1. 名谷教会
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2016-10-02 47:34

2016/10/02:福音のことばをしっかりと保ちなさい

2016/10/02 聖日礼拝

尹善鎬牧師

コリント人への手紙第一 15:1-2


00:02
皆さんおはようございます。今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。
ではですね、今日もメッセージに入る前に、新しい方もお二人いたしますけれども、お互いに挨拶しましょうか。
おはようございます。よくいらっしゃいました。
はい、それでは一言お祈りさせていただきます。お祈りします。
もし、あなた方がよく考えもしないで信じたのでないなら、私の述べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのでしょう。
主よ、今日はこの御言葉から、福音のことばをしっかりと保ちなさい、という御言葉を、一人一人心の中に主の御言葉を語って下さいますよ。
そして、私たちの信仰も、また生活も変えられますように、成長成熟できますように、主よ悟りを与えて下さい。
智慧を与えて下さい。恵みを与えて下さい。
イエス様の皆によってお祈りとします。
アーメン。
はい、皆さんに祈っていただいて、先週に中間は何かいっぱいあったような気がしますね。
月曜日・火曜日は教団教育会がありまして、そして火曜日から火・水・木・金曜日まで、第6回日本伝道会議がポートアイランドの国際会議場で開かれました。
日本中から2000名ぐらいの神道さん、あるいは新学生、あるいは先生方が集まって、イギリスのクリストパ・ライポという先生から、包括的な、相互的な福音について教えていただきました。
でもずっと座って、学生の立場だから、確かに体は疲れて、先生方は途中で帰られたこともあったりしますけれども、最後まで頑張りました。感謝いたします。
今日のメッセージの中に、まず最初にお話したいことがあります。
それは、教団の教育会で火曜日の朝、祭典記者会をホテルで申しましたけれども、
03:00
英知教会のT先生のお話でした、メッセージでしたけれども、その中の一つのお話が、ショックというか、ああそうだなという気づきと悟りがあって、また自分自身を顧みたり反省する、そういう危機感になったお話がありました。
その英知教会には古い神徒であって、でも目が見えない、孟神の神徒さんがいて、家族も持っておられますけれども、その方は生まれつきの孟神でした。
生まれるときから何も見たことがないんですね。今は神通といいますか、神通師の仕事をしていらっしゃいます。
そしてそのT先生は、だいたい週に一回はその方のところに行って、肩こりをほぐしてもらうために針を打ってもらったり、そして1時間とか2時間、いろんな話を結構長い間してきました。
ところがその神徒さんが、何かの検査のために病院に初めて全身麻酔をすることになったそうです。そのところに先生もいて、その方もいて、息子さんもいて、ところどころ息子さんがその方に、
お父さん、全身麻酔するわけですから、夢見たことあるの?と聞いた。そしたらそのお父さんが、いや見たことないよ。でも聞いたことはあるよ。と言ったわけです。
わかりますか、皆さん。その方は、自分の目で人の顔とか、川とか空とか、ものを見たことがないんです。生まれたから、孟人だから。だから夢を見るんじゃない。聞くということです。
わかりますか、皆さん。私たちは普通、生まれてから見ているから、夢も見るんですね。言葉自体も夢を見るんですね。夢を聞くんじゃなくて、見るんです。でもその方は見るのじゃなくて、聞くそうなんです。
その話を、その木先生がその場で聞いて、自分はこの信徒さんと長い間付き合って、信仰生活して、週に一回は話もやってもらって、いろんな話をですね、週に一回、一時間、二時間もやっているのに、実は自分はあまり知らなかったのではないかと。
普通に目が見える人は夢を見るという。でもその孟人の方は夢を聞くという話を聞いて、その先生なりには言っています。生まれてから目が見える人は、生まれつきの何も見たことのない孟人の心を理解するのは難しいかもしれない。
06:11
いや、ひょっとしたら全然理解できないかもしれない。ところが皆さん、教会の中には、この中にもそうですけれども、ある方のように30年、あるいは40年、50年、その以上信仰生活をしてこられた立派なレテランの信徒さんもおられます。
