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皆さん、おはようございます。今日もこのように守られて一緒にですね、出会えてきますことを感謝いたします。
クリスマスのお話、2回目です。今日もまたご家族の方々もお見えになってとてもうれしく思います。
感謝いたします。先週のお話では、イエス様が
歴史の中に生きておられたということ、 そしてそのイエス様は完全な一人の人間としてこの地上に来られたという話を
短い時間でしたけれども、証明的にお話をさせていただきました。 今日はその次として
イエス様が完全な人間でありながら、同時に完全な神であること
今日のメッセージのタイトル通りにですね、イエスって神なんですか?
そのイエス様が神様であることについてお話をしたいと思います。
まず、イエスって神ですか?という話をするためにですね、
その神、その土台に触れたいと思います。
つまり、神はいるかいないか、 神は存在するか存在しないかという部分の話になります。
いわゆるですね、
神はいない、神は存在しないという、いわゆる無神論がありますね。
今日は少しまずですね、そこに触れていきたいと思います。
世界に哲学とか人文学とか、いろんなですね、 学問が発展するにつれて
神に対する学問も発展してきたと思うんですね。
その中の一つが、いわゆる無神論です。 無神論、神は存在しない、主張します。
古い統計ですが、2011年の統計によりますと、 日本だけ見てもですね、
68%から83%の日本人は、神はいないだろう、 あるいはわからないと答えたそうなんです。
無神論が多い国の中で、トップレベルだと思うんですね。
今日はですね、前の字幕をですね、見ながら話していきたいと思いますので、 前の方をですね、できれば見ていただきたいと思います。
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無神論、神はいない、この中にもそういう思いの方が、 もしかしておられるかもしれません。
さあ、それで見ていきたいと思うんです。
いわゆる、神はいないということなんですけれども、でもね、よく考えると、 神はいないという考えを信じるわけです。
わかりますか。 あるいは、いや私は何も信じませんよ、という人もいたりするでしょうね。
というのは、何も信じないという自分の考え、 何も信じない、神はいないという考えを信じる、 もう一つの信仰を持っているということになります。
わかりますか。 だからね、無神論も実はもう一つの宗教のようなものなんです。
だから、私は何も信じませんよ、という人ね、結構いますよ。 現在にはね、もう世界中に多いです。
ところがね、よく考えてみてください。 何も信じないという自分の考えを信じるという、 実は矛盾を自ら話をしているだけなんです。
だから皆さん、どうですか。 何も信じない人は誰もいないんですよ、実はね。
どういう話なんですか。 神がいないことを信じるか、神がいることを信じるか、どっちかなんです。
そうでしょ。この中にも、神がいると信じる人と、 神がいないと、あるいはわからないというね、どっちかなんです。
神がいることを信じるか、神がいないことを信じるか、 どれかを信じるということです。
さあ、今日そんな話をしますが、神がいないことを、 あるいはわからない、神がいないんだ、それを信じる。
それがどれぐらい合理的で、理性的で、現実的で、論理的なのか。
そっちがね、あるいは神がいるという方が、 もっと合理的で、理性的で、論理的なのか。
今日ね、その話をしていきたいと思うんです。 さあ、もう一つお話をしたいと思うんですけれども。
よくですね、見かける場合です。 神はいないと考える人たちが言っている、一番多くの話の中の一つはこれなんです。
本当に愛の神がいるなら、なんで世界にこんなにも悪があるのか。 なんで悲しいことが起こるのか。
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やっぱり神がいないからじゃないか、という話をよくお聞きしたりします。
さあ、今日ですね、この話について、私はこういうふうに アプローチをしていきたいと思います。
本当に愛の神がいるなら、なんで世界に悪があるのか。 やはり神がいないからではないか。
皆さん、こういう考えを持っている人は、多分ね、 皆さんの周りにも結構いらっしゃると思うんです。
ところがですね、このような考えを持っている人々、
