1. 名谷教会 podcast
  2. 2013/12/22:聖日礼拝(旧音源)
2013-12-22 37:02

2013/12/22:聖日礼拝(旧音源)

2013/12/22 聖日礼拝(旧音源)




00:01
アーメン
みなさん、クリスマスおめでとうございます。
それでは、礼拝の前にですね、いつものように周りの方々とよかったら挨拶としましょうか。
メリークリスマスはいかがですか。
メリークリスマス、お互いに挨拶としましょう。
よくいらっしゃいました。
今日はじめての方々、久しぶりの方々、よくいらっしゃいました。
ありがとうございます。
それでは、私から一言お祈りいたします。
恵み深い天皇、神様、クリスマス礼拝をお迎えしまして、
こうして、地の御前に礼拝を捧げることができるこの恵みを感謝いたします。
今から、神様の御言葉に耳を傾け、そして教えていただき、
その御言葉通りに、私たちの人生の歩みを、神様が納めて導いて下さいますように、
洗路をして下さいますように、お願いをいたします。
心の中に安らぎと愛と平安が豊かに満ちあうれますように、
聖霊様豊かに恵んで下さい。
神様の御名によってお祈りいたします。
今日、クリスマス礼拝にようこそいらっしゃいました。
久しぶりの方もいらっしゃる方、初めてお目にかかる方もいらっしゃるかと思いますが、
こうして、イエス・キリストの御幸さもお祝いし、とも喜びをもってですね、
礼拝できることを、これはとても素晴らしい恵みであると思います。
私、今年4月にこの妙丹教会に赴任してまいりました。
ですから、初めてのクリスマスを、12月を過ごしておるわけですが、
妙丹教会のクリスマスはとても楽しいですね。
子供のクリスマス会、夫人のクリスマス会、終わるかと思ったらまたクリスマス礼拝がありまして、
また終わるかと思ったら、明日はまた職家礼拝が待っているんですね。
1回でも多く、1人でも多く、死の御前に集まってですね、
共に礼拝してほしいという、そういった心からの礼拝、またあるいは集会であろうかと思います。
03:01
このようにですね、クリスマスは喜びの日です。
なぜ喜びの日なのか。
おいしいケーキを食べたり、あるいは素敵なプレゼントを持ったり、どこか旅に行ったりするから、
喜びの日になることもありましょうけれども、
しかし、今日はこの神様が私たちにくださったこの清楚の御言葉から、
クリスマスの本当の意味について教えていただきたい。
そして皆さんにもぜひ知っていただきたいと、そう願っております。
今日の聖書歌詞を読んでもらいましたけれども、
イエス様が今もイスラエルのベツレヘムという町にですね、今も小さな町ですが、
そこに今から約2000年前、
歴史的にはですね、BC4年とか3年とかあるいは6年とかそう言われますけれども、
それはこれにして、イエス様がお生まれになったときに、
今日の御言葉を見たらですね、なんと東の国の東方から博士たちが訪れてきたんですね。
東方といいましたから、人たちの国東方がどこであったかということは明らかではありませんけれども、
旧約聖書前後を見たらですね、おそらくバビロニアではないかとも推測されていました。
いずれにしてもですね、彼らがはるはる遠いところから星に導かれてベツレヘムにまでやってきたんですね。
彼らは何をしにやってきたんですか。
今日の聖書歌詞を2節のところを見ますと、私が読みます。
ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。
私たちは東方の博士たちですね。私たちは東の方でその方の星を見たので拝みに参りました。
星をもう東の方でも見て、ずっとその星に導かれて拝みに参りました。
今日のキーワードは拝む、礼拝という言葉です。
クリスマスという日々は明るくて楽しいものです。
06:01
ところがですね、アイロニーなことですが、クリスマスと一番喜んでいる場所は教会ではずべきなのに、デパートやケーキ屋さんが一番喜んでいるのだろうと思うんですね。
一年中最も売り上げの良いシーズンであるかもしれません。
でも改めて聖書の教えているクリスマスの記事を読みますと、今の私たちの持つイメージとはかなり違うように感じます。
皆さん、聖書のクリスマスはその主題が主なるイエス・キリストを礼拝することです。
