00:01
皆さん、あらためておはようございます。よくいらっしゃいました。
では、メッセージに入る前に、いつものようにメッセージを、新しく、初めにお見えになった方もいらっしゃいますけど、お互いにですね、挨拶をしましょうか。
よくいらっしゃいました。
はい、それでは、一言お祈りいたします。
兄弟たち、物の考え方においては子供であってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし、考え方においては大人になりなさい。
神の知恵をいただいて、聖霊の祖父神をいただいて、この地上においての私たちの人生、進行の歩みが、
イエス様が歩まれるように、イエス様が関わられるように、イエス様が語られるように、イエス様が考えられるように、
主よ、生きるものを知ってください。
今日、その知恵を、主の言葉から、聖徒の御言葉から教えていただきたいと願っている、この群れの上に、主の知恵の言葉をどうかしら語ってくださいますように、お願いいたします。
初めて教会にお見えになった方々の上にも、主よ、すべての恵みと、また、教えと悟りと、心の平和の主が豊かに与えてくださいますように、お願いいたします。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
コリント議会への手紙の説教が続いていますけれども、きょうは14章の中で、司祖パウルがこのコリント教会に伝えたかったこのメッセージの中心と言いましょうか、それを絞って、きょう共に考えていきたいと思います。
まずきょうのタイトルは、知性と信仰です。だいたいこういう課題にするんだったら、信仰が先にきて知性が後にする場合が多いと思いますけれども、あえて知性と信仰と言いました。
きょうはですね、あのメッセージの中に知性と、また理性という言葉を使いますけれども、両方ですね、同じ意味として理解していただきたいと思います。
03:11
まずですね、キリスト教の中には、知性とか、あるいは理性は、それは非信仰的とか、あるいは非政策的とか、信仰と知性、信仰と理性はもう対峙するものだ、逆だと、そういうふうに思っている人々が少なくないようです。
ある場合は、知性とか理性は、不信仰だ、あるいは悪魔的だとか、サタン的だとか、そこまでいうクリスタルがあったりするようです。
まず、結論から申しますと、知性や理性は信仰の逆でも反対でもありませんし、対峙するものでもありませんし、あるいは非政策的とか、不信仰的なものとか、サタン的なものでもあります。
またなら、知性や理性は、私たち人を作りなった神様が、私たちの脳を作られて、精神を作られて、その中に理性や知性を主が作ってくださったからです。
だから、思考能力とか、理性や知性の作用は、働きは、それを作られた神様から出たものだから、良いものであります。
もちろん、その知性や理性を使って、罪とか悪をしない限りは、知性や理性は神様から出たものだから、神様が作られたものだから、良いものであります。
皆さん、何年前か日本でも上映したと思いますけれども、ナルニアの物語でした。映画がありました。
その原作家さんは、20世紀の最古の弁償家といわれるシエス・ルイスという先生です。その方は、信仰と理性、信仰と知性のバランスが崩れている現代の信仰者を見て、
特にキリスト教の弁償や、そういった本をたくさん書きましたけれども、知性と信仰の関係について、彼は一人と四つの部類で分けていました。
とても参考になると思います。第一の部類は、非理性的であって信仰もない人。この部類に属する人は、神様とどんな関係も持っていない。
06:09
同時に、理性的にも考えない。その出発は非信仰的であって、思考方式も非理性的なものであります。
実際の世界に日本にこういう部類の人々がいると思います。第二の部類は、理性的でありますけれども、とても知性的でありますけれども、信仰もない人という部類があります。
この人たちは、神様との関係の中にはいないです。でも、考えは、思考は、とても理性的であって知性的であります。
むしろ、彼らは、不信仰というものを理性的だと、それが正しいと彼らは主張したりします。だから、信仰に対しても、その根拠や証拠を求めます。
神様がよみがえられた証拠は何なの?とか、人が死んだら天国に行ける証拠は何なの?とか、その理性的な規制的な根拠を求めます。
だから、こういった部類の人々がクリスタンに出会って話し合ったりしたら、非理性的なクリスタンとトラブルが起きます。
非理性的なクリスタンは、死んだら分かる。天国に行くということを弁護的には言わずに、盲目的に言う。
