そして愛する兄弟姉妹たちと共に交わりを持つことによって、私たちはもう薄を知らないクリスチャン。
いつもイエス・キリストが私の内側で誓うクリチャンでありたいと願っております。
今日からコリントビトの手紙に入りますけれども、新約聖書の中にいわゆる手紙の形式になっている聖書はローマ書から始まるんですね。
これは十三の手紙、書簡文の新約聖書の中で、このコリントビトへの手紙の第一は分かりやすくて、そしてとても実際的な教訓を持っています。
それから、このコリントビトへの手紙を通して、教会について、それから清僧について、それから信仰について、
礼拝、また仏、それから救い、それから何よりイエス・キリスト、それから皆さんよくご存知の十三書の愛について、
共に学んで、そして見習って、あるいは奇跡を受けて恵みを受けつけたいと、そして私たちも一歩一歩成就していきたいと願っております。
コリントは地名ですね、地名。今もある町ですけれども、ギリシアにあります港町でウンガーがある町なんです。
汗目から近いですね。今も行ってみたらウンガーがあって、そして海が近くて、とても風景がきれいな町なんですけれども、
06:10
一度行ったことがありますので、もう一度行ってみたいなと思うんですけれども、あの町で、いいです。
パオロ先生が電動旅行をしたんですね。今のトルコから渡って、そしてギリシアの上からアテネを通って、コリントという町に入って、
そこで一年間半滞在しながら、全く教会のない町で言葉を教えたり、あるいはユダヤ人が昔から持っている街道で、
教えたり、電動したりしていました。そしてそこに何が建てられたのでしょうか。教会が建てられた。
そして一年間半滞在したパオロ先生たちは一方は祖から離れていて、そして彼らの本当に素晴らしい信仰のお便りも聞いたり、
ちょっと寂しいことも聞いたりして、そして彼らを励ますために、あるいは教えるために、指導するために書いて送った手紙がコリント人への手紙第一ですね。
今日は一節から九節のところから、教会について、それから政党についてともにその恵みをお受けしたいと思います。
二節をもう一度一緒に読みましょうか。もう一度一節を一緒にお読みしたいと思います。
コリントにある神の教会へ、すなわち至るところで呼び求めている全ての人々とともに、
政党としてめされ、キリストイエスにあって聖なるものとされた方々へ、主は私たちの主であるとともに、その全ての人々も主です。
アーメン。
皆さん、この二節が今日のとても大事なポイントの見言葉ですけれども、
よくちょっと長くてちょっと難しくなってますけれど、よく分析、分解してみたら、教会が何なのか、とても短くてクリアに書かれています。
コリントにある神の教会です。
教会は神の統計です。
それは当たり前で、皆さんおっしゃるかもしれませんが、ここには深い意味が含まれていると思います。
教会の主は誰でしょうか?神様です。
ですから、教会がある存在する理由も目的も神様です。
09:07
私たちが集まって礼拝する理由、目的も第一は神様です。
私たちが教会に集まると、先ほども挨拶して、皆さんニコニコしていて、メッセージが始まったら真剣な顔に変わりますけれども、
交わりをする目的も第一は神様です。
ですから、教会は神様によって始まり、神様を通して恵みを受け、
そして神様によって立てられ、神様によって完成される、それが教会です。
日本の1億2千8百万人ぐらいの日本人の中で、教会についてなかなか知られていない。
知っていても誤解が多い。
あるいはその真理が、事実が隅々まで届いていない。
本当に残念なことが、この今の事情でありますし、だから私が弁護しなければならないこともありますけれども、
あまり教会について知らない日本人は、教会は独身のものとか、あるいは教母のものとか、あるいは何かの団体のものなのかとか、
学びをするところ、神社は行ってはいけないところとか、というような誤解が実に日本には多くあるかなと思います。
しかし正しい事実を、真理を知っていなきゃいけない。
そしてそれは私がまたお知らせして伝えていきたいと願いますけれども、教会は神の教会です。
この神様は、ただ唯一誠の神様です。
その神様は栄光に輝くお方であって、そして私たちがその方の栄光をこの教会で見ること、それが礼拝の時間であります。
皆さんいかがでしょうか。毎回の礼拝の時に神の栄光を見ているでしょうか。
神の栄光に触れているでしょうか。
最近ですね、アメリカの教会では、この反世と言いましょうか、受精の声とともに、様々なところで開拓の風が吹いているんですけれども、