実はそこには、自分も気づいていない何かの一つの前提があるんです。
それは、何かを悪だ、何かを善だ、これは善だ、これは悪だ、 という、それを見分けるというか、区別するというか、
それが区別できるわけなんですよね。 だから、これが世界に悪があるんだと言っているでしょう。
ところが、皆さん考えてみると、 人間はどうやって、神もいないのに、
猿から進化したもの、偶然できたものが、 どうやって何かを善、何かを悪だと区別できる能力を持つようになったんでしょうか。
考え方ありますか、皆さん。 どうやって、これは善だ、これは悪だ、
なんで神がいるのに、世界にこんなに悪があるんだかと言っている前提には、 何かそういう思う人は、何かが悪だと思っているでしょう。
それは望ましくないと思っているわけなんですね。 では、何でそれを悪と判定して判断しているんでしょうか。
その能力はどこから来たんでしょうか。 どのようにして持つようになったんでしょうか。
もし、人間が偶然原子生物からできて、できて、 進化して、猿からあるいはチンパンチー、オラゴンタンから進化したものだとしたならば、
どうやって、そういう素晴らしい良心というものを持つようになったんでしょうか。 続きですよ。
これはまた、神はいないのに、無神論者の立場ですよ。 人は猿から進化したのに、どうやって良心を持っているのでしょうか。
なぜ人は、みんなそうなんですよ。 みんな宗教を持っていようがいないだろうが、人間はですね、
善を好み、悪を憎む。そうでしょ。 悪を好む人はいないと思います。
本性的には、善を好みます。 悪は嫌いです。
では、神はいないという主張する無神論者は、 これをどうやって説明できるか。
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としたらですね、実は説明できないです。 あるとしても、その根拠や論拠は希薄であります。
もしかしたらですね、感情的に神はいないと信じたいからと言っているのではないでしょうか。
世界にこんなに悪があるのに、神はいないと考える彼らも、 神はいないことを
弁証、論証できないだろうということなんです。 では一方でですね、聖書はこういうふうに
キリスト教は、聖書は、ちゃんと 論理的で合理的で
この今の世界にも合致して一致している 根拠があるわけなんです。
キリスト教は、人の体、霊、精神、 悪と善を区別する良心を作られた唯一の神
もうちょっとわかりやすくですね、言うならば デザイナー、設計者、クリエイターがいると信じるということなんです。
偶然できたと言っていません。 ちゃんと
デザインして、設計して、そして作った作り主がいると キリスト教は言っています。
これだけ見ても、無心のよりははるかに 論理的ではないでしょうか。
その唯一の神様が、人を作られるときに、 心の中に良心というものを授けてくださったと
聖書は教えています。 私たちは、そのクリスチャンはそれを信じています。
この良心を持っているから、これは善だ、これは悪だと 善を好み、悪を憎む
その客観的な価値観を我々は持っているんです。 皆さんそうでしょう。
宗教を持っていてもいなくても、みんな人間には 拒否できない客観的な道徳価値を
みんな持っているんです。 例えば、児童虐待、それは良いことですか、悪いことですか。
悪いことでしょう。 なぜそれが悪いことだと、みんな同じ共通の価値観を持つのでしょう。
みんなこれ客観的でしょう。 例えば、日本では児童虐待は悪いことですが、
アメリカにいたら良いこと、そんなことないじゃないですか。 世界どこにいても、例えば児童虐待は悪いことなんです。
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客観的なんです。主観的じゃないんです。 雲木氏は悪いと思うんだけど、他の人は良いと思っているわけじゃないんです。
それは偶然進化して、全世界の今まで、 人類統計者によると、今までの世界の人口は
100億、120億くらいいただろうと思うんだけど、 世界中の人は、みんな共通の客観的な価値を持っているようになっていることなんです。
人は誰もが良心という深いところから、 客観的な価値観を持っているんです。
皆さん、無心論者は、あるいは分からないという人は、 あるいは進化論者は、それは自然に
偶然にできたからでしょう。 それを信じるわけなんです。
あるいは、分からないという考えを信じるわけなんです。
でも、その説明できない偶然だという考えを、 あるいは信念と言いましょうか。
