1. 名谷教会
  2. 2011/08/14:聖日礼拝(旧音源)
2011-08-14 41:58

2011/08/14:聖日礼拝(旧音源)

2011/08/14 聖日礼拝(旧音源)


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ご着席ください。 聖書をお読みいたします。
今朝の聖書は、 使徒の働き7章の54から60節までです。
新約聖書の241ページをお開きください。 7章の54節から60節、
聖書の新約の241ページをお開きください。 それでは、お読みいたします。
使徒の働き、第7章54節から60節まで。
人々はこれを聞いて、腹渡が逃げ返る思いで、 ステパノに向かって剥ぎしりをした。
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、 天を見つめ、
神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、 こう言った。
みなさい、天が開けて、 人の子が神の右に立っておられるのが見えます。
人々は大声で叫びながら、耳を覆い、 一斉にステパノに殺到した。
そして、彼を町の外に追い出して、 石で打ち殺した。
商人たちは自分たちの着物を、 サウロという青年の足元に置いた。
こうして、かえらがステパノに石を投げつけていると、 ステパノは主を呼んで、こう言った。
主、イエスよ、私の霊をお受け下さい。 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。
主よ、この罪を、かれらに負わせないで下さい。 こう言って、眠りについた。
では、聖火隊の皆様に、 聖火集十五夜を賛美してもらいいただきまして、
内田牧師より、信仰と精霊に満ちた人に対して、 説教をいただきます。
05:46
聖火集十五夜
06:24
おはようございます。
今日も御言葉をいただきたいと思います。
一言お祈りをして、 今日の御言葉を取り付かせていただきます。
すべて疲れた人、おもに追っている人は、 私のところに来なさい。
私があなた方を休ませてあげます。 恵み深い天の父なる神様、
こうして、主の復活を記念しての聖日の朝、
私たちは、あなたの御前に集い、 あなたを礼拝しています。
どうぞ、この礼拝の主であるあなたが、 今、私たちをもう一度信仰に立ち返らせ、
あなたを見上げて、 良きものをあなたに捧げるように導いて下さいますように。
毎日暑い日が続いております。 中には弱っておられる方、
おられると思いますが、 今日も主はお声をかけて下さり、
疲れた人、私があなた方を休ませてあげようと 言って下さる平安の主が、
今日も共にいて下さることを覚えて、 皆をあがめます。
今日もまた御言葉を通して、 あなたの御胸を教えて下さるようお願いいたします。
私たち、今、聖霊を待ち望みます。 御言葉にある通り、
聖霊があなた方の上に臨まれる時、 あなた方は力を受けます。
そしてエルサレム、ユダヤとサマリアの善度、 および地の果てにまで、私の証人となります。
この御言葉の通り、今、 聖霊様が私たちに臨んで下さり、
そして私たちの弱いところに、 今、神様の力強い御手が及びますように、
そしてまた御言葉を通し、 慰め励まし、そして聖霊をいただいて、
それぞれにお使わし下さいますよう お願いいたします。
今日、いろんな事情で来れなかった方々の上にも、 あなたが臨んで下さるよう、
その場を祈りの時、賛美の時、 また礼拝を捧げる時として下さるよう、
お願いいたします。
今からの一時、全てを委ねて、 主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
09:02
暑い中ですが、こうして、 御堂に来て下さり、礼拝に加わって下さったことを、
心から感謝をいたします。 歓迎をいたします。
教会に来て下さって、少しでも 涼んでいって下さったら、いいかと思います。
本当に暑い日が続いて、私たちの挨拶、 それは暑いですね、今日も暑いですね、
分かっておることなんですが、 ついついそういう言葉が口から出る毎日です。
寝がわくは涼しく過ごしたいと思うんですが、
でも、そこにかかっている言葉もそうですが、 礼に燃え、主に使えよ。
燃えるという、そういうことですね。 礼が燃えている、心が燃えている。
私たちは、よく言われるように、 頭は冷たくというんですが、
冷静になっておかなければなりません。
しかし、心、あるいは魂においてはいつも、 主に対し、あるいは御言葉の宣教や、
滅びゆく魂のために燃えて、 そして主にお使いしていく。
これは、いつも覚えておかなければ ならないことだと思っております。
私たちは、大事なことは、今自分がどうあるべきか、
そして今自分は何をすべきか、
そしてこれから先に向かって、 どう進んでいけばいいのか。
そして、願わくは大しく力強く、 これからを進んでいく。
これは、言わずもがな大事なことで あろうと思うんですね。
しかし、これから前に進んでいくにあたって、 できたら知恵が欲しい。
