1. 名谷教会
  2. 2023/06/25:国と力と栄えを、..
2023-06-25 43:13

2023/06/25:国と力と栄えを、主に

2023/06/25 聖日礼拝

加藤満牧師

詩篇 63:1-11

ヨハネの黙示録 -19


00:02
おはようございます。
それでは、短くご一緒にお祈りをしたいと思います。お祈りをいたしましょう。
天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
父の御前へと私たちを招いてくださって、
あなたを仰ぎ、あなたが語られる御言葉によって命を得なさいと、
私たちをこの場所へといさせてくださっていることをありがとうございます。
神様、あなたは限りない愛をもって、私たちを愛し抜いてくださいました。
神の御子イエス様が、その十字架で流された父親によって、
そしてまた、甦えられた復活の命によって、私たちを神の子としてくださり、
永遠なる主と共に生きる恵みの世界、主と共に生きる人生を
開いてくださったことをありがとうございます。
神様、私たちにはなおも様々な戦いがあり、解決をしたくとも、
自分自身の力ではどうしようもないようなことがあるかもしれません。
ただ、私たちの今、抱えている様々な思い患いを、今この時、
父の御前へと差し出し、また、あなたが語られる言葉によって、
本当に勇気づけられて、ここから立つことができるよう、
私たちに主が語りかけてください。お願いをいたします。
あなたの語ろうとしておられる言葉を、施設においてまた、
身体が許されずに、家で聞いておられる方々もいらっしゃるでしょう。
神様、御一人一人の、その霊と心と魂と、身体と心と霊とを、
主が守っていてくださいますように。お願いをいたします。
また、6月のこの季節の中で、私たち自身の心と身体も
弱ってしまいやすい時期にあります。どうかそのような
痛みを抱えている一人一人を、神様が慰めてくださり、
その命を支えてください。お願いをいたします。
御言葉を開いてくださいますように、語る者の唇を清め、
あなたの御用のために用いてくださいますように。お願いをいたします。
これからの一時を見てにおだねして、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
今朝で続けて見てきました主の祈りを一度終えるということになります。
今朝、御一緒に注目をしたいお祈りは、私たちが祈っている
主の祈りの最後の部分です。
03:00
国と力と栄とは、限りなく、
汝のものなればなり、アーメンと私たちは祈っています。
これは主の祈りの章英の部分とよく言われる箇所です。
これまで私たちは、マタイの福音書の6章の9節から、
その言葉から順に主の祈りを聞いてきました。
ただ、今朝来られてあれ?と思われたかもしれません。
今朝お読みしたのは、黙示録と詩編を読んでいただきましたし、
マタイの6章を開くと、実はこの主の祈りの最後の章英の部分が
書かれていないということに、皆さん気づかれるかもしれません。
実は新海薬の第3版では、カッコ付けでまだ書かれていたのですが、
新海薬2017では、この15節まで、この前の祈りまでで本文は終わっています。
下部分の注釈のところに、少しその説明がなされています。
このことについて、最初に少しだけお話をしたいと思うんです。
新海薬2017の下の部分には、マタイの6章のところの13節のところには、
下の注釈に小さい字ですけれども、
「広大の社本に、国と力と境は常しえにあなたのものだからです。
アーメンを加えるものがある。」と、そのような説明書きがなされています。
皆さんご存知かもしれませんが、新薬聖書の言葉というのは、2000年前の言葉です。
それを今みたいにデータ化したり、コピー機があるわけではないので、
聖書の言葉というのは、その時代時代の人たちが書き写してきて、
社本であったり、パピルスという紙片になって、現在においても残っているわけです。
ただ、一番古い資料でも、例えば社本は4世紀のものまでであったり、
パピルス紙片も、紀元125年ぐらいのものまでしかない。
簡単に言うと、オリジナルの、その人たちが書いた新薬聖書の言葉というのは、
どこかにあるかもしれませんが、現在私たちは手にしていないんです。
書き写したものしか残っていない。
そのような中で、膨大な社本であったり、パピルスというものがあるんですけれども、
それを一生懸命している書学者の人たちが、研究に研究を重ねて、
