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2019-05-05 31:45

2019/05/05:ヨハネの福音書講解説教(60)わたしを愛しますか?

 2019/05/05 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 -17

00:01
おはようございます。
ヨハネの講師も、あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか?
ペテレは、イエスに言った。
はい、主よ、わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です。
主よ、この朝、イエス様が、わたしたち一人ひとりに、あなたは、わたしを愛しますか?と問うておられます。
主よ、そのイエス様のそのお問いに、わたしたちもペテレのように、はい、主よ、わたしはあなたを愛しています。
何の迷いもなく、すぐにお答えできるものと、ならせてください。
全身全霊で、主を愛するものと、ならせてください。
それが、わたしたちが生きていくに一番大事なことであること、それを悟るようにしてください。
そのための、今日の御言葉が、ただ人のお話ではなく、生きる神様がお語りになる、主の御顔を拝見、御声を聞きする、恵みの時となりますよ。
一人ひとり、霊も体も、主が力を満たしてくださって、この朝、あの惚れを山で、猛瀬が神にお会いしたように、
この朝、わたしが神様にお会いして、イエス様にお会いして、主の霊に満たされて、御帰りになる時となりますように。
どうかしよ、このような霊と誠をもって、礼拝し御言葉をいただくものと、ならせてください。
03:02
心を、主が柔らかくしてくださって、良い血にまかれた種のように、三十倍、六十倍、百倍、二を結ぶものと、ならせてくださいますように、お願いいたします。
どうかしよ、御守りくださいますように、イエス様の御名によって、お祈りいたします。
アーメン。
今日で、ヨハネの福音書の公開説教が、六十回で、すべて終わります。
一番最初が、2017年6月11日に始めました。
六十回、年度としては二年かかりましたけれども、その間、いろいろありましたので、ここまでですね、本当に神様が語るものにも聞く皆さんにも、
神様御自身が、多くの恵みを、あるいは悟りを、主が語ってくださったと、そういうふうに信じております。
今日は最後の21章のところから、主の御言葉を一緒にお受けしたいと思います。
ヨハネの福音書は、イエス様の弟子の中で、ヨハネが書き記した福音書四つの中の一つです。
福音書の中で一番最後に書かれた福音書なんですけれども、このヨハネは、神の霊によってですね、
このヨハネの福音書を通して、私たちにこのようなことを明かせてくれました。
証言をしてくれました。
それは、イエス様は神であり、救い主であり、言葉であり、光であり、命であることを、あらゆるところで私たちに教えてくれています。
ところが、このヨハネの福音書は、今日の21章、全部読んでいないんですけれども、
他の、マタイ、マルコ、ルカの福音書の最後のところとは、かなり違う終わり方をしています。
それを、私は今日、この21章のストーリーを、愛の国と言えるのではないかなと思います。
今日のこのヨハネの福音書の最後になりますけれども、これは、私たちが親交生活をしていく中で、何が一番大事なのか。
06:10
それを教えている、とても大事なストーリーだと、そういうふうに考えております。
大体皆さん、ストーリーはご存知でしょうけれども、話をしていきましょう。
イエス様が蘇られた後、ペペロたちは、自分たちの故郷のガリラヤに戻りました。
そこで、昔のように漁師として漁をしていました。魚を捕っていました。そこにイエス様が行かれたわけです。
ところが、彼らはですね、今日の2節、3節、4節読んでみますと、夜通し漁をしましたけれども、魚を一匹も釣れませんでした。
今皆さん、この出来事は、このペペロたちが初めてイエス様にお会いしたとき、イエス様に弟子として呼ばれて召されるときに起きたことと、同じような出来事であります。
そのときにもペペロたちは、夜通し漁をしましたけれども、一匹も釣れませんでした。
あのときも、今日のこの2節読みも、イエス様が船の右側に網を下ろしなさいと。すると何が起きたのでしょうか。
あの昔も、昔といっても大体3年前ですけどね、このペペロ橋にとってはね。3年前と今と本当に不思議にも、イエス様のお言葉通りに網を下ろしたら、もう数えられないほど、
今日は153匹と11節に書かれていますけれども、たくさんのおびだ立ち魚を捕れました。この21日を彼らが弟子になって大体3年がたって、このとき、今日としますよ。
今日この朝方に魚をたくさん釣れたとき、あのことを通してどうでしょうか。ペペロ橋は、あの3年前、あのガリラ屋にいたときに、このイエス様に初めてお会いしたときに、
自分たちの名前を呼んでくださって、人を捕る漁師になるんだ、ぜひと知ってくださった、見知ってくださった、あのことが、宗教のように思い出したのではないでしょう。
