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本日は大変失礼いたしました。今日は、説教は脱出ではありません。
お祈りしましたように、富山志恩の教会、私の発言協会であります、富山志恩の教会から、
志恩先生の子供を入れて、5人家族が金曜日から今日の火曜日まで、教会に泊まって、
これから、日本選挙を目指すというか、ミッションを持って、祈って、また準備している段階で、
いろいろ、今回、他の選挙主選手にもお会いしたり、学んだり、祈ったり、というところであります。
今日は、ここに開かれています二言葉から、使命のためなら、壁を乗り越えよ、という内容を持って、志恩先生としてメッセージをいただきたいと思います。
拍手を持って皆さん、お迎えいたしましょうか。
まず、紹介をあわせ、不足な私の家族を、富山教会に招待していただき、心から感謝をいたします。
三年前に、ちょうど今頃ですけれども、賛美チームを連れて、また劇団も一緒に来されていきまして、皆さんの教会でお仕えできた、そのことが思い出しました。
あの、嬉しかったことが一つありましたけれども、昨日ある方が、私の顔を覚えてくださって、ああ、こういう姿勢で本当に嬉しかったです。
今日、人の働きを通して、よみがえれをか、イエス様のお言葉を共に分かち合いたいと思います。
私たちは、ここでイエス様のことを分かち合うだけではなく、また皆さんがそれぞれの居場所で、そこでまたイエスキリストを分かし合う、明かしできる、そういう教会でありたいと願っております。
今日も言葉を見ますと、選挙の働きを指導される方があります。それは神様であって、神様の右手であります。
その選挙というものが、ユダヤ人からイオン人へ拡張していく、その働きがここに書かれています。
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人の働き10章ですね、現在見たらいいんですけれども、時間の関係がありますので、今日は前半の部分だけを共に見ていきたいと思います。
人の働き第10章のテーマは、世界選挙、その中でも違法人選挙です。
コルネリオという人が出てきますけれども、彼が違法人であって、その人が神の中に、救いの中に入ってくる場面が今日も10章に始まっています。
この全ては神の右手から始まって進んで、それがまた完成します。
今日の選挙3節ですが、ご一緒に読みましょうか皆さん。
人の働き10章3節、ご一緒に読みますね。
ある日の午後3時ごろ、幻の中ではっきりとそのミスカイを見た。ミスカイは彼のところに来てコルネリオと呼んだ。
神のミスカイが神の身胸を伝えるために幻の中に現れてきました。
後から見て、ケテルの反応からわかるように、
この幻、そしてコルネリオに通して語られるその福音は、ユダヤ人にとってはとても大きなショックでした。
なぜユダヤ人にとってはショックだったのか、それはユダヤ人の立場からは、
地方人は神様を信じてはいけない、もう地獄に行くべき人だとみんな思い込んでいたわけです。その中でコルネリオが救われたことは、とても大きなショックでした。
私が住んでいる韓国の今の状況から例えて申し上げますと、こんなものになるかと思います。
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例えば異端宗教の活者とか、もう悪質の罪を犯している人々、全然食い合うために生きようとしない人々がいきなり救われているのは、なかなか理解しづらいかもしれません。
みんなから断られた、断られたその人に神様がお手伝いになったということです。
これはヨハネの福音書4章に書かれています。サマリアのスカルのその女性にイエス様が共にそばに行ってくださったことだと思います。
みなさんこのようにしてこのイエスキリストの福音が、地方人のコルネリオまでそれが変えられたのでしょうか。
福音書によりますと、コルネリオはイタリア人、つまり異端人です。
また彼は、軍隊の百人大将でした。
人を殺し、国を侵略する、または国を防ぐ、そのような戦争の異端人だけでなく、戦争の仕事をしていたその人に神様が現れたのです。
戦争を考えますと、どこかの国を侵略するとか、部族を侵略するとか、そうすると人を殺すしかないのです。
そういうことをやり続けてきた人に神様の救いのメッセージが残ったということです。
そしてその人が救われるということです。
この地方人であり百人大将のこの人が、コルネリオが救いによって救われるこの場面から、私たちは神様の恵みに近いお選びというものを私たちは知ることができます。
神様はご自分の民とする人々をあらかじめ定められたということから予定と言います。