ああ、これがオリジナルにより近いだろうということを選びながら、
実は私たちのこの新薬聖書の元の言葉というのは特定されています。
ほぼ限りなくオリジナルに近い言葉です。
ただ、ただですね、
06:00
マタイのこの六章の信頼ができる社本にも、パピルスにも、
実はこの最後の章英の言葉というのは書かれてはいないんですね。
では、主の祈り、この最後の国と力と栄というのは、
じゃあイエス様が教えた祈りではないのかという疑問が出てきますけれども、
そうとも言い切れません。
先ほど申し上げた通り、あくまでオリジナルの資料は残っていないので、
何も断定的なことは言えません。
何よりも重要なこの主の祈りに、
全くイエス様が言っていない関係のない言葉をすぐに加えるということは考えにくいことです。
また、この現在の主の祈りですね、
この章英付きの主の祈りがまとめて書かれた一番古い文書というのは、
使徒教父文書のディダケエテ、十二使徒の教訓という言葉なんですけれども、
それも大体紀元の1世紀後半から2世紀の前半、
簡単に言うと福音書が書かれたちょっと後、
ヨハネ目視録とほぼ同じ時期というぐらいの時期に書かれた文書にも、
すでにそういう言葉がまとめて書いてあるんです。
何が言いたいかというとですね、
聖書本文には主の祈りの章英が書かれていないんです。
ただ私たちは、この章英を主の祈りの一部として間違いなく聞くべきだということ、
初代教会、まさに紀元1世紀後半という本当に初期の初代教会の人々が、
この吹き荒れる一番厳しい迫害の中で、
この章英を含んだ主の祈りを命がけで祈り、
そしてまた自分たちは何者かという使命を確認し、
神様に栄光を期し続けたわけです。
それは軽んじてはいけませんし、
そしてこの国と力と栄えは主のものですという告白は、
主の祈りの祈られてきたこれまでの内容に、
とてもふさわしく響いているわけです。
そして何よりも聖書には様々な章英の御言葉、
主に栄光を開始する御言葉というのが至る所に見られます。
そういう点においても全くふさわしいわけです。
ちょっといろいろと説明から始まってしまって申し訳ないのですが、
今朝、マタイの六章の本文にはない言葉から語るというのはちょっと難しいのですが、
私自身が願っているのは、この章英の祈りの元になったであろうと思われる聖書の言葉、
そのところからその御言葉の語りかけを聞きながら、
主の祈りが祈るように、国と力と栄えは主にある、
09:01
そのことを認めていく、その意義といいますか、
その意味をご一緒に確認をさせていただきたいと願っています。
さてですね、一つ目、ご一緒に目を向けたいのは、
力と栄光は主にと、この章英の部分では祈られているということです。
最初に四編の63編の1節から3節というものを読んでいただきました。
ここには、力と栄光は主にということが言われているわけです。
もう一度読みますと、四編の63編の1節から3節を読みますと、
こういう言葉です。
ダビデの参加、ダビデがユダの荒野にいたとき、
神よ、あなたは私の神、私はあなたを切に求めます。
水のない衰え果てた乾いた地で、私の魂はあなたに渇き、
私の身もあなたを喘ぎ求めます。
私はあなたの力と栄光を見るために、こうして聖女であなたを仰ぎ見ています。
あなたの恵みは命にも勝るゆえ、私の唇はあなたを賛美します。
そう歌っています。
ここで読んでいただいてわかる通り、まず何が目に留まるかというと、
この詩人、ダビデの参加と言われていますが、ダビデとするならば、
ダビデは叫んでいるわけです。
それは、私は渇いていると言っているわけです。私は渇いている。
それはここでは、身体的な渇きだけではなくて、
私の魂は渇いていると、彼はここで叫んでいるわけです。
人は、身体の渇きもありますが、心の渇きもありますが、
もう一つは、霊的な渇き、魂の渇きというものが人にはあるんですね。
これは別に教会だけが特別に言っていることではなくて、
ちょっとだけ言うと、WHOという世界保健機関でしょうか、そういう団体がありますけれども、
WHOでも実は、人が最後、この人生を閉じるときに際して、
感じる痛みが四つあると言っているんです。
一つは身体の痛み、そしてもう一つは心の痛み、
もう一つは社会的な痛み、社会生活から分断され孤独になるという痛み、
そしてもう一つは霊的な痛み、スピリチュアルペインという言葉があります。
それは何かというと、自分の人生が終わるときに、
12:01
人は自分は一体どこから来て、そして私はこれからどこに行くのかということに不安を感じるんです。