その中のスローガンがこういうスローガンです。
教会が教会らしくなる、教会が教会であるように、そういうふうに、もっといい訳があるかもしれませんが、
つまりですね、いつの間にか、アメリカの場合ですよ。
12:03
キリスト教の土台に称えられた国、そして大統領になったら政府の上に手を置いて誓うんですよね。
そんな国なんだけれども、いつの間にか教会が教会らしくなっていない、変わっている。
正しい立派な教会、人数多くあるんだけれども、そこには福音がないというか、この教会を正しく建てましょう。
教会が教会らしくなるようにという開拓ムーブメントが、今アメリカでですね、その運動が起きているんですね。
私はこれ、その声に耳を傾けてほしいなと、そういうふうに思いました。
本当に神様が主である教会。神様だけが主権を持って、神様だけが支配する教会。
そして実際的には、私たちが子供から大人まで、新しい人も古い人とも、全てまるまる神様の支配を実際的に受ける教会。
聖霊様が語られ、聖霊様が導かれる、そしてそれに従う教会、それを建て上げましょうというそのムーブメント。
単なるムーブメントではないでしょう。神様からの勧めってあるかもしれない。
私たちもこのような教会、ニョーザニー教会を含めて日本中の教会が約8000ぐらいの教会があると言われていますけれども、
その教会が本当に神に喜ばれる、教会らしい教会、教会という名前にふさわしい教会を共に建て上げていきたいと説に願っております。
ところが、教会が教会らしく建て上げられるためには、私たちは何をどうしたらいいんでしょう。
まず、教会の主である神の教会ですから、その神様を正しく知ることです。
そしてその神様を正しく信じて、正しく従うことが必要なのではないでしょうか。
なぜなら皆さん、神様が私たちに願うことは、神様とのrelationship、つまり関係であって、交わりであって、親密さ、親密感なんです。
結婚した夫婦が身体も心も一つになって、一体になって、親密感を持っているかのように、私たちも神様との関係が親密である。
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何の妨げも邪魔者もなく、壁もなく、隙もなく、ハードルもなく、麗しい美しい関係を持つこと。
これは皆さん、神様が願われる神知識というものです。
知識、知るということは、単なる頭的に知ることではないんですよね、皆さん。
私は日本に選挙主として使わされて、8年目に入りましたけれども、非常に日本の教会と韓国の教会の礼拝の雰囲気の違いが、それは良く悪くなくて、単なる違いが感じてくるんですね。
日本の教会は、説教の時間に、説教を一生懸命に濃厚にとります。
どうかどこまで一生懸命にとるんですね。私のメッセージは、それまでとるべき、そういう価値があるかどうかわかりませんけれども、
たぶん皆さん、一生懸命にとって、いつか毎日それを目処するためでしょうね。わかりませんけれども。
一方、韓国の教会は、あんまり濃厚にとる人は少ない。ほとんどいないというか、あんまりいないんですね。
そのままで生きて、そのままで受け取って、自分のものについているかなと思いますけれども、ところが大事なのは、濃厚にとるかとらないか、それは大事なものである。
本質的に大事なのは、礼拝を通して、この礼拝の中において、神様と、あるいは精霊様、イエス・キリストと深き親密、その関係を持ち続けることではないでしょう。
毎日、毎時間、それを持つことではないでしょう。
ポリント教会の、この土台教会の信徒たちは、みんなこのような立派な信仰を持っていました。
あの時代はどんな時代だったのでしょうか。
エイリー1世紀の教会は、激しくて激しい迫害家の教会でした。そんな中にあっても、彼らは神様と深い命での親密な深い交わりをもって、信仰生活をしていきました。
今もトルコ、ローマ、ギリシャに行ったら、地下洞窟、カタコンベというものがありますよね。さっきに一枚だけ見せますけれども。
こんな風に狭いところもありますし、広い教室もありますし、右に左の棚みたいなところもありますけれども、
物奥じゃなくて、あそこは亡くなった方々の骨を入れるところでありますけれども、そんな蟻の巣みたいに、迷路みたいになっているんですね。
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ところが大事なのは、あのローマの激しい迫害の中にあっても、
