1. 名谷教会 podcast
  2. 2016/04/17:聖日礼拝(旧音源)
2016-04-17 34:34

2016/04/17:聖日礼拝(旧音源)

2016/04/17 聖日礼拝(旧音源)




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アーメン、ありがとうございました。
皆さん、おはようございます。
よくいらっしゃいました。風邪はちょっと強いですけどね。
雨は止んでよかったです。
では、お互いにですね、挨拶しましょうか。
よくいらっしゃいました。おはようございます。
祈りしたいと思います。ありがとうございます。
では、一言を祈りさせていただきます。
主は大いなる方、大いに米を支えられるべき方。
その聖なる山、我らの神の都において、アーメン。
主よ、そうです。
私たちの主なる神は、大いなる方です。
その大いなる方の前に、秀吉。
今、喜びの礼拝を捧げる、この一同、一人一人の主を覚えて、
今日も、あなたの心を信じて下さい。
あなたの恵みと祝福と慈しみを豊かに施して下さいますように。
お願いいたします。
今日、親徒の方々、あるいはその家族の方々、
今日その方々、久しぶりの方々、
どうぞ、等しく主が溢れる恵みに預からせて下さい。
このものを隠して、神様の心だけが、神様の御言葉だけが語られて、
主よ、心を開いて、いや、聖霊様を開かせて下さって、
あなたの御声に引き伝うことができますように。
従順の心をお与え下さい。
お願いいたします。
イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
はい、メッセージが入る前にですね、皆さんにお願いしたいことがありますけれども、
礼拝の中で、使徒信叙と主の祈りは、長い間やっている方はスラスラスラスラ言えますけど、
初めの方とか、慣れていない方々は意味もわかりませんし、
だから、もっとですね、スピードを合わせて、意味を噛み締めながら、
そういうふうに心から告白していただきたいと思いますので、
主の祈りもですね、同じく、そしていただきたいと思います。
今日は、開かれている紙編の48編から、
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私たちの一羽大いなる方です、という題にして、
共に恵みをお受けしたいと思います。
昨日のですね、壮年会の主催で、
香川豊彦さんの記念館の見学会、それから布引きの時の夜会活動をもちました。
19人の方々がですね、壮年より富士の方が多かったですけど、
素晴らしい壮年会ですね、参加していただきまして、
とても有益な時間と学び、それから間際の時をもちました。
年に1回、2回はこんなですね、学びとか見学会、
あるいは壮年夫人合同の活動をもれたらいいなと、
そういうふうに思いました。
私が香川豊彦さんについては、そんなに詳しくは知ってなかったですけれども、
今回の記念館に行ってですね、
本当に一人の国ちゃんとして、
伝道はもちろん、救済、教育、あるいは労働のこととか、
人権や保険や組合や、
とても幅広い分野において大きな大きな影響を及ぼした人物だったんですね。
その見学会の説明とか資料を見ながら、
香川さんはもう凡人ではない、もう天才であって、
もうせぬような人たちではないかと、
家様のようにですね、多くの人々を生かして助けた、
本当にですね、自分のために生きた一人ではなく、
大勢の人々のために、この命を、全てを作った人だったんですね。
私はかっちり考えたんですけど、100年に一人生まれるかどうか、
それくらいの、とても素晴らしいクリスタルではないかなと思いました。
1時間ほど説明を聞きながら、その説明の語り手の方は、
香川さんのことを生まれから、とても詳しくよく知っていらっしゃって、
よく説明をして、1時間も足りないほど説明をしてくださいました。
私はこの説明を聞いていながら、こういう思いがしました。
人は、自分が見て、聞いて、経験した分ほど知ることができるし、話すことができるということです。
もし、その説明会を聞く前に、私に香川さんについて説明してくださいと言われたら、
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神戸で貧民救済をして、政権を作った人、それしか話せないんですね、私にとっては。
またなら、私が聞いたことが、見たことが、学んだことが、それしかないからです。
