アドベントとクリスマスの意義
一言お祈りさせていただきます。
お祈りいたします。
天の神様、主の皆、お賛美いたします。
アドベント、第2週目を迎えました。
私たちは、クリスマスを、
イエス様のご好誕を、ともに待ち望んでいます。
この季節、
神様が私たちにくださった、限りない喜びを、
十分に知ることができますように。
どうぞ神様に、心を照らされて、
満たしていただいて、
またその、湧いてくる喜びを、
互いに分かち合うことができる季節として、
あなたがどうぞ導いていてください。
今日分け合って、ここに集えない、
方々のことを覚えています。
どうぞ変わらない、あなたの恵みをもって、
お一人お一人に届いていてくださいますようにも、
お願いをいたします。
御言葉を、ともに聞かせていただきます。
あなたがどうぞ、恵みを私たちにお語りください。
イエス様のお名前によって、お祈りをいたします。
アーメン
羊飼いたちの疎外感
私はクリスチャンになる前に一度だけ、
自分の願いで地域の教会に行ったことがあります。
中学生の時でした。
そのきっかけは、
クリスマスに毎年必ず見る映画があったんですけれども、
私はホームアローンが大好きで、
クリスマスに必ず見ていました。
我が家には金曜ロードショーで録画したビデオが置いてあって、
それくらい見ていたんですけれども、
その劇中、主人公の少年ケビンが、
クリスマスに教会に行くシーンがあるんです。
聖火隊の歌声に耳を傾けるシーン。
すごくそのシーンが私は印象的で、
綺麗だなとか、すごくクリスマスの
神聖さのようなものを中学生ながらに感じまして、
それを見て私は、私ももう中学生になったしと、
今年のクリスマスはクリスマスらしく教会にでも行ってみようかなと思ったことがあり、
母親に頼み込んで近所の教会に一緒に連れて行ってもらったんです。
ただ、当然のことながら映画と現実は違いました。
ケビンのような外国人はいませんし、
賛美もメッセージも、
クリスマスだとこんなに違うんだなと思いながら聞いていました。
覚えているのは、イブ礼拝の間、
私が今も似たような感じですけど、咳き込んでしまって、
それを隣にいたご夫人が笑顔でのど飴をくださったっていう
その温かいことを覚えています。
ただ親切にしてもらえて嬉しかったんですけれども、
本物に憧れて行った、教会に行った中学生の私としては、
違うという印象がとにかく強く残って帰ってきました。
そして思ったんです。
ここは教会の人が行く場所なんやなっていうことを思って帰りました。
教会の人、キリスト教のお家の人だとか、
キリスト教に関係のある人、
そういう人が行くところ、私には関係ない。
それを実感した中学生のクリスマスでした。
ただその数年後、不思議なように私は教会の人になっていたわけです。
特別熱心なキリスト教の家に生まれたわけではありません。
でも私とは関係ないと思っていた教会、
そしてイエス様が私と関係があるということを知りました。
さて、クリスマスはイエス・キリストの誕生の物語ですけれども、
様々な場面があります。
今朝読んでいただいたルカの福音書のこの場面は、
クリスマス物語の中でも特に有名な場面かと思います。
2章の11節、12節をお読みします。
今日ダビデの街で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。
その方こそ、主キリストです。
あなた方は布にくるまって貝羽桶に寝ているミドリゴを見つけます。
それがあなた方のための印です。
これは天使の言葉です。
天使は、救い主が生まれましたという喜びの知らせを、
この良き知らせを声高に叫んでいるのです。
そしてこの知らせは、神様がこの救い主の誕生を
知らせたいと願う人々に向けて届けられました。
もし赤ちゃんが誕生したとき、まず誰に知らせをするものでしょうか。
赤ちゃんが誕生したら、まず誰に知らせが行くのか。
きっと赤ちゃんのご両親の近親者や関係者にもちろん行くと思うんですけれども、
この人にこの喜びを伝えたいと願う、
ご両親にとって大切な人に知らせが届くと思います。
私の周りの友人たちも、お父さんお母さんになった人がたくさんいますけれども、
出産報告を個人的にLINEで知らせてくれるときがあります。
それを受けたとき私は、私に知らせたいと思ってくれたんだなと、
少し嬉しい気持ちになったりします。
赤ちゃんが生まれるというのは、それだけの喜び、分かち合いたいと思うものです。