自分の人生がもう終わろうとすると、結局私という存在は何だったのかということに悩み始めるんです。
でも大概そこに答えを誰も持っていないんです。
だからとても怖くなるんです。私はこれからどこに行くのだろうか。
霊的な痛みです。
この紙片のモデルとなっているのは、このダビデがアレノにいたときと書かれていますが、
これはサムエル記条の23章あたりに書いてある、サウル王にダビデが追われて、
そこでアレノに逃れていったというあの光景だと言われています。
ダビデは明らかに痛んでいました。
サウル王という神が立てた王様を信頼し忠実に仕えていたダビデです。
しかしサウルの嫉妬によって彼はみじめにも逃げるしかない命を狙われてしまうわけです。
アレノではまさにさまつな食物しか持っていませんし、植え乾いているダビデがいますし、
何よりも私はこれだけ一生懸命忠実に真実に生きてきたにもかかわらず、
私の夫人は一体何なのか、そのことをどう受け止めていいかがわからないダビデの痛みというものがあります。
彼はここで詩編で言うわけです。
私はあなたの力と栄光を見るために、こうして聖女であなたを仰ぎ見ています。
ダビデの体があるのは詩の中ではアレノと言われているのですが、
彼はここで聖女であなたを仰ぎ見ていると言っています。
この仰ぎ見るという動詞はハザーと言いまして、幻を見るという言葉なんです。
だからどちらかと言いますと、これはダビデはアレノにいるのだけど、心から聖女に行きたい、幻でも聖女で神を礼拝したい、
そのような彼の叫びがここで言われているのではないかと言われています。
ダビデが渇望しているのはまさに神様を礼拝したい。
こんなアレノで何もなくて私一人のように思われる場所でも神を仰ぎたい。
それが彼の願い。ただそれだけ。
ただダビデはそれだけでもいいと言っているのです。
私は聖女で詩を仰ぎたい。あなたを仰ぎたい。
なぜなら詩を仰ぐ、そのところにこそ力と栄光があるのだと彼は賛否をしている。
言い方を変えるならばこう表現もできるでしょう。
人間の力と栄光の源は神ご自身から来るということです。
15:01
だからこそそこには恵みによって命が満たされる交わりがある。
詩を仰ぐときにそのところにそのような交わりがあり、
そして彼自身が渇いた唇に潤いが与えられて、
神様への賛美が沸き上がると三節に書いてあります。
あなたのお恵みは命にも勝るゆえ、私の唇はあなたの唇です。
あなたのお恵みは命にも勝るゆえ、私の唇はあなたを賛美します。
神様はダビデのすべての渇きを癒されています。
体の渇きだけではなくて魂の渇きも、自分はどこから来てどこへと行くのか。
聖書ははっきりと語ります。人間は神から来ているんです。
人間は神によって形づくられ、神によって創造され、
そして神を信じ、神の愛の懐の中に還るのだということを聖書は語っているんです。
そのようなところへと招かれている。
神様を仰いでそのことを私たちは知ったお互いだし知っているわけです。
いつしか口には朱への賛美が沸き起こる。
たとえその場所があれのであったとしてもということです。
たとえその場所があれのであったとしても、
朱をその場所で仰いでいるならば、
あなたのうちに朱の中にある豊かさがそこにあなたのうちに流れてくるのだ。
注がれるのだ。その中の朱の豊かさがあるのだということを彼は歌う。
神は力ある方である。これは聖書で何度も何度も語られていることです。
神は力ある方である。
私たちの体の糧も魂の糧をも満たす力ある神である。
神様は人を許す勇気と励ましを与える力がある神様です。
神様は私たちを誘惑から守り、私たちを捉えている悪に打ち勝つ力を与えてくださる神様。
力は朱のものであるとは、私たちが日々の糧にも日々の許しにも、
そして日々様々なものからの守りに対しても、
実は私たちは究極的には無力であるということを告白しているのです。
そして同時に、限界がある私には神にこそ力があり、
神の力がなければ立てないのだ。力は朱にあります。
そのような告白をもって私たちは祈っているのです。
そしてそのような神様は栄光を受けるべきお方であると言えます。
栄光というのは、いろいろな栄光の説明の仕方があるのですが、
18:00
一つだけ表現するならば、神様だけが担える完全性という表現がなされます。
それは神様だけが担えるのです。
聖書の中には、神が生とされますようにと、
私たちは朱の祈りで祈りなさいと招かれました。神は生とされますように。
神様はこの世界の何者とも、どんな人間とも並び得ないということを確認いたしました。
