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愛している皆様、クリスマスおめでとうございます。
この、四の二千二十年のクリスマスを、この温かい、素敵な名谷教会で、
皆様と共に、イエス様のご好誕をお祝いし、また共に喜びを分かち合うことができる幸せを、心いっぱい感謝しております。
今、クリスマスの祝福は、皆様と、そしてご家族の皆様の上に、そしてまた特に、祈りを覚えております尊敬する、
イエス先生、ハンガル先生、そしてその三人のお坊たちの上に、豊かに誘われますように、お祈りをお捧げしたいと思いますので、
皆様もお祈りに心を合わせて下さって、共に神様の恵みと祝福になじかれることができるように、お願いしたいと思います。
お祈りをお捧げいたします。
恐れることはありません。
皆さん、私はそのため全体に与えられる大きな喜びを、すげえ幸せます。
今日、ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。
この方こそ、主宗キリストです。
神様、天皇様、あなた様の限りない愛と恵みの中で、
福の2022年も、今日まで守られ、生かされ、導かれてまいりましたことを、心から感謝をいたします。
今年も、神様の愛と恵みによって、私たちのためにお生まれくださった救い主イエス様のお誕生日を、心からお祝いできますことを、合わせて感謝をいたします。
ただいま、柳川芳子姉妹に読んでいただきました聖書から、クリスマスの喜びと感謝のメッセージをさせていただきたいと思います。
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池田先生がお祈りくださったように、精霊様が豊かに働いてくださって、皆さんの心の奥深いところにまで、主の愛と恵みが届きますように、
そして他でもありません、全世界の全時代の全人類の罪を許すために、人の姿をとってこられました本当の救い主であるイエス様を、
今日、心にそして家庭にお迎えすることができますように、お導きくださることをお祈りいたします。
どうぞこのしもべを清めてくださって、あなたから与えられた御言葉とメッセージを、そのまま語ることができるようにお助けください。
愛する皆様の心の内にある願い感謝に合わせ、イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
この読んでいただきましたルカの福音書というところは、医者であり歴史家でもありましたルカが自分が記録した出来事を世界の歴史と関係付けた唯一の福音書として、
今なお私たちの手元に残されている素晴らしい貴重な記録であります。
初代のローマ皇帝でありましたアウグストン支配下にあった当時のパレスティナ、14年に一度の人口調査などの記事は明らかに歴史的な事実を示しております。
ちょうどこの時期にヨセフとマリアがナザレからベツレームに来たのも非常に不思議な神様のせずりでありました。
いわゆるプロビデンスといいます神のせずり。
神のせずりというものは、私たち人間はなかなか理解し難いものでありますけれども、それは事実のことであります。
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ルカの記述は主にギリシャ語を話す読者に向けて書かれたものでありますが、しかし現在はこの聖書の言葉を通して主は私たちに語りかけているということを皆さんしっかりとキャッチしてほしいと思います。
まず救い主イエスキリスト様のお誕生を少し振り返ってみたいと思います。
池田先生のお祈りでも中にもありますように、主に預言者イザヤがこの救い主イエス様のことを預言しておりますが、
その他にミカという預言者もやはり救い主イエス様が乙女マリアから聖霊によって誕生するということを預言しております。
イスラエルの歴史を私たちが聖書を通してみますと、
神様の救済と共に世界の人類に対する神様の公正、公義、正義によって審判を下すという歴史でもあります。
救済と審判の歴史、それが聖書に国名に記されております。
神様の最大の目的は何か、何であったのか。
それは私たち人類、罪深い人間を、罪と永遠の滅びから救い出すということが一番大きな目的でありました。
決して人間を神様が苦しめたり、悩ましたり、いじめたりするような、そういう目的は全くありませんでした。