でも、理性的なノンクリスタンは違う。あなたは今、ロリがない。姿勢的でない。だから、トラブルを受けて、延々と決着につかない。
3番目。クリスタンなんだけれども、非理性的です。非知性的です。神様の恵みの中に、関係の中については言いますけれども、
神様が下さった既成という、理性という賜物、贈り物を使わない。いや、むしろこれは悪だ、無駄だ、いらないと。だから、盲目的になりやすいです。
だから、理性的な規制的な思考の欠如は、より成熟した信仰になるための邪魔者になりやすいです。
最後の4番目。これが私たちが目立ちたいという姿です。理性的なクリスタンです。信仰を持ちながら、知性的であって、理性的なクリスタンです。
だいたい私たちは、この4番目のことを矛盾だと思っていた時代がありました。あたかもここにいる私たちの心の中に、それは矛盾でしょう。
信仰は信仰であって、知性と理性とは全く何かありませんよ、と思っている方がおられるかもしれません。
理性的で知性的でクリスタンは、神様の関係の中に根付いて生きながらも、知性的に理性的に考え、物事を判断する人であります。
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この部類の人々は、知性や理性は神様がくださった贈り物だから、自然な人間の本性であるという考えから出発をします。
私に聞こう方式を持っていれば。どうでしょうか、皆さん。今までだいたい伝統的な信仰者のクリスタンは、4番より3番に近いんじゃないかなと思いました。
皆さんはどう思いますか。伝統的に、一概には言えないかもしれませんが、伝統的に盲目的であれば、それはもう無条件いい信仰だとか、
理性を悪にする、知性はいらないものにするという信仰の言い方とか、生き方が正しいとか、熱心とか、良いとか、
そういうふうに明日たり考えたりしたのが、伝統的なこの考え方かもしれない。でも、聖書は決してそういうふうには語っていないわけです。
今日の15節だけをまず見ていきましょう。14節が今日大事な見言葉ですけれども、14節を一緒に読みたいと思います。
1・2・3・はい。
もし私が異元で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は身を結ばないのです。
霊は祈るのです。これは良いものであるでしょう。しかし、そうしているうちに知性は身を結ばないことがあるのです。
例えば、ちょっと被悪的な例かもしれませんけれども、周りによく見せたりするケースですので、ある人は病気にかかりました。
程に精神的な病気としましょう。それが鬱であったり、あるいはパンツであったり、それが遺伝的な原因であったり、いずれにしても。
2つの4つの部類の中で、3番目の非理性的なクリスタルの口からはまず、いわゆる日本的に言うならば、奴隷をするんですね。
悪霊運をして、傍に押し付けて、そういう意味で全ての病気は悪霊の働きだと断定してしまう。
だから、薬を飲んだり病気に、病院に行ったりするのは不信心であって、ただ胃取りで癒されなければならない。
病院に行くのも薬を飲むのも不信心であって、胃下の治療を期待するのは不信心的だと、そういうふうに言ったりすることがあります。
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ところが、だいたいこういう非理性的なクリスタルは、自己確信がとても強いのです。人を説得するのが有能です。
それならば、この間違った確信に導いているから、自己信仰が強かったりします。
また、これに対する逆の理性を渡したりしたら、子さんを知らないから、霊的じゃないなと、そういうふうに断言したりすることがあります。
非理性的な信仰こそ、極端的に偏りやすいものであります。
私の信仰は、バランスを崩してはいけない。このような非理性的なクリスタルが見逃している事実があります。
例えばですね、そう思っている人はいないと思うんですけれども、薬を飲んだり治療することが不信心だ、信仰は足りないなと、
あるいは、むこう広くパターン的だと言うならば、人間が理性や知性を使って作られている全てのものに接したり、その恵みや味を合うのもしてはいけないかもしれません。
例えば、神様が人間に知性と理性を下さったから、一般音頭というもとの中で、人間はその知性や理性を使って人類文化や文明を発展してきた。
だからこの電気があったり、マイクがあったり、本があったり、建築、放出機関、薬、医療機器、自動車、パソコン、何でもあるわけない。
それを既にできたわけではありません。神様が私に下さった理性や知性を、人間がそれを磨いて発達してきたから、今も文明文化があるわけない。