その方々は教会の中でのすべてのことにはとても馴染んで慣れていますね。聖書を覚えていたり、三部下の歌詞を覚えていたり、あんな時はどうしたらいいのか、こんな時はどうしたらいいのか、自然に聞いて自然に振る舞って行います。
ところが教会の中には、今日もそうですけれども、信じたばかりの赤さんのような信徒さんもいたり、信じて間もなく何年か経っている子供のような信徒さんもいたり、様々な方々が教会の中にいるということです。
ところが健康な教会、健康で健全な教会は、その立派なレテランの信徒たちが、信仰的に赤ちゃんのような信徒、あるいは子供のような信徒、その彼らの心をよく注意深く理解する教会ではないでしょうか。
まるで生まれたばかりの赤ちゃんの肌とか体は、とても繊細なんじゃないですか。繊細なんです。
そのように、レテランの信徒さんが自分には当たり前のように思うことでも、生まれたばかりの信徒さん、あるいは来たばかりの、行ってみようかな、教会に行ってみようかなと思って教会に来た人々に対して繊細に、あるいは優しく、あるいは配慮深く交わりを持っていく教会が健康で健全な教会ではないでしょう。
そういうような教会は、立派なレテランの信徒さんが、かればには、あまりにも当たり前のような、当然のようなことが、今信じたばかりの信徒さんには、まだ理解ができないんですよね。
そういう宣言式が行われますけれども、理解できないことがたくさんあるでしょう。体はついていっているかもしれません。心はまだついていない場合も、多くあるんじゃないでしょうか。
レテランの信徒には、当たり前のようなことが、それで当たり前のように求めているんですけれども、しかしその子供のような信徒さんには、それがまだ当たり前じゃないんですね。これから当然のように、それが理解できるようになるでしょう。でも、その段階にはまだ当たり前がない。どうしたらいいでしょう。
09:21
健康な教会、健全な教会は、それを見守って、忍耐して待ってあげる。そして、鍛えてあげる教会ではないでしょう。
この中でもマラソンをされている方々がおられますけれども、生まれたばかりの、歩いても歩きもできない子供に45キロのマラソンを走れとは求めないんですよね。そうしないように。
あるいは赤ちゃんに子供に45キロをなぜ、あなたはなぜ走れないの。信仰が足りない。祈りが足りない。熱心が足りない。ああだこうだと求めない。崩壊しない教会がある意味で健康で健全な教会かもしれない。
ところが一方でですね、生まれたばかりの信者さん、これから信じてみようかな。信仰性格が短い方々は、また注意していただくことができます。私はずっと赤ちゃんでありたいとか、ずっとこのままでありたいとかと思わないでほしい。
家様の人格のように、家様の信仰のようにそこまで成長したい、伸びたいという願いを持って信仰生活をしていく教会が健康で健全な教会ではないでしょうか。
ここにある他のテイストです。
救いのためならば、幾人かを得るために何でもする。どんなことでもすると、パオル先生は言っています。この言葉を理解するためにですね、ほぼ今回の全土会議で3回目か何回目のお会いをした先生がいらっしゃいます。
その教会の名前を言っていいかなと思いますが、西宮に行ったら、西宮クロスロードという単一教会があります。
12:05
その先生は苗字が千と東ですから、ちとですかね。普段はふみ先生と呼びますけれども、少しは私違いかなと思いますが、前から個人的に知り合いになって、たまに連絡したり、メッセージを送ったりしたりしています。
先生は西宮市に開拓して11年になっていますが、その教会は子どもから大体40代まで、昨30人ぐらい集まって出会いをしています。サテルは持っていない。借りてやっている。
朝8時、出会いは11時だそうですね。8時から集まって、みんなですね、機営や全部シェッティングするのに2時間半以上かかって。でもみんなそれをやりながら、私はこの教会のメンバーなの。そういうメンバーシップをみんな熱く持っている。
この教会は、少人基督会も水位基督会もない。日曜礼拝と礼拝の後のスモールグループがあって、そして子どもの礼拝があるくらいだそうです。そのメンバーの130人ぐらいの礼拝の人数の中で、20代が8割ぐらいになりました。
今回もですね、中期ごとの水曜日のテーブルに、たまたま同じテーブルでお弁当を一緒に食べていました。いろいろ私は聞いてみました。先生は雑魚バラに言ってくれました。いろいろさらに受けました。