ただし、人類が私たちを含めて、人間がいついつまでも傲慢に神様に背き続いているならば、
最後の手段として神様は、やむを得ない一大決心をするということも確かであるということを私たちは決して忘れてはならないことだと思います。
今日の世界的非常事態、これはもう本当に数え切れないほど非常事態が起きておりますが、
私はこれは世界人類への光栄な審判である。神様の公正な正しい裁きである。
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とともに神様の私たち人類を救おうという切なる願い、全人類の救いのチャンスが与えられているということも確かだと思っております。
イエス様がお生まれになった時代というのは、決して安楽な平穏な時代ではありませんでした。
むしろ非常に危険がはらんでいる時代であったと思います。
お生まれになった場所は聖書には別れへもの家畜小屋、そしてイエス様が寝かされた場所はなんとかいばお家の中であったと聖書は記述しております。
そして最初に良き知らせを告げられたのは野原で羊の番をしていた数名の羊会であったと。
名もなく貧しい人から相手にされなかったであるお人たち、こういう人たちが数名イエス様のお誕生をお迎えしたということが聖書に記されております。
イエス様という方は心の貧しい人、身分の高い低いに関係なく貧しい者にも飛んでいる者にも救いの手を差し伸べてくださるまことの救いにしております。
イエス様はあらゆる点において人間の最底辺、もうこれ以上最底辺はないというところまで育ってくださったお方であります。
その羊会たちと共に聖書を見ますと遠い東の国から三人の博士たちがイエス様のお誕生をお祝いに来たということも聖書に記されております。
その三人の博士というのは一人の博士は黄金を手にお祝いに来た。もう一人は乳黄をお土産にプレゼントとしてイエス様のところに持参した。
もう一人の博士はモス薬を持ってイエス様のお誕生をお祝いに来たということが聖書に記されております。
これは何を意味をするかと言いますと黄金というのは王様の中の王様、キングオブキングスと言われますがまさにイエス様は王様の中の本当の王様であるということを表しております。
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そして乳黄は愛の香りと言いますが人に慰めを与え人に平安を施す印である。これは預言者の務めであると言われております。
そしてもう一人の博士は乳黄をおさめましたがこれは神様と罪深い人間を人質につなぐ妻子の務めである。妻子というのはポンテフェクスという言葉が使われておりますがこれはラテン語でありますがポンテフェクス。
このポンテフェクスというのはもともと橋を架ける人という意味があります。橋を架ける。神様はキリストの十字架という愛の架け橋を持って罪深い人類のもと私たちのもとにおいでくださったお方であります。
有岡姉妹のお祈りの中に天を押し曲げてということがお祈りの中にありました。天を押し曲げる。天を押し曲げるとはまさにイエス様が人の姿をとってこられた十字架という愛の架け橋を持って誠の神が私たち罪深い人間の世界にくらってくださったということであります。
この持つ薬というのは埋葬された遺体に塗る薬でありますが葬りを表すとともに死の意味を表すものである。持つ薬。
このイエスの時代でもこの世には多くの総理大臣大統領そういう方々も一国の王様ではありますけれどもしかし私たちと一緒には決していてくれません。どの大統領もどの権力者もどの総理大臣も一緒にはいてくれません。
けれどもイエス様は私たちがいつも一緒にいてくださるお方であります。私を含めて人間は誰も苦を迎えます。
おめでたいクリスマスの日に死の話をするのはどうかと思いますが死ぬのはいやと言っても死は必ずやってきます。
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今考えてみたら例えば私の死というのは誰のためでもない自分の死なんですね。避けようがない。
死というのが一旦来ますとすべてのものから引き離されてしまいます。例えば愛する夫、愛する妻、あるいは愛する友達、あるいはクリスタンであっても愛する兄弟姉妹と別れが必ずあります。
どんなに泣いても叫んでも嫌だと言っても私たちは誰一人として死を押しのけて、死を抹殺することはできない。でも申し上げましたように私の死は私のためなんです。誰のためでもない。
