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みなさん、おはようございます。
今年も神様にあって、このようにアドベント対抗説を迎えることができたことを感謝いたします。
考えてみますとですね、このような時代に、私たちが守られて神様を礼拝することだけでも、
奇跡であって、神様の大きな恵みであり、祝福であることを信じております。
今日も心を尽くして、神様を礼拝して参りましょう。
キリスト教会では、このクリスマスのある週を入れて、
その前の4週間から、アドベント、日本語では対抗説として、礼拝をしています。
アドベントという言葉はですね、もともと意味が当来、今日の12節に書かれている当来、
その意味がアドベント、アドベントス、その意味なんですね。
だから、いわゆるキリストの当来を意味する、日本語でも対抗説ですね、待つ、降臨の降る説、対抗説、
イエスキリストの降下、聖誕を待ち望むという意味として、今週1週間、クリスマスのある20日、その1週間、
だから20日、日曜日で終わるんじゃなくて、その週の丸々、この4週間をイエス様の降下を祝い、
目送し、感謝し、また、主の再臨を待ち望む日々として送り、そのように平然な日々を送る、守るという意味として、教会はアドベント、あるいは対抗説を守っています。
今日はその第一週が始まっています。
創石の見言葉が続いていましたけれども、この4週間は、12月20日まではアドベントメッセージ4回、毎年ですけれども、4回をさせていただきたいと思います。
今日の見言葉を開いて読んでいただきましたけれども、どう見てもクリスマスとかイエス様の生まれる話とかとは全く違う、遠い、そのような気がします。
対抗説とかアドベントしたら、何か希望に満ちあふれるような見言葉が期待できるんですけれども、今日の見言葉を一見して読むと、何かちょっと暗いような気がします。
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世の終わりを待たなくてはならないのかな、みたいな、そういう気がしますが、そこに深い意味がありますので、ともにその見言葉の恵みを知っていただきながら参りたいと思います。
皆さん、聖書には最初から最後まで2つの待望、今日待望ということをよく使いますけれども、待つことを全部合わせて待望をしますね、今日は。
2つの待望が中心になっています。
何だと思いますか、皆さん。
旧約聖書は、来るイエス・キリストに対する待望、イエス・キリストを待ち望む、それが旧約聖書のメッセージですね。
新約聖書のメッセージは何でしょうか。
再び来られるイエス・キリストに対する待望なんですね。
つまりイエス・キリストの再臨を待ち望むというこの2つ、来るメシア、また来るメシア、そう理解したらわかりやすいかと思います。
この待つこと、待ち望む、待望ということは、普段の私たちの生活においてもいろんな出来事や意味があると思います。
例えば、いいことを待つことはワクワクするわけなんですね。退屈じゃないんですよ。
例えば、自分の結婚式があると前日になるとワクワクするじゃないですか。
嬉しくてワクワクするわけなんですよ。嬉しいんです。
このように人生には嬉しくてワクワクする待望があるわけなんです。
信仰も皆さん同じだと思うんですよ。
信仰というものは、全てはわかりませんけれども、神様の約束を信じて、その約束が、御言葉の約束がその通りに成就することを待ち望む信仰なんです。
だから、もう退屈で退屈でどうしようもない待望じゃなくて、ワクワクする、期待できる、その待望なんです。
実はですね、聖書を読むと、旧約の荘石から見ていきますとですね、
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信者はもう神の時、神の業を待ち望むんだ、もうそれが信仰なんだことがわかるんです。
例えば皆さん、荘石のノアのことを思い出してみてください。
ノアどうですか。神様がこの堕落したこの世界を水でさばくと。
あなたはあの山で船を作りなさい。大きな船を作りなさい。
でもそれが一週間ぐらいだったら、早く作って早く終わったらいいんだけれども、何十年も作ってあげないんです。
80年か120年ぐらいかかったかもしれない。
だからそれを作りながら待ち望む、待つノアも、他の人から見たら変な人なんですよね。
ほっと気が狂った、バカじゃないの?みたいなね、そう見られたわけなんです。
この人生楽しんで生きればいいのに、なんでそんな苦労するの?みたいなね。
しかしどうですか。ノアは神の時を待ち望んでいました。