ところが皆さん、私たちがある人に対して、あるいはある事柄に対しても、
同じ法則が適用されるということです。
どんな法則でしょうか。
それは、私たちがある人のことや、ある事柄について、自分が経験したくらい、自分が見たくらい、
自分が聞いたくらい、自分が学んだくらいしか話せない、考えられない、そういうことなんです。
これは皆さん、霊的な面においても同じく適用します。
私たちが神様を知っている分、聞いて、見て、学んで、経験した分くらいしか、私たちは神様のことを知らない、
分からない、話せない、ということなんです。
ですから皆さん、同じ教会に通っていて、同じ信仰生活をしていても、
私が神様のことをどれだけ深く、広く、豊かに経験して、
神様とどれだけ深く交わりをしているか、持っているか、
神様についてどれだけ聞いて、学んで、預わっているかによって、実は私の信仰の深さが違ってくるということなんです。
今日の一節をもう一度一緒に読みたいと思います。
一節です。一節だけでいいです。
三、主は大いなる方、大いに褒め称えられるべき方、その聖なる山、我らの神の都において、アメン。
皆さん、この一節が読まれたとき、あるいは今皆さんがお読みになったときに、
ああ、そうだ、私たちの神様は本当に大きくて偉大な方である。
大いに褒め称えられるべき方なんだと、その御言葉が、この御言葉がですね、
胸にですね、大きな波のように押し寄せてきて、大きなインパクトのある御言葉として、皆さんの胸に、心に来るんですか。
そういう方もおられるでしょう。
しかし、それほど感動もなく、自信と狂う、そういうこともない方もおられるかもしれない。
その理由は何でしょう。それは、私が経験した神様に対する不快さがそれくらいだからと言えるでしょう。
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つまり、同じ神様を信じていながらも、ある人にとっては同じ神様ですけれども、その神様が大きくて偉大な生きる神様である。
しかし、ある人に歩きさせては、ただの神様になる。
だから、大いなる神様、偉大な神様を経験したクリスチャン、大いなる神様を知っているクリスチャン、
大いなる神様を毎日出会って深く交わっている人、黙想している人は、この一節だけ読んでも、感動が、涙が、賛美があふれ、アーメン、アーメンと言わざるを得ないということではないでしょう。
さて、私たちの神様は、主なる方は、大きくて偉大なお方です。
では、具体的に神様の何が大きくて偉大なんでしょうか。数え切れないんですけれども、今日はその中で三つだけ選んで、一緒にめぐみを受けたいと思います。
その意思は、神様の夢が大きくて偉大です。神様の夢が大きくて偉大です。
さっきの香川さんの話をもう少し話したいと思います。その方は、キリスト教社会運動、労働運動、農民運動や社会改良や教育、人民救済などなど、さまざまな分野に大きな技を持ってきていました。
さらにその影響がこの神戸に日本中にあるわけなんです。ところが、私は聞きながら、そして滝に歩いていきましたから、いろいろ考えました。
なぜあの方はそんなに一人で、もちろん助ける人が周りにたくさんいたでしょうけれども、一人であんなに大きくて偉大な行事といえるほどのことをすることができたんだろうか。なぜそんなに大きな影響を及ぼすことができたんだろうか。
私はこういうふうに解釈しました。あの香川さんは真実なキリストとして、自分が信じている神様は大きくて偉大な方であられる。そしてその大きくて偉大な神様を信じる者として、神様のようにその香川さんはですね、大きくて偉大な夢を見たのではないかと。
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そしてその夢を実現させた、実践に移したと、そういうふうに私は解釈しました。皆さんどうでしょうか。皆さん、私が信じている神様の夢は、大きくて偉大なものなんです。決して小さくて乏しくありません。
神様の夢は、私たちの想像を超えるほど大きくて偉大なものなんです。その神様を信じて家様のようになりたいと願っている私たちであるならば、私たちの夢も神様の夢のように大きくて偉大なものでなければならないのではないでしょうか。
私たちも香川さんのように、あるいは孟さんのように偉大な信仰の先輩たちのように、大きくて偉大な夢を見ようではありません。
もし神様が、皆さん、あなたを通して、私だけを通して、あるいは日和谷教会を通して、神様が今度、本当に素晴らしく大きくて偉大な夢を成し遂げようとしておられる。