その信念を信じるなら、それはとても非理性的で、 非現実的で、非論理的なものではないでしょうか。
簡単に言って、説明できないものを信じることですから。 キリスト教は、神様が人を作られた。
デザインして、設計して、作られた。 そして、心の中にもインプットしてくださったんです。
その機能と言いましょうか。能力、良心を授けてくださった。 神様に似せて授けてくださったわけなんです。
善を好み、悪を憎む。 神の品性に似せて作られたということなんです。
これは、人は善を好み、悪を憎むのが、 創造主の神が人の中に良心を授けたから、
聖書には、他のところに、それが分かる箇所がたくさんあります。 ローマ書とか、第一手もたくさんありますが、これだけ見ましょう。
ローマ人への手紙という手紙があります。 そこの2章15節ですけれども、
彼らは立法の明治の行いが、自分の心に記されていることを示しています。 彼らの良心も明かししていて、
神様に授けてくださった心の良心が、明かしをするんです。
彼らの心の思いは、互いに責めあったり、また弁明しあったりさえするのです。
聖書には、神様が人間に良心を授けてくださった。 そして人間はその良心を持って生きていると、
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ちゃんと合理的で論理的な根拠がちゃんとあるんです。 しかし、
神科論や無神論には根拠がないんです。 ここだけ見ても、キリスト教は無神論や神科論より、とても合理的で
論理的です。 先週もお話ししましたように、
キリスト教は、歴史的根拠を持っていました。 キリスト教は、信じろ信じろと叫ぶ宗教ではありません。
神がいないという主張より、その考えよりはるかに根拠を持っているんです。
皆さん、一緒に考えてみましょう。
無神論者は、全ては進化したり、あるいは偶然できたりしたということなんですね。
それが無神論者、あるいは神科論の主張なんです。 それを信じる人が日本中だけでも、6割8割いるということなんです。
実は根拠がないのに。 キリスト教は全ては、創造主の神がデザインして設計して作られたことを
信じるわけです。 皆さん、教会の周りとか、みなさんの周りにこういう
素敵な立派な家が建っているとしましょう。 今から話します。これを見て通りかかるある人が、立派な家が建っているんですね。
実はこれは偶然にここにできたんですよ。
まずは、セメントが自ら集まって、水を自分で入れて固まって、綺麗に水平と垂直に立って、
しかも順番を自ら並んで、固まったんですよ。 そして順番で、どこから木材がやってきて、自らクロスに斜めに綺麗にできて、
そして、しかも釘がどこから飛んできて、ちょうどいいところに刺されて、綺麗にできたんですよ。
いや、それだけじゃないんですよね。ある日は、神がやってきて、クロスが綺麗に切られて、自分で糊をつけて、ちゃんと順番通りに貼り付けられたんですよ。
そうですか。おかしくないですか、皆さん。 無神論は、信仰論は、それを信じるわけなんです。
それを言って、本当にそうなんですね、この家は一人でに立ったんですね、と言ったら、それはちょっと頭がおかしくないと言うでしょう。
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そう思いません、皆さん。 皆さん、無生物の家さえ見ても、ちゃんと設計者がいますよ。
大工さんとか、電気屋さんとか、コンクリートとかね、職人さんがいて、彼らが1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月かけて工事をして作ったから、こんな綺麗な家が立つわけなんですよ。そうでしょ、皆さん。
まして、この無生物の家より、とても複雑で、神経組織を持って、細胞を持っていて、しかも考える能力、善と悪を区別する良心を持っている家より、はるかに複雑な存在である人間、
身体だけではなく、霊も精神も持っている人間が、どうやって偶然にできるんでしょうか。
偶然にできるとしたら、家が人を作ってほしいんですよ。でも作れないでしょ。しかし、人間は家を作れるんです。
人間より複雑でない家は、偶然にできるはずがないでしょう、皆さん。デザイナーや作った人があるんですよ。それは当たり前なんですよ。
それよりはるかに複雑で、繊細な存在である人間は、当然、デザイナーや作り主があると信じる方が、もっと理性的で、合理的で、論理的ではないでしょうか。
その唯一の神は、私たちを愛して、私たちをデザインして、設計して、作ってくださり、そして私たちのために素晴らしい世界をデザインして、作ってくださったんですよ。