礼拝、それがクリスマスの主題であり、最も根本的なクリスマスの意味なんです。
今日読んでいないのですが、羊飼いたちが、先ほどの賛美の開始にもありましたが、羊飼いたちも救い主なるイエス様の誕生を聞いてですね、拝みに来たんです。
礼拝しに行った物語、そして今日の箇条もですね、この1節から12節まで読みましたけれども、その中に参戒の拝という言葉があります。
礼拝という意味です。皆さん、クリスマスは礼拝の日です。
誰を礼拝するのでしょうか。
救い主として、この地上にお生まれになったイエス・キリストを礼拝する日、その日がクリスマスなんです。
ですから皆さん、クリスマスは礼拝の日なんです。
皆さん、クリスマスという言葉の意味をご存知ですか。
英語でですね、クリスマスと書いてですね、はがきとかクリスマスカードとか何か買い物を買ったらですね、紙袋とかにクリスマス、どこにも書いてあります。
その意味をご存知でしょうか、皆さん。クリスマス、どういう意味でしょうか。
ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、クリスマスは二つの言葉がですね、一つになった複合語でですね、
クライス、メス。クライスはキリストですね。メス、マスは礼拝ということです。
キリストを礼拝する、それがクリスマスなんです。だけども、その意味を知らない人が案外に多いんです。
もうちょっと前ですけれどね、東京のある教会が渋谷で20代、10代の若者たちにクリスマスのこのシーズンですよ、インタビューをしました。
09:13
こんにちは。クリスマスが何の日なのか知りますか。アメリカの祝日でしょ。聞いてみる。そうなんですね。知りませんね。なんでこんなにわざと知るんでしょうか。
約ですね、100人ぐらいにですね、インタビューして聞いてみたら、クリスマスはキリストが大間になってそれをお祝いする日ですと答えた人が10人もなっていなかった。
クリスマスが何の日なのかそれも知らずなのにケーキを買って食べたりプレゼントをあげたりですね、いい親睦を持つことはいいことですけれども、例えばこれはですね、このようなハプニングと例えられると思います。
皆さんがどこかのですね、誰かの結婚式に披露会に行っていました。飲んで食べてですね、話をして隣の方に、ところが今日は誰の結婚式んでしょう。それと同じなんです。
クリスマスは私たちのために大間になった救い主なるイエス・キリストを贅拝する日なんです。皆さん考えてみれば、信仰とは贅拝ということです。
この聖書全体の記載が贅拝を私たちに教えているんですね。唯一の神様、作り主なる神様だけを贅拝すること、それが信仰なんです。
私たちを愛し、私たちを闇と死から救ってくださった、そのイエス・キリストを贅拝することが信仰なんです。教会でよく言われる言葉の一つは罪という言葉です。
罪というものは、実はまことの神様を礼拝しないことを、まことの神様をまことの神様としないことです。
例えば皆さんのお子様がですね、皆さんお父さんお母さんをパパとしない、ママとみんなを見ない、と同じことなんですよね。それが聖書を言う罪というものです。
まことの神様を礼拝しないことが罪というものです。
12:09
今日初めての方々もいらっしゃるかと思います。あるいは時々おいでになる方々もいらっしゃるかと思います。
皆さんどうぞ、まことの神様に、まことの礼拝を捧げていこうではありませんか。
どうか皆さんの生涯が、今日聖書に記されているこの東方の博士たちのように、まことの神様を礼拝する喜びに満ちあふれる生涯となりますように、心からお祈りいたします。
また栗さんの皆さんにもお願いしたいと思います。信仰とは礼拝です。聖書の教えを一言で言うならば、神様を大切にすることです。礼拝を大切にすることです。
これは聖書全体の主張であり、教えなんですね。今年も2013年が早いもので、一年の歩みが終わろうとしていますが、一年間を振り返って、自分自身の神様への礼拝はどんなものだったのか振り返っていただきたい。
そして、もしかして礼拝を曖昧にしてきたことはなかったのではないか。
そして、新しい一年をですね、誠実は主の意ですから、礼拝の意と定めて、光を浄土された神の意であり、そして罪の支配が砕かれて打ち破られたイエス・キリストの復活の意であることを覚えてですね、心を尽くして、命を尽くして、その礼拝を守ってあいにたいます。
