2023-12-31 24:04

#信仰と不信仰の狭間で 23/12/31

マルコ-27からの礼拝説教。2023年12月31日録音。本日は2023年大晦日の礼拝です。2023年は世界情勢や日本の政治や芸能の世界でも様々なことが起こりました。そして私たちもそれぞれの生活の中で試練に合ったことでしょう。このような中で私たちは揺るがず過ごせたでしょうか。
今日の箇所では信仰と不信仰の狭間で揺れ動く人々が出てきます。その姿は「神様を信じているけれど信じ切れない」私たちと重なります。今日の箇所に登場する人たちとイエス様のやり取りから、1.弟子たちの不信仰、2.父親の不信仰、3.不信仰から信仰へと導くイエス様、について取り上げます。

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それでは、マルコ9章の14節から27節、マルコ9の14から27節をお読みします。
さて、彼らが他の弟子たちのところに戻ると、大勢の群衆はその弟子たちを囲んで、立法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。
群衆は皆、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄ってきて挨拶をした。
イエスは彼らに、あなた方は弟子たちと何を論じ合っているのですか?とお尋ねになった。
すると、群衆の一人が答えた。
先生、口を聞けなくする霊に疲れた私の息子を、あなたのところに連れてきました。
その霊が息子に取り付くと、ところかまわず倒します。
息子は泡を吐き、はぎしりして体をこわばらせます。
そして、それであなたの弟子たちに霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。
イエスは彼らに言われた。
ああ、不信仰な時代だ。いつまで私はあなた方と一緒にいなければならないのか。
いつまであなたに我慢しなければならないのか。
その子を私のところに連れてきなさい。
そこで人々は、その子をイエスのもとに連れてきた。
イエスを見ると霊がすぐ彼を引きつけ起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
イエスは父親にお尋ねになった。
この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらい経ちますか。
父親は答えた。
幼い時からです。
霊は息子を殺そうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。
しかし、お出来になるなら、私たちを憐れんでお助けください。
イエスは言われた。
できるなら、というのですか。
信じる者には、どんなことでもできるのです。
するとすぐにその子の父親は叫んで言った。
信じます。不信仰な私をお助けください。
イエスは群衆が駆け寄って来るのを見ると、穢れた霊を叱って言われた。
口を聞けなくし、耳を聞こえなくする霊。
私はお前に命じる。
この子から出て行け。
二度とこの子に入るの。
すると霊は叫び声を上げ、その子を激しく引き付けさせて出て行った。
するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは、この子は死んでしまったと言った。
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しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。
イエスが…。
失礼しました。
以上ですね。
今日はこのところから、信仰と不信仰の狭間でと題して見言葉を取り継ぎます。
皆さん、おはようございます。
先週はクリスマス礼拝で、イブの日でしたが、今日は大晦日ですね。
7年に1回こういう日があるようですけれども、大晦日の礼拝で、
今年は世界情勢ではですね、ウクライナ危機がまだ2年を迎えて続いておりますし、
さらにハマスとイスラエルの紛争が勃発しました、10月ですね。
政治や、政治は今まさにゴタゴタしています。
マスコミ芸能の世界でもですね、いろいろ起こっておりましたね。
そして、今年の琥珀もいろいろ見物なんて言われてますけれども、
私たち一人一人の生活でもいろんなことが起こったと思います。
そんな中で1年間振り返ってみたときに、どうですか。
今年1年間私たちはイエスさんを信頼して歩んでこれたでしょうか。
そんな中、今日の箇所ではですね、これまでのように病気が悪霊のせいにされている。
その中身がどうだということは、今日も詳しく論じませんけれども、
おそらく転換ですね。この子は転換でなかったかと、学者では言われています。
そんな中で、おそらくティーンエイジャーの男のお子さんと父親が出てきますが、
不信仰とですね、信仰の狭間で揺れ動く人たちが出てきます。
その人たちとイエスさんとのやりとりを学びながら、
今年1年の振り返り、また来年への抱負みたいなものを考えることができればと思います。
まず最初はですね、弟子たちの不信仰というところですね。
先週まで見たように、イエス様とペトロをはじめ3人の弟子たちは、