しかし、理性や知性は悪だとか、いらないものだと断定してしまったら、それによって作られた一般音頭という神様の恵みを否定してしまうことになりやすいことであります。
なぜか、私たちは神様が、礼拝とか聖祖とか祈りは特別音頭であります。
それは神様を信じる者だけが味わう恵みでありますが、そうでない全ての人も同じ太陽の光を照らす。
雨が降って栽培されたお米を食べる一般音頭のものであります。
医療技術、科学、そういったものも神様が許した一般音頭の中にある、それは罪でも悪でも患者でも不信仰のものでもなくて、神の一般音頭という恵みの中にあるものであります。
働いてはいけない。
知性や理性は罪と決して対比するものではない。逆ではない。
15:00
むしろ知性や理性が信仰の中で解かれて、そして信仰は理性という鏡を見て自分の姿を映して見ていかなければならないと思うんですね。
神様は私たちをどことに作らなかった理由は、思考能力、知性を判断する、あるいは愛する、あるいは配慮する、あるいは犠牲する能力を私たちに与えてくださった。
それを思い切り使って企業の中で、人生の中で喜んで幸いに生きることを私は願っておられるわけです。
この教会の中に、この非理性的な、非知性的な距離感のゆえに分裂や問題が起きていました。
その一つの例として、違憲が大きな問題になりました。だからといって違憲は禁止ですよという話ではありません。
その中に今日の14条を読んでみましたが、その違憲をする人々は、場所や時や時期や状況やあるいは誰と会っているのか、
それをあまり考慮しない、配慮しない、自制がない、非理性的で盲目的に違憲を語る人々があって、教会の中に分裂が起きてしまいました。
そしてそれにつまづいて、傷ついた人々ができてしまった。
今日も御言葉にあるように、まだ教会のこととかあまり知らない人々が好き人にいる場合にあってですね、
16節を読みたら、まず読みましょうかね。16節一緒に読みましょう。
16節3、そうでないとあなたが霊において祝福しても、異元を知らない人々の座席についている人は、
あなたの言っている言葉、あなたの感謝についてどうしてアーメンと言えるでしょう。
さあ、若尽く言うならば、そこに初心者がいました。信じたばかりの人、あるいは救助者の人がいました。
その頃が、その高輪道教会のある信徒さんが、お手を燃やすので強くてですね、その場で異元を語る、祈る。
初心者は、アーメンと言えない。訳がわからない。
それで、いろんな分裂やごめ事が高輪道教会の中に起きたわけです。
まだ神様に対しても知らない。生徒に対しても全く知らない。
生まれたばかりの赤ちゃんのような神社の前で異元で語るのは、彼をキリストに導くのに何の役にも立たないということです。
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だから、高輪は十九節のように語っている。
十九節を一緒に読みますね。
教会では、異元で一万語話すよりは、他の人を教えるために、私の知性を用いて五つの言葉を話したいのです。
知性を用いて、理性的に知性的に五つの言葉を話したいのです、という意味です。
これが、物の考え方において大人になることです。
だから、高輪は、今日の授業に一人いたら、その異元とか、予言とか、霊意的な賜物を熱心に求めなさいとはっきりと言っています。
ところが、そこには重要な条件があります。
それは、徳を高めるためなんです。
それが十二節です。十二節を一緒に読みたいと思います。
十二節3、あなた方の場合も同様です。
あなた方は、御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう熱心に求めなさい。
そうです。確かにですね、高輪先生は、熱心に求めなさいと言っているながらも、そこに一つの条件がついている。
それは、教会の徳を高めるためになんです。
つまり、これを語彙したとすると、
予言をする、予言をする、祈りをする、しかしそれがもしも場合によって、条件によって、人によって徳を高めるものでなかったならば、
それは、師匠を用いて五つの言葉を放った方がいいという言葉です。
十四節から、パウロはこのように言います。私は言いますね。
私が言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は身を結ばないのです。
身を結ばない言葉に注目していただきたいです。
ではどうしたらいいのか、十五節。
私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。