そしてその時を待ち望んで、主から与えられた使命を何とか全うしたノアとその家族は救われました。
待ち望んだ者が救われた、この法則を覚えてほしいんですね。
またアブルハムはどうですか。
アブルハムは75歳に神様から示されたんですよ。
私が示す地に行きなさい。あなたの故郷を離れて、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。
でもそこがどこなのか分からない。
その時に神様があなたの子孫をあの空の星のようにするんだと。
砂浜の砂のように数を起こして祝福するよとですね。
ところがアブルハムには、サガイと結婚したんだけれども、1年が経っても5年が経ってもどうですか。
子供が生まれないんですよ。
25年経ちました。
75歳で大に祝福しますよ、あなたの子孫はもう大に祝福しますよと言われたんだけど、
25年も経ってですね、やっと100歳で遺作が生まれた。
その間アブルハムはちょっとね、焦ったりしてですね。
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実は妻のサラが焦ったわけなんだけれども、それでユシマエルが生まれたりしましたけれども、
やっと25年待ち望んで神の約束の子遺作が生まれた。
またイスラエルの人々がエジプトを出た時のことを思い出してみてください。
神の奇跡的な救いによってエジプトを出ました。
神様が父と水があふれる祝福の神の地に私があなた方を導くよ、さあ行きましょうと言ってですね、
もういざとですね、エジプトを出発したんですよ。
実は3ヶ月もかからない距離なんですね。
直線でいけばですね、2ヶ月もかからない距離なんです。
ところがどうでしたか、どれくらいかかりましたか。
絶対40年かかりました。
40年間彼らは待ち望む訓練、そこで謙遜の信仰の様々なことを経験しながら、
彼らは神様がどのようなお方なのか、神の約束を待ち望むことがどんなものなのか、
そこにどんな信仰が必要なのか、たくさん教えられた期間が40年という待望の時間でした。
皆さんはどうでしょうか。
イエス・キリストの再臨を、再び来られるイエス・キリストの再臨を待ち望んでいるでしょうか。
あるいは遠く感じているでしょうか。
ワクワクするんでしょうか。退屈でしょうか。
ところが今日の御言葉の8節と9節をご覧ください。
聖書か、あるいは前の字幕か、ポチかね、ご覧ください。
そこのですね、私が読みますね、8節。
さあ、みんなで読みましょうかね、みんなで。
ちょっと長いですけど大事ですから、8節と9節ね、声合わせて読みたいと思います。
8節から、せーの。
しかし愛する人たち、あなた方は、
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アーメン。
当時初代教会の人々は、大きな迫害弾圧の中にありました。
その中で信仰をね、何とか頑張って守っていました。
そして、そのエイディ1世紀の時ですね、
彼らに与えられている希望は、もうイエス様が来られることなんですね。
イエス様の再臨も、彼らにとってはそれしか希望がなかったんです。
でも現実的に、明日か明日か明日か、待っていても待っていても、そのイエス様は来られない。
現実を見ればとても厳しい。
その日々が続いていたわけなんです。
イエス様が来られるどころか、悪い者たちは栄えて、罪は蔓延していて、迫害は日に日に激しくなってきている。
神の裁きはなぜか、下されない。
一見すると、悪が勝っているように思いました。
しかし皆さん、この時間は彼らにとっても、いや、今日の私たちにとっても、
そのような神の見心が、聖書の約束が早く成就したらいいのに、
全てが一気に解決できればいいのに、と思うんですね。
ところが、そこで私たちが学ぶべきことがあります。
それは、その待ち望んでいる時間は、それがいくら長くても、そこで神様の遠大な心があるということなんです。
私たちには知ることができない。
しかし、神様がなさることには理由がある。
ただし、神様の見心があるんだ。
それを学ばなければありません。
そこで私たちは、このペテロの時代の神徒たちのような迫害はないかもしれませんが、
また違った意味としてのいろんな苦しみや辛さがあると思うんですよ。
その苦しみという時間を送っている間、覚えてほしいことは、
私たちを見捨てられないで、愛して守って祝福してくださる神様の見心なんです。
皆さん、よく考えると、私たちが神の祝福とか、神の癒しとか、神の裁きとか、