その中にですね、西宮城には官学とかいろんな学校が多いですから、大学生が多いですけれども、彼らがイエサムを信じて救われる。チンネが授けるのは本当に短いそうです。たった一回の学びでチンネを受けるんですね。
ところが、確かに最低限の福音を伝えて、それを受け入ってならば、100%ならば確実なんですね、その信仰。そしたらチンネを授ける。ところが、その先生の話で私が教えられたのは、信仰は確実なんだけれども、彼らの信仰度と言いましょうか、謙信度というのは、まだ1%、2%しかできていない。
だから、彼らの信仰は持っているんだけれども、謙信度、信仰度はまだ十分じゃないから、それほど求めないということです。
例えば、この先生の話は、ある学生が参加で、アラバイトのために、先生、今月は礼拝2回しか来れませんと。OK、大丈夫よ。来月は参加で来れるように頑張ってみな。もうそれぐらいだそうです。
ある学生が、礼拝の研究のために悩んでいる青年がいたら、今月は月に1回でいいよ。来月は2回やってみて。そういうふうに言うと、まだ謙信度が1%、2%しかできていないから。
15:09
あるいは、10分の1のために悩んでいる青年がいると、そしたら、それは難しいよね。そしたら、5分の1を捧げてみて。そういうふうに、とてもゆるく推し。
信じたばかりの青年に、ある意味で、その先生が言っていました。私はある意味で、放任しているかもしれない。
ところが、そのように、彼らのことを信じてあげて、見守ってあげて、そして、こうしないとならない、ああしないとならない、そういう律法的なことを教えよう、分解をやめて、
自然に成長する神様の、精霊様の育てを信頼して、その先生は忍耐、自力を忍耐すると言って。
その先生も、最初は失敗したことがいろいろあったそうです。解説したばかりのときに、例えば青年がその日始めてくるんですね。
そしたら、まるで獲物を待っていた虎のように、飛びつくように、ひょっとしたら、そしたら、みんな逃げられたそうです。
それぞれの先生は、飛びつかない。見守る。まずは友達になって、ラーメンを食いに行く。
今はでも、時々大事なポイントは、教えているとおっしゃっていました。
それぞれの先生は、こうしないとならないよ、ああしないとならないよ、そういうことをもうやめて、彼らのことを信頼して見守る。
ところが、不思議にも、いつの間にか赤ちゃんばった青年が、時間はちょっとかかりますけれども、いつの間にか立派な青年になって、
この前は教会の修行会があったんだけど、その先生がたまたまアメリカにあって、そしてリーダーたちで教会の修行会が立派にできた。
それで先生は、この先生もいなくてもいいね、と言われて、冗談でですね。それほど揺力を用いていたところです。
この教会の中に、威厳をする信徒さん、揺れがんをする信徒さん、その威厳を強くする信徒、威圧の魂を守っている信徒さんまで、
本当に立派なベテランの信徒さんがたくさんいたわけです。
彼らはたぶん、もう一生懸命に積極的に放棄したり、働いたりしたことでした。
ところが、そこには一つの落とし穴のようなものがありました。
その、ベテランでない信じたばかりの信徒さんがいて、彼らはまだ威厳が何なのか、予言が何なのか、理解できない。
18:11
民の声が聞く。あ、それ、ゴリムなの?わからない。
その、ベテランじゃない信徒さんへの、子供の信徒さんへの、愛による配慮と忍耐が欠けていたということです。
まるでですね、目が見える人が孟神に、あなたはなんで夢を見れないの?と言わないことと同じです。
だから、ヒト・パウルは、このポリント・イトエの手紙で、ところでは分かって、ところは使って、また忍耐持続を教えて、導いていますけれども、
そして、その次、13章に入っては、愛について話をして、そして先週見たように、14章においては、何をするにも、お互いに徳を果てるためにやりなさいと教えていました。
そして、今日の15章に入って、今日読んでいただきました、一説、二説には、さあ、長くないですので、一説と二説だけですね、一度一緒に読みましょうか、みなさん。
今日の御言葉、一説と二説。
御一緒に、三杯。
兄弟たち、私は今、あなた方に福音を知らせましょう。
これは、私があなた方に述べ伝えたもので、あなた方が受け入れ、またそれによって買っている福音です。