そして神様が全てを準備しておかれて、そして私たちに一緒になろうと、イエス様が神様をプロポーズしてくださる。その時に皆さんはどうおうとしたいですか。
神様に、私がですか、いいように絶対できませんよ、とか、私は孟さんだからできませんよ、とか、あるいはしたくないですか、したくないですか、とか。
そういうふうな固い心、あるいはいつまでも弱い心を持って答えているのではないでしょうか。
あるいは心の中に、大きくて偉大なのはいらない、小さくて素朴なものがいいんだよ、と、そういうふうに神の夢を拒んでいるのではないでしょうか。
先週に韓国のことですけれども、嬉しいニュースに接しました。我が家を公演していて祈ってくださる、私が尊敬する韓国のテゴという町に、
キム先生がいらっしゃって、その教会がなんと大きい教会ですけどね、1,500人ぐらい集まる教会でしょう。
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今度、教会を分立開拓をしました。その分立して開拓した僕たちは、私と同じ時に、
富山の強みの教会に赴任して一緒に働いていた孫先生ですけれども、その先生に、どれくらい人事なのか分かりませんけれども、
少なくとも3分の1ぐらいは神父さんを分立して、分立開拓を今度するんですね。
そのニュースを私は聞いて、本当に神様の夢が大きくて偉大なのだから、その夢を見ている仏師も、その教会の神父さんも喜んで、
その分立開拓ができず、とても素晴らしいことではないでしょうか。
皆さん、私たちの明太に教会も、あの板山にある西武教会から開拓分立した教会なんですよね。
それから23年以上経ちました。これから私たち明太に教会も、先生に助けいただきまして、
大に成長して開拓分立できる教会になりたいと、私は先生に願っております。
その夢を見ています。皆さんはいかがでしょうか。
いえ、このままアットホームな業界でいるでしょうと、そういうふうには思ってはいませんか。
私は祈っています。
神様の夢が大きくて偉大なものだから、神様にとって開拓分立なんて、本当にもうすごく簡単なことであります。
皆さんはすでに、23年前に、30年頃でしょうか、前に神様の大きくて偉大な夢を、皆さんはその技を経験させた方が、本当にほとんどの方々なんです。
その経験がちょっと古くはなっているかもしれませんが、しかし、私たちは年をとっているかもしれませんが、神様は年をとって老けていないです。
23年、30年前の神様の夢も大きくて偉大ですし、今もこれからも神様の夢は大きくて偉大なものです。
2番目、神様の何が大きくて偉大なんでしょうか。神様の許しが大きくて偉大です。
イエス様がある日、ペテロと話し合っていました。
その中で、人間の許しがどんなものなのか、そして神のあるイエス様の許しがどんなものなのか、比べられないということである。
それが聖書に書かれています。そこをちょっと開きたいと思います。
新約聖書にきまして、マタイノ福音書18章です。聖書の37ページです。新約聖書の37ページ。
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新約聖書の37ページ、マタイノ福音書18章、21節、22節です。私が読みますね。ご覧ください。
その時、ペテロが身元に来て言った。
主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで許すべきでしょうか。七度まででしょうか。
イエスは言われた、七度までなどとは私は言いません。七度を七十倍するまでと言います。
さあ、皆さん。ペテロは、この新約聖書はこんなに読んでいます。
イエス様、私に罪を犯した人を何度まで許せばいいんですか。七度まで許せばいいんですね。
その心には、イエス様、私は七度まで許せる立派な人間ですよ。偉いでしょ。そういう気持ちが、実はこのペテロの言葉にこもっている。
七度まですごくないですか。そこまで私は許せる人間ですよ。そういう思いをペテロはして、イエス様に試すにたいと言っていました。
ところが、イエス様は何とおっしゃいましたか。七度までなどとは私は言いません。七度を七十倍するまでと言います。
この話を聞いたペテロは何も言えなかったでしょう。皆さん、ペテロの話、これが私たち人間の許しの大きさです。
もしですね、皆さんに悪いことをしたある人、その人が七回も悪いことを自分にした。七回も許せる、それは人間だってすごいことかもしれません。
