1. 名谷教会
  2. 2025/12/21:恵みとまことのプ..
2025-12-21 20:09

2025/12/21:恵みとまことのプレゼント

2025/12/21 クリスマス礼拝

加藤満牧師

ヨハネの福音書


サマリー

このエピソードでは、クリスマスの意義やイエス・キリストが人々に与えたプレゼントについて深く考察されています。恵みと真実に満ちたこの特別な日の出来事を通じて、神の愛と真実が再認識されます。また、人生の苦難の中でキリストの存在がどのように力になるかが探求されており、特に友人との関係を通じて、イエス・キリストの恵みと真実を実感する様子が描かれています。

クリスマス礼拝の開始
皆さん、本日はようこそクリスマス礼拝にお越しくださいました。心から歓迎をいたします。
そしてまた、聖火隊の皆さん、本当に素晴らしい賛美をありがとうございました。
心落ち着けて足を仰いで、クリスマスって素晴らしいなということをまた思わせていただきました。
短くですが、クリスマスのときのメッセージをご一緒に聞きたいと願っております。
最初に少しお祈りをいたします。木刀の姿勢をお取りいただければ幸いです。
今日、ダビデの街に、あなた方のために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストですと。
恵み深い天の父なる神様、今日はあなたのご好誕をお祝いするクリスマスの礼拝を皆さんとともに守れることを感謝をいたします。
あなたは限りない愛をもってこの世界を愛してくださり、暗闇の中に覆われている一人一人を憐れもうと、
神様自身をその暗闇の中に投げ込んでくださいました。
神であられる方が人となって、最も貧しいところに下ってきてくださったと。
しかしそれは、最も貧しく暗闇の中でうめいているあなたに会うためにと、キリストがこの世界にお生まれくださったことを改めて覚えています。
神の愛がここに確かに現されたということを私たちは知っています。
どうかこのクリスマスのこのひとときが、あなたがこの時期に表してくださったあなたご自身の愛、あなたの豊かな恵みを改めて覚えるときとなりますように、祝志導いてください。
ここに来たくても来れないお一人一人がいることも覚えています。
どうかご自宅で礼拝を守っておられる方、施設におられる方、心痛んでここに来れない方々、
お一人一人哀れんでくださり、またそこにおいて主の恵みを表してくださいますように、お願いをいたします。
全世界は本当に闇が覆っています。世界の王である主御自身が、この季節にもまた働いてください。
あなたの光を暗闇の中で怯えている一人一人に、どうか主が表してくださいますように、併せてお願いをいたします。
これからの時を御手に委ねます。御言葉を主が開いてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
思い出のプレゼント
改めまして皆さん、クリスマスおめでとうございます。
主の御光端を心から賛美しつつ、イエスキリストを通して表された神様の愛に心から感謝をいたします。
クリスマスといいますと、皆さん、クリスマスプレゼントは今年は準備なさったでしょうか。
お子さんであったりお孫さんのために準備をなさる方もいらっしゃるでしょうし、
また大人になって少し思うのは、自分のためのクリスマスプレゼントってやっぱり必要だなと思います。
一年の最後少しいたわるために、そういうものをご準備いただけたらいいかなとも思いますが。
少し振り返りながら、私の人生において一番思い出深いクリスマスプレゼントというのを思い返してみました。
おそらくそれは、小学三年生のクリスマスのときに買ってもらったポケットモンスターの赤バージョンなんですね。
ご存知でしょうか。ポケットモンスターというゲームがあるんですけれども。
その年の夏あたりに、巷で流行っていたので、母に言ったんですよ。ポケモンが欲しいと。
ただ、うちは四人兄弟ですので、一人に高いものを買ったら結構大変なんですね。
だから、母はクリスチャンなので、私にこう言いました。
神様に祈ったら、与えられるかもしれないよって言われたんですね。
これはきっと、私を諦めさせるためのものだったと思うんですよ。