その唯一の神は、最も素晴らしい計画を持っておられ、イエス・キリストをこの世に使わせてくださいました。
その神なるイエス様が人間として、およそ2000年前にベツレヘムという小さな町にお生まれになった日を記念するのがクリスマスです。
イエス様は完全な人間でありながら、完全な神なんです。
では、今からまた次の話をしていきたいと思います。
では、どうやってイエス様が神であることがわかるかという説明を、2つ、3つで話をしていきたいと思います。
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およそ2000年前、イエス様の当時、1世紀、2世紀、特に1世紀に、いわゆる自称メシア、私がメシアだと人が実は大勢いたんですよ。
そういう人々はローマによれば厄介なものだから、ほとんど処刑されました。
彼らが生きている時には、多くの、いわゆる信者たちがいて、いわゆる追従者たちがいたわけです。
思想がある程度広がったりいたんですね。
でもみんな彼らが処刑された後は、その従っていた人々もみんな散ってしまった。
その思想も消えてしまった。
続いているものは何もない。
跡形もなくも、きれいに消えてしまったんです。
しかし、無心論者から見れば似ている、もう一人のイエスという人がいて、
彼も同じく私がメシアだと言って、光だと言って、他の自称2世メシアみたいに十字架で、処刑されたわけなんですね。
そこまでは似ているんですよ。
死んだところまでは似ている。他の2世、自称メシアたちと似ているんです。
ところがどうですか。イエスに従っていた人たちは消えるところか、
もうキリスト教は1世紀、2世紀、3世紀、4世紀、AD313年までですね、
もう爆発的に山火事のように増え広がって、ローマ帝国がこれを国境として公認せざるを得ないほど増え広がったんです。
そして多くの人々はそのイエス様のために命を捧げました。
命を捨てました。ローマは非常に厳しい弾圧をしました。
迫害をしました。
処刑される人々が大勢いました。
それぐらいしたならば、もしイエスという人が嘘つき、実は神でもない、復活もしていない、
もう全部弟子たちの芝居なんだと思ったら、そんなにも信じる人々が
残り続けるわけがないんじゃないですか。
しかも2000年経っていても、こんなにも世界中にキリスト教が増え広がっているということをそれだけ見ても、
当時のあの、また今から話しますが、イエス様が死んだこと、甦えたこと、そのイエス様に出会った証人たち、
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目撃者たちが当時にいたということが事実だから消えていないんです。
もう一つの話をしたいと思います。
だいたいローマの時代ですよ。1世紀3世紀頃は、裁判とか公式文書に目撃者、証人、証言の効力を持っている人は男性だけなんです。
残念ながら女性や子どもや違法人や奴隷の証言は、もう効力がないんです。認められないんです。裁判でもそうなんです。
昨日もテレビニュースを見たら、何かの施設の看護師さんが、何か悪いことをしていて、それを見た目撃者が一人出て、
その目撃の証言で、その刑がひっくり返されたみたいなんです。たった一人の目撃者で、現代の裁判でもですよ。そうでしょ。
ところが、ちゃんと立証するためには、あえて効力のない認められない女性とかを立てて、
文章に書く愚かな人はいないでしょう。もし作り話で、これは嘘で、それを一生懸命アピールして立証するならば、効力のない女性とか奴隷じゃなくて、
ちゃんと男性を立てて書いて、男性が見たとね。イエス様の復活はペテルが見たとね。そういうように書いた方が、もっと効力があるじゃないですか。
アピールしやすいでしょう。でもどうですか。
聖書には、イエス様が神だから死んで、3日目によみがえたと書かれています。
さっきの自称名者たちは、みんな死んで終わりなんです。消えました。 しかしイエス様は神様だからよみがえられたんです。
さあ皆さん、よく前を見てくださいね。もしイエス様の復活が、あの時のペテルとか弟子たちが作った、捏造したものだとしたら、
復活を証明するつもりだったら、証言の効力のない女性を復活の証人として記録はしなかったはずです。
どうせ書いても何の効力もないから、誰も認められないから、公式の効力がないから、男性の証言を使うはずです。
ところがね、聖書はこれは歴史事実だからありのまま、イエスの復活を最初に目撃したのは女性たちだからそのまま記録したんです。