どうか、皆さんがですね、誠の神様に誠の礼拝を捧げる、誠の礼拝者となりますようにお祈りいたします。
クリスマスは第一番目、礼拝の日です。
二番目、クリスマスは大きな喜びの日です。大きな喜びです。
その頃、十説をもう一度読んでいたいと思いますが、十説を私が読みます。
その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
その東方の博士たちがですね、星に導かれて長い旅をしてやってきたんですね。
15:09
砂漠を、荒の谷をですね、川を渡って来たかもしれません。危険を犯してですね、砂漠がやって来ました。
おさなごイエス様を礼拝するために来ました。
そして彼らは星に導かれて、おさなごのいる場所まで来た時に、大きな喜びが湧き上がるのを体験したんですね。
この神科学聖書は、この上もなく喜んだとありますが、他の聖書は大きな喜びと書かれているんですけど、
この上もなく、あるいは大きなという言語の言語の意味はですね、メガレという言葉ですね。
よく言われるメガトンとか、メガポンとか、そういう言葉、皆さん聞いたことあるんですけどね。
そういう意味のメガ、でっかい、多すぎる、そういう意味なんです。
ですから皆さん、博士たちには、このメガトン級の大きな喜びの爆弾がですね、爆発したんです。
これほどクリスマスとは、実に喜びのしない、どんな悲しみも消すことのできない、メガトン級の喜びの日がクリスマスなんです。
ではなぜですね、彼らにこんなにこの上もなく喜んでいたんでしょうか。
なぜ喜びがボンボンボンボン湧いてきたんでしょうか。
あの遠い遠い国から、星に満ちりからで、別れへまで来ることができた、その力はどこから喜びが与えられたんでしょうか。
それはイエス・キリストこそ、まことも喜びの日であり、光の日であるから、そのイエス・キリストに出会いさえちれば、その人生にこの上もない喜びが。
以前私、ローマの地下洞窟のカタコンベにいたことが一回ありますけれども、
カタコンベというものはですね、今から約1900年前くらいでしょう。
ローマでですね、イエス様を信じる者たちが透けしい白海を逃れるためですね、この地下にアリの巣のように洞窟をですね、何十年も掘ってですね、
18:08
その地下でみんなで一緒にですね、暮らした、その遺跡が今も多くあるんですけど、そのガイドさんに案内してもらって、地下に入って行ったんですね。
とても深い洞窟なんですよ。地下、窓出境、5、6、7、8、9階くらいになれると思うんですけど、
もう迷路のようになっているんですね。それは、なんでこういうふうに迷路のように複雑になっていますかと聞いてみたら、
よくそのキリストものをですね、神様を信じる者たちを捕まえるために入ってくるんですね。
そしたら彼らはどこが出口なのか知らないんです。それでそこで道に迷ってしまわせるために、そういうふうに複雑に仕組みにできているんですけど、
ところがですね、面白いことがありました。このガイドさんがですね、さあこれから不思議なものをお見せしましょうと言ってですね、
さあ、電灯を消しますねって、え、大丈夫ですか。大丈夫ですよ。で、消しました。一変怖かったんですけど、ですから、不思議なことが起きました。
なぜかと思いますか、皆さん。真っ暗になるんじゃないかなと思いきや、そうではなかったんですね。光が入ってくるんですよ。
なぜかと見たら、その煙突みたいな細長い煙突があって、それが地上までつながっているんです。そしてそこから昼間には光が照らされて、
地下も深いところまで入ってくるんですよ。細いんだけども、不思議にもですね、それが結構地下の広いところに明るくしているんです。
おそらくですね、その地下で逃れて信仰を守っていった彼らには、この光のようにイエス様が再びおいでになる日を待ち望みつく。
そこでですね、引退をして信仰を守っていったことでしょう。皆さん、真っ暗の闇を退けるにはどうすればいいんでしょうか。
闇で闇を退けることはできません。闇を退けることのできる方法は、光を照らすことです。光を照らすことです。
どんなに暗い闇であっても、光が、例えばこういったですね、ロウソク一本さえあれば、闇は消えます。
21:12
イエス様は聖書を見ますと、光とってわかったきのところにおいで下さったと書かれています。