小学三年生の子がそんな熱心に祈らんだろうと。
ただ、私は必死だったんですね。
その夏からクリスマスにかけて、ことあるごとに親の前でポケモンくださいってことを祈ったんです。
そしたら、買わないわけにはいかないということで。
その年のクリスマスプレゼントは、ポケットモンスターの赤バージョンを買っていただきました。
もう一番嬉しかったですね。
ものすごい喜び、待ち望んだ喜びで、大事に大事に遊んだ記憶を今でも覚えていますが。
何が言いたいかと言いますと、皆さんそれぞれに待ち望んでもらったプレゼントって、たぶん記憶にあると思うんですね。
そしてこれが来たときに、本当に嬉しい。
実はクリスマスという日は、一言で言ってしまうならばそれは、神が私たちにプレゼントをくださった日なんですよということなんです。
神が私たちにプレゼントをくださった。
でもそのプレゼントは何かというと、聖書はイエス・キリストというプレゼントが私たちに与えられましたと言うんですね。
ただ、人がプレゼントなんてちょっと気持ち悪いなと思われるかもしれませんが、
このプレゼントはどういうプレゼントであるのかということを、端的に書いてくれている聖書の言葉が、
先ほど読んでいただいた、ヨハネの福音書1章の十音説という言葉です。
後ろの後半だけを見ますが、この方は恵みと誠に満ちておられたというのです。
恵みと誠に。
それがどういう意味なのか、私たちにどのようなプレゼントがこの年に与えられたのか、
そのことを少しご一緒に短い時間ですが、覚えたいと願っております。
恵みと誠に満ちておられるというのはどういうことなのか、少し言葉にだけ注目をしたいと思いますが、
一体どういう意味なのでしょう。
恵みと言いますのは、一言で言うとそれは、誰かに何かを与えずにはいられないという思いです。
何かを与えずにはいられない思いと言い換えていいと思います。
私たちの周りにもおそらく、誰かに何かをプレゼントすることが好きな人っていますよね。
誰かに何かをしてあげることが私の喜びなんです。
その人を大事にしているからそうしたいんですという人はいらっしゃると思います。
実は教会にもそういう方々がたくさんいらっしゃって、私たち夫婦はその恩恵に預かりながら生きているわけですけれども、
神様は、そしてイエス・キリストというお方は、恵みにあふれていたというのです。
それは、神というお方、イエス・キリストというお方は、誰かから奪うお方ではない。
それ以上に与えたい。
それ以上にその人を大事に思って与えたい。
いろいろなものの祝福を与えたい。
そう願われる神様、イエス様であるということです。
そしてもう一つの言葉、誠という言葉もあります。
誠とは何か。
それは真実や真理とも訳されますが、
簡単に言い換えるならば、これは神様の嘘、偽りない愛と言い換えていい言葉です。
神様の嘘、偽りのない愛です。
有言実行の愛と言ってもいいかもしれません。
いわば見返りを求めたり、口先だけで終わることのない愛というものが真事ということです。
イエスキリストはこの与えたいという恵みに満ちていて、
嘘、偽りのない愛にあふれているお方である。
それは一体どこを見たらわかるかというと、実はこのクリスマスの出来事を見たらよくわかるのです。
恵みと真事が最もはっきり現れたのは、2000年前のクリスマスの夜の出来事でした。
私たちは三人の博士がやってきたという話も知っていますが、羊飼いの話もよく覚えていらっしゃるでしょう。
夜晩をしていた羊飼いの下に密会がやってきました。
今日ダビデの街にあなた方のために救い主が生まれになった。
この方こそ主キリストですと密会が告げました。
そして、そのあなたたちの救い主であるという証拠はどこか。
あなた方は馬小屋で眠っているカイバオケに寝かされている巫女イエスキリストに出会うでしょうと言われました。
イエス様が生まれたのはきらびやかな王宮ではなく、家畜の餌箱です。
カイバオケというのはそういうことですね。
私たち何か当たり前のようにその光景を見てしまうんですが、実はこれはとても危険なことですね。
馬小屋というのは不衛生、極まりないところです。汚いところです。
今でもお母さんの出産であったり、もしくは生まれたての子供が置かれる場所というのは抗菌室ですよね。