山の上でいわゆる変貌の奇跡、イエス様の栄光の姿を見た。
そのような偉大な奇跡を見た。
そしてその後、山を降りるところで、エリアの到来について、
この3人の弟子たちがイエス様と論じ合った。
そんなことが起こった矢先ですね。
イエス様と3人の弟子が、残りの弟子たちの元に戻ると、事件が起こっていました。
何があったか。
おそらくそこで議論していたのは、残りの弟子たちと立法学者だったのではないか。
イエス様が何を論じ合っているのかと尋ねますとですね、
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ある男の人が群衆の中から出てきたわけです。
彼は息子を癒してもらうために来た。
そしてイエス様に訴えたんですね。
この息子がですね、長年こういう患いをしていた。
その霊が息子に取り付くと、ところかまわず倒します。
息子は泡を吐き、はぎしりして体をこわばらせます。
それであなたのお弟子たちに霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした。
それに対してイエス様は嘆きの言葉を述べられたんです。
イエスは彼らに言われた。
ああ不信仰な時代だ。いつまで私はあなた方と一緒にいなければならないのか。
いつまであなた方に我慢しなければならないのか。
その子を私のところに連れて来なさい。
このああというのはですね、ギリシャ語でおうとなっていますけれども、
嘆きの言葉でした。
で、気づかれたと思いますけれども、今までのように失敗する弟子たちの姿がここで描かれているわけですね。
で、弟子たちはイエス様に信頼しなければいけなかった。
その弟子たちの何度も繰り返される失敗の様子が、なぜ繰り返されてマルコの副印象に出てくるか。
12月17日にですね、この山から降りるイエス様と弟子たちの対話の中で、
ある学者が失敗を繰り返す弟子の描写について述べていた。
そのコメントを覚えています?
なぜ繰り返されているか。
それを復習しますけれども、その学者はこんなことを言っているんですね。
なぜ弟子たちのこの無様な停滞落が繰り返されているか。
なぜか、それはマルコによる副印象は、その読者がキリスト者であり、
彼らは死と復活について知っているけれども、なおイエスが主であることの意味や、
自分たちが弟子であるための必要条件を教わらなければならないものであると想定しているように思われる。
このマルコの副印象は紀元60年くらいに書かれた。
そして当時の教会の中で開覧された。
当時おそらくローマの厳しい迫害がどんどん厳しくなっていくような中にある弟子たちに書かれている。
多分そこの読者に私たちも入るでしょう。
こういう理由があった。
イエス様を救い主として信じて、イエス様に信頼して生きていこうと私たちも決断しましたね。
そういう意味で私たちもイエス様の弟子です。
でもペトロをはじめ、他の弟子たちと同じように私たちもイエス様の十字架や柔軟、そして復活について知っているだけではなくて、
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自分の身になる、確信となるためには私たちは学び続けなければならない。
そういう教訓を繰り返される弟子たちの不信仰の期日や失敗から私たちも学んでいくということなんですね。
そういう中で振り返ったときに、今日で2023年終わりますけれども、
この1年間私たちはイエス様について何を学んだでしょうか。
イエス様の十字架と復活について何を学んだか。
そうやってみれば、一人の牧師として自分も含め、教会のクリスチャンの方々に、
イエス様の救いというものを日常生活で経験してほしいんですね。
どんなイエス様が助けてくださった、信頼できるという経験をこの1年間したか、振り返る日となればと思います。
この弟子たちの不信仰ということに続いて、今度は父親の不信仰というところから見ていきましょう。
この父親はイエス様にこう訴えたんです。
霊は息子を殺そうとして何度も火の中や水の中に投げ込みました。
しかしお出来になるなら私たちは哀れんでお助けください。
この父親はイエス様を信頼していたんですね。
でなければイエス様のところまで息子を連れてこなかったでしょうね。
でも信じ切ることができなかったんですね。
ある学者はこの父親のお出来になるならという言葉から、
この態度がやけくそとか自暴自棄だとさえ言っているんですね。
その背景には、この病に苦しむ息子さんとの長い日々があったと思います。
幼い頃からひどい症状が続いていた。
皆さんも聖書を見るとわかると思いますが、
17節から18節、今詳しく見ませんけれども、
マルコの副印象は他の副印象に比べて非常に生き生きと詳しく描写されているわけです。
霊が息子に取り付くと、ところかまわず倒す。
泡を吹き、はぎしりして体を怖ばらせます。
弟子たちに追い出してくださいと言ったんですけれども、
できなかったと嘆いているわけですよね。
そんな中で、おそらく想像たくましく考えてみると、
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いつからこういう状況ですか?
