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2020-05-10 29:41

2020/05/10:わたしたちが信じて、告白すること(11)教会はキリストのからだであって

2020/05/10 聖日礼拝

尹善鎬牧師

エペソ人への手紙

00:01
皆さん、おはようございます。皆さんがお家で、誠実礼拝を捧げてから、1ヶ月が経ちました。
本当に、いろんなことが起きました。
そんな中で、いろんなことを神様に教えられて、気づかされている、今であると思います。
その中で、すべてのものは、私たちの思い通りには、あらないこと。
また、想定外のことは、いつ、どんな時にも、起こりうるということ。
また、さまざまな形で、私たちの信仰は、試されていること。
にも変わらず、神様は、私たちを愛しておられること。
しかし、私は一つ確信しております。
このコロナ感染病の事態が終わってから、私たちが主の教会に集まって、礼拝をするその日。
私たちには、神様からの大きな恵みと喜びと感動に満ちあふれるということです。
そして、一つ教えられたことがありました。
それは、あの使徒パオルとか、使徒ヨハネとか、初代教会の生徒たち。
例えば、ローマの博売の中で、地下洞窟とか、山の稲小屋のようなところで、礼拝をしていた彼ら。
もちろん、あの大昔だけではなく、今も多くの国々で、後もな教会の建物もなくて、洞窟とか、山とか、野原とか、地下室とか、
そういうところで、主を礼拝している多くのクリスチャーたちがいること。
03:01
見える見えない博売の中で、私たちには考えられないほどの苦しみの中で、そこでも主を礼拝している世界の多くのクリスチャーたち。
実は、私たちは、今の博売の中にいる多くのクリスチャーたち、あるいは聖祖の時代の、あの初代教会の人たちのこと、
彼らの苦しみとか、もどかしさとか、不便さ、不安や命の恐怖などを、実はあまり知らなかったこと、あるいは知ろうとしなかったこと、あるいは助けようとしなかったことがあったかもしれません。
私たちには教会堂があって、そこにいくらでも一日に何回も行けたこと、祈ることができて、賛美することができて、礼拝することができたこと、
そこにいくら説教してくれる牧師がいたり、共に集まる兄弟姉妹たちがいたこと、もしかしたら私たちは、それらの神の恵みを、祝福を当たり前のように思っていたのかもしれません。
人はですね、当時のように思っていたことを取り上げられたから、ああ本当に価値あるものだったんだ、本当に大事なものだったんだと、気づかされる、そういった愚かさが我々にあるのではないでしょうか。
どうか今日もお家で捧げているこの礼拝が神様の心にかなって、その礼拝する皆さんお一人お一人の上に神様の豊かな恵みが注がれますようにお祈り申し上げます。
今日はシリーズ説教11回目です。教会についてです。ちょうどですね、今のような時期にふさわしいメッセージかなと思いました。
まず、教団の信徒告白を見てみたいと思います。教会はキリストの体であって、神に召された生徒の集まりです。もう一度お読みします。教会はキリストの体であって、神に召された生徒の集まりです。
06:09
今日はこの部分ですけれども、ここで教会は何と言っているのでしょうか。いや、私たちは教会についてどういうふうに告白しているのでしょうか。
今日は教会の本質が何であるか、一緒に学んで、そして正しい信仰の上に主の教会を立て上げて、一緒にお使いしていきたいと思います。
まず大きい一番として、教会はキリストの体であるということです。これを四つにおいてお話したいと思います。
まず第一、教会の頭はイエス・キリストです。つまり教会の主、オーナーはイエス・キリストです。
ですから教会は、頭なるイエス様が願うことを行い、イエス様が言われることを行い、イエス様が歩まれる方向に向かって歩み、イエス様が喜ばれることを行うところが教会です。
教会の頭は人ではなく、団体ではなくイエス・キリストだからです。
イエス様が喜ばれる福音のために働く教会、イエス様が喜ばれる選挙のために働く教会、イエス様が喜ばれる回復と癒しと恵みのために働く教会、
イエス様が願われる三面一体の神様と共に歩む教会が本当の教会ではないでしょうか。教会の頭はイエス様です。
だから私たちは頭なるイエス様の御事だと、その心とその命令に従う身体の一つ一つの機関なのです。
頭が命令をして身体は従います。人は決して頭になることはできません。なってもいけません。
09:02
誰も自分の思いのまま教会を導くことはできませんし、導いてもいけないのです。
教会の頭がイエス様であって、その頭なるイエス様に従うときに、教会は幸せであって、平和と恵みと祝福と成長な道を歩いています。
第二としては、教会は誰が建て上げたのか、ということです。
皆さん、明らかに教会の設立者は、創立者は誰でしょうか。
ただ一人、イエス様です。
マタイの福音書十六章十八節を見ると、
では私もあなたに言います。あなたはペテロです。
私はこの岩の上に私の教会を建てません。
ハレスの門もそれには打ち勝てません。
ここでイエス様は、私はこの岩の上に私の教会を建てると言われました。
ここでイエス様は、はっきりと私の教会と言われました。
ではどのようにしてイエス様は、私の教会と言えるのでしょうか。