この地上のあらゆる栄光というのは、実は人間には担えない。
そう言えるのかもしれません。
ダビデがまさに神にこそ栄光があると賛美しているように。
聖なる神ご自身にしか担えない栄光というものがあります。
聖なる神は栄光を受けるべき神である。
だからこそ朱の祈りの最後の章彙は締めくくられます。
栄光は朱のものである。
それは人間は神ではない。神こそ神である。
そのことを告白し祈っているわけです。
この前半のところを確認していますけれども、
このように朱の祈りの内容というのは、神様ご自身に負っているということをここでは言っているのですね。
朱の祈りの内容というのは、神様ご自身に負っています。
だから最後に章彙を祈るんです。
ここまで私が朱の祈りで神様に祈ってきたことは、
朱よ、それはすべてあなたによっています。あなたに追われています。
そのことを認めて膝をかがめるというのがこの章彙の祈りです。
まさに聖女で神ご自身を仰ぎ礼拝するように、
この詩編の63編の2節3節をもう一度読みますが、
私はあなたの力と栄光を見るために、こうして聖女であなたを仰ぎ見ています。
あなたの恵みは命にも勝るゆえ、私の唇はあなたを賛美します。
力も栄光も朱のものであると章彙で祈る私たちは、
力も栄光も朱から与えられているわけです。
だからこそ私たちは力も栄光も朱のものだと認め、
それを告白し祈る、そのことに招かれていると言えるわけですね。
さてもう一つの御言葉も見ていきたいと思いますが、
力と栄光は朱に、そしてそれだけではなくてここで祈られていることは、
国も朱のものであると私たちに教えられている祈りであるわけです。
国は限りなくあなたのものです。
21:03
国という言葉を聞きますと、私たちは朱の祈りで学んできました
御国が来ますようにという祈りを思い出します。
この祈りはまさに御心が天でなるごとく地でもなりますようにという祈るとおり、
神様の天における御支配がこの地上にも実現しますようにというお祈りであったということを確認をしてきました。
天という場所では神様が王座に着座されておられるわけですね。
ですから天において神様の御心は100%生き届くわけですが、
しかし地上においては様々な闇の力、悪の力が働いている。
そしてこの闇の覆われる世界に神の光が、その恵みの支配が実現しますようにと、
私たちはまさにそのために小さな、小さなで結構なのですが、
神様の愛の世界を築くために、小さく小さく神様の御支配を表していくものとして召されている。
そのために救われたんだということを確認をさせていただいていました。
今朝お読みしたこの黙示録の言葉、黙示録の11章の15節の言葉、
ちょっとだけお読みしますとこういうことが書かれてあります。
ヨハネの黙示録の11章、11章の15節というところにこういう言葉があります。
第七の御使いがラッパを吹いた。すると大きな声が天に起こってこう言った。
この世の王国は私たちの主とそのキリストのものとなった。主は世々を限りなく支配される。
そういう言葉があります。
この言葉もある意味で象徴なのです。
この世界はついに誠の王である神とキリストのものとなった。
黙示録でこのことが言われているのは何かと言いますと、これは主が再臨なさった。
再臨の光景がこの11章では書かれている。
ちょっとだけせっかく黙示録を開いたので、少し黙示録のことについてもお話をしておきたいと思います。
ヨハネの黙示録というのは何か私たちは難解な書だと考えがちなところがあります。
確かに難しい言葉なのですが、しかし理解の勘どころがいくつかあります。
その一つは何かと言いますと、ヨハネの黙示録というのは、これは上手に聞いていただけたらいいと思いますが、
ヨハネの黙示録というのは実は私たちの未来のことを予見してそれをことこまかに伝えるために書かれた言葉ではないのです。
そのように聖書解釈をして、そのように神学を形成する方々もいますので、その立場を私は別に否定はしたくないのですが、
24:09
ただ、ヨハネの黙示録が書かれた目的は何かと言いますと、それは第一義的には当時の教会を励ますための手紙なんです。
ヨハネの黙示録は当時の教会を励ますための手紙です。
黙示録を一読されたことがある方は、これのどこが手紙と思われるかもしれませんけれども、
確かに象徴的で難解な言葉なんですが、しかしこのように書かれているのは、黙示録が書かれた時代というのは、
ローマ帝国の迫害がものすごく激しい時代だったのです。