ローマがシリスト教はこのローマ帝国の反制力だと決めて迫害して潰して、みんな殺そうとしていた。
そんな中にあっても、彼らは信仰を諦めるところか、地下に逃げてはいたんですけれども、その中で信仰を2代3代目4代も持ち続けていきました。
むしろですね、迫害の中にあったからことでしょうか。
彼らはそんな中で神の栄光を見て、神様を深く知って、信じて、従っていったんですね。
だからシリスト教の歴史学者たちは、シリスト教の歴史の中で、あの1世紀のクリスタンたちが一番歴史上輝いていたと評価しているんです。
一番歴史、迫害の中にありましたけれども、彼らが2016年としましょう、2016年のこの新約の時代において、一番もっとも輝いていたと。
それは一人一人が、その自分の内にあってイエス・キリストの輝きが、光が輝いていたわけなんですね。
皆さん、神の教会です。その神の教会が神の教会らしくなるためには、この神の栄光、神の希望、神の力、神の輝きを取り戻すことです。
回復することです。それは、皆さん、私たち一人一人が、その神の栄光を見る、手で触る、味わう、喜ぶ、そして褒めたたえること。
そしてそのイエス・キリストの光が私の内側で、いつでも、どこにいても、光る、輝くことではないでしょうか。
そして、その集まりが教会である。その集まりが礼拝であります。
願うことは、私たちの宮谷教会をはじめて、日本の教会が、この素晴らしい神の栄光を豊かに味わい、目で見、手で触る、そして一人一人から、イエス・キリストの栄光がですね、輝きが輝くクリスチャンであります。
それが、この独自の最も大きな夢でもあります。そして、神が必ずそういう風にしてくださることを信じています。
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では、私がどうしたら、教会らしく、あるいは生徒らしく、神の栄光が輝くクリスチャンとして生きることができるのでしょうか。
それは、神様をもっと深く知る。神様をもっと深く目想することです。
皆さんの中で、お花が好きな方がいらっしゃるでしょうか。よく知っている方がいるでしょうか。このお花の名前、あのお花の名前、もう全部知っている方がいらっしゃるでしょうか。
そんな方はですね、1時間も2時間もですね、お花について話したら、もうずっと喋れるんですね。楽しく喋れる。聞いてもないのに喋ってくれる。
皆さん、毎日、主を目想して、毎日深い神様との親しい間際の時を持ち続けているクリスチャン。
そして、神の恵みを味わっているクリスチャン。そのクリスチャンは、その自分の内に神の栄光が輝くんですよね。
毎回の礼拝の時に、神の臨在の中に神様にお会いして、御言葉の権威に従って、神の栄光を見る。神の恵みに満たされるクリスチャン。
日々、神の御言葉を持って自分の魂を満たし、神の御言葉に自分自身を全てをまるまる浸すクリスチャン。
そして、その御言葉にその恵みに圧倒されて生きるクリスチャン。朝をさまって、祈りの床で一日一日を始めるクリスチャン。
祈りの福祉に精霊に満たされるクリスチャン。そして、その中で癒され、希望が与えられて、悟って、神の心に従うクリスチャン。このクリスチャンが聖徒になる。
もう一度、インセプトを御覧下さい。
すなわちから御覧下さい。私が読みますね。ここを読みましたら、聖徒が何なのか、よく書かれています。
すなわち、私たちの主、イエス・キリストの皆を至る所で呼び求めている全ての人々と共に、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ、主は私たちの主であると共に、その全ての人々の主です。
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ここにですね、聖徒が何なのか、まず1、それはイエス・キリストを主として信じるものです。そして、その皆を至る所で呼び求めているもの、それが聖徒です。
3つ目、聖徒として召された者が聖徒です。4つ目、キリスト・イエスにあって聖なる者とされた者が聖徒です。
それから、語説を一緒に読みましょうか。語説を一緒に読みたいと思います。3回、というのは、あなた方は言葉といい、知識といい、全てにおいてキリストにあって豊かなものとされたからです。
ここにもう1つあります。5番目ですね、聖徒とは、キリストにあって豊かな者とされた、キリストにあって豊かにされた者が聖徒です。