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あるいはイエス様のサイリンが早く来てほしい、あるいは早く天国に行きたいと、
そこまで考えている方がおられるかもしれませんけれども、
それを待つのは本当に大変で疲れるかもしれません。
いつなのか、いつなのかですね。
ところが皆さん、それは私たちの立場からの考えですね。
それを変えてですね、切り替えて、神様の立場から眺めてね、
上から我々の人生を眺めて考えてみてください。
神様こそ、私たちが変えられること、清められること、
神の心にかなった生き方をすること、経験な生き方をすること、
栗ちゃんという名におさわしく生き方をすること、
神の福音の御訓のために生きること、
神様がどれくらい忍耐しておられると思うんでしょうか。
それが今日の9節の御言葉なんです。
もう一度皆さん、9節をよくご覧ください。
ここですね、9節ですね。もう一度私が読みますよ。
主はある人たちが遅れていると思っているように約束したことを
遅らせているのではなく、あなた方に対して何をしておられますか。
忍耐しておられます。
皆さん、私たちも待ち望んで待望していますが、
それよりも何枚も神様は忍耐しておられるんです。
私のために、あなたのために。
いつ変えてくるか、いつ立ち返ってくるか、いつ私を信じるか、
忍耐して待っていてくださるんです。
忍耐する理由は何でしょうか。その次に出てくるんですね。
誰も滅びることがなく、すべての人が悔いあらために進むことを望んでおられるから、
できる限り一人でも多くの人々が救われるために、
今は信じてくれない、今はわからない、今は福音を語っても聞こうとしない人もいますし、
聞いてもわからない人もいますし、いろいろな方々がいると思うんですけれども、
それを主は忍耐しておられ、待っていてくださるんです。
例えば皆さんが、60歳の方が40歳の時に救われたとしましょう。
そしたらその人に対しては、その一人の人に対しては、
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イエス様が40年間待っていてくださったわけなんですよ。
皆さん誰かと約束して40年間待ってたことありますか。ないでしょう。
1時間遅れたらもう腹が立って大変なことになるんですよ。
約束して、ロダニア駅のスタッカーの前で待ち合わせしますね。
1時ですよ、2時になっても3時になっても4時になっても5時になっても来ない、
もう腹が立って二度とこの人とはね、みたいになるんですよ。
神様は皆さんが救われる前に何十年も待っていてくださったわけなんです。
それは一人一人考えればそうなんだけれども、世界を見てみれば、
イエス様はもう二千年も忍耐しておられるわけなんです。
計り知ることができない神の待望がそこにあるんです。
だからその考えを切り替えて、神の立場から神様が
私が救われるためにこんなにも忍耐してくださったんだ、
周りの家族が救われるために主は今も忍耐して待ち望んでいてくださるんだ
という信仰を持っていれば、なんと感謝なことなんでしょうか。
涙が出るわけなんです。感謝でいいようがないほど。
だからその信仰を持ってイエス様のサイリンを待ち望むんだったら、
そこには退屈のどころか、そこに知恵と成熟と信仰が与えられるということなんです。
旧約聖書にこの全く同じ待ち望む、待望するという大事な見言葉が一箇所あります。
そこを一緒に聖書を開けましょう。
イザヤ書40章31節、旧約聖書、新しい聖書の下のページで1232ページになっています。
教会に新しい聖書備え付けてますので、これから大体皆さんお持ちですけれども、
お持ちでない方はそれを遠慮なくお使いください。
下のページで旧と書いてあって、1232ページ、イザヤ書40章31節。
よろしいですか。一緒に読みたいと思います。
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しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
わしのように翼を広げて登ることができる。走っても疲れない。
アーメン。ここに主を待ち望む者、これが待ち望む、今日の話の同じ言葉ですね。
主を待ち望む者は新しく力を得、わしのように翼を広げて登ることができる。
走っても力を衰えず、歩いても疲れない。
皆さん、実はこの待ち望むという言葉、これは良い訳だと思いますけれども、
もともとの意味は、ただの待つ、待機する、そういう意味じゃないんですよ。
例えば病院で順番待って、待って待っているのは、わくわくするのではなくて退屈でしょう。