ネロ帝の激しい迫害があった後に、ネロ帝の再来といわれているドミティアナスという皇帝がいるのです。
その皇帝の激しい迫害下の下でキリスト社たちは生きていた。
ヨハネの黙示録のヨハネ自身もパトモス島というローマの旅行地に置かれていました。
でもこの黙示文学というのはまさにユダヤ人の伝統にある言葉なんです。
ですからこれはローマ人が見たら何が書いてあるかよくわからないけれども、読む人が見たらこれはばっちりと意味がわかるのです。
そういうことを言っているのかということがよくわかる書簡なんです。
じゃあこの黙示録は何を言っているのでしょうか。
黙示録の黙示という言葉の意味は隠されていたものが明らかになるという意味なんです。
黙示録の黙示というのは隠されていたものが明らかになるという意味です。
つまり黙示録というのは、キリスト社がこの地上において見えている現実があるでしょう。
それはものすごく真っ暗なんです。
迫害が重なって皇帝が激しい迫害をして、次々とキリスト社の命が奪われて、
そしてその背後には彼らはもしかしたらサタンの力を見ていたのかもしれません。
でもあなたたちが見ている現実の背景にはもっと真実があるんだということを黙示録は語るんです。
それは何かと言いますと、あなたたちの現実の背景には、背後には目には見えないのだけれども、
天の現実というものがあるんだということを黙示録は語っているわけです。
黙示録の4章以降、例えば黙示録は2章3章が7つの教会への手紙ですよね。
でも7つの教会に送った手紙のその背景では一体どんな天的な現実が起きているのかということを4章以降で語っている。
4章ではヨハネがまさに主によって天に引き上げられるわけです。
そして天に引き上げられたヨハネが目にしたのは、天皇王座に座しているのは、
27:00
地上で王のように君臨しているローマ皇帝でもサタンでもない。
天において王座に座しておられるのは、神でありキリストだという光景を彼は見ます。
黙示録の4章の2節をちょっとだけ見ますと、こういう言葉があります。
たちまち私は御霊にとらえられた。するとみよ、天に御座があり、その御座についている方がおられた。
その方はということが長く書いてありますが、
4章の10節11節をちょっと読みます。
24人の長老たちは御座についておられる方の前にひれ伏して、いよいよ限りなく生きておられる方を礼拝した。
また自分たちの冠を御座の前に投げ出していった。
主よ私たちの神よ、あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。
あなたが万物を想像されました。
御心のゆえにそれらは存在し、また想像されたのです。
ヨハネが見ているのは、この世界の王は、天の御座についているのは神御自身であるということです。
それだけではなくて、この地上の世界を支配していると思われるような皇帝、
その背後に働いているまさに悪魔、目視録の中では根源的な悪魔の存在を竜と表現されます。
その竜の存在、その支配ももはや長くはないということも目視録で言うわけです。
ちょっとごめんなさい、飛んであれですけど、12章の7節から10節というところにもこういう言葉があります。
ヨハネの目視録、12章の7節から10節。
さて天に戦いが起こって、見返るとその御使い達は竜と戦った。
竜とその使い達も戦ったが勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。
こうしてその大きな竜、すなわち古い蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全世界を惑わすものが地に投げ落とされた。
また彼の使い達も彼とともに投げ落とされた。
私は大きな声が天でこういうのを聞いた。
今や私たちの神の救いと力と王国と神のキリストの権威が現れた。
私たちの兄弟たちの告白者、日分も夜も私たちの神の御前で訴える者が投げ落とされたからである。
ちょっとこうと細かくやりすぎたらあれなのであれですけど。
この十二章が言っているのはまさにこの世界の根源として私たちを苦しめるサタンの力というのは永遠ではないということです。
永遠ではなくてしかも十二章の十二節では悪魔が自分の時が短いことを知って激しく生きどおりと書いてあります。
30:06
時は短いということを言っているわけです。
彼らの支配の時は短い。そしてそれは完全なものではない。
それに引き換え天の神はどうであるか。神は天において永遠に術を収められる神だと言われる。
時は短いと永遠なんです。