確かにですね。ところがイエス様は、イエス様の答えは、ペテロの想像を超えるほどの大きな大きな許しを、七度くらいだけではない。七度を七十倍するまで許しなさい。
これが私の許しの大きさなんですよ。あなたもこのように許しなさいということです。つまり、無条件許して、また許して、また許して、また許して、また許して、最後まで許すということで。
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皆さん、いかがでしょうか。普段、家族を、あるいは誰々さんを許していらっしゃるでしょうか。皆さん、私たちの神様の許しは大きくて偉大なものです。
そして、私たちが神様を恋愛できていること、私たちが生かされていること、家庭を持っていること、仕事を持っていること、学校に行っていること、すべては、そのベースには神様の許しがあるからではないでしょうか。
皆さん、神様の許しこそ、私たちの人生の土台の土台なんですよ。ちょっと暑いですね。暑くてちょっと眠いような気がしますけれども。私のバスだけでいいでしょうか。暑いですね。
皆さん、私は、実はですね、毎日何十回何百回神様に許されているかもしれません。時には、一日一回聖祷を開いていなくても、神様を許してください。
時に、一日一分も祈っていなくても、神様を許してください。時に、一日一度も神様事を考えていなくても、神様を許してください。時には、人を憎しんでいても、神様を許してください。
時には、悪い思いを持っていても、私たちが基準というような気づいていないような、神様は実は一日ですね、数十回数百回私たちを許しておられるということです。神様の許しをどれほど皆さんは自覚していらっしゃるでしょうか。
神様の許しは大きくて偉大なものであります。このような大きくて偉大な許しをいただいた者として、今度は私たちもその大きくて偉大な許しの人になろうではありませんか。
いや、ならなければならない。私は既に大きくて命を捨てられた許しを経験させていただいた人なんです。その大きくて偉大な許しを経験させていただいた人として、神の許しという返すことのできない借りをした者として、
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今日許すべき人を許し、和解すべき人と和解をし、挿入にして私たちの心が天国になりシャロームに平和に満たされることを切に願っております。
3つ目に行きましょう。神様の回復は大きくて偉大です。私たちの神様は私たちを癒して、治して、回復してくださるお方です。その神様の回復というものはそれも私たちの想像を超えるほど大きくて偉大なものです。
その回復は私たちのすべてのあらゆる面に及ぼされます。信仰を治し、私たちの霊を回復し、我々の精神を回復し、我々の心の態度を回復し、我々の人格を回復し、我々の人間関係を回復してくださる。
たまに皆さんから聞くお話がありました。それは本当に僕会社としてとても嬉しい話ですけれども、それはたまにですね。
「ユン先生、本当にこの頃、両団に教会では本当にもう先生が来られたからもう帰られて、誰々さんはすぐ帰られていますね。」とか、「こんなにあの人がこれほどまで帰るとは。」とか、そういうふうにですね、帰られたことを話を聞いて本当に嬉しく思っています。
もちろん、その帰られたこと、その回復はすべて神様がなされたことでしょう。皆さん、私たちの神様は本当のクリエイターなんです。神様に癒やすことのできない人はいません。
神様に回復できない人はいない。私たちの人はこの人、この日本とこの世界を回復することを諦めないお方であられます。この人が私たちの神様、この人が私たちの神様、その方を信頼しようではありませんか。
ちょっと聖書を開きましょう。イザヤ教三十章二十六説。イザヤ教三十章二十六説、1172ページ。聖書を開いてですね、大きな声で一章に読みたいと思います。
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一週間ですね、皆さん、いろんな仕事で疲れて、本当にですね、礼拝に来ていらっしゃって感謝しておりますけれども。
二十六説を一章に読みましょうか。
主がその民の傷を包み、その打たれた傷を癒やされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。アーメン。