そういう意味で私たちは、歴史から 学ぶということも非常に多いわけです。
今私たちは、使徒の働き、使徒行伝というところを、
願わくは、誠実ごとに一章ずつ読んでいきたいと、 そう願っているわけですが、
この使徒の働き、使徒行伝、教会の歴史書から、
私たちは学ぶことも非常に多いわけであります。
特に日本の教会史、私たちは今日本にいるものとして、
フランシスコ・ザビエルの辺りからでしょうか、
日本の信仰と、日本人の信仰と、そして教会が、 どういう経緯で今日に至っているのか、
そういうことも含めて、歴史から学ぶということは、 非常に大事なことであります。
12:01
それは日本という国、それもそうですし、 世界の歴史においてもそうです。
過去に何があったのかということを知るということですね。
そしてもし良くなかったことであるならば、 それはもう繰り返さないようにしよう。
それが知恵ですね。
そして良きことがあったならば、それを継承し、 さらにそれを良いものにして、また次に引き継いでいってもらうという、
それが歴史から学ぶことだと思うんです。
そういう意味で、使徒行伝、使徒の働きを通して、 私たちも今日見言葉を通して教えていただきたいと、そう願っております。
今日開いていただいているのは、 使徒の働きの七章であります。
この七章に、主に二人の人物が登場します。
一人はステパノという人物。
そしてもう一人はサウロという、 後選挙者パウロでありますが、この二人が登場いたします。
主にこのステパノについて多く記されています。
ステパノという人は、六章から出てくるんですが、 教会に一つの問題が起こりまして、
そして十二使徒が弟子たちの中から七人を選び出して、 その人たちにある仕事を任せたという。
それが見たまと知恵とに満ちた評判の良い人たち、 七人を選び出したという。
その七人の中の一人、それがステパノという人物でありました。
このステパノがこの七章に登場します。
そして七章の大半、二節から五十三節まで、 ここにステパノがした説教が書かれてあるわけです。
説教と言いましても、ほとんどが 創世記あるいは出エジプト記の要約のようなことが書かれてあるわけです。
相当ステパノはこの創世記あるいは出エジプト記を 読んで自分のものにしている。
おそらく何も見ずに口からその言葉が出た、 そういうことであろうかと思うんですが、
私たちもこのステパノが語った創世記、 あるいは出エジプト記の要約としての説教、
これを用いて私たちがこの創世記、出エジプト記を まとめとして学ぶということも非常に良いことだなと思うんですね。
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よくぞまとめてくださったというような感じであります。
私たちはすでに創世記出エジプト記も読んでいますけれども、 その中に登場する人物も何人かありました。
そういう人物にも触れてステパノは語ったわけであります。
アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、 ヨシワ、ダビデ、ソロモン、そういう人物を通して彼は何を言ったのか。
誠の神を崇めていない人たちに対して、 その誤りとそして悔い改めを促したわけです。
皆さん、あなた方は創世記出エジプト記を通して こう言われているじゃないですか。
なのに、あなた方はそういうふうにして、 回収、群衆を前にして語ったわけであります。
そして51節、ステパノは聞いているみんなの前で このように言ったわけです。
カタクナで心と耳とに滑稽を受けていない人たち、 あなた方はフソたちと同様にいつも精霊に逆らっているのです。
あなた方のフソたちが迫害しなかった 預言者が誰かあったでしょうか。
彼らは正しい方が来られることを前もって述べた人たちを殺したが、
今はあなた方がこの正しい方を裏切る者、 殺す者となりました。
今私が読んだのは、いわば朗読であります。
しかしステパノが説教したというのは、 そんな調子ではなかったと思うんですね。
カタクナで心と耳に滑稽を受けていない人たちよと、 彼らを前にして大胆に、しかも力強く語ったわけですね。
これを聞いた人たちがそれに対して、 どういう反応を示したのかということもその後書かれてあるわけです。
五十四節のところにこのように書いています。
人々はこれを聞いて、腹綿が煮えかえる思いで ステパノに向かって剥ぎしりした。
このステパノという人は、ここで聞いている人たちに語ったわけですが、
六章の十二節のところで、 彼は実は捕らえられたわけです。
18:00
それも民衆を煽動した長老たちや当時の宗教指導者たち、 立法学者たちが長衆を煽動して、
そして彼を襲って捕らえて、議会に引っ張っていった。
彼は今捕らわれの身であります。
その議会の人たちを前にして、 こういうことを語ったわけですね。
それを聞いた人たちが腹綿の煮えかえる思いで ステパノに向かって剥ぎしりをしたということが書かれてあります。
そしてその結果として、みんながステパノを石で打ち殺した ということがここに書かれてありました。