私は霊において祈ることは、それはとても信仰的なものであるが、知性的に祈ることはだめだとか考えてはいけないことです。
霊において賛美し、また知性においても賛美すと言ってみましょう。
多分、孤立教会の中には、それが礼拝とか何かの集いの中に、祈りの中に現で祈ったりする人が多かったようですね。
ところがそれは信心深い、でも素晴らしい信者さんもいる反面、信じたばかりの人も、あるいはちょっと行ってみようかな、ときて初めて来た人もいたかもしれません。
21:05
ところがみんなこまどいて、困惑を感じてですね、それがつまづきになって遠ざかってしまった人が、孤立教会にあったわけです。
だから知性において賛美し、知性において祈りましょうと、パールは言っていたわけです。
それが信仰の古い信徒であろうが、未信者であろうが、使徒であろうが、誰であろうが、
威厳を語る人はですね、多分ですね、場所や時と、人と何の関係もなく、
自生も関係なく、威厳で語ったようですね。
だからパールが、威厳で一万語話すよりはというに、ちょっとしにくくですけれども、そういうふうに語っていない。
だから今日のパール先生は18節のように、私はあなた方が誰よりも多くの威厳を話すことを神様に感謝しています。
でも、できますけれども、時と場合と状況によってそれをしないことが、実は理性的で知性的な信仰であります。
皆さん、理性的で知性的なクリスチャンはいろいろできます。
祈りもできますし、伝道もできますし、言文もできますし、何でもできます。
しかし、時と時期と場合と、人を見て自生をする、あるいは配慮をする、愛を持つ人が自生的なクリスチャンであって、
パールはポリント教会にこういう大人になりなさいものの考え方において、大人になりなさいということであります。
だから、理性的な信仰は二玉の実を結ぶことではないでしょう。
ところが、盲目的なクリスチャン、非理性的な、非知性的なクリスチャンはあんまり思考しない、考えない。
自分が意見をやりたいときにやる。祈りたいときに祈る。したいときにやる。
しなきゃならないと思う。だからやるべし。
ところが、パールが言っているように、そこには愛の実がない、自生の実がない、配慮の実がないということではないでしょう。
神様は私たちに理性と知性を与えてくださって、判断できるように、自生できるように、
そして聖霊の御様の実は愛で始まって、自生で進んでいることを見逃してはいけないことであります。
ある参考例の先生のお話ですけれども、その先生は以前は祈るときも、時には説教しているときにも不意に意見が出たりしてしまった。
24:05
ところが、その先生の意見に、その教会の中に、そんなに大教会じゃなかったから、それに何人かがつまづいて、つぶついた人がいたようです。
それを後から知った先生は、理性的に考えて祈ったそうです。
その祈りでした。神様、もしも私のこの意見が誰かの信仰に、もしもそれが妨げになるならば、その私の意見を取り除いてください。
意見をするより、一人の魂を愛して、その魂を守ることが大事ですから、と言って祈ったそうです。
ただ、神様はその意見をその先生から取り除いてくださって、その世からは意見をしなかったそうです。
でも、その先生は自分は意見を殴ったからだめだと思っていない。とっても健康的にぼっかりをしているんです。
ところが、少なくないクリスタルは、こういう場合に、そういうふうに僕しかそこまでいるのか、それは信号がないとか不信号とかと思ってしまう。
だからといって、僕はそれを妥協だと、妥協は罪だと断言したりするのです。
皆さん、カウルは言っているのは、いくらでもできますけれども、しなくてもいいときにはそれをしない。
慈性、あるいは愛、あるいは配慮を持つことこそ、特にこの日本という仏の中では、最も必要な知恵ではないでしょう。
蛇のように裸足という、ありますよね。
私たちは、ただ盲目的な信仰、あるいは非理性的、非姿勢的な信仰は良い信仰だと評価する考えを注意しなければならない。
そうしないと、神様が語った、理性的に考え、理性的に判断することが、すべて不信号であって、悪であって、そういうふうになってしまってはいけない。
皆さん、聖書は聖霊様の感動によって書かれた本ですけれども、ここにはたとえば40人います。
彼らの知性や理性、思考力、判断力、彼らの経験、知識、以前の自分たちの職業、そういったものが解けて、それが用いられて、聖書の文書になった。
たとえば、ルカの福音とか、使徒の行伝を見たら、ルカは前の弟子になる前の彼の職業は医師でした。
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だから他の福音通り、ルカの福音とか使徒の行伝は、使徒の病気に対する表現が、とても専門的で具体的なんです。