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隠すことはないから。 さあそれを見ていきますね。
ルカの福音書24章1節から6節を見ると、週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓にいた。
彼女たちマリアとかね、イエス様の墓に来たんですよ。見ると石が墓から脇に転がらされていた。
そこで中に入ると、週イエスの身体は見当たらなかった。そのために頭方に暮れていると、身をまばゆいばかりの衣を着た人が2人近くに来た。
彼女たちは恐ろしくなって地面に顔を伏せた。するとその人たちは、こういったあなた方をどうして生きているか、イエス様ですね、死にの中に咲かすのですか。
ここにはおられません。よみがえられたのです。また帰りないにおられた頃、週がお話になったことを思い出してください。
そのイエス様の証人、目撃者を
それが女性マリアたちが実際に見たから、その目撃した人たちと同じ時代に、ペテロ、パオロとかヨハネとか、同じ時代に生きていたんだから。
その記録として書いてあるんです。
イエス様の復活が嘘で作り話だったら
それを当時の人たちにもっと強くアピールするためには、立証するために、女性ではなく男性を立てた方がいいんじゃないですか。
そっちの方が効力があるからね。しかし、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、
彼はね、福音書の記者たちですけど、女性たちをイエス様の復活の目撃者、証言者として書いたんです。
歴史の事実だから。2つ目、イエス様は
よみがえられた後、多くの人たちに出会いました。
彼らと話し合ったり、食事をしたり、歩いたり、
普通の体を持って、多くの人たちに出会ってくださいました。
その目撃者たちが、その当時に、1世紀に生きていたんです。
みなさん、一般の非クリスチャンたち、ノンクリスチャンたちも、一般の歴史家たちもね、
イエス様の弟子、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、パオロなど、彼らはイエス様の弟子であったこと、実際の実情の人物であることを否定する人は誰もいないんです。
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私たちが知らないだけで、一般の歴史家たちも、パオロの存在、ヨハネ、マタイ、マルコ、ルカは、
架空の人物ではなく、実際の人物であることをみんな認めるんですよ。
まるでソクラテスとかプラトンが、実際の人物だと言っているように、否定する人は誰もいないんです。
その中で、パオロという人は、イエス様の復活の事実について、第1コリントビットへの手紙という文書があるんです。
製図になっていますが、これがAD55年頃記録されています。
AD55年としたら、イエス様の復活がAD33年としましょう。
そしたら約22年後の話、そんなに遠くないですね、22年後の話です。
パオロは、その当時、彼が生きていた時ですよ、55年。
その当時に、同じ時代にイエス様の復活を見たいと、一緒に喋りたいと、一緒に祝辞をしていたいと、
ペテロとか多くの弟子たちが、実際に生きていたんです。
それを、この文書に残しました。
そのイエス様の復活の目撃者たちは生きていて、彼らはあちこちで証言をしていたんですよ。
コリントの手紙に、こういう見言葉があります。
私があなた方に、最も大切なこととして伝えたのは、私にも受けたことであって、次のことです。
キリストは、聖書に書いてある通りに、私たちの罪のために死なれたこと。
また、葬られたこと。また、聖書に書いてある通りに、3日目によみがえられたこと。
また、ケパ、ケパはね、ペテロですよ。
当時、ペテロは生きていたんですよ。
それから、十二月に現れたこと。皆さんここで考えてください。
パオロが、実際だから、事実だから、ケパの名前を、ペテロの名前を書いたわけなんですよ。
だからね、この手紙が、ギリシアのコリント、今もその町あります。
コリントにある教会に書いて、贈られたでしょう。
そしたら、思いさえあればね、本当なの?ペテロさん、本当にイエス様を見たの?
もしも、そこまでしたい人がいるならば、ペテロがもしね、エルサレムにいたとしたら、
もう、エルサレムに行って、ペテロに会ってですよ。無神論者がですね。
本当にあなたは、イエス様がよみがえた時に、実際に出会って、祝状したの?