けれどもイエス様の死はイエス様自身のためではなかったんです。ここにいらっしゃるすべての人、全人類の全歴史のすべてのこの地上に生まれてきたすべての人のための死、それがイエス様の十字架の死であります。
そしてそのイエス様の十字架の死、身代わりの死、食材の死は今もって有効であるということを私たちはしっかりと覚えなくてはなりません。それはイエス様が死を克服して復活したからそう言えるのであります。
私たちを罪と永遠の滅びから救うためにイエス様が生まれ下さった。人間的にこの世的に考えればこんな馬鹿らしい話はない。誰から頼まれたのでもない。
神自らが勝手の思いでこの罪深い泥だらけの真っ黒な人類のこの世に生まれて下さった。イエス様は一欠片も罪、穢れはありませんでしたがあたかも罪と穢れに満ちたもののごとく生まれて下さった。
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皆さん、こんな方がどこにいらっしゃると思います?どこにもいない。
ポリントビトへの第二の手紙の八章九節にこういう御言葉があります。
死は飛んでおられたのに貧しくなられました。それはあなた方がキリストの貧しさによって富むものとなるためです。
イエス様はこれ以上にない程の貧しき者となって下さった。あたかも罪と穢れに泥だらけになっている者のごとくイエス様はお生まれ下さった。それは私たち罪深い穢れた者が富む者となるためであった。
皆さん、これほどの大きなミラクルがどこにありましょうか?
世界的に有名な信学者でありますカール・バルトという信学者がこんなことを言っています。
あなた方のために、あなた方が縁を受けるために神は小さくなられたのである。
一つのお話を、ある方の証ですがお話をさせていただきたいと思います。
この大学の先生がお若い時に、当時東大総長であられた南原茂先生からキリスト教の教えを恩恵になられました。
この大学の先生は、キリスト教聖書の話に心をたれながら、なかなか信仰に入る決心がつかなかったそうであります。
そして、とうとう70歳ぐらいになって、あるキリスト教の大学の教授に赴任した際に、やっと教会に足を運び始めたそうであります。
そして、やがて聖書を通して、他の誰でもない自分自身が非常に穢れた罪深いものであるということを示されて、この大学の先生が罪を認めて、罪を悔い改めた。
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それまでは大学の教授という誇りと言いましょうか、肩書き名誉に彼は誇りを持って生きていた。
そして、やがて洗礼を受けになられて、75歳になって退官された。
そして、それから一年一年歳を得るごとに、本当に自分は、いや誰よりも自分はキリストを必要とするんだ、キリストを無くしてもう私は生きていけない。
ところが、思わぬ病につくことになりまして、禁断の結果、その病が癌であった。
そして、その癌を患って病院に入院中に、この先生は心の中で祈り続けたそうであります。
自分は本当にイエス様に救われてクリスチャンになってよかった。
自分の生涯、とりわけ人生の中で自分が一番幸せだったのは、イエス様によって救われてクリスチャンになったことだ。
幼い頃、この先生は病床の中でイエス様につながっていること、そしてやがて死後、神様の天国に導かれることという希望を持ってひたすら祈り続けていたそうであります。
そして、こっこくとしまる自分の死ということが巨大する中で、いつもこの先生の慰め、希望になったのはイエス様のお言葉でありました。
私はあなたに平和を与えます。あなた方を休ませてあげようという、そういう言葉でいつも慰められていたそうであります。
私は宝の中の宝であるイエス様、こんな罪深い土の器に過ぎない私のようなものの中にお住み下さっている。
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偉い大学の教授の先生だったそうだったんですが、宝の中の宝であるイエス様、こんな醜い土の器の中にお住み下さっている。
これを晴れるや!と私は病床のベッドの中で、晴れるや!と叫んだそうです。
そして、やがて何日かした後に平安の中に天皇御国へ改正された。
私はこの話を、直接ではありませんが、伺った時に私も過去をありたいなと。