これは群衆の真理であります。
ステパノに対して一人では立ち向かえない。 だからみんなでステパノをやってしまおうということで、
ステパノはみんなから石を投げられて、 そして彼は死んでいったということがここに書かれてあります。
この石を投げられたというのは、 こんな小さな石粒ではないと言われています。
手のひらに乗るほどのこれぐらいの大きな石ですね。 それをみんなでぶつけるわけです。
ここに当時の教会で起こった大きな出来事が 記されてあるわけです。
このステパノは教会の歴史の中で 最初の準教者と言われています。
この準教者の準という字ですね。
これは命を懸けてその責務や教えに忠実であろうとし、 その結果として命を捧げたこと。
これが準という意味ですが、 実際に命を捧げたという意味では準師と言います。
あるいは警察官とか消防士とかレスキュー隊のような、 そういう危険な仕事で時に命を落とすということがあります。
それを準職と言います。 その職に準したということで準職と言います。
ステパノのように教えを説いたり、 あるいはそのための迫害によって命を取られてしまう。
これを準教というわけです。
これは初代教会で起こった一つの大きな出来事。
私たち今21世紀のこの日本にいて、 そして信仰が与えられていますが、
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私たちが今迫害に遭うとかいうことは、 ふとんど今はなくなりました。
ましてや迫害によって準教するということもないですね。 ふとんどありません。
それは信教の自由が守られているということもあります。
もちろんキリスト信仰を持つことによって避難されたり、 あるいは嫌なことを言われたり、
中には感動されたりという程度のことはあっても、 命を取られるということは戦後あまり聞くことはなくなりました。
本当に幸いであります。
しかし戦前、戦中、戦後の少しですが、 しばらくは準教される方々もいたことは、
歴史を通して知っておりますが、
私たちはそういう意味でもう一度、 教会の歴史を学ぶ必要があるのではないか、
そういうふうに考えております。
ですから使徒の働きを学ぶこと、 それは教会の歴史を学ぶことであります。
そして教会がずっと綴ってきたこの使徒行伝、
それを今日のこの21世紀のこの時も、 その使徒行伝を綴り続けていくという使命が、
私たちに与えられているわけであります。
教会は何によって建てられ、
そして何によって支えられているのか、 ということをある人が考えました。
そしてこのようなことを言っています。
準教者の知は教会の種である。
教会の厚みや教会の歴史の重さは、 ただ単に時間の経過によってできるものではない。
信仰の戦いを戦い抜き、選挙の使命を一心に担って、
屑折れながらも、たっとい命さえも差し出すほどに、
シュイエスに服従していった信仰の先輩方の 血によってできるものである。
準教者、それはただステパノのような、 白外によって命を落とすということではありません。
それは信仰の戦い、あるいは選挙の働き、
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そういう中で時に病に倒れた人たちもいます。
牧会や教会の建設、そういう中で働き、 そして倒れた方たちも多くいます。
あるいはその選挙の旅の途上に、 事故にあって命を落とされた方々、
あるいは選挙の中で災害に遭って犠牲になった人たち、
その方々みんな準教者であります。
シュイエスの下辺として信仰を貫いて、 そしてキリストに命をお捧げなさった、
そして召されていった私たちの信仰の先輩、
それらはみな準教者として、
その名は神の命の書に記されていることであります。
今日はこの7章を通してステパノについて 私たちは見ているんですが、
このステパノという人は、
信仰と精霊に満ちた人であったということが 書かれてございました。
6章の10節のところで、
彼が知恵と見たまによって語っていたので、 それに対抗することができなかった。
ここにステパノは知恵と見たまに満たされていた ということが書いてあります。
6章の5節もそうですね。
信仰と精霊に満ちた人、ステパノ及びピリポン以下。
そういうふうにして、
彼は信仰と精霊に満ちていた。
そのステパノが議会で人々を前にして語ったわけです。
そのステパノに対して人々はどういう反応をしたのか ということを私たちは見たいと思うんです。
一つは、彼らは自分たちの罪を指摘されて怒ったわけです。
罪というのは何か犯罪を犯した、悪いことをしたということよりも、
聖書の言う罪、誠の神に背いて、そして誠の信仰から離れている状態。
そういう罪を指摘されて怒ったわけです。
そしてそれは、腹綿が煮えくり返るような思いであった。
この腹綿の煮えくり返るという元の言葉の意味は、
ノコギリで引き裂かれるというような意味があるそうです。
もうそれくらいいてもたってもいられないという、相当な怒りです。相当な意気通りようであります。