また、もしあなた方がよく考えもしないで信じたのでないなら、私の述べ伝えたこの福音の言葉をしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
福音の言葉をしっかりと保しなさい、ということでした。
では、この福音の言葉をしっかりと保つことって何なのか、好み言葉を、私の信仰、また生活にそれを適用して見ていきたいと思います。
今日のポイントは、信仰と生活、そのバランスについてです。
いろんな分野があるかなと思いますけれども、分かりやすくお話ししたいと思います。
第一は、二つ考えてください。
信じると生きる、あるいは歩み、あるいは信仰と生活、普段の生活。
また第一は、熱心に信じることのように、熱心に愛することです。
多くの教会は、信仰、祈り、生徒を知る続き、あるいは熱心に出席すること、あるいはある教会では神秘的な体験を競争したりします。
21:16
もっとひどい場合は、この神秘的な体験をしていない人は救われていないとか、そう教えたり、
神の声を聞いていない人は救われていないとか、そう教えている、それはどこを見ても非政府的な教えもあたりします。
ここだけですね、ここで救いについてお話しをして、触れていきたいと思いますけれども、
救いについて、誤解次第でよろしいですから、簡単に分かりやすくお話ししましょう。
皆さん、私たちが何かを神秘的な体験をしたから救われたものではありません。
あるいは熱心に祈ったから救われたものでもありません。
何かの立派な素晴らしいすごい行いをしたから救われたものではありません。
もしですね、そういうふうに教えている人がいたならば、それはとても危険です。
聖書も教えではありません。
使徒の働き16章31節には、「主イエスを信じなさい。そしたらあなたもあなたの家族も救われます。」と仰っています。
ローマ人への手紙10章10節を見ますと、私が読みますね。
使徒は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。とあります。
また、最も大事なエペソビトへの手紙2章8節、ここは一緒に書きたいですね。
ちょっと開きましょうか。
エペソビトへの手紙2章8節374ページ。
この方ですね、私が早天とか水曜日の都会とかによく引用する言葉ですけれども、これは非常に大事です。
新約の374ページ、エペソビトへの手紙2章8節、一緒に読みましょうか。
3.あなた方は恵みのゆえに信仰によって救われたのです。
それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
あめん。
皆さん、私はこの言葉を信じます。
何によって救われましたか?
信仰によって救われました。
行いによって救われたものではない。
神秘的な体験をしたから救われたのではない。
ただ、心に信じて救われました。
24:01
さあ、戻りましょう。
そのようにですね、熱心に信じて、熱心に学んで、熱心に熱く祈って、熱心に教えて、熱心に報酬している。
ところが、その熱心な信仰と、実際の自分の、例えば家庭での自分の生活は一致しているか。
ことに、家庭において、生い始まる御霊の実を結んでいるか?というお問いです。
生きることと生活がどんどん一致していく。
信じることと生きること、行うことがどんどん一致して、その一致まで成熟していくことが、実は信仰生活なんです。
それが健康で健全な信仰生活です。
もっと分かりやすく言わないといけません。熱心に信じる分、熱心に愛することです。
熱心に祈るクリスタンのように、熱心に優しく親切で、そのような夫妻になることです。
熱心に集会、出席する分、それほど家族のために仕えるクリスタンになることです。
日本のクリスト教の統計によりますと、
奥さんはクリスタンで、家族はミシナの場合が、日本のクリスタンの5割から6割ぐらいだそうです。
ここもそういう方が大勢おられますけれども。
ところが、ちょっとネガティブ的な統計ですけれども、
そもそも家族が、家族を信じないのは、お母さんの信心が弱いからではない、そうです。
熱心なんだけれども、教官に言って、とても熱心で、とても優しくてですね、
方言でですね、もう親切なんだけれども、家に帰ってきたら変わる。
親切じゃない、熱心もない、だらっとしていて、愛もない、言葉も優しくない。
実はそれが、家族の方がクリスタルになりたくない原因の第一だそうです。
ちょっと悲しいですね。
みんながそうではないでしょう。
皆さんどうですか?熱心に祈って、兄弟姉妹たちに親切ですか?