聖書はイエス・キリストの誕生が一番に知らされたのが誰か。
それはマリアとヨセフの近親者、関係者とは書いていないのです。
今朝の8節から10節を読みたいと思います。
さて、その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜晩をしていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光王が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
見使いは彼らに言った。恐れることはありません。
見なさい。私はこの民全体に与えられる大きな喜びを告げ知らせますと。
この良き知らせが一番に伝えられたのは、羊の夜晩をしていた羊飼いだった。
聖書はそう語るのです。
羊飼いたちはどんな人だったでしょうか。
私たちは羊飼いと聞いたら、草原の羊たちを見守っている優しそうな、優しい飼育員さんをイメージしますけれども、
家様が誕生したこの時代の羊飼いは、とても印象が違うんです。
存在を軽視されたような職業であったと言います。
羊飼いの仕事は、動物の汚物の世話もしますから、衛生的にきれいとは言えないお仕事です。
そしてそれ以上に、宗教的な問題として、常にけがれた動物を相手にする。
宗教的な意味でも、けがれているとみなされている人たち、それが羊飼いでした。
彼らは人々から疎まれ、そして人々が大切にしていた神殿での礼拝、今でいうこの教会での礼拝だと思います。
そこに集うことは許されない人たちでした。
そして神への礼拝に集えないということは、神に呪われている人たちとみなされているぐらいでした。
とても過酷な見られ方だなと思います。
あいつらは大切にしている神の礼拝に集わない、神の言葉を守らない罪人だという目線がいつもあるわけです。
そしてそんな仕事を選んだお前たちが悪いというような、人々から見放され見向きもされない日々の中を羊飼いたちは生きていた。
それは深い疎外観の中を生きていたということかもしれません。
私たちはこの羊飼いほどの疎外観を感じて生きているということは今は少ないかもしれません。
しかし全くないとも言い切れないと思うのです。
別に誰かに特別しいたげられているわけではない。
人前で明るく振る舞える。
人前で明るく振る舞えていたとしても、誰にも見せずに感じている孤独、誰にも理解してもらえないという寂しさを感じている人は私たちの間にもいるのではないでしょうか。
私は学校という場所がとても楽しいと思っている子供でした。
自分を受け入れてくれる友達や先生に恵まれ、学校では笑顔の楽しい時間を過ごしたそんな思い出があります。
中には軽い感じではあるのですが、
ああいうのは何も知らないな、余計なことをするな、ほんまにアホだなというような心ない言葉を受けることはあったなと思い返すのです。
そしてそういう言葉によって自分に自信が持てなくなってきたところはあったなと思い出すのです。
でも私は学校は楽しかった思い出の方が強いというのがありますから、
そういう辛さというのはある種なかったことに自分の中でできてしまうものなんだなと思います。
学校が楽しい間は大丈夫、自分が笑えている間は大丈夫、けれども
根底にはいつも不安があったんだなと気づかされるのです。
今受け入れてくれる友達、先生も私の何かを気に入らなくなったら、
本当の姿、足りない姿を知ったら離れていくのではないか、そういう不安があった。
私たちはもしかしたらそれぞれにきっと誰にもわかってもらえないという孤独や
見放されるかもしれないという不安、
そういう辛い思いを実は抱えて生きているお互いなのかもしれません。
そしてこういう孤独や不安は直視をすると辛くなってしまうので目を背けます。
そして口癖のようにそんなことを思っても仕方がない、
しゃあないと、そう自分に言い聞かせて生きようとする側面があるかもしれません。
でもしゃあない、それは事実であったとしても万能の解決策ではないということに気づかされるのです。
この羊飼いたちも自分たちに置かれている状況のことを、
そんなことを言ったって生きていくためにはこの仕事をしないと仕方がない。
みんなから白い目で見られていたとしてもしゃあない、
そう自分に言い聞かせながら傷つく心を麻痺させながら疎外観の中を生きていた、
諦めて生きていたかもしれません。
これまでの歩みの中で辛かった、恥ずかしかった、