それも聖霊様を用いられたそうなんです。無駄ではないんです。
たとえば、マタイはユダヤ人でした。
だから彼はユダヤ人に対してよく知っている自分だから、
違法人とかギリシャ人を対して聖書を記録したのではなくて、ユダヤ人のためにマタイの福音と記録した。
彼らの知性や理性が、経験や副業、すべてが神様が充分それを用いられたことであります。
理性的なクリスタルは、神様から出たすべてのものを、神様がいくらでもそれをコントロールできる、
用いることができる、すべてを自然に知ってくださることができる、神様に委ねて従っていくことが、
理性的な健全かつ健康な信仰であります。
皆さんですね、一生懸命様々な形で伝導しておられると思います。
どちらが良くても悪くても伝導しなければならないでしょう。
ところが、もしも私たちの盲目的な信仰の何らかの癖とか習慣が、非理性的な信仰の態度が、むしろ伝導を妨げているかもしれない。
一生懸命一方で伝導しているのだけれども、破欠に穴があってですね、水が漏れてしまっているように漏れているかもしれない。
例えばですよ、例えばの話でしましょう。
特に日本では旦那さんがクリスタルでない場合が多くあります。
ところが皆さんの旦那さんがクリスタル教にあまり良い感情を持っていない。
奥さんが教会に行くのも様に好まないんです。
ところがその奥さんはとても迷信なんです。
毎晩旦那さんが寝落としているときに枕を持ってですね、
この旦那さんを取り付かせる悪魔よ切り除け、悪魔よ切り除けですね、毎晩祈っているとしましょう。
その旦那さんは神も恵みを味わう前に、聖祖の真理を永遠にも味わう前に生んじゃりついてですね、
もうおかしくなっているんじゃないかと、こういうことも禁止するかもしれない。
かしこい妻は理性と知性を使う方法で進めている奥さんの場合は、
夫のいないときに祈ればいいです。
必ず頭の中で祈らないと祈りは効かないんですが、
神様は場所や時間や空間に制限される神様ではないんです。
夫と一緒にいるときには夫にサービスをする。
仕事を手伝ってあげる。聞いてあげる。
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もしも旦那の仕事があれば聞き添う。
そして旦那の心を得て、その奥さんのクリスタになった後の姿が、
麗し姿によって旦那さんも感謝を感じて、お何が変わった。
で、心が開かれるようになって、そしてクリスタになれるように導くことが、
理性的な、姿勢的な、エビのように悟い、悟く、働くクリスタンの姿ではないでしょう。
しとたおるは、ポリド教会の人たちに、
聞いてもよくて、しなくてもいいんだから、
徳を高めるために慎んだ方がよかろう、理性した方がよかろうと教えている、
この基礎を私たちは注目しなければならない。
祈ることも大事。礼拝することも大事です。
しかし、それほど教会の徳を高めることも大事であります。
そして自分が徳を高める人になることを求めることも大事であります。
もしも、私の近所の何らかの形が、習慣や癖が、
もしも誰かの徳を高めるものでなかったならば、
それを自制する、慎むこともできる、
姿勢的な、理性的なクリスタンにならなければならない。
これは決して妥協ではありません。
配慮であって、親切であって、愛であって、自制なんです。
イエス様はいつでも、パリサリドとかサドカイブとかでは、
蛇の息子だと、とても厳しいメッセージをしましたけれども、
でも、サマリアのシカルの女性とか、あるいはジャカインとか、
彼らとよく食べて、よく飲んで、よく食事をして、
飲みに行って過ごした時が実は多かったんです。
ドイツの現代信学者の中で、カール・ヴァルトという先生がいます。
私は、彼の信学には同意はしませんが、
彼が残した名言が一つあります。それは私は、確かにそうだなと思っています。
ツリーさんは、死とせでは聖書を持って、死とせでは新聞を持つべきだと言います。
だから、明日から新聞を報告しますという話ではありません。
聖書を読むだけではなく、人間を理解するために、その社会を理解するために、
新聞とか、そういったものを読んで、神様の姿勢を用いて、
私よりはるかに知識のある方が大切している、
33:02
それがテレビであろうが、新聞であろうが、本であろうが、
それを無視した後に、それを決して視覚してはいけないという、
盲目的に信者になってはいけませんよ、偏ってはいけませんよという、
カール・ヴァルトの先生の話です。