それから、通説に行きましょう。通説を一緒に読みますね。通説を一緒に読みます。3回、神は真実であり、その方のお見えによってあなた方は神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。
つまり、聖徒は神の御子によって主イエス・キリストとの交わりに入れられた者が聖徒です。だから、この1節から9節の間にまとめますと、6つの聖徒とは何なのかが定義されています。
1、もう一度まとめますね。1、イエス・キリストとして信じる者。2、その皆を至るところで呼び求める者。
3、聖徒として召された者。4、キリストにあって聖なる者とされた者。5、キリストにあって豊かにされた者。
6、イエス・キリストとの交わりに入れられた者。よしですか。何に向いていただけますか。聖徒、これが聖徒なんです。イエス・キリストを単なる聖人の多くあるその一人じゃなくて、唯一の主として信じる者が聖徒です。
主ですよ。王様ですよ。2番目は、そのキリストの麗しい皆を、美しい皆を、最高の皆を至るどころどころで呼び求める人が聖徒。
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3番目、聖徒は自分が聖徒になりたくてならなくて、神様が聖徒とされたから聖徒になるんです。
4番目、キリストイエスにあって聖なる者とされた者が聖徒だから聖徒ですね。
5番目、そしてどうなんでしょうか。キリストにあって豊かな者にされるんです。
貧しくありません、貧しくありません、偽らしくありません、いつも負けたばかりの者でありまして、キリストにある全てを持っておられる、主にあって豊かにされた者が私であってあなたなんです。
それが聖徒です。
6番目、そしてこの素晴らしい方、麗しい方、力ある方、全てを作られたイエス・キリストの交わりの中に入れられた者が誰ですか。
あなたです。私たち聖徒なんです。その群れが教会なんです。イエス・キリストを誇って、そして信じて従う人が聖徒です。
皆さんは聖徒ですか。聖徒です。
ですから聖徒は、自分の人生の主が自分ではなく、誰でしょうか。イエス・キリストです。
イエス・キリストが自分の人生の王様だとそれを宣言し、それをいつも認識し、そのように生きる、ああいう人が聖徒です。
皆さん、今月来週金曜日に個人伝道講師会がありますよ。
まだ持ち込んでいない方々はどうぞ持ち込んで、今年のこの教会のゴールに一緒に目指していきたいと思いますけれども、
また5月29日も第50名の2時から出壇台の宮崎先生を招いて、2回目のまた別の内容になりますが講義会を開きますので、
どうぞ皆さん時間を空けていただいて、ぜひ出席していただきたい。
学ばないとうまくできませんよ、皆さん。ところが、その四つの法則というものがあります。
キャンパスクリテイドって昔作られて、世界中に用いられた教材の小さい個人伝道のテキストですけれども、
今回は学ばなくて、5月に宮崎先生が来られたこのときに学びますが、その中に使徒を三つの部類で分けます。
そもそきの四つの法則があって、クリスタム系のもう一つの四つの法則があります。それを合わせた図を私は作ってみます。ちょっと見てみましょう。
三つの部類の人がいます。何が違うかよくご覧ください。一番、皆さんから見て左の方は、その縁は私の人生です。
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心と言っていいでしょう。イエス・キリストがどこにいますか?外にいます。そして人生の王座に誰が座っていますか?自分が座っています。
また、キリストが自分の人生の中に入っていない、未信者ですね。不信じゃなくて未信者、これから信じる方ですね。
真ん中はどこでしょうか?イエス様はどこにいますか?私の人生の中に入ってはおられるんですね。ところが、王座に誰が座っていますか?イエス様ですか?自分ですか?自分が座っています。
それ一緒なんですよ。教会をしていますよ。長い間イエス様を信じていますけれども、まだまだ自分の王座にイエス様じゃなくて、自分がでっかくなってイエス様は小さくなっている。
三つ目、自分の人生の王座に誰が座っていますか?これも日本の教会と漢語の教会と違いますね。なかなか答えてくれない。
誰が座っていますか?イエス・キリストが座っておられます。そして、自分はわざと倒してありますけれども、イエス様の王座に比例をしているんですよ。
皆さんは、三つの中でどっちなんでしょうか?さあ、いいですか?
この、今さっき申し上げた1から6のその生徒は、まさにこの三番目の図の人ではないでしょうか?