このところをですね、私が読みたいと思いますが、聖書のお持ちの方は開いていただいても結構ですが、
ヨハネノ福音書第一章9節です。新約聖書172ページです。ヨハネノ福音書第一章9節を読みたいと思います。
全ての人を、全ての人ですよ。この全ての人にはあなたも入っています。
全ての人を照らす、そのまことの光が世に来ようとしていた。そして実に来て下さったんですね。
本当の光なんです。永遠に消えることない光です。それがイエスキリストなんです。
皆さんの人生を、いやあなた自身を照らすまことの光がイエスキリストなんです。
そのイエスキリストをあなたの光として受け入れていただきたい。
あなたの人生にまことの光なるイエスキリストを受け入れていただきたいとそう願っております。
クリスマスは平和であり、喜びの日であります。
3番目は、クリスマスは献身の日です。献身の日です。
今日の御言葉11節を見ていきたいと思います。
私が読み出します。
そしてその家に入って、母マリアと共におられる幼子に祈りをして拝んだ。
博士たちがこうしたんですね。
そして宝の箱を開けて、黄金、乳黄、もつ薬を贈り物として捧げたとあります。
彼らはですね、なんと、ただじゃなくてですね、宝の箱を持ち込んできました。
その宝の箱を開けてみたら、そこには自分たちの宝物が入っていたんですね。
24:05
この三つのものは、もう当時も今も高価なものなんですよね。
黄金ですから、金ですからですね。
黄金、乳黄、もつ薬をイエス様にお捧げしました。
この三つのものはですね、とても高価なものですけれども、
これはですね、誠の王であるイエス様にふさわしい贈り物として捧げたんです。
実はですね、この三つの贈り物にはそれぞれの深い意味があります。
まず黄金ですけれども、もう短くお話します。
黄金は金ですね。それは王様としての威厳を表すものです。
ですから黄金を捧げたというものは、あなたは王の王です。
誠の王ですよという表しとして捧げるもの。
また乳黄は香りを意味します。
そして聖書による、聖書ではイエス様を祭司教と言います。
その祭司教の良き神聖を表すものが乳黄なんです。
また三つ目の持つ役というものはですね、
この貴方の弔いに用いるものが持つ役、それをお捧げ。
皆さん、この三つのものには、そしてそれを捧げた彼らにできるものは、
キリストへの先行告白でした。
最高の献身の表現だったんです。
どういう意味でしょうか。
主イエスこそ誠の王様です。
主イエスこそ我らの弱さと失敗を取り成して下さる祭司です。
主イエスこそ我らの罪と死を担って苦難と死を味わい給う十字架の救い主です。
という意味で捧げたんですね、皆さん。
という告白の表わしがこの三つの場合です。
イエス様の格式、御品性、その地位にふくさわしいものをお捧げしました。
皆さん、クリスマスとはこのように献身の日です。
主イエスキリストへの先行の告白の日であり、
自分の人生を捧げる献身の清い日なんです。
27:02
そしてそれは我らの貧しい献身の前に、その先だってですね、
神様御自身が私たちのために愛する一人子を下さるほぼの
神様が先に御自身の宝の箱を開けて、
私たちに、神様にとっては最高の宝、イエスキリストを私たちに与えてくださった日。
それはクリスマスなんです。
そしてその愛をいただいた私たちが今度は神様への応答として、
自分の宝の箱を開けて捧げる日、それがクリスマスです。
皆さん、例えばですよ。
とても大切なお客様におもてなしをするとしましょう。
皆さんのお家に、日本だったら総理大臣が、
明日お訪ねします。
そしたら皆さんは、借金の神コップを買って、借金のお菓子を出しておもてなしする方は、
いらかないんですよね。
お家にある一番高い、あるいはなかったら誰かにですね、借りてですね、
コップとか、瓶とか、テーブルも、ギャブトンもですね、
家の工事もしてですね、その方にふさわしいおもてなしをするでしょう。
しませんか。
するんですよね。
その方にふさわしいおもてなしをする。
信徒というものは、天地の作り主なる神様に、その神様にふさわしい敬意心を捧げる。
捧げ物を捧げる日が信仰であり、そしてクリスマスなんです。
今日の説教題は、宝の箱を開けてです。
クリスマスとは、神様がその宝の箱を開けて、私たちにその一人のイエス様をくださった日なんです。