それは神様があらかじめこのコルネリオを救うことをお定めになって、そして定めの時が来たので、神様がニスカイを彼に送って、そしてペテロに出会わせてくださって彼を救ってくださったということであります。
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例えばロボ伝道にいたり、キャラバン伝道とかあるいは皆さんがそれぞれ伝道に関していたら、こういうような人に出会うことがしばしばあるかと思います。
私が教えている教区というのは神社ですよね。毎週火曜日に伝道会があって、ロボ伝道とかお茶伝道とかをしていました。
街でテーブルの上にお茶とか氷とか簡単なお餅とかを準備して氷が倒れる人に助けて差し掛けて声を掛けて伝道をしたりしています。
この場で直接にいきなりに伝道するというより、関係を持ったり、いろいろ雑談みたいな話をして、そして教会のことを紹介したりします。
そんなところである人に出会ったら、以前教会に行ってきた人が何かがあって、静かに何かがあって、教会から離れている人々に出会うチャンスがよくあります。
その時にこう思うのですが、神様がこの人を私に出会わせてくださった、送ってくださったんだなと思います。神様はこの人をお選びになったなと思います。
愛する皆さん、神様のお選びには条件などはついていません。ところでですね、信仰生活をしていく中で時々こういう質問を受けることがあります。
先生、地獄に行く人々は神様から捨てられた人々ですか?
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それをお話ししますと、神様のお選びがあります。ところが一方には神様も行きしているということがあります。
行きという言葉は職務行きという言葉であって、捨てられるという言葉ですね。
しかし、私たちが神様の捨てられた人、その行きを考える時には、注意しなければならないことがあります。神様が誰を捨てられたのか、誰を選ばれたのか、それを私たちは知らないということです。
誰が選ばれた人なのか、誰が放棄された人なのかわからないので、私たちの考えを気をつけて注意しなければなりません。
例えば、なかなか人口が成長しない人々を見る時に、その人は神様が放棄した人であると判断します。
その時に、私たちは時々、その人を罪に定めてしまう。あの人は無理かも、神様に捨てられるのではないかと、そういうふうに思ってしまう人が、実は私たちにあるかもしれません。
もっとひどい場合は、私に本当に悪いことをした人、その人に呪うほどまで、あの人は絶対に旅行に行くかもしれません。そういうふうに思ってしまうことがあるかもしれません。
皆さん、しかし、こういうような思いは、神様の心を痛めてしまうことになります。
私たちが誰かを判断する瞬間、私たちは、私たち自らが神の座に上がることになります。
私たちが、私たちの周りにいる方々、その魂を、あるいは海外とか選挙地に、電動に出て行く時に、その人々のことを思う時に、私たちが必ず覚えてほしい言葉は、
神の福音書3と16節です。皆さんも安心していらっしゃるでしょうね。一緒に安心したり、あるいは読んでみましょうか。
ご一緒に、3、はい。
神は実に、その一人号をおあたりになったほどに、よう愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。
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私たちがここで読む部分は、神が世界を愛した、愛したという言葉です。
この16節の言葉の中に、よう愛された、神はよう愛されたという言葉に注目していただきたいです。
私たちが神のことを思い出す時に、裁いてしまう、もらってしまう、そういう怖い神様ではなく、
一人号さえ信じ渡してくださった、一人でも多くの人々が救われることを切に願っておられる、神様の愛を覚えていかなければならないでしょう。
その神様の恵みに似た、その愛が、私たちの間に満ち溢れまくることだから、お祈りいたします。
神様の選びには条件がついていないのですが、人間側を見ると、コルメリオの信仰や姿勢から、これは神様に選ばれるに値する姿勢があります。
今日の実教の2節を私がお読みしたいと思います。2節をご覧ください。
彼は正見な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤ人、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていた。
4節もお読みいたします。彼はミスカイを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ、何でしょうか?」と答えた。するとミスカイはこう言った。
あなたの祈りと施しは、神の前に立ち上って覚えられています。