そしてヨカネが語るのはあなたたちの目の前の現実に何が見えていようともその現実を規定しその背景にある天の現実はこうなんだと彼は言うんです。
これがあなたたちの事実で現実なんだと。
地上の現実を規定するのは目に見えることだけではない。
目に見えずとも背景に確かにある天上の現実こそが事実なのだ。目視力の世界観をそのように語ります。
そしてそれはまさに主の祈りを祈る私たちが知るべき事実なんです。
私たちもまたこの11章は祭輪の主が来られた光景と言いましたが、祭輪の前そして終わりの時が始まった、まさに祭輪の前の終わりの時を私たちは生きているわけです。
そのため御国が来ますようにと私たちも祈りつつ、この世界に神様の愛と恵みが実現しますようにと私たち自身が手足を持って労します。
しかしそれに労しながらも私たちは自分がいかに無力で小さな存在であるかということを痛感させられることの方が多いのかなと、それは私自身思っています。
それほど実はこの世界の周囲の悪、私たちに降り注ぐ問題というのは解決の糸口が見えないことも多数あるような気がするのです。
しかし目視録を書いたヨハネは天を指し示すわけです。天を指し示す。天の現実を見なさいと。
今あなた方を苦しめるものの時は永遠ではないや、それは短いと。
闇の世界で小さくとも天の御心を地上でなそうと、地上で神様の愛の御支配を築こうと、迫害に苦しみながらしかし地道に労するあなた方よと、恐れるなと言うんです。恐れるな。
その祈りは必ず報われるんだと。なぜなら天において神は既に勝利をされているからだと。
そういうふうに目視録は語るのですね。目視録の励ましというのは先日目というと、だから大丈夫だなんですよ。だから大丈夫だ。
神に従おう。それでも最後まで従い続けようという、そのような励ましが目視録に響いています。
33:06
そして天における完全な支配はその時にこの地上に降りてきます。
先ほど言いましたが11章の15節、この世の王国は私たちの主とそのキリストのものとなった。
主はいよいよ限りなく支配をされると。そのようなことが約束をされている。
その時です。その時まさにサイリンの主が来られるその時、地上の民はあらゆる地外や国籍を越えて共に神様を礼拝をするわけです。
世界は新しくなるという絵本を皆さんにご紹介しましたが、後で見てみてください。
最後の神天神地が来た時の光景って、いろんな文化のいろんな方の人たちが手をつなぎ合って回っている絵が描いてある。
実に聖書的だなと思います。
そのような国籍を越え全ての民が神を信じる民が礼拝をする。その礼拝の光景もせっかくですからチラッと見ておきましょう。
目四六の五章の十三節というところにもこういう言葉があります。目四六の五章の十三節。
これは最後の主がサイリンをされた時に実現する礼拝の光景です。
また私は天と地と地の下と海にいるすべての作られたもの、それらの中にあるすべてのものがこういうのを聞いた。
身座についておられる方と子羊に賛美と褒めと栄光と力がよよ限りなくあるように。
すると四つの生き物はアーメンといい長老たちはひれ伏して礼拝をしたと。
身座につかれる神と子羊、それはキリストですが、天と地と地の下、これは全非造物ということです。
天と地と地の下すべての非造物が膝をかがめ神を礼拝をする。
私たちが御国が来ますようにと祈る私たちの祈りと奉仕というのはこの光景につながっている。
ここに行き着くためのもの。これを築こうとしている。
だから祈る。国は限りなくあなたのものですと。
主が天において王となられ支配をされていて、その支配はいつかこの世界に完成を神ご自身がなさる。
だから国は主のものだと祈る。
それはこの世界に神様のご支配を築くために神様が先んじて、主導して神様のご支配を築いてくださっている。
宣教とか教会の働きというのは神様が主体です。人間じゃないんです。神様が主体の働きです。
36:00
神様がなさろうとするところに私たちも従ってついていく。それが教会というものですね。
私たちは国も主のものだとだから祈るわけです。
ちょっとだけ違う話をしますと、真剣な問いとして、これは私たちが受け止めなければならないと思わされた言葉があります。
2009年ですね、日本のプロテスタント選挙150周年が日本でも祝われました。
その年は全国でいろんなことがなされたわけですけれども、
7月にパシフィコ横浜で開催された日本プロテスタント選挙150周年記念大会、そういうものがありました。
私は行っていないんですけれども、貴重講演をなさった先生の原稿がネットに上がっていて読んだんです。