消してしまいたくなるような過去をふと思い出して落ち込んでしまうということが誰でもあるかもしれません。
私は人間関係を上手に築けなかった自分を思い出すときに、
救い主の誕生の知らせ
ああ自分はダメなやつだと何度も思いました。
これはしゃあないだけでは到底解決できないことにも気づかされてきました。
しかし聖書は、人々が待ち望んでいたイエス・キリストの誕生の知らせは、
羊飼いたちに一番に知らされたことを書き残しています。
神の使いが夜晩をする彼らの前に現れて、彼らを照らして知らせたのです。
こだびれの町であなた方のために救い主が生まれになりました。
羊飼いたちはこの知らせを聞いてどう思ったでしょうか。
おそらく最初はそんなわけがないと思ったと思うのです。
目の前に数え切れない天使の群勢が現れて神を賛美する光景は圧巻ではあるけれども、
これ以上にあなた方のために救い主が生まれたという知らせは信じられない。
これだけみんなに疎まれてあいつは神に呪われていると言われてきた。
そんな自分のために救い主が生まれた。そんなわけがない。
この言葉までだったら彼らはきっと動き出すことは信じることはできなかったでしょう。
けれども彼らは天使の言ったこの言葉を聞きました。
2章の12節
あなた方は布にくるまって貝羽桶に寝ているミドリゴを見つけます。
それがあなた方のためのしるしです。
布にくるまって貝羽桶に寝ているミドリゴがしるし。
羊飼いたちは天使の言ったこの言葉を聞いて動くことができたのではないでしょうか。
貝羽桶は皆さんご存知の通り動物の餌箱です。
キリスト教の聖画では、家様はきれいな藁がひかれたあったかそうなベッドに寝かされているように見えますが、
実際はそうではなかった。
動物の唾液のついた餌箱です。
馬小屋、おそらく馬小屋だったでしょう。
独特の動物臭や汚物のにおいがするような場所です。
赤ちゃんの誕生を迎えるべき場所ではありません。
ましてや救い主の生まれるべき場所ではありません。
でもそんなところに生まれられた救い主、その言葉を羊飼いたちは聞いて動き出すことができたのです。
15節16節をお読みいたします。
羊飼いたちと救い主
見つかりたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。
さあベツレヘブまで行って主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けてこよう。
そして急いで行ってマリアとヨセフと貝羽桶に寝ているミドリゴを探し当てた。
羊飼いたちは急いで行ったと聖書に記されています。
それは救い主が生まれた場所は汚れた馬小屋、汚れた貝羽桶。
これはこの場所こそは羊飼いたちの場所です。
彼らの仕事場、彼らの生きている場所です。
衛生的にも宗教的にも穢れている羊飼いたちにこれまで誰も近づきませんでした。
誰も彼らを助けないし会いに来ませんでした。
羊飼いたちは自分の呪われていると思えるような現実を、孤独と不安を、しゃあないと言い聞かせながら生きてきました。
しかしクリスマスに生まれた救い主は馬小屋の貝羽桶に生まれられた。
それはなぜだったのか、救い主はこの羊飼いたちに会いに来られたのです。
彼らと会うために救い主はあえてけがれの中に生まれ、
彼らと会うために赤ちゃんという無力な存在として生まれて来られたのです。
救い主イエス様はどういうお方か、それはご自身を犠牲にしてでもあなたに会いたいと願われる神です。
どんなあなたでも、どこにいるあなたでも、あなたに会いたいと願われるお方、それが救い主イエスキリストです。
冒頭で私には関係ないを実感したクリスマスのお話をさせていただきました。
でもその数年後、私はイエス様が私と関係があるということを知りました。
少しその時のお話をできればと思いますが、
同じように中学生の時ですけれども、クラスメイトにクリスチャンの女の子がいて、友達になったのです。
私はその彼女から教会のキャンプに誘ってもらったのです。
私はその友達が誘ってくれたというその事実がうれしくて、行くわと言ってそのキャンプに行ったのですけれども、
いざ行ってから、私でも教会と関係ないねんけどなということに後から気づかされながら、きまずい思いを持っていました。
案の定キャンプに行くと、きまずさが常にある期間を過ごしたわけです。
教会の人じゃない、クリスチャンじゃない、部外者で関係がない私が来てすみませんという思いで3泊4日を過ごしたんですけれども、
ただ不思議でした。