皆さん、この2節と4節にですね、繰り返して出てくる言葉があります。それは、多くの人々に施しをした、そして祈りをした施しと祈りです。
コルメリオは人に対しては施しをなしました。そして原石には祈りをする人でした。
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コルメリオは人に対しては、自分の金や自分の物を持って施しをなして、誓える、もてなす人でありました。
しかしそれだけではなく、神様に対しては、礼的には祈りを持って、本当に正義的な魂を持続するために種を蒔く神の人でした。
2節の終わりのところを見ますと、「いつも神に祈りをしていた。」とありますように、いつもと祈りが結びついていますね。
もちろん、たくさんのリズムの先輩たちが、定めた時間によって祈る時がありました。しかし、今日のコルメリオと同じように、彼がいつもと祈りをしたという言葉を、「いつもと祈りをしていた。」と連結するのは、非常に珍しい聖書の用法です。
なぜ、彼がいつもと祈りをしなければならなかったのでしょうか。
彼は、礼的に上階を覚えていましたから、祈りを休むこともしないということです。
自分の霊的な状態や状況も知っているということですね。
自分が異邦人であること、自分が軍人だから戦場で、戦場でいろいろなことをやっていたことを覚えています。
復印をそこかで聞いたことはありますけれども、真の神様の愛と救いのその中に入るためには、まだ自分はもうできていない、その足りなさを彼は感じていました。
そして、その中で彼はいつも祈っていているうちに、彼の霊の目がしなかれたということです。
何も条件もなくて、自分にそこられる、与えられる神のイエス様の十字架の愛を、彼はもうそとったということです。
条件のない愛をそとった時に、彼はその条件なしで多くの人々に施しをなしました。
自分の家の人々だけでなく、その家の周りの人々に自分のものを分け与える人でした。
21:11
コルネリオが住んでいるカイザリアは、神戸のように港町であって、商業と交通の中心地ですから、多くの人々が往来するそういう町でした。
しかし、彼は自分の民族、イタリア人ではないと拒んだのではなく、自分が神にその価値のない愛を受け取ったように、彼はすべての人々を自分のものに隠したのです。
彼から見て、自分はイタリア人であって、日本人なのに神様から捨てられたのではなく、神様に選ばれたその無条件の愛をそとったから、
誰もその無条件の愛をもって人々に施しをやってきたということです。
彼は自分のものだけではなく、時間もすべてを捧げる、分け与える人でした。
今日の2節を見たら、彼が誰に施しましたかが書かれています。
日本語の聖書には、「ユダヤの人々に」とあります。
これを通して、彼が本当に自分の種族ではなく、すべての人々を大切に隠したのを見ることができます。
これをご覧ください。彼は日本人です。ドーマ人です。しかし彼はイタリア人ではなく、ユダヤの人々に施したということですから、
日本人、あるいはユダヤ人、果てしなくみんなに施したということです。
皆さん、神の愛が私たちの内側に注がれますと、このような新しいことが起こります。
その働き、第2章の終わりのところに、似たような箇所が書かれています。
エルサレム教会の人々が、自分のものを自分のものと思わず、みんな、日本語で、
生む、愛するというような働きが、この教会にありました。
神の愛が注がれますと、それが一人、個人であろうが、家庭であろうが、町であろうが、教会であろうが、そこに同じ神の愛の働きが起こります。
ヨダニ教会などの神戸市の町の中で、このような一人一人、家庭、教会でありたいと、切実に願っております。
24:08
皆さん、2011年3月11日を覚えていらっしゃいますか。
皆さんご存知でしょう。東北のそこに、神戸9ぐらいの大きな大地震と津波による大きな大きな被害がありました。
今日の見言葉を準備しながら、資料をデータを調べてみたんですけれども、約2万人以上の死傷者が発生しましたし、多くの家や建物が崩壊されました。
この事件が起きたのは、正確に4ヶ月後です。7月11日には、私たちを含む5人のメンバーがこの地域に向かいました。
4ヶ月経った後、7月11日でした。清先生を含めて5人が仙台と東北の町に参りました。
右側に写真がちょっと小さいんですけれども、あのメンバーと山もいいです。そのまま行きました。
私がここに出発する前の木曜日でした。このメンバーたちと一緒に食事をしながら、1対1の話を一緒に話すことができました。
5年前、私たちのチームは、その愛を持って東北の町にやって参りました。
何ができるか、そんなに期待は持っていなかったんですけれども、