そしたら、それ以上に、皆さんの家族に、隣人に、その以上に親切に、愛を持ってやってください。
これが救いであって、これが信仰なんです。
皆さん、よく考えてみてください。
私も小さい時、そう教えられました。熱心に熱心に、教会で熱心にやりなさい。
27:00
でも、正確ではない。抜けている。欠けている。
ある意味ですね、私たちに熱心が、熱情が、情熱がないから、家族が救われていないんじゃなくて、
本当は、愛と配慮と親切がないから、また家族が、隣の人々が、親切と情を嫌にやっているかも。
もし、ある旦那さんか、あるいは奥さんが、教会生活をとても熱心でありました。
それですね、教会でエネルギーを全部吸い足してしまって、
家に帰ってきたら、もう掃除もしたくない。料理もしたくない。
子供が近づいてくるのもめんどくさいし、子供が背中していたらもういかっけですね。
それが毎週続いているんだったら、どうしたらいいんですか。
教会で使っている、その情熱を、その分、家族のために使うことであります。
信仰ほど、神様をずらさせた家族も大事であります。
その家族がクリスタンであろうが、ノンクリスタンであろうが、
謹慎的に愛を持って使えることが正しい信仰であります。
これが賢いクリスタンの生き方ではないでしょうか。
信仰は決して盲目的なものになってはいけない。
私は小さい時に、韓国である先生のジョークですけれども、ちょっと皮肉的なジョークです。
昔は貧しい時代でしたから、集会を1週間もったりするんです。
朝、昼、夜。
そこが貧しい時代でしたから、商店の集会が終わって、帰りにお腹が空いて、
そこで自分の家に帰りに、大根の畑があって、
そしてお腹が空いていると、他の人の畑で大根を一本剥いて、それをかじりながら家に帰る。
集会でたくさん恵まれているのに、人の大根を剥いて食べちゃう。
その信仰と生活が一致していない矛盾が、あれらにはあるのではないかという、
私はたぶん小さい時に聞いた話ですけれども、いまだに覚えています。
1ヶ所生疎を開きましょうか。
ヤコブの手紙、2章、17節。
新約聖書の447ページ。
2章の17節。
では一緒に読みましょうか。
ヤコブの手紙、2章、17節。
30:02
ご一緒に3杯。
それと同じように信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。
ヤコブの使徒は、一パウルほど鋭く語っていました。
信仰がある、熱心がある、ところがそこに行いが伴われていないならば、
その信仰だけでは死んだものではないかというお問いです。
皆さん、アランジェの信仰は信仰だけでならば、それは死んだものです。
家庭において、会社において、あるいは学校において、町の中にあって、
熱心な信仰のその分、また熱心に会えて、熱心に親切にして、
熱心に愛をもって、忍耐をもって生きることが、実は信仰なんです。
第二、熱心と知恵がバランスよく取れているか、ということです。
熱心と知恵。
ベテランの立派な皆さんは、みんな熱心なんです。
祈りも、集会も、学びも、本当に熱心です。本当に私は感謝しています。
だから今日から熱心じゃなくていいですけど、この話ではありません。
信じていない信者さんは、彼らの場合は何が熱心なのか、何で熱心にするべきなのか、まだわからないということであります。
なのに、彼らにいきなり熱心に熱心に熱心にやりなさいと、何で熱心にするのかわからない。
理解できていないんですね。
だから健康な教会、健全な教会は、彼らが熱心に燃えるまで、忍耐をもって待つ、期待する、あるいは配慮する、あるいは背後で祈ることではないでしょうか。
だから、このコリンド・ヴィセーナ手紙のヒト・ファウルは、彼らに、特にこのメッセージはですね、そのコリンド教会のベテラン信者へのメッセージだと思うんですね。
皆さん、愛は関与ですよ。愛は親切ですよ。愛は全てを我慢することですよ。愛は全てを信じることですよ。
愛は全てを期待し、全てを耐え忍ぶことですよ。それが愛ですよ。と、コリンド教会の、特にベテラン信者に語っているんです。
33:07
ある意味で、私たちに熱心が足りないというより、愛が足りないかもしれない。
この関与で、親切で、我慢する、信じる、期待する、耐え忍ぶことが欠けているかもしれない。
自分自身、思わされました。熱心はあったかもしれませんけど、強いが足りなかったかな、思わされました。
本当に、特に熱心な方々、ベテランの皆さんに気をつけていただければ、あまりにも熱心な場合は、他の人のことが目に入ってこない場合がよくあります。