実は、私たちが自分の宝の箱を開ける前に、遥かに前にですね、神様が先にですね、
ご自身の宝の箱を開けて、イエスキリストを与えてくださった日がクリスマスなんです。
これを忘れてはいけません。
ですから、クリスマスはその応答として、私たちが自分の宝の箱を開ける日なんです。
30:02
そして神様の愛に応答する日、その日がクリスマスなんです。
クリスマスの最も深いメッセージは、今日の説教題、宝の箱を開けて、
この一句に集約されていると言っても、運んではないと思います。
皆さん、いかがでしょうか。
皆さんの宝の箱は何でしょうか。
それを開けて、神様に喜んで捧げていらっしゃるでしょうか。
宝の箱が自分の人生の箱であるかもしれません。
ある方は心の箱であるかもしれません。
その宝の箱を開けて捧げる、それがクリスマスの本当の意味なんです。
最後です。クリスマスとは別の道を通って帰る日です。
12節です。
今週、博士たちが家様に礼拝して帰ります。
帰っていくときに、12節を見ますと、
それから夢でヘロデのところへ戻るなという忌まじめを受けたので、
別の道から自分の国へ帰っていったとあります。
別の道から自分の国へ帰っていった。
皆さん、クリスマスは別の道を通って帰る日です。
博士たちは家様に礼拝しました。
最高の捧げ物、宝の箱を開けて捧げました。
そして、喜びに満ちあうれました。
神様に、イエス・キリストにお会いしました。
そして帰るの道は、もちろん地理的に別の道を通っていったわけですが、
そこには霊的な意味があるわけです。
行きと帰りが大きな変化があったということですね。
これは、私たちの境界を表す表情的な御言葉です。
皆さん、家様に出会う前と後の人生の道が全く変わるのです。
大きな変化があるのです。
家様の御顔を拝すると、何という平安、何という喜び、何という希望が与えるのでしょうか。
33:00
そして、今まで自分が通ってきた人生の道ではなく、
家様に出会って帰りの道は、他の道、喜びの道、救いの道、進行の道を通って
使わされていくのです。
これが、家様に出会うまことの喜びなんです。
もう一度申します。
まことの光なる家様に出会いさえすれば、人生の道が全く変えられるのです。
本当のクリスマス、それは宝石箱が、宝の箱が、覆されたような朝なんです。
神様の愛が、キラキラと輝き、新しい日を、その新しい土産をつけます。
この日を、キリスト礼拝の日、大きな喜びの日、神様の献身を知り、献身の応答をする恵みの日なんです。
そして、別の新しい道を通って、自分の持ち場へ使わされていきます。
ここから、新しい人生が始まります。
どうか皆さんも、この歩みが、人生の道が、今まで歩んでこられた道ではなく、
まことのイエス・キリストに出会って、別の道を通って、歩んでいくことができますように、心からお祈り致します。
では、ご一人お祈り致します。
愛するお父さん神様、恵みの朝を感謝いたします。
このクリスマスの日、他のところではなく、世の快楽、楽しみのところではなく、まことの主なるイエス・キリストの御前に、
あなたと主が集めて下さり、また教会に行きたい心を主が送って下さって、
共に集まって、賛美を捧げ、また御言葉に学ぶ、この恵みの時を許して下さり、ありがとうございます。
クリスマスはあなたの日です。あなたを礼拝する日です。
イエス様に出会った人には、子の上もなく喜びが与えられる日です。
そして、神様が御自身の宝の箱を開けて、イエス・キリストを押し待つおあたになった、
36:01
そのように私たちも自分自身も宝の箱を開けて、最高のものを捧げる日がクリスマス日です。
そして、イエス様に出会った者たちには、人生の帰りの道が与えられる日、その日がクリスマスの日です。
どうぞ主よ、クリスマスの誠の意味をあなたが教えて下さり、ありがとうございます。
どうぞ主よ、今、宝の箱を開けて、私たちに届かれたあなたの愛を今、お受けします。
そして、その愛と恵みに応えて、私たちの宝の箱を開けて、最高のものをお捧げ致します。
宝の箱が覆された朝のような人生を歩ませて下さい。お願い致します。
感謝して、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン
37:02

コメント

スクロール