貴重講演をなさったのは加藤恒之という日本キリスト教団の引退された教師です。
先生はこういうことをご指摘なさっていたんですね。
デモクラシーという言葉があるでしょうと、それは民主主義だと言われます。
ただ、教会にはクリストクラシーという言葉がある。
クリストクラシー、それはキリスト主義、キリスト主義ということです。
クリストクラシーとは、教会が牧師か神徒の独裁ではなく、少数の者たちによる貴族支配でもなく、
皆が思うような教会を作るというデモクラシーでもなく、
キリストが支配してくださる教会の姿を指し示しています。
各教派の教会政治、信仰も大切です。
しかし、いずれもそれは、キリストのご支配がこの地上に実現するため、
まさに教会が文字通りキリストの教会となるためのものでしょう。
キリストの支配は、それを確立するための説教の言葉が明確に語られ、
キリストの前にぬかんづく教会の礼拝によって具体化します。
そして牧師も神徒もそれぞれに与えられているカリスマ、魂物を生かして、
この種の体としての教会を作ることを課題として与えられているのです。
そのようなことを言われていました。
私は当時この言葉を読みながら、自分が使わされている教会を見ながら、
果たして私が使わされている教会は、クリストクラシーに立てるだろうかと問われたことがありました。
ともすれば語弊を恐れずに言うならば、
教会というのは人のパワーバランス、支配欲の衝突の場、
自分が自己実現のために利用されるというそのような場になり得ることが、
39:03
牧師である私自身がそういう誘惑が一番多いのかもしれません。
しかし牧師は神様の前に跪きつつ御言葉を語り、
回収は私があの人が誰がこの教会の主ではなくて、
キリストこそが教会の頭である、そのことに跪き、
キリストの生き様に習い、その愛を生きていく。
果たして本当にそうなることができるのだろうか、
そんなことがこの地上の教会に可能なのだろうか、
私は本当にそのことを問われて、私たちはまさにその途上だなあと思わされます。
しかしながら、国と力と栄えは主のものである。
そう祈りながら告白する私たちは、必然的に教会もまた主のものであると祈っているんです。
教会もまた主のものである。
そう祈りつつ、アーメンという言葉を偽りなく私たちは祈れるだろうか、
これは真剣の問いとして私自身が受け止め続けていることです。
本当に私はこの生命を、生命を、アーメンと偽りなく祈れているのだろうかと。
私たちは主の祈りをアーメンと閉じます。アーメン。
それは真実です。それは確実ですという信仰の告白です。
私が今祈ったことは真実で確かなことなのだと告白する言葉です。
国と力と栄えは主にあります。これは真実です。アーメンと祈る。
アーメン。それは主にこそ力があること。
私の渇きを癒し、魂を癒し、人々を愛する力も、許し合う力も、
悪に打ち勝つ力も、私は主に負っているのだと告白する。
だからこそ私たちは主の祈りの最後にアーメンと言います。
アーメン。それは今がどれほど苦難に囚われていようとも、
神の現実があるということ。主はその苦しみに力ある聖なる神であり、
私の場所にも御国を築くことが神にはできるということ。
そしてついには主が来られ御国を完成してくださると、
真実告白して私たちはアーメンと言います。
そしてアーメン。それはそのようにしかし祈りうめいている私たちの祈り、
言葉にもならない祈りを含めて、
祈りを含めてあなた方の父はあなた方が求める前から
あなた方に必要なものを知っておられる。
そのように主の祈りを祈る前に主は教えられたわけですが、
42:02
そのような主の、主なる神の恵みに抱かれて私たちへ祈っている。
そのことを告白してアーメンと私たちは祈るんです。
これからも明太に教会は、
精鋭を含めて、
マタイの六性ではなくて精鋭を含めて、
主の祈りを祈り続けます。
私自身のこれは願いですが、
どうか私自身も含め、
教会は主に言葉だけの栄光を期すことがないように、
国と力と境も教会も主のものであると言葉だけのものにならないように、
私たちのために国も力も栄光を申します。
分け与え、なおも生かし続けてくださる。
生ける神様ご自身を崇めて、
国も力も栄光も主のものであると認め、
互いに跪くことができますように。
国と力と境とは限りなく、
汝のものなればなり。
一言お祈りをいたします。
43:13

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