あまりにも熱心すぎて、配慮が欠けている。あまりにも熱心すぎて、そこに親切が欠けている。そして盲目的な信者になりやすいということであります。
皆さん、熱心と知恵を同時に持ちましょう。熱心と親切、熱心と愛、熱心と配慮、熱心と忍耐、熱心と期待を同時に持ちましょう。
皆さん、帰都会、集会に熱心に出席していらっしゃいますか?とても素晴らしいことです。それを通じて人口は制御していけますよ。そこに喜びと寛容と親切、愛、忍耐、期待を豊かにお持ちください。
一方で、とても親切で、とても愛に満ちていて、配慮も強くて、忍耐、期待を豊かに持っているでしょうか?それも立派なことです。そこに信仰の熱心をお持ちください。
一般的に3番目、第3、信じると歩む、あるいは生きる、それは別々ではない。一つであるということです。信仰と生活は一つであります。
伝統的に、多分皆さんもそうかなと思います。私もそう教えられてきましたけれども、信仰はとても章として教えられてきました。だから、祈り、帰都会、御言葉、恋愛、教会、生活をとても強調して立派な信仰を持っています。
それはダメですよという話ではありませんよ。ところが、生活、生きる、歩む、あるいは関係、使える、それに対する教え、教許はちょっと欠けていたのではないかなと、最近教えられています。
36:10
これまでの教えは、もう深刻めらな自分を犠牲にする、家族も犠牲にすると教えられていました。それはある意味であっていますけれど、ある意味では、生徒の教えではない。皆さん、生きることと信じることは、それが一つにならなければいけない。別の世界ではないんですよ。
ある先生のメッセージ、積極的に読みましたけれども、その業界の奥様が、迷信なクリスタルで、家に入ったら、ダンマーさんに、今日は先生の話は誰々さんの話を言うと喋る。ところが、その時に聞いていたダンマーさんが、あなたは私に関心はあるの?と聞いた。
信じることと生きること、歩むことは、一つにならなければならない。一貫として、読み上げてみましょうか。第1ペテロ3の1節、455ページ。たぶんですね、このペテロの時代も今の時代も、女性の方々は、信心深い人が多くて、迷信者の旦那さんが多かったですね。
だから、この1節のような言葉があるかなと思いますけれども、一緒に読みましょうか。第1ペテロ3の1節。よろしいですか。お一緒に3回。
同じように、妻たちよ、自分の夫に服従しなさい。たとい、御言葉に従わない夫であっても、妻の無言の振る舞いによって、神の者とされるようになるためです。アメン。
幾人かを得るために、シト・パウルが奴隷のように、ユダヤ人のように、日本人のように、自由人のようになったように、夫への従順が用いられて、妻の無言の振る舞いによって、神の者とされるようになるということであります。
皆さん、皆さんに50くらいの親子の熱心があるでしょうか。そしたら、その50くらいの熱心をもって、家族を愛して下さい。家族に親切にして下さい。使えて下さい。これが健康な親子、健康な福音と書いてあります。
39:06
皆さんに100くらいの親子の熱心がありますか。そしたら、100くらいのそれくらいの熱心をもって、家族を愛して、兄弟姉妹たちに、隣り人に使えて、愛して、親切にして下さい。それが福音であります。
今日、教区に、ふとに来た人がありました。教会の名前は言いませんが、大体皆さん、見通すかもしれませんが、息子さん二人持つ先生の教会です。一般に勃かしておられる先生ですけれども。
勃起子児の先生は、以前はちょっと弱さを抱えておられた時期もありましたけれども、だから他の勃起子児の世にも100%、200%の熱心に働きはなかなか難しい時があったそうです。
ところが、最近私は分かりましたけれども、その先生の息子二人、長男は今年卒業して、次男は来年卒業しますけれども、二人とも勃起子になることを検証しました。素晴らしくないですか、皆さん。あまり驚いていないですね。素晴らしいことです。
長男は今、福岡で研修みたいに並んでいて、来年アメリカかイギリスに留学に行くそうです。次男も来年卒業して、また研修みたいにして留学に行きたいと。そして戻ってきて、たぶん小屋に入って、教団の牧師になるそうです。
私はその、今回の全国会議で長男にも会って、次男はこの前にも会いましたけれども、今は何回も会っているから、こんなことを私は教えられました。考えました。