イエス・キリストの誕生
それほど子供というのは弱く、感染病にかかりやすく、命を落としやすい。
そのような穢れたところにイエスキリストは生まれになりました。
ヨハネの福音書を見るならば、イエスは天で神様とキラキラしたところにいたんだけれども、
あの馬小屋、真っ暗な汚いところに低く低くなって生まれられたとも言われます。
何で馬小屋に、解剖家にそこまでしてイエスキリストは来られたのでしょうか。
それは理由はただ一つです。
羊飼い、当時社会において一番追いやられていて、
おそらく最も暗闇の中で苦しみを抱えていたその人たちに会うために、
イエスキリストは馬小屋にお生まれになられた、聖書はそう語るのです。
汚いところって行きたくないですね。
でも、そのところに遠くから、
あ、俺は私の救いにしやがるわ、羊飼い頑張れよ、って言うんじゃない。
その暗闇の汚い中にイエスキリストは来られた。
それは、来たことは何を意味するのか。
恵みですよ。
自分を与えてその暗闇の中に入れて、それだけではない。
それを通して、私は本当にあなたのことを大事に思っている羊飼いたちよ。
見捨てられている暗闇の中にいる、あなたたちのことを私は本当に大事に思っているんだ。
そのことを表すために、イエスキリストは、自ら暗闇の中へ飛び込んで行かれた。
実はそれがクリスマスという出来事です。
いわば、身を乗り出して、私たちを愛してくださっている真ことの姿を表してくださった、
それがクリスマスという出来事です。
私たちは、そこから知ることは、イエスキリストは恵みと真ことに満ちていた。
それは、この私たちの暗闇の世界に、この暗闇の中に、イエスキリストは光として今もおられるということです。
もしかしたら、こう思われるかもしれません。
いや、それは2000年前の話でしょうと。
遠い昔話じゃないですか。
しかし、聖書が語るのは、十字架にかかられたイエスキリストはよみがえられて、今も生きておられる。
そして私たちと同じように、今もその時と同じように、暗闇の中に下ってこられる。
暗闇というのは、この世界の暗闇もそうでしょう。
しかし、私たちの人生の暗闇の中に、イエスキリストは下ってこられる。
遠く離れたところから、頑張れ、大丈夫だと声をかけるだけのお方ではない。
友人との経験
キリストは私たちの痛みのただ中に、この暗闇のただ中に、私が抱えているこの暗闇のただ中に、キリストは来てくださった。
そのようなことを語っているのです。
そう言われましても、あんまりイメージが湧きませんということもあるかもしれませんので、少しイメージ豊かにするために、
一つだけ、私の思い出というか経験をお話しさせていただきますと、
今年1年を振り返って、過疎を見せる私個人にとって、一番しんどかった時期はいつかなと思いますと、
今年の2月、3月でありました。
教会の方はご存知かと思いますが、私は4年間通った大学院を途中で退学を致しました。
それは私の実力不足なので、それはいいのですけれども、困ったことに、あの時期は少し頭がとにかくずっと回り続けてしまうということと、
ちょっと不意に足腰に力が入らなくなるということが続きました。
礼拝でこうやって話している時も、急に膝がガクンと抜けそうになった時が何度かありまして、その度に膝をバンバン叩きながらやっていたのですけれども、
大学を退学した後もしばらくその症状が続いたのですね。困ったなあと思いました。
ただそんな時に、私には一人の幼馴染がいまして、彼は一緒に教会で育ったのですが、
途中で俺は教会に行かんと言って、ヨガと東洋医学に詳しくなったという友人がいるのですけれども、
彼がある時、急に連絡をくれました。
「加藤、一緒に飯食わん?」と言って。一緒にご飯を食べて、何か話があるのかなと思ったら、私のことが痛まってくれるのですね。
「加藤、最近どうや?」と。
私は、「いや、実は大学院辞めたんや。頭がちょっと回りすぎて足腰に力が入らないねん。」と言ったら、
彼は言わく、「加藤、それはお前の頭にチャクラが溜まりすぎているんだ。」と言って、
でも、その場所で、お前の頭に溜まっているのを下に下ろすための呼吸法を教えてやると言って、
短い呼吸法を教えてくれた。それが意外と効くんですよ。