クリスチャンじゃない、関係ないはずの私の存在をキャンプにいる人みんなが喜んでくれるんです。
キャンパーもスタッフも先生もとても温かく私と接してくれました。
最初に抱えていたその気まずさも次第にどこかへ行き、なんかずっと痛いなぁと思わせてもらえたキャンプを過ごしました。
そしてそれ以上に驚いたこと、それはこの世界に私という存在を愛し喜んでおられる神がいるということを知ったことでした。
キャンプでは聖書のメッセージが語られます。
その時は旧約聖書のイザヤの43章4節の言葉を語っていただきました。
私の目にはあなたは高価でたっとい、私はあなたを愛していると孔子の先生は、神様があなたにそのように言っていると語ってくださいました。
そしてこの高価でたっといという言葉を英語で表現されたんです、その先生は。
You are preciousって意味ですと。
Preciousっていう単語が高価でたっといという意味になると。
このPreciousという言葉は本来宝石などに使われる言葉だよと先生はおっしゃいました。
宝石などに使われる高価な価値のあるという意味です。
神様はあなたのことを宝石のように同じようにキラキラした高価な特別な存在だと言っておられますと、そのように語ってくださいました。
そして宝石のような輝く特別な存在のあなたのために、イエス・キリスト自身は十字架で罪の代わりとして命を投げ出してくださった。
あなたという存在はそれほど大切で愛されているんだよと語られたのです。
中学生の時の私がどんなのだったかをちょっと話しましたけれども、ずっと不安があったんだなということに気づかされます。
私は一人劣った存在だという劣等感もありました。
人に見放されないか不安でした。
そしてそういう私のことを誰もわかってくれない孤独を感じました。
けれどもそういう私に向かって、あなたは特別でなくてはならない。
私は本当にあなたを愛していると、そう言われる神がいる。
そのことを聞いた時に本当に驚きましたし、心が安心と慰めでいっぱいになりました。
そしてそこでイエス様を信じたいと私は告白へ導かれたのです。
その時の私を導いてくださったのが先日来てくださった浜岡則子先生です。
この私を愛のまなざしで見つめている神がいる。
私でさえ愛せないこの私のことを神が効果でたっとい愛していると言っておられる。
この事実を受け入れた時から私の心は、私の心の不安や孤独は徐々に癒されていったのです。
劇的な変化はなかったかもしれません。
いまだに不安と孤独に引きずられそうになる時はあります。
でも確かに変わったのは、あなたを愛している、あなたは喜びであると言われる神の愛を、その言葉を知っているということです。
今日の二十節を読みたいと思います。
二章二十節
羊飼いたちは見聞きしたことがすべて見つかりの話の通りだったので、神をあがめ賛美しながら帰っていった。
羊飼いたちは布にくるまった貝羽桶に寝ておられるイエス様と出会い、神をあがめ賛美しながら帰っていきました。
彼らの生活はおそらく明日からも変わりません。
見下された、疎まれた仕事、そんな羊飼いであることも、貧しさの中を生きなければいけない人生も続くでしょう。
しかし決定的に変わったのは、羊飼いたちは神の愛を、自分を愛される救い主を知ったことです。
彼らの救い主がいることを受け入れたことです。
それは主イエスキリストです。
明日は変わらなくても、神に愛されていることを知った羊飼いの心は、もはや不安も孤独もなくなりました。
変わらない明日も含めて、神の愛の中を生きる彼らの人生が始まったのです。
神の愛と私たち
私たちの現実もまた簡単には変わりません。
けれども変わらない現実を、しゃあないだけで済ませることには限界があります。
イエス様、あなたを愛し、今もあなたに会いたいと願っておられます。
私たちは自分を見つめても、誰がこんな私と会いたいと思うだろうと感じるかもしれません。
自分の内の暗い部分を知っているからです。
でもイエス様は、私たちの孤独を不安を知っておられ、何にもかえがたいとご自身の命を十字架に捧げるほどに愛しておられます。
そうしてでも、あなたに会いたいのです。
クリスマスは、この私のために救い主がお生まれになったことを共に知り、喜ぶ季節です。
このクリスマス、会話桶に寝ておられる私のための救い主、あなたのための救い主、イエス様と共にお出会いできることを願います。
イエス様は、どうやってでもあなたに会いたいのです。
一言お祈りをさせていただきます。