使徒の双書二十章二十八節を見ると、
あなた方は自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。
聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を墓させるために、
あなた方を群れの監督にお立てになったのです。
ここにですね、神様がご自身の血をもって、
つまりイエス様の命、その血をもって買い取られた神の教会と書かれているのです。
ですから教会は、イエス様の血をもって買い取られたんだから、
イエス様の教会であって、イエス様がカシェラであるということであります。
教会はイエス様によって始められ、イエス様が立て上げられ、
イエス様が最終的に完成される、私たちはただ用いられる道具にすぎない、
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しもべにすぎません。
しもべはしもべの場所にいて、主は主人の場所にいるときに美しいのです。
三つ目、教会の土台はイエス様です。
コリトミトニの手紙第三章十節を見ると、
与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように土台を据えました。
そして他の人がその上に家を建てています。
しかしどのように建てるかについては、それぞれが注意しなければなりません。
注意してください。
というのは、誰も既に据えられている土台の他に、他のものを据えることはできないからです。
その土台とはイエス・キリストです。
皆さん、教会の土台も柱もイエス・キリストです。
イエス様がご自分の教会を、ご自分の上に建ててくださって、
それを導いてくださって、完成していかれるその恵みを、ただその恵みに預かっているものにする。
四つ目、私たちはイエス様の体の各器官であるということです。
だから私たちは、かしらあるイエス様のその体につながっているものであり、結びつけられているものである。
それで私たちは集まって、一つの体をなっているということです。
コリト・ビトの手紙12章27節を見ると、
あなた方はキリストの体であって、一人一人は各器官なのです、とあり、
またエペソビトの手紙4章16節を見ると、
キリストによって体全体は一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、
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また備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと結び合わされ、
しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して相動きに立てられるのです、とあります。
私たちはそれぞれ違います。
まるで体のいろんな器官があるようにです。
目があったり、鼻があったり、耳があったり、口がある、骨、手、足があるように、みんな違います。
しかしみんな必要であって、みんな尊いものです。
今お読みしましたエペソビトの手紙4の16節の御言葉のように、
私たち一つ一つその部分が自分の力量にふさわしく働くのです。
イエス様から与えられたそれぞれの力量があるのです。
ある人は目のように、ある人は口のように、ある人は足のように働く力量がありまして、
それにふさわしく働く力によって、さらにその境界が立て上げられるということであります。
例えば目は見ることをすればいいのです。
耳は聞くことをすればいいのです。
足は走ったり歩いたりする仕事をすればいいのです。
足は見ること、聞くことはしなくてもいいのです。
一つ一つの部分がその力量があって、その力量にふさわしく働けばいいのです。
そのときに私たちの体は美しいのです。
例えばですね、手が私は足のように走りたいと、
それで人が手で歩いたり走ったりしたらどうなるのでしょうか。
あるいは私はいつも見えないところばかりにいて、
それが嫌なんだからみんなに注目されたい、注目を浴びたいと思ってですね、
足の指がこのおでこの真ん中にあればどうなるのでしょうか。
それはもう役にも立ちませんし、美しくもありませんし、
18:01
他のところを痛めてしまうんじゃないでしょうか。
一つ一つの部分がそれにふさわしい力量にあって働けばいいのです。
このように教会も神様が定めてくださって、
使わせてくださって、与えてくださった賜物があり、力量があり、信仰があります。
そしてそれにふさわしく働いて、互いに補い合って、互いに助け合って、互いに愛し合っていくときに、
主が主ご自身自ら身を豊かに結ばせてくださるんですね。
そして身体なる主の教会を立ち上げさせていただく栄光をその恵みに預かり、主と共に味わうのではないでしょうか。
そしてそのうちに主が私たちをキリストの身丈まで成長させてくださることを楽しみにして待ち望んで、
イエス様についていけばいいんじゃないでしょうか。
大きい二つ目として、教会の二番目の本質は、神に召された生徒の集まりということです。
教会の本質一番目は、教会の身体は私たちである。その主はイエス様である。