すんと楽になって、そしてその後、足に力が入らないのは、お前の気が下に回ってないからだから、
足を温めて歩けって、何か当たり前のようなことを言われたんですけれども、真剣に私にそれを言ってくれるんですよ。
「加藤、こうするんだ。」と言ってね。
その後、ご飯を食べて、スタバでもお茶しながら、私の話もするし彼の話も聞きながら、すごく有意義な時間を過ごしたんですね。
さり際に彼に聞きました。
「いや、今日お前呼んだってことは、私に何か話あるんじゃなかったの?」ってことを言ったら、
彼が一言こう言ったんですね。
「いや、今日は何かお前に会っとかなきゃいけない気がした。」って言うんですよ。
嬉しかったですね。
私からすると、神様が使わせてくれた天使だなと思いながら見てましたけれども、
私はその言葉を聞いた時に震えるほど嬉しかったです。
何かの打算や見返りではなく、ただ、俺はお前のことが心配だから、
そういう理由で時間を先駆けつけてくれた彼のその姿に、私は実に真実なものがあるなということを思わされました。
そいつの友情は本物やなと思いました。
そして彼が困ったら、私も多分見返りを求めずに彼を助けなきゃいけないなということを思っています。
実は神様が恵みと誠に満ちているというのは、この友人に重ねるわけではありませんが、
手触りとしてはそういうものです。
神が恵みと誠に満ちている、イエスキリストが恵みと誠に満ちているというのは、私たちを一緒に飯食わんと言って、
そしてそのところで、大丈夫かって心配をしてくれて、困ったことに対しては、いや、こうするんだってことを真面目になって話してくれて、
でもそのように、ただ、あなたのことが心配だ、私にとってあなたは大切だ、あなたに会いたい、私はあなたを助けたい、
そのような思いだけにあふれて、私と共にいてくださる、それが恵みと誠に満ちたイエスキリストであるということです。
現代社会を見渡すならば、戦争や暴力というものがあふれております。そこに目を閉じるつもりはありません。
クリスマスの意味
孤独や絶望が渦巻いています。牧師をしていても思います。神はどこにおられるのかと思うときはあります。
暴力的な現実が世界中にありますし、そしてむしろそれは私たちの現実の中にあるものかもしれません。暴力を恐れて生きる、そのようなことは私たちにはあることでしょう。
しかしそのような中で、じゃあこのときに神はどこにおられるのかと明確に私たちが聞くときに、クリスマスのこの時期に神が私たちに答える明確な答えは、
イエス・キリストはあなたのその暗闇の中におられると言われるのです。あなたの暗闇の中に私はいるよと。
私はただあなたの暗闇の中にあなたと一緒にいるからと私たちに語られる神なのです。
それはクリスチャンだけに限ることではない。私たち全ての暗闇の中にです。神を知ってようと知ってなかろうと関係ない。神は私たちの暗闇にそこにおられます。
もう最後にしますが、聖書が語る神を信じるという言葉は決して難しい理論を理解することではありません。
それは目の前に差し出されたイエス・キリストというプレゼントをありがとうございますと言って受け取るそれだけです。ありがとうございますというだけです。
私たちは誰しも誰にも言えない悲しみや将来に対する不安、年を重ねて病を抱える方々もいらっしゃることでしょう。
神様に対する疑念があるそういう方もいらっしゃるでしょう。構いません。それでも私たちは祈ることを許されています。
暗闇の中で神様私なんでこうなんですか。神様なんであなたはこういうことをなさるんですか。あなたは本当に愛なんですか。何を言ってもいいんです。
何を言ってもいい。しかし覚えていただきたいことは、その暗闇の中におられる主は、その言葉を聞いて私たちに真実の愛を持って答えてくださる主であるということです。
クリスマスはあなたのために、私たちのために、恵みと誠に満ちたお方が贈られた日です。
すぐに信じなさいということを言いません。ただ、自分の暗闇の中に、私の今あるこの暗闇の中にイエス・キリストはいてくださるんだという事実を、今朝プレゼントとしてお持ち帰りいただきたいと願っております。
お一人一人にこのプレゼントであるお方が、恵みと誠を豊かに表してくださいますように。一言お祈りをいたします。
20:09

コメント

スクロール