その奥様は他の牧師のよりに、もう100%の200%ですね、何もかも認識にできないかもしれない。大勢に活動ができなかったかもしれない。ところが少なくとも、これは勝手な私の考えですよ。
少なくとも、その二人の息子には牧師夫人以前にお母さんとしてよく仕えていたから、その息子さん二人がその愛に支えられて、お父さんのような牧師になりたいと検診したのではないかなと私は思いました。
また、ヨシ様は私たちにこのようにおっしゃっています。あなたの牧師だけを愛しなさい。他の人は愛さなくていいんですよ。とおっしゃっています。
神様を愛することが一番大事で、他は私より少し愛しなさいと言われています。それがいい信仰ですよと言われています。
42:09
ところがあなたたちは、そのように教えられたり、教えたり語ってくれているかもしれないなと思わせています。
それでは一回調整いただきましょうか。新約のマタイの福音書、22章、37節と37から40節。これは今日の結論として大事な格ですから、皆さんに開いていただいて、一緒に見ていきましょう。
マタイの福音書、第22章、37節から40節まで。それで私は読みますので、マタイの福音書、新約の46ページ、22章、37節からです。
私は読みますので、皆さんよくご覧ください。
そこでイエスは彼に言われた。
心を尽くし、思いを尽くし、智力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
これが大切な第一のいまじめです。
つまり、私たちはみんなこの第一のいまじめにはとても心を懸けて熱心にやっておられる。
ところがその次ですよ。39節からよく注意してご覧ください。
あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。
どこを見ても私より少し愛せよという言葉はありません。
という第二のいまじめを、その次ですよ。一度読みますね。
それと同じように大切です。
どういう意味ですか、皆さん。
皆さんが自分自身を隣人あるいは家族を愛することは、神様を愛することと同じレベルで大切ですよということです。
だから皆さんが百をもって神様を愛しておられるならば、百をもって家族を、自分自身を愛することが正しい信仰ということです。
その次の40節をご覧ください。
立法全体という言者とか、これは当時は新約聖書の本はまだないですね。
だからこの立法全体という言者は旧約聖書を指すこの独特な言葉です。
つまり聖書がこの二つのいまじめにかかっているのです。
45:00
おはかげにあなたでしょうか。
神様を心を尽くして、思いを尽くして、知力を尽くして、愛しておられ、支えておられ、熱心である。
そうしたならば、それぐらいにあなた自身を、家族を、隣人を、それぐらいの尽くして愛しなさいというのが家様の教えであります。
バランスを持つことが大事であります。
ある先生は、ここまでメッセージで語るそうです。
どこの教会も旦那さんが行っての場合が多いですから、奥さんの、クリスさんの、婦人の方々に、
皆さん、私の話ではありませんよ。私もそう言いたい気持ちもありますけど、
皆さん、二人一回はいいですから、礼拝休んで、旦那さんが好きなことを一緒にやってあげてください。
何でも言っていいでしょう。ゴルフできないですか?見て、うわ、すごいと。そう、ね。
そういうことで言っていいでしょう。シャーバントのようにね、夫に仕えなさいよ。それが福音ですよ。
そこまでおっしゃるね、奥先生がおられました。
信じることと生活、それからバランスが崩れていたり、何かが欠けているような、
今日のクリスさんに、日本のクリスさんに対する大切なメッセージではないでしょうか。
結論を申し上げたいと思います。信仰と生活は別ではありません。一つであります。
皆さん、神様を熱心に愛しておられますか?熱心に祈っておられますか?熱心に学んでほっていらっしゃいますか?
感謝のことです。立派なことです。素晴らしいことです。
気になるならば、その程度のそれぐらいの熱心と情熱と愛を持って、まずは自分自身を愛してください。
自分自身を顧みてください。そして、その熱心と愛と情熱を持って家族に仕えてください。
親切にしてください。それが聖書が教える福音であります。
信仰と生活が、とても美しいバランスを取れたクリスさんになっていただきたい。
これが今日の福音の言葉をしっかり保ちなさいというメッセージであります。お祈りします。
47:34

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