幼い頃から、ティーンエイジャーであった息子さんが幼い頃からこういうことが続いている。
他のところを見ると、何度も火の中、水の中に霊が息子を殺そうとして息子を投げ入れる。
火の中や水の中にこの子が飛び込んでいくということが何度とあったとお父さんは訴えているわけです。
おそらくこの父親は息子を治してもらおうと、
イエス様の噂を聞きつけて連れてきたわけですね。
群衆がいたからイエス様に治してもらおうと思って行った。
でも行ってみたらイエス様はいなかったわけですよね。
弟子が10人ほどいた。もっと70人いたかもしれません。
70人の弟子たち、前の福井省の箇所に向かってありましたが、
弟子たちも二人一組になってホーブを歩き回って、山を癒したということがあったので、
この父親はお弟子さんたちでも息子を治してもらうことができると、
一流の望みを持って弟子たちにすがりました。
でも弟子たちによって息子が治ることがなかった。
もうがっかりしたと思うんですね。
相当大変な長い道のりを旅してきたかもしれません。
イエス様はいなかった。しかもお弟子たちも治せなかった。
ようやくイエス様はやってきたわけですよね。
そういう長年の息子の病との戦いの辛さとか、
そして今しがたイエス様に会えなかった、弟子たちも治してもらえなかったという経験した
この失望感、そういうものから絞り出すように、
でももしあなたができるならば、私たちは哀れんで助けてくださいと言った。
ちょうどしばらく前、先週だった2週間くらい前に、経済のある番組で
来年の働き方改革について特集していたんです。経済特集。
その中で今言われている医療現場の働き方改革が成功した例が出てきたんですね。
四国のある総合病院です。何をやっているかというと、いわゆるDXですね。
デジタルトランスメーションを実施して、
医者とはじめとするスタッフ全員に業務用スマホを持たせているというのが出てきました。
何をしているかというと、例えばリハビリしているところを
フィジカルセラピスト、作業療法士が動画を撮って、それを医師に送るんです。
医師がそれを見て、そろそろ来週退院できますねと返事しているんですね。
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何がそれでいいかというと、今まではわざわざ医者がそこまで行く。
だから医者が空いている時間を見つけなきゃいけないし、
医者の病院内に行き来の時間があって、時間が大変かかったのが省略できた。
もっとすごいのは、救急で頭を切った患者さんが来たんです。
それに対して、看護師の眼鏡にカメラがついているんです。
それを見ながら、この医師がアイカメラの画像を見ながら病室のパソコンを見て、
ここをそうやって消毒してというと、男性の看護師が消毒するんですね。
それも今までだったら、自分がそこまで救急の外来の現場まで行ってやらなきゃいけなかったものが短縮された。
看護師も全員持っていて、いろんな情報共有ができるわけです。
それで時間が大幅に短縮されて、ある男性の医師は家に帰って子どもと遊ぶ時間もできましたと言っていますし、
これまでは外来の待ち時間がどんどんどんどん増えて、
患者さんを迎えられるのにプレッシャーもあったし、すぐ追い返さなきゃいけなかったけれども、
見とりをもって診察することができていますと答えていたんですね。
そういう勤務医のコメントがありましたけれども、
こういう医療の制度の、病院の制度の見直しが進まない中で、
お医者さんや医療スタッフが大変だということを今言ったわけですけれども、
誰も責めるわけがありませんが、一応そういうことを今日の似たこととして取り上げています。
何が言いたいかというと、今私たちがよく耳にするのは、
例えば待ち医者に行って、重篤な病気が疑われたと、
紹介書を書いてもらって大きい病院に行った。
大きい病院に行っても3時間待たされて、行ったと思ったら1分で診療が終わってしまって、
ご家族やまた患者さんがやるせない気持ちで帰っていくなんて話を聞きますね。
もしかしたらこの病気を治してもらいにはるばるやってきた父親も、
そのようながっかりした気持ちがあって、
あなたにできるなら、哀れんでくださいと言ったかもしれません。
ところで、もしおできになるならというのは、日本語で訳されているのはけんそん語ですよね。
でももともとの言葉はギリシャ語です。
ギリシャ語では普段使いの言葉なんです。
たった4語、アラエイティデュネイというのは、