もう一つ私は読みますね。主がその民の傷を包み、その打たれた傷を癒やされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。アーメン。
皆さん、どういう意味でしょうか。神様が私たちのその傷を、主は包んでくださる、打たれた傷を癒やしてくださるんですけどね、その癒やしてくださるその日がですね、月の光がですね、日の光のように輝く。
そして日の光は七倍になって、七つの日の光のようになるという、全く痒く、全く癒やしの日が来る。神様それをなしてくださるという二言葉です。
もう一回書を開きましょう。エレミア書、33章、6節、7節、8節を読みたいと思います。1307ページです。よろしいですか。一緒に読みましょうか。
1307ページ。エレミア書、33章、6節から8節です。ちょっと長いですけれども、一緒にですね、この御言葉の意味をかみしめながら、一緒に読みたいと思います。
三杯、三よ私はこの町の傷を癒やして治し、彼らを癒やして彼らに平安と真実を豊かに示す。私はユダとイスラエルの繁栄をもとどおりにし、はじめのように彼らを立て直す。
私は彼らが私に侵したすべての戸賀から彼らを清め、彼らが私に侵し、私に背いたすべての戸賀を許す。アーメン。
さあ、前を前に向いていただけますか、みなさん。ここにですね、二を見なさいと、私がどういうふうにその町の傷を、みなさんの傷を癒やすのか、治すのか、ごらんなさいとして、繁栄をもとどおりにする、ということです。
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みなさん、このように神様にお会いするならば、私たちの人生も家庭も教会もこの地もこの日本も世界も新しく作られる、ということです。
だからみなさん、神様を毎日毎日深く経験する人も、その日は毎日毎日が新しいんです。毎日毎時間毎分毎秒が新しいスタートでですね、始まる人なんです。
そのためには、私たちは、神の夢が大きくて偉大であること、神様の許しが大きくて偉大であること、そして神様の回復が大きくて偉大であることを、その声を選びとって聞かせていただく。
自分を潰す、壊す声は拒んで、神の許しは大きいものである。神の回復が大きくて偉大である、その声を聞かなければならないでしょう。
ここにもう一箇所開きましょう。神訳に行きまして、ヨハネの黙示録、二十一挙、三節から五節です。ヨハネの黙示録、二十一挙、三節から五節。五百ページですね、五百ページ。
五百ページ、二十一挙、三節から五節ですけれども、三節を私が読みますので、四節、五節を一緒にお読みください。三節。よろしいですか。五百ページですね。黙示録、二十一挙、三節。
五百ページの上のが二十一挙の三節です。私が読みます。その時私は、溝から出る大きな声が、こういうのを聞いた。
二の、神の幕屋が人と共にある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神御一人が彼らと共におられて、一緒に。はい。
彼らの目の涙をすっかり拭いこってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものがもはや過ぎ去ったからである。すると、溝についておられる方が言われた。
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見よ、私はすべてを新しくする。また言われた。書きするて、これらの言葉は、信ずべきものであり、真実である。アメン。
皆さん、イエス様が私たちを新しく、すべてを新しくしてくださるんです。涙をすっかり拭いこってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、すべてのものは過ぎ去っているからです。
それを誰が成してくださるのですか?イエス・チリスとか。誰に?皆さんに。私たちに。この教会に、この日本にしか。新しくしてくださる。だから、神様はすべてを新しくする方ですから、神様はニュー・クリエイション、その御言葉を毎日聞いて、毎日聞いて、そしてイエス様とともに交わる。
交わって、この命の道を歩んでいってくださる。メッセージを書きたいと思います。私たちの人は大いなるお方です。大いなるお方を信じる私たちも同じく、大いなる夢を見て、神様の許しと、回復と、そして神様の力を毎日、
味わって、経験して、人ともに歩んでまいりましょう。お祈りします。
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