私もこの大学の先生のようでありたいなと切に思いました。
最後になりますが、図家の2章の15節を皆さんご覧いただきたいと思います。
15節に、密会たちが彼らから離れて天に帰った時、羊会たちは話し合った。
さあ、別霊夢まで行って、主が私たちに知らせてくださった、この出来事を見届けてこよう。
出るかならば、聖書のお持ちの方は、その出来事というところにあたせるか、確保するか。
というのは、この出来事という言葉が、ものすごく素晴らしい、大切な言葉であるということを知ってほしいからです。
イエス様がお生まれになった夜、天使の知らせを受けた羊会たちが言った言葉が、この出来事を見届けてこようと。
実は、この教会だけではないですが、この明沢教会の礼拝堂に集まっている私たちも実は、この出来事を見てこようという気持ちで、ここに集まっていると思います。
この出来事と訳されている言葉は、もともとは、実際に出来事として起こった言葉という意味があります。
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つまり、言葉が出来事として起きたというところ。
神様からすべての人に与えられた平和のメッセージ、それはイエス・キリストによって伝えられたのですが、
実はまた、これは一つの出来事だと。
歴史的事実の出来事であるということを皆さん、しっかりとキャッチしてほしいと思います。
ただの神話的な、あるいは民話的な言い伝えではない、出来事として、歴史的事実という出来事として表された。
ですから、もう二千何年前の出来事ですが、当時の羊飼いたちと共に私たちも、
今日、今、時空を越えて彼らと共に一緒に、クリスマスの夜に、この出来事に預かっていると。
ヨワネの1章の14節に、こういう言葉があります。
言葉が、言葉が、肉体となって私たちの家に宿った。
ここで言う言葉というのは、これはキリストのことなんですよ。
救い主、メシはキリストが肉体となって、人間となって、私たちの家に宿った。
つまり、神の言葉が、人間の姿をとって救い主としてこの世に現れた。
イエス様の生涯の出来事、言葉が具体的に現れた。
十字架の出来事、復活の出来事、サイリンという出来事にまで思いを馳せる出来事が、
言葉が肉体となって私たちの間に現れたということです。
冒頭で申し上げました皇帝アウグスト、ゆまゆまなく実在の皇帝です。
この皇帝アウグストが生まれた時に、当時の人々はみんなカンコをあげて、
晴れるかどうか分かりませんが、とにかく、いやあ、めでたいことだと、
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多くの人たちがカンコ、喝采の声をあげて、
そのアウグストとこそ、その赤ちゃんこそ、我々福音を伝えてくれるために生まれたんだといったそうです。
ところは、誠の主や救い主の誕生はどうであったか。
本当に寂しい、寂しい誕生でありました。ひっそりとした。
しかし、みなさんどうでしょうか。
福音の子とカンコをあげて迎えられたアウグスト、歴史的ジエスの人物が、
今、あなたや私に何の関係がありますか。何の価値があるでしょうか。何の因子があるでしょうか。
何にもない。何の意味もない。価値もない。
しかし、イエス・キリストはそうではない。
キリストこそ、私たちに最も関係のある素晴らしい偉大な方であります。
そして、イエス・キリストの誕生、クリスマスは、今も教会や家庭やあらゆるところで、全世界で多くの人々が祝っているお祭りです。
皆さん、考えてみてください。
世界広いと言えど、全世界で同時期に、
メリークリスマスと素晴らしいこのお祭りを祝っているものが他にありますか。
ノー。何一つないです。
イエス・キリストのクリスマス、セレブレイトと言います。祭典。
この世の中には、日本をはじめ、いろんなお祭りがありますが、
しかし、クリスマスという祭典、セレブレイトほど、全世界でお祝いしている祭典はどこにもありません。
どこにもあります。
このクリスマスは、世界の終わりまで続くのです。
世の終わりまでクリスマスは続きます。
そして多くの人々が、この素晴らしいクリスマスの祝福に預かる。
そういうところに私たちは、望みと希望を持って、毎日の生活を営み続けたいなと、心からそう願います。
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お祈りをお捧げいたします。