聞けるでしょう。生きていたから、同じ時代の人物だから。
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いくらでもですね、証人たちがですね、もうあの当時、エルサレム、トルコ、ギリシア、ローマに、いっぱいいたんですよ。
だから、嘘つけないんですよ。聞けるから。
目撃者たちがいるんです。さっき言いましたよね。
一般の現代の裁判でも、目撃者が一人さえいれば、裁判がひっくり返されますよ。そうでしょ。たった一人でもね。
聖書には、500人以上の目撃者が当時いましたよ。大多数は生きていましたよ、という記録があるんですよ。
その後、キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現れました。
その中には、すでにネムナイトも何人もいますが、大多数は今なお生きて、AD55年に生きていたんですよ。
証人たちが、だから聞いて、その証言を聞けるわけなんです。
これくらい、現実的で理性的で合理的な根拠を持っている事実なんです。
イエス様の復活は。だからイエス様は神様なんです。
その後、キリストは約分に生きていました。それからすべての人たちに現れました。
最後に、自分にも付き足らず、自分にもイエス様が出会ってくさったと、AD55年にパウロは生きていて、証言していたわけです。
だから皆さん、もう一度繰り返して話しますが、調べようとしたら、ここに書かれている目撃者たちに会って、
あなたはイエス様が本当に蘇って、あなたと出会って、本当に一緒に食事をしたの?と聞くことができるはずです。生きているから。
そしたら彼らから、ペテロとか、500人以上の人たちに、そうですよ、もちろん本当に僕は本当にイエス様に出会ったんですよ。
私の目で見たんですよ。一緒に食事をしたんですよ。喋ったりね。と答えたはずなんです。
嘘をつくことはできないんです。数百人もいたから。
復活も証人も嘘だったならば、2000年間この文書が残っているはずがありませんでしょう。
それがパウロのこの記録が全部嘘だったら、ちょっと何人だけ聞いてみたらわかるじゃないですか。
えっ、実は全部嘘だったのよ。残っているはずがないんです。もう破棄されたに違いありません。
しかし、2000年が経っていても、この文書は事実だから残っていて、聖書にされているわけなんです。
唯一の神として、この地上に大回りになったイエス様、この方は神様だから、
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十字架にてかけられて死なれました。 しかし、3日目に死んだ者たちから蘇られました。
そして、さっきも申しましたように、その信じる群れを爆発的に増えていきました。
皆さん、考えてみてください。 たった一人イエスという嘘つきのため、あるいは12人の弟子という人たちの
寸劇のような芝居に、何百人、何千人、何万人が騙されたり、殺されたり、命を捨てたりするほど、
あの当時の人々はみんな愚かなものだったのでしょうか。 そんなことはないでしょう。
確かな事実だから、イエス様が神であるから、本当に蘇られたから、
その目撃した者たちが生きていたから、 そのために、本当にイエスは神様なんだと分かって、信じて、
命をかけ、 白外があっても、爆発的にキリスト教は
増え広がって、今のこの日本にも、 八千という教会、私たちがいるわけなんです。
無神論のために、真空のために、命を捨てる人はいません。 神はいないことを主張するために、命をかける人は多分いないでしょう。
しかし、イエスがキリストである、神であることをおのべ伝えるために、人生を捧げた人、命を捧げた人は、昔も今も多いです。
これからも、誰も抑えることはできないでしょう。
ここにおります、私も、 今、陶別でありますが、
イエスは本当の神だと、 おのべ伝えるために、ここにおるわけなんです。
イエス様は神様です。 この方は神様として、唯一の神様として、この地上に
生まれになりました。 それが、クリスマスです。
イエス様が神であるという話は、実は、私たちに大きな希望を与えるんですよ。
もし、神はいない、わからない、 ただ、人間は進化したものだとしたら、この世界にあるこの悪が永遠に続くんだったら、
それこそ、本当に希望がないんじゃないですか。 私が死んでも、私の子供が、その孫の孫の、ずっと永遠に、この不平等、
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戦争、悪、病気が続くんだったら、 しかし、
イエス様の復活は、 イエス様のサイリンを間接的に示しているわけです。
そして、この不平等、悪、病気、様々な苦しみ、
患難がある、この世の今のままじゃなくて、 イエス様のサイリンで全てが終わる。そして、希望が永遠の命が始まる。
全ての悪は必ず終わりますよ、という意味。 それが、イエス様の
クリスマスから始まるんです。 だから、クリスマスは、
イエス様の復活につながって、 そしてその復活は、イエス様のサイリンにつながって、私たちに最高の希望を与える
メッセージなんです。 先がある。
しかし、無神論には、進化論には先がないんです。 希望がないんです。
皆さん、クリスマスが最もらしい伝説に過ぎないとしたら、ある意味で、
神様を信じない方々は、 自分で生きる道や、人生の知恵や、罪の問題、死への恐怖、死後の世界などなどのために、
もう自分一人で、その無神論者は自分一人で、 一生懸命に答えを探らなければならないでしょう。
探っても見つかりにくいんです。 どうせ神がいないから、教えてくれる神がいないと信じているからですね。
しかし、クリスマスが理実であれば、
それを信じる人たちは、すべてをデザインされた方、設計された方、 救われた神様の恵みによって、その知恵によって、
救われ、恵まれ、導かれて、人生を歩むことができるんです。
神はいます。 イエス・キリストは唯一の神です。
その方が、 人間として、神としてお生まれになったその日がクリスマスです。
来週は、このイエス・キリストを信じていいか、 というテーマについてお話をしたいと思います。お祈りしましょう。