皆さん、日本人は、理性的なツリーさん、知性的なツリーさんで、健康かつ健全なツリーさんですか。
バランスを持ったツリーさんでしょう。
どちらかに盲目的に、信義性的に偏っていてはいないでしょう。
この頃、法廷記録課において、神言の御言葉を目指している中で、
教えられた御言葉があって、今日の御言葉とちょっと関連がありますので、
記載したいと思いますが、神言の15章です。
旧約聖書神言15章、1076ページです。
ここには、特にこのソロモンが用いられて、神の御言葉、私にこの言葉に対して、
とても知恵ある御言葉を語っています。
1076ページ、旧約聖書の1000、知らない方にはちょっと開けていただいて。
まず一節、私読みますね、一節。
柔らかな答えは意気通りを沈める。しかし激しい言葉は意気通りを起こす。
理性的、資生的クリスチャンは、言わなければないとしても激しい言葉を用いない。
あるなら激しい言葉は怒りを引き起こすからです。
二節、知恵のある者の舌は知識をよく持ち、愚かな者の口は愚かさを吐き出す。
四節、穏やかな舌は命の苦、偽りの舌は魂の破滅とあります。
それから二十三節、一緒に読みますね。
良い返事をする人には地義にかなった言葉はいかにも麗しい。
この二十三節はまず今日のポリントビートの手紙のパウロの教えと一貫していると思います。
地義にかなって、誰といるのか、どんな状況なのか、それにかなった言葉を使うのが麗しいんですよと教えています。
36:08
そして二十六節が、これは決定的な見事だと思いますけど、一緒に読みましょうか。
三杯、悪人の計画は主に忌み嫌われる、親切な言葉は嫌い。
皆さん、親切な言葉は何ですか。強い。この強いというのは、聖なる神様がたったときのその聖なる強い、その言葉です。
働けば、親切な言葉あったらいいんだけど、なくても良かろうと思ったりします。
あるいは、ただ強いとは思っていなかったり、私も日本語の程度にいて改めてびっくりしました。
親切な言葉は強いものなんだ。単なる道徳的に、ただ良いものではない。
それ以上のものであって、強いものであるということであります。
なぜなら、言葉というものは、地生にして下さった神様から出たものだから、神様から出た全てのものは良いものなんです。
それが聖書の教えなんですよね。だから、少なくともこの26節によりますと、
朝日先生がそのように祈るとき、恋愛するとき、聖書を読むとき、賛美を聴いたり歌ったりするときだけが強いものであって、他は全部強くないものなのか。
そうではないわけです。むしろ朝日が日常生活において、旦那さんに対して、子供に対して、会社の誰々さんに対して、
仕事の関係の人々に対して、親切な言葉、親切な行動、その親切さ、それこそが強いものであるという教えがあります。
神様がそれを強いと扱われました。そう思っておられたらです。
ですから皆さん、強くありなさいという言葉の中に、祈ること、熱心な信仰を求めること、礼拝することは、それはもちろん含まれていますが、
それだけではない。日常生活において、妻に対して、夫に対して、親に対して、子供に対して、誰々さんに対して、親切にすること、それが強いものであります。
それが日常生活を通して、私たちの善を通して、親切を通して、何が現れるかですか。神の英語が現れるからなんです。
それをあまりにも軽く思っていれないものと思ってしまう。それがむしろ日本の伝道を妨げているものであるかもしれません。
理性的信仰は盲目的ではありません。理性的な信仰は独単的なものではありません。理性的な信仰は分離式ではありません。
39:12
理性的で知性的な信者は和行して、善であって、親切であって、配慮して、好きにくさわしい言葉を語るものであります。
これを神様が喜ばれる、強いと思われる。ただいいんですよ、それぐらいです。それが遥かに素晴らしい、強いということです。
今日の本に載っている手紙に、大人と子供に対する例えが書かれていました。20節から出して、大人と子供の違いは何でしょうか。
子供は人に対する配慮なんていらないんです。人の必要なんてあまりいらないんです。自分がやりたいときにやりたいことをやるんですね。それは子供なんです。
でも大人はこうではありません。やれますけれども、自制する、配慮する、愛することです。
信号の行動も同じでしょう。子供は非理性的なクリスタンの例えです。大人は理性的で姿勢的なクリスタンです。
だから大人のクリスタンは、理性的クリスタンは、場所や時期や相手にあった言葉、あった助言、あった無線にあった信号を提示する。
例えばですよ。生まれたばかりの一時間になっていない赤ちゃんに神戸和牛の、しかもレアのステーキを食べさせるお母さんがいないんですか。