だから私たちは組み合わされ、結び合わされ、成長して愛のうちに立てられるとお話しました。
その教会の本質二番目は、教会は神様によって召された生徒の集まりということです。
すなわち教会は神様から召されて、この世から成別された生徒たちの集まりなんです。
これが教会なんです。
この定義がとても大事なんですけれども、私たちはこの堕落したいこの世から神の恵みによって召されて成別されました。
だから生徒なんです。
その生徒たちが神様のために集まって、神様を礼拝する集まり、これが教会なんです。
21:04
ですから大事なのは、この世から成別されたということです。
ローマ章十二章二節を見ると、この世と調子を合わせてはいけません。
いや、むしろ神の御心は何か、すなわち何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の意識によって自分を変えなさいと。
生徒は、イエス様の命が私たちに変わってしまわれまして、そしてこの世から成別された。
だからこの世と調子を合わせてはいけない。
それが生徒である。
その生徒たちの集まりが教会であるということです。
神の生徒が神の皆のために集まって、神を礼拝するもの、これが教会なんです。
ところがどうでしょう。
この現代化された、この時代に生きている私たち、教会を構成するために、あまりにも多いものを必要として持っているのではないかなと。
組織、会議、団体、規定、選挙、総会などだと。
もちろん、生徒の時代にも総会選挙はありました。
ところが他の国、この日本とかですね、すごく組織化された教会のない国、
イスラム圏とか東南アジアの山の子とか、あるいはアフリカに行ってみると、
そこにはこういった組織やら会議やら団体、規定、そういったものがなくてもですね、何の問題もなく、
選挙が進んで、人々が救われて、住居が建て上げられて、神の国が拡張されていくんですね。
教会の本質はイエス・キュリストである。
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主の皆によって生徒たちが集まれば、それが教会なんです。
もっとシンプルに、もっと本質に近く、もっと福井に近い教会を建て上げていきたいと願います。
人が作った、人が建てた、いろんなものに縛られて、キリスト福井を失うことがありませんように、心からお祈り申し上げます。
実際にですね、新約聖書に登場する初代教会のほとんどの形は、お家での集まりでした。
家に家での集まりが教会でした。
1世紀の教会は、そこにユダヤ人たちが作った街道があってですね、それを教会道として多く使われていましたけれども、
しかしその街道のない場所がもっと多くありましたから、ほとんどの場合には何かの建物があるわけでもなく、
家々で集まって、そこで四辺の御言葉を朗読したり暗唱したり、そして新約聖書の御言葉を覚えて、
お父さんがおじいちゃんがその御言葉を暗唱する、朗読する、そしたら彼らがみんなアーメンと昭和しながら御言葉をお聞きする、
そして神様を礼拝していました。これが教会であるということです。
教会道という建物がなくても、住所がなくても、組織がなくても、団体がなくても、神に召された生徒の集まり、それがあればそれが教会なんです。
私が以前、トルコとイタリアの聖地巡礼に行ったことがありました。
そこで、地下洞窟、カタコンベとか、またトルコには山の奥の奥に、この山にホラーマンをたくさん掘って、それがアリの遭遇につながっていて、
そこでいろんな迫害から逃れて礼拝をしていたことがわかりました。
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もちろん、今の私たちと同じ基準で比較することはできないかもしれませんが、
あの1世紀、2世紀、3世紀の生徒たちは、今の私たちのように礼拝道建物がなくても、パイプオルガンがなくても、マイクやスピーカーや音響施設がなくても、椅子がなくても、
このような立派な講壇がなくても、あるいは、皆さんが今、礼拝しているようにスマートフォンやYouTubeみたいなものがなくても、何にもなくても、
いくらでも喜んで、一日中神様が礼拝できた、賛美できた、詩編を朗読して恵まれた彼らは、本当に幸せに詩を礼拝していたということなんです。
教会は場所なのか、建物なのか、組織なのか、法律なのか、もちろんそれも必要でしょうけれども、
最も大事なことは、頭なり土台なり、建ててくださる、導いてくださる、そして完成してくださる、イエス・キリストが最も大事です。
そして、この世から召された生徒たちが集まって、詩を礼拝すれば、そこが教会なんです。
今、みなさんがお家で礼拝していらっしゃるわけですから、そこが教会です。そこが神の教会なんですね。
メッセージを終わりたいと思います。願わくは、頭ならばイエス・キリスト、その方だけが頭となられて、土台となられて、
全てとなられて、そして完成してくださる、主につながって、従っていく私たちでありたいと思います。
そして、私たち一人一人が、神の都して、召された生徒として、聖別された者として、どこにいても、そこで詩を礼拝する者、主に従う者、
この詩を賛美する者でありたいと願います。
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