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彼らにとっては、ステパノよ何を言うかというようなことだったと思うんですね。
その結果としてステパノは石で打ち殺されたということがあるわけですが、
この怒りとかその意気通りという一番の原因は何でしょうか。
それは色々と調べたり聞いてみますと、
その一番大きな原因は自分が正しいという、そこにあるわけですね。
ですから怒りやすい人、怒りっぽい人の特徴というのは、
自分は正しいんだという思いが強いわけです。
もちろん正しいということであろうかと思うんですね。自分は正しい、間違っていない。
それはそうでありますけれども、その自分は正しいんだという思いがあまりにも強すぎる。
何でも過ぎたるが及ばざるが今年ですよね。過ぎるということ。
それがこの怒りとか意気通りということに現れるようです。
例えばあなたは間違っていると指摘される。
そのことに対してどう反応するかということなんですが、
Aさんは心の中で、そうかな、そうも言えるし、でも私は間違っていないと思うし、
そう信じているし、自分の信じている正しいということ。
それで私は貫いていきますと。言わないまでも、そういうことで毅然としているというんでしょうか。
あまり間違っていると言われたからといって、動じない。
すなわち怒りというもの、意気通りというものをあまり起こさないという人ですね。
しかし私は正しいんだと強すぎるという、このBさんにとりましては、
間違っているという指摘に対しては、絶対そんなことはない。私はそんなことはない。
絶対私は正しいんだと思う。そんなことを言われたら私はもう侵害だというふうにして、
怒りがこみ上げてくるというんですね。
どちらが幸いかということですけれども、私たちは平安である方がいいに決まっています。
ですから、このステパナの話を聞いた人たち、あなた方は間違っていると。
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あなた方は堅くなった。そして耳と心に滑稽を受けていないと。
そしてあなた方は私たちの不素たち、そして預言者たちを迫害したではないか。
そういうふうに指摘されたときに、彼らは意気通ったわけです。怒ったわけです。
そんなことはない。私たちはそんなことはしていない。またしたとしてもそれは私たちが悪いんじゃないんだ。
あの人たちが、というそういう思いが強すぎるわけですね。
そういう人間の真理であります。その結果として、このステパナを生かしておくわけにはいかないということであります。
ですから、私たちにとって、この怒りとか意気通りというのは、どういうふうに私たちが対処して、またそれを処理していくかというのは非常に大きなことであります。
なぜ神様は私たちの感情の中に怒りとか、そういう意気通りというものをお与えになったんですか、と思うこともしばしばであります。
しかし、神様は理由があって、そういう感情を私たちに与えてなさっているわけですが、同時に神様は私たちに自由意思を与えなさった。
ですから、このステパナのように私たちが指摘したように、私たちも何か間違いを指摘される、罪を指摘される、あるいは誤りを指摘されるときに、
私たちは自由意思をもって、怒り、意気通りを選ぶことも自由ですし、また自分の中に平安や平成、そういうものを選び取る、入話を選び取る、それも自由なわけです。
どちらを選ぶかは、これは聖書が言うには、見たまの身次第ですね。見たまの身、その中に自制という言葉があります。コントロールですね。
私たちは何かの折、この自制をもって怒りや意気通りを選ぶのか、あるいは平成や平安を選び取るのか、それも委ねられているんだということ。そんなことを考えさせられる記事であります。
彼らはステパノに向かってはぎしりし、そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺したという悲劇がまたここで起こったわけであります。
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もう一つのこととして、そういう人々に対してステパノはどういう反応を示したのかということ。ステパノは天を見つめていたと書かれてありました。
彼は天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見てこう言った。そして彼は二つの祈りをしたわけです。一つは私の霊をお受けください。
自分を殺そうとし石を投げつけているそういう人たちに向かって彼は主イエスを呼んでこう言った。主イエスよ私の霊をお受けください。そして最後に息を引き取る前大声でこう叫んだ。主よこの罪を彼らに負わせないでください。
私たちはこの二つの祈りを覚えるときにイエス様が十字架上で祈ってくださったあの祈りを思い出すことであります。イエス様はあの十字架の上で七つの言葉祈りを捧げたわけですが、その一つが我が霊を見てに委ねます。