ところが私たちは、キリスト教にあまり知らない人々にそう思っている。
そこにですね、悪例だとか、逆の例だとか、そういうふうにするのはまるで生まれたばかりの赤ちゃんにレアの和牛を食べさせるのと同じであるかな。
いくつか説明書をいただきます。第1セモテ4の4節。聖書のですね、新約の409ページですね。409ページ。
4節を一緒に読みたいと思います。
3回。神が作られたものは皆良いもので、感謝して受ける時、捨てるべきものは何一つありません。
アメン。
42:00
皆さん、自生も、犠牲も、考えることも、あるいは自生も、廃世も、愛による行動も、すべて神様が作られたものなんだから、皆良いものです。
感謝して受ける時、捨てるべきものは何一つないのです。
どうか皆さん、私が、ただ盲目的なクリスチャンじゃなく、ただ非理性的なクリスチャンじゃなくて、それを避けて、
理性的であって、資生的であって、健全で健康なクリスチャンになっていただきたい。愛で始まって、自生で進むクリスチャンの姿をもって、愛に出したいです。
最後に一つのですね、私の従事から送られた一つのお話なんですけれども、アメリカのシカゴに、ウィル・オブ・クリックという教会があります。
世界的で有名なビル・ハイベルスという先生が国会している教会なんですけれども、以前はその教会の副牧師だったジン・アップル先生。
名前がリンゴですね。ジン・アップルという先生のお話です。その先生は、シカゴのウィル・オブ・クリック教会に赴任する前に、ラスベガスで国会をしていたとそうです。
もう考える夢よりもものすごい教会がですね、生徒として大教会になりました。
それぞれの教会が、ある日恋愛の出席が千人になる教会としては極的な一つの市でした。
ところが、その嬉しい市に家庭では刺激が起きてしまいました。それはもう詳しい理由は書いてなかったんですね。
奥様がもう離婚しようと。それで家から出てしまったそうです。
ところが、その後このジン・アップル先生は、なんと離婚者なのにウィル・オブ・クリック教会に赴任することができた。
そして自分の離婚の話を、ウィル・オブ・クリックって何万人も集まる教会ですから、その礼拝でそれを話すことができて、
しかもそれをみんな受け入れて励ます信徒がいる姿を見て、私の仲間の牧師があそこでインターンで仕事をしていたから、そのメッセージを直接聞いてびっくりした。
そこが最も素晴らしいのは、そのビール・ハイデル先生の牧会と言いますか、そのやり方でした。
その先生は教会が大きいから、有給・スタッフも多いですし、伝説とか神話とか付属品も多いわけなんです。
ところが、その人が以前離婚をしたのか、人生が失敗したのか、不遂良したのか、そういったものには問わない。
それに対して面談をするんだけれど、これが政治的だとか、あなたは頭に取られた、それを知ることができないだろう、そういう話を一切しない。
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むしろ、その人が離婚や昔不遂良したその経験を通して何を学んだのか、そしてこれからこの人が新しい可能性を見せられるかどうかを見て、スタッフとか牧会として選ぶという。
だからそのジン・アップル先生は、その理論・物理の教会に本院することができた。
そして彼はそこで牧会をして、このあとはキャリフォルニアでイースト・ファイブ・クリスチャン・チャークという牧会をしていて、
その教会には離婚した人々、あるいは未婚人の人々、小規民族、太っ子のような青少年がもうたくさん集まっていて、
その失敗者といわれる人々、社会的に脱皮者といわれる人々を立ち上げて、その人が立派に検診している素晴らしいことが起きているそうです。
もしも、そのビール入れる先生とか、あるいはその教会の人とかが、え、牧師なのに離婚したなんてダメだよね、と。
そういうふうに、ひたたらば、あのジー・アップル先生を今の牧会も、彼によって恵まれて働けられた人々もいなかったのではないでしょう。
姿勢や理性は信仰と対峙するものではありません。悪ではありません。
姿勢と理性は信仰の中で働きますと、素晴らしいものごとが起きてしまいます。
神様は私たちが蛇のように施す愛と慈悲と親切をもって、器用者を立てて徳を高めていきなさいと教えています。
どうか皆さん、私たちがこの家様が歩まれるように、家様が語られるように、
家様が人と関わるように、時期と場合と状況と人にふさわしいものを言う、接し方を持つ、信仰の導き方を持つ、
それこそ神様が働いてくださることを待ち望んで委ねる信仰の在り方ではないでしょうか。
メッセージを終わりたいと思います。お祈りします。