風邪の室になったら何十人もいて、1時間半も待たされることがあるから嫌なんですよ。
でも、この待ち望むのは、ただ順番を待つ、待機する、そういう意味じゃなくて、
ある英語の聖書はHope in the Lordと書いてある。主に希望を持って待つという意味があるんです。
だから、希望を持って待つこと。だから日本語の聖書は待ち望むと訳しました。
キリストの再臨を待ち望むこと。そこに希望を持って待つわけなんです。
ただ順番を待って、何とかしたら時間が経つだろうとね。
いつか再臨が来るだろう、そんなことは許せないと思うんだけど、
そういう待機じゃなくて、早く来てください、いつ来るか、いつ来るか、
そういうふうに希望を持って、望みを持って待つことが待ち望むことなんです。
それが、このアドベントを送っている私たちに必要な信仰の姿勢なんです。
そこで、どんなふうに私たちはイエス様の再臨を待ち望んだらいいのか、
新約聖書の一箇所から一つ学びたいと思います。
マタイの福音書に行きましょう。マタイの福音書、24章、43節と44節。
新しい聖書で、新約の52ページ。
普段も皆さん、聖書を読まれると思いますけれども、
このようにですね、一回も多く聖書を開くこともいいことですからね、
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いただきたいと思います。
マタイの福音書、24章の43と44節です。
ここも一緒に読みたいと思います。
よろしいですか、せーの、次のことは知っておきなさい。
ですから、あなた方も用心してください。
アーメン。ここに44節を注目してほしいんですけど、
イエス様の再臨に対する御言葉ですね。
さあ、そこで最初に、あなた方も何をしますか。
用心していなさい。
用心という言葉は、用意という意味ですね。用意する。
準備して待ち望むということです。
だから皆さん、待ち望む信仰は、待望信仰は、
用意して、用心して待つ人々です。
漠然として待つのではなく、生徒として、教会として、
準備して、用意して、清めて、主の来られることを待ち望むことなんです。
だから、そういうふうに待っている人には、その待つ時間が祝福なんです。
退屈じゃないんです。呪いではないんですよ。
無意味な時間じゃなくてですね、
主の再臨を待ち望んでいるこの用意して用心して待つ、
一日一日が祝福であり、希望の日であり、恵みの日なんですよ。
無意味な日はないということなんです。
それは今日の御言葉に戻りまして、
そこでですね、三つの大事な、この待ち望むものとしての、
どんなふうに私たちは待ち望むべきなのか。
今、又井の訓書から、用心する、用意すること一つ教えられました。
今日の御言葉から、三つの話をしたいと思います。
まずですね、今日の御言葉の十一節、一緒に読みたいと思います。
今日の御言葉、ペテロの三章の十一節、一緒に読みますね。
せーの、このように、これらすべてのものが崩れ去るのだとすれば、
あなた方はどれほど聖なる経験な生き方をしなければならないことでしょう。
今日の御言葉の中で一番重要な言葉は、ここの、聖なる経験な生き方です。
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覚えていただきたいです。
皆さん、この四週間、もちろん四週間だけで終わるんじゃないんですけれども、
そこに、今年のアドベント、この四週間を、聖なる経験な生き方として送っていこうではないでしょうか。
日々、家庭において、会社において、いろんな人間関係において、
あるいは皆さんの心の中に、霊の中に、言葉においても、生活においても、
すべての生活において、聖なる経験な生き方をして、今年のアドベントを送りたいんですよ。
いいですか、皆さん。
聖なる経験な生き方。聖なる経験な生き方。
では、聖なる経験な生き方を、もうちょっと詳しくね、三つ話をしましょう。
1、聖なる経験な生き方をする人は、そしてイエス様のサイリンを待ち望む人は、
神様を愛し、神様に使え、兄弟姉妹を愛し、使える人なんです。
そもそもですね、この経験という言葉が、使えるという意味がある言葉なんです。
言語は非常に難しい、複雑な言葉だから、
アジアの漢字を使う県は、日本も韓国も中国も聖書を開いたら、また同じ経験、この漢字を使っていますけれども、
元の意味は、これちょっと儒教的な意味がありますけれども、元の意味は、愛しながら使える。
それもあまり簡単ですけどね、その意味の方が実はもっとあるわけなんです。
だから、イエス様のサイリンを待ち望む人は、どう生きるべきでしょうか?