もう一つは彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです。
このように信仰と精霊に満ちた人ステパノ。彼は常にキリストと共に生きてきたわけですね。我キリストと共に十字架につけられたり、もはや我生きるにあらと。キリスト我が家にありて生きるなりと。その見言葉の通り彼はキリストと共に生きた。
ですからキリストご自身がステパノの中に生きていてくださったということ。そのことをステパノは常に感じておったことですし、もうそれが彼の生涯であったわけです。
ですからステパノはキリストが生きたように生き、そしてキリストが死んだように死んでいった。そう言えるわけです。誰もがこのようなステパノのような生き方、あるいは死に方を望んだとしてもそれは許されるかどうか、それは誰にもわからないと思うんですね。
私たちが例えば殉教、自分は殉教しても意図はないんだ。それほど主を愛し、そしてこの見言葉を伝え、そしてこの主に命を捧げることも私の喜びとするんだ。だから殉教するんだと願い、祈っても神様がそれをお許しにならなければそういうことは起こらないわけです。
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もちろんその殉教をするということは尊いことですけれども、それは全て神様の御手の中にあります。そういう意味でステパノというのは選ばれた人です。この初代教会の最初の殉教者としてなるに選ばれたそういう人であった。そう言えるかと思うんです。
私たちは見言葉を通しておりますが、一粒の麦、死んだなら多くの実を結ぶという、そういう見言葉があります。
このステパノの殉教をきっかけに迫害はさらに増していきますけれども、教会は逆にますます力を受けて、そしてやがては福音がローマへ、そして地の果て、世界選挙、そして今日の日本にまで福音が伝えられるという、そういう基礎になった。
全世界に教会が建てられる石杖になったという、それが一粒の実であったステパノであります。
もう一つステパノによって結ばれた一つの実があります。それは後に出てきます選挙者パウロであります。ここではサウロとなっていますが、彼は後に名前を変えてパウロと呼ばれますが、
このパウロという人物を生み出したのも、この一粒の麦としてのステパノの、この存在が大きかったことは間違いありません。
当時教会を迫害しておったこのパウロ、彼がこのステパノの姿を見て、何か彼の中に変化が起こったことは間違いありません。
彼は後に変えられて、そして選挙の働きに全てを捧げる、そういう大きな働きをした人ですね。そして新約聖書のほぼ半分ぐらい、そのパウロが書いた手紙で示されているという、そういう大きな貢献をした。
もちろんその背後にあって、それを支えたのは聖霊でありますし、神様の宮座でありますけれども、このパウロが選挙者として生み出された背後に、このステパノの存在があったということ、それは間違いありません。
私たちは現在、この世界に生きておる一人であります。世界の人口は今約六十何億でしょうか。そういう人々が暮らすこの世界の、私たちはその中に一人として生きているわけです。
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六十何億かの人々の中の一人、それは小さい存在かもしれません。しかし、その一人が信仰と聖霊に満たされて、そして主にあって忠実に生きていくときに、その人物を通して神様はその宮座をなされるわけです。
天地創造の偉大なる神は、無から有を生み出す、そういう力のある方。ですから、この世界にいるどんな小さな一人であっても、その一人を用いて大きな業をなさる。ステパノを通して私たちは、そのことをもう一度覚えさせられるわけであります。
使徒行伝のメッセージはたくさんありますけれども、その一つは、いわゆるリバイバルと言われるもの。そういうものは何か教会とか、あるいは何か組織とか、そういうものによって大きなうねり運動が起こってくるのではないんだということ。
リバイバルは一人から始まるんだ。そしてその一人というのは、どこかの誰かさんではなくて、この私から、小さなこの私から始まるんだということ。そしてまずはこの私が信仰と精霊に満たされて、そしてただただ主に忠実に仕えていくとき、そこからリバイバルが始まる。
神様はその一人を用いて大きな業をなされるんだということを、私たちは今日ステパノの記事を通して学んだわけであります。お祈りをいたします。
天の父なる神様、信仰と精霊に満ちた人、ステパノを通して、殉教のことや、あるいは福音宣教の働きのことについて考えるときを与えてくださり感謝をいたします。
全世界に出て行き、全て作られたものに福音を述べ伝えよと言われた主イエス様の宣教命令に忠実に従いできるように、私たちにも知恵と力と信仰と精霊等をお与えくださいますように、全てを御手に委ね、主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン
41:58

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