イエス・キリストが私の人生の王様になって、主になって、私はその前でもペチャンコになって、司令をして、はい、かしこまりました、何でもおっしゃるとおりに従いますと、従順、服従、それが生徒ではないでしょう。
イエス・キリストがその麗しい方、輝きの方が私の王座に座っておられて、私をすべて、すべて収めてくださるときに、導いてくださるときに、私の人生がキリストによって輝く、光るものになる。
なぜ人生に様々な問題が絶えないのでしょうか?キリストがまだまるきり王になりきっていないかもしれない。たまにはイエス・サマが王に座ってもらって、私を降りて、そしてその問題が解決できたら、また、はい、で、変わる、と言っているかも。
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イエス・キリストがいつも私の人になって、王様になって、私を何から何まですべて収める、導いていただく、それが生徒なんです。そのときに、私たちの人生はキリストのうるわしさ、キリストの輝きによって光を放つものになるでしょう。
そのように生きるある素晴らしい企業のクリーチャーをご紹介したいと思います。
皆さん、フォエバー・ツインティーワンというパスティションブレンド知っていますか?若い人はダム製の特徴をお馴染みいただくけど、こういうグループがあります。
一度お話ししたことがありますけれども、日本にも進出していますよ。フォエバー・ツインティーワンの会長さんが、右のキャンさんという、LAのある協会の協力者です。
彼は小さいときはとても真実なクリスタンでした。ところが、青年のときから、神様からも許可が外来で離れてしまったんですね。
それで、彼が一番好きなのはお金でした。お金、お金、お金持ちになろう、お金持ちになろう、ものすごくアクセクトですね。
働いたんだけど、韓国でも潰れてしまって、潰れてしまって、もう無事無になった。それでアメリカに行こう。アメリカに行って、お金持ちになろうとアメリカに行きました。
ところが、そこでもなかなかうまくできませんでした。そこで彼が奥さんの導きによって許可にしました。
そこで彼がですね、ジェス様に出会って、今まで自分が大好きなのは妻でもない、子供でもない、神様でもお金だったな、それはですね、深く反省して悔いて悔い改めたそうですね。
そして彼は、あのジェス様を受け入れた時にですね、神様、私がお金を儲けたら、もう私は十分の一で暮らして、十分の九は神様に捧げますと宣言して誓ったんですね。
それはすごいことでした、皆さん。十分の一は捧げますとか、十分の二は捧げて、残り私は暮らしますと、それでも立派ですけれどもですね。
それはなぜなのか、今まで自分は神様を愛していなかったことがわかったんです。それで神様だけを、神様を大切に愛しようと、もう誓いました。
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それでですね、その奥さんがデザインができる方だったらしいですね。それで1984年、LAで小さなお店を開きました。
その最初年度にはそんなにモフェがなかったんですね。日本に行ったら350万円ぐらいだったから、そんなに多くはなかったんですね。
ところがその翌年から、年間の売上が7千万円ぐらいになって、そしてその店が二つどんどんどんどん増えて、今は全世界にですね、600ぐらいのショップを運営していて、
アメリカに多分ですね、数十万ぐらいの企業があるかもしれませんけれども、その企業の中でトップの100位の中に入って、80位のランクしている素晴らしい企業になっているんです。
そのチャン・カイトさんか、そのチョウロさんが、マルのある集会で赤い人が来ていました。
奥の人々が聞かれました。どうして成功したんですか?どうして金持ちになったんですか?とみんなから聞きました。そしたら彼がこういうふうに答えました。とてもシンプルでした。
私がやったことは何一つあります。私がやったのは、ただ神様を大事に愛したことだけでした。私は収入の十分の一で暮らす誓いを今も私は守っています。
収入の十分の一は会社と社員のために、そしてアメリカでのホームレスの救済のために、それから南米のアマゾンとかアフリカとか四国、北朝鮮の世界選挙のために全てを捧げていました。
でも私は十分の一だけ持っていても、みなさんより金持ちですよと、あの集会で言ったそうです。全ては神様が与えました。私は神様の他のものは全部捨てました。
私の妻はあの有名なブランドのカバン、バッグ一つも持っていない。今もろくな化粧品も持っていない。ろくなデュレス一枚一着すら持っていない。神様他には愛するものを全て捨てました。
そしたら神様が見立ってくださいまい。これが私が成功した秘訣と私だったんですね。みなさん、素晴らしくありませんか。
この話はですね、今ウファス業界に専念を受ける藤本君と学びをするときに献金の部分があって、そのときにこの話が来ました。
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十分の1だけ持っていても十分生きる人々が世界には多くいますよと。何を大切にして何を握るかによってその人の人生が十分の9あるいは十分の9.5持っていてもかろうじて生きる人がいますし、十分の1だけ持っていても豊かに生きる人がいる。
あなたはどっちになりたいよと聞いたら彼は十分の1だけ持っていても豊かに生きる。そして多くの人々に施したいと、そういうふうに言っていました。みなさんはいかがでしょうか。
みなさん、イエスは王です。イエスは主です。私はシモです。これはセクテ、サジではありません。仏族でもありません。ポポスとなることでもありません。マルスとなることでもありません。クラークなることでもありませんね。むしろ祝福される人生、誠の人生の主人公になる道がここにあります。
なぜなら、さっき読みました講説にあるように、あなた方は言葉といい、知識といい、すべてにおいてキリストにあって豊かなものとされた。豊かなものとされた。みなさん、私は豊かなものにされましたよ。
アメですか、みなさん。信じますか。みなさん、私はあなた方を主とされるために生徒として生きてくださった。子供として生きてくださいました。この神様を日々目指してください。日々祈ってください。神様と深く深く交わりを持ってください。神様と一番親密な振り子になっていただきたいです。
2節を一緒に読んで、お読みになってですね、メッセージを終わりたいと思います。2節をもう一度、お一緒にお読みしましょう。
アメ。
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