メンバー5人でですね、姉妹たちが3人もいて、男の人はあまり力持ちじゃなくて、なかなかですね、うまく何ができるかという心配もありました。
しかし私たちは賛美チームでしたから、神の愛を持つ賛美を持ってやって参りました。
今のこの賛美をですね、本当に一週間前ですね、歌って練習して、この賛美を持ってあの町に行きました。
愛を持って練習して、機会を持ってやってきましたけれども、いろんな壁がありました。
27:04
これが、あの時のスケジュール表なんですよ。
どういうように移動して、どこの教会で何をしたのか、どこで寝たのか、そういうスケジュールがありますけれども、
私たちの最初の課題は、とてもぱっぱかな日常でした。
大事な障害物壁と言ったら、それはとてもきついスケジュールでした。
5日間でしたけれども、車で移動した時間が約14時間30分、飛行機で5時間30分、そして電車で5時間ほどですね、移動距離がありました。
とてもきつい道へと、そして距離も遠くて、地下も猛暑で、とても暑かったです。
でも、すべてのチームメンバーが喜びで、一所一所、特別に教会だけでなく、一市町村で一緒に参加し、主人の愛を分けます。
主人のメンバーですけれども、本当に愛を持って、そして仮設住宅とか、休暇移動とか、それぞれですね、泊まったり休暇したりして、家様の愛を持ってお伝えできました。
移動の間でしたけれども、一人の兄弟でですね、こういう話をしました。
メンバーの中に、二人の姉妹はまだ結婚していない、ということですね。
もう喜んで、この原発の愛を受けのある町に来たことを覚えると、本当にありがたい、うれしいと、そういうふうに彼と話していました。
それですね、韓国のメディアでは、あの地域は原発の事故がありましたから、放射線の漏れが、とても数値が高いという情報を知っていたからですよね。
私たちは、一緒に水を飲んで、一緒に食べて、一緒に寝て、一緒に暮らして、そこで一緒に生活していました。
もしですね、こういう町に、原発のあのところに来ますよとしてですね、飽きるしたら、集まって来なかったかもしれないですね。
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しかし、その5人のメンバーは、神の愛に満たされてあふれていましたから、そんな壁なんてもう大したものでないと、乗り越えてやって来ました。
皆さん、満ちあふれる十万の神の愛、その力をですね、さまかけるものは何一つありません。
今年は、家族と一緒に、両団に教会に来させていただきました。
出会いの前に後ろの席に座って、祈っていましたけれども、
日本のことがいいなと、
皆さんのことが好きです。
皆さん、ヒト・パウルにも、その選挙のための壁は多くありました。
ヒト・パウルはコロサイリストへの手紙で、それを苦しみと言っていました。
私はお読みします。コロサイリストへの手紙、1章24節です。
ですから私は、あなた方のために受ける苦しみを喜びとしています。
そして、キリストの体のために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。
キリストの体とは、教会のことです。
ここにですね、キリストの苦しみの欠けたところとありますが、
政府は具体的に言うならば、キリストの苦しみの欠けたところは、実は無いのですよね。
イエス様は十字架で死なない時に、完成したと言われました。
しかし皆さん、私たちが教会で共に信仰生活をしていく中で、やむを得ず、その使命のために、愛を実践するために、私たちが受ける苦しみがあるということです。
その苦しみは、イエス様を愛するから、その苦しみが私にあるのです。
イエス様を愛していないなら、その苦しみをもう受けることはないでしょう。
イエス様を愛するから、巨大住まいたちを愛するから、お仕えするために、もう経験させられるような苦しみがある。
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それを時代に時代に、神の人たちはそれを受けてきたわけなんですよね、皆さん。
愛する皆さん、十字架に立ったイエス君を見上げて、その道を、その愛の使命の道を、皆さん共に走っていこうではありませんか。
今日のお見事ば、人の働きを見ると、ペテロには壁がありました。
それはペテロの心の中にある基準でした。
イホジンは救われてはいけないという基準でした。
しかし、神の働きによって、ペテロはその壁を乗り越えることができました。
コルメリオも神の恵みによって、その壁を乗り越えることができました。
皆さん、今から私たちの順番ですよ、出番です。
もし皆さん、誰かに対する嫌入観とか偏見とかをお持ちですか。それを捨てて、イエス様の愛を持って、この神戸、この日本の全国のために、イエス様の愛を伝えていっていただきたいと願っております。お祈りします。