聖なる経験な生き方は何でしょうか?
神を愛して、神に使えて、兄弟姉妹を愛して、使えることなんです。
だから、このように生きていきますと、自分もそうですけれども、
そういう信者と兄弟姉妹たちとあるいは家族と一緒にいれば、
自ずと、主を待ち望む人に自分も変えられるんです。
だから、神を愛しているでしょう。
神に使えて、兄弟姉妹を愛して、使えている人は、
もう確かにこの人は、本当に清い良い影響力を、信仰の力を与える人であります。
二つ目、イエス様のサイリンを待ち望む人は、
いつも謙遜で自分より人をたっとぶ人です。
イエス様を待ち望む人は、イエス様を愛する人です。
愛するから待ち望むでしょう。愛する人です。
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そして、愛するからイエス様のように、
その品性がイエス様のように変えられていく人です。
だから、イエス様のように変えられるんですよ。
イエス様を待ち望んでいるうちに、自分もイエス様のように変えられるんです。
習いたくてね。だから、イエス様のように自分を低くして、
人をたっとぶ人、そういう人に変えられるんです。
だから、主のサイリンを待ち望む人は、
夫をたっとぶ人で、妻をたっとぶ人、兄弟姉妹をたっとんで、
自分を低くする謙遜な人なんですよ。
三つ目、イエス様のサイリンを待ち望む人は、
罪から遠ざけ、世の快楽を楽しまず、
性別の清めの日々を送る人なんです。
もちろん、一般的に、普通の社会に、いい人はたくさんいます。
この世界に、世の中に、全部悪人だらけではありません。
ある時には、牧師の私よりもっと素晴らしくて、もっといい人がたくさんいると思うんですよ。
謙遜で、人はないと、いい人がたくさんいますよ。
ところが、そんな中で、よく考えると、
この世界には、この世には、悪魔、サタンの影響があるわけですから、
その罪と堕落した文化があり、価値観があり、
思想や考え方や、メディアや、インターネットサイトや、音楽とか、
様々なものが、本当に私たちの魂を汚れる、非聖書的な神の心と相反することが多くあります。
もちろん、そうでないもの、いいものもたくさんあります。
その中で、自分の魂と自分の霊を、いつも清く保つことなんです。
そしてさらには、キュリチャンがこの世界に出ていって、
この世界に行って、この世の中に出ていって、
それぞれの分野で、もう清い良い影響力を及ぼして、
この世界を神の創造の姿として、回復できるように働くこと、
変化を、変革を起こすこと、そこまで進んでいきたいであります。
メッセージを終わりたいと思います。
世の中には、二つの部類の人がいると思います。
二つの部類は、将来のことを考えながら、恐れてため息をする人がいる。
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もう一方では、将来のことを考えながら、待ち望んで微笑む人がいるんです。
イエス・キリストのお祭りを待ち望むこと、
その待ち望んでいる日々が、幸いであり、祝福である。
イエス・サワーのように、自分は変えられていくんだ。
主がそうしてくださるんだ。
私には、あの神の国、天国があるんだ、とすれば、
明日のことが楽しみになりますし、
明日のことが、笑って、微笑んで待つことができる。
主が、明日は、まだどんな素晴らしいことをしてくださるか。
それが、もうね、待って待って楽しくなる。
そういう人生になるのではないでしょうか。
だから、私は、今日の言葉のように、
聖なる経験な生き方をもって、
主の祭りを待ち望む我々でありたいと願います。
お祈りしましょう。