アラ、しかし、もしも、何かあなたができるならという4つの言葉。
本当にシンプルな言葉で、もしあなたに何かできることがあれば、私たちは哀れんでくださいという言い方は、
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ちょっと見るとカジュアルで、もしかしたら投げやりに聞こえるかもしれない。
大変な思いをしてここまで来ても、ラチが開かなかったので、
何かあなたができることがあれば、哀れんでくださいという、
投げやりな態度や失望感は、ここで読み取れるかもしれませんね。
そういう中で最後、不信仰から信仰へと導くイエス様のお言葉を見ていきましょう。
イエスは言われた。できるならというのですが、信じる者にはどんなほどでもできるのです。
最後の一文だけ読んでみましょう。2つの文章だけ。
するとすぐにその子の父親は叫んでいた。信じます。不信仰な私を助けてください。
信じます。不信仰な私を助けてください。
イエス様は何をされているか、ここで信じきれていない父親の問題を指摘しますね。
もし何かできるって私に言うんですか。信じるなら何でもできるんですよ。
信じきれない父親の問題を指摘しながら、
同時にこのお父さんが本気でイエス様を信じることができるように促したわけです。
そして彼は心の底から助けてくださいと叫び、
このイエス様の招きに応えるようにして助けを求め、息子は癒され、御救いが訪れたということですね。
この出来事、特にマルコの描写、私は個人的に最も好きな物語のうちの一つなんですけれども、
そういうやり取りがイエス様とこの人の間にありました。
この人のようにイエス様に助けてほしいと信頼しているけれども、
信じきれないということは私たちにも当てはまるのではないでしょうか。
不信仰と信仰の狭間で行き来するというのが私たちの現実なのではないかということです。
どうせなら信じきりたい、でも信じきれない自分との心の狭間で行き来する。
しかしもしそうであるならば、私たちもこのイエス様とこの人のやり取りに習うことができるということなんです。
このイエス様の前にひれ伏した男の人はですね、信じきれない自分を認めました。
不信仰な私を守れんでください。救ってください。自分の不完全さを認めて、
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イエス様の胸の中に飛び込むようにして、自らをイエス様に委ね助けてくださいと。
今年振り返ってみて、私たちイエス様を助けてくださいとイエス様の胸の中に飛び込んだということがあったでしょうかね。
もしそうであれば、そしてそこで文字通りその時イエス様の救いを知ったのであれば、そのことを思い出して感謝してはいかがでしょうか。
そして新しい年間もなくやってきますけれども、2024年に新たにイエス様に助けを求めながら、
イエス様の救いを知る1年、そのようにしていただきたいと思わないでしょうか。
最後に、たくさんある詩編の信頼という言葉から2つ引用して終わりにしたいと思います。
詩編の62編の8節をまず読みましょう。
民よ、どんな時にも神に信頼せよ。あなた方の心を神の御前に注ぎ出せ。
神は我らの先どころである。
詩編の62編の8、詩編31の14、せーの。
しかし主よ、私はあなたに信頼します。私は告白します。あなたこそ私の神です。
お許しましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。あなたこそ私の神です。
私はあなたに信頼します。
詩編の作者が信仰を告白したように、私たちはこの1年間あなたに縋ってまいりました。
新しい年も様々な出来事があるでしょう。
小さいこと、大きなこと、自分に関わること、人に関わること、世界に関わること、
様々な中で私たちの心が動かされることがあるかもしれませんが、
どうかその時に願わくあなたに信じきることができるように、どうか導いてください。
そうでなくても、信じきれない自分を認めながら、
あなたの胸の中に私を、信じきれない私を助けてくださいと飛び込んでいく、
そのような1年でありますよう、新しい年をも導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど、御言葉に応えて、祈る時間を持ちましょう。
黙祷してください。
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