09:19
子供たち聞いていますか。よく聞きましょうね。イエス様は何も知らない彼ら、ガリラ屋の漁師に知りない彼らをイエス様は召してくださって、弟子としてくださいました。
そして彼らに弟子という大きくて尊い氏名をお与えになりました。ところがどうでしょうか。3年がたった今、彼らはその氏名を後にして、以上のように漁師に戻ってしまったんですね。
このような彼らのところにイエス様がもう一度訪ねてくださったわけです。そして初めの愛を、初めの氏名を思い起こして確認できるようにしてくださった。
それはイエス様の教養ではないんですね。これは愛によるイエス様の選択的な恵みだったんです。一度お選びになった彼らを見捨てないで、ずっとフォローして守ってくださったイエス様です。
彼らがたとえ失敗して、今は自分たちの氏名を忘れて、そういうふうに暮らしている彼ら、そこにイエス様がもう一度訪ねていってくださった。
そして彼らにもう一度、是非というこの福音選挙という氏名を思い起こしてくださって、そしてその氏名を確認できるように助けてくださって、心の中にそれを植え付けてくださった。
そしてイエス様が、みんな一緒に御国のために働こうではないかと声をかけてくださるんですね。イエス様はペトロバチに、あなた方は私の友である、私の同路者である、私のパートナーなんだよと語りかけてくださったわけです。
12:20
ここに皆さん、ヨハネは直接にイエス様は彼らの罪を負ってくださった、傷を癒してくださったという言葉は、この21章に書かれていないんですけれども、
おそらくですね、ヨハネは今日のこの21章のこの一連の出来事を通して、弟子たちの愚かな罪を、弱い罪を負ってくださるイエス様の、彼らの心の罪による傷を癒してくださるイエス様の見せ方を、
ヨハネはこの21章のこの出来事、魚を捕ること、あるいはイエス様がね、炭火を起こして焼き魚をして、アザコアを救ってくださった、この出来事を通して、その癒してくださって罪を負ってくださる慈しみ深いイエス様を、ヨハネは描いていると思いませんでしょう。
皆さん、ヨハネの国では、例えば、ヨントを見るとね、あのサマリアのスカルの町にね、夫はここにもいた、他にも多くの人を、その心の傷を癒してくださって、罪を負ってくださる慈しみのイエス様を描いているんです。
そしてその方が私たちの救い主であること、それは本当に感謝のことではないでしょうか。
皆さん考えてごらんください。世の中にどこにしてですね、自分のこの過ちを、大失敗をね、何もなかったように負ってくれるんでしょうか、許してくれるんでしょうか。なかなか世の中は難しいんです。
本当にイエス様は、私たちの罪を負ってくださる、なかったことにしてくださる、慈しんでくださるイエス様であり、そしてそのイエス様が、昨日も今日もそして明日も、
愚かな私たち、自己中心的な私たち、この世を愛している私たち、あるいは人生のいろんなことを通して抱えている心の傷などを持っている私たち、
15:21
そんな私たちの全ての傷を癒してくださる、そして悔い改める私たちの罪を、十字架の石を持って覆ってくださるお方であり、私たちが信じるイエス様がこのようなお方であることを正しく知っていただきたいです。
そしてイエス様は、ペテロニーだけではなく、今日の私たちにも使命をお与えになります。
そしてイエス様は、私たちにも声をかけてくださって、あなたは私の友なんだ、あなたは私の増老者なんだ、一緒に働こうではないか、と声をかけてくださるんですね。
そしてイエス様は、私たちが元気な時にも、うまくいく時にも、失敗する時にも、本当に愚かな時にも、イエス様は常に彼らのその真ん中に訪ねてきてくださって、
そして彼らをあきらめないで、もう一度使命を与えてくださり、愛を満たしてくださり、そして一緒に歩こう、一緒に働こうと声をかけてくださる。
このようなイエス様のメッセージ、コーリングを心に皆さん止めていただきたい、覚えていただきたい。
そして人生の闇の中に、もしもどんな嵐が吹いてきても、どんな辛さの中にあっても、イエス様は私を知っていてください。
そして私はイエス様に出されたものである。そして主は私を使わせてくださったお方である。そして主はこのような私をも持ちいてくださるんだという確信をいつもお持ちになってください。
このような確信を持って信仰生活をすることは非常に重要です。
イエス様は魚を獲って、土に上がってきたペッタスのために浅川を作ってくださって、その中で中古説から見ていくと、イエス様はペペロにこういうふうにお尋ねになりました。
18:29
中古説を一緒に読みましょうか、皆さん。
中古説、聖書をお持ちの方、あるいは前の画面をご覧くださって、中古説を一緒に読みたいと思います。よろしいですか。中古説をご一緒に。
彼らが食事を済ませた時、イエスはシモン、ペペロに言われた。
ヨハネノコ、シモン、あなたはこの異常に私を愛しますか。
ペペロはイエスに言った。
はい、主よ、私があなたを愛することはあなたがご存知です。
イエスは彼に言われた。私の子羊を飼いなさい。
イエス様はペペロに、彼の使命をもう一度確認される時、最も大切な質問をされました。
あなたはこの人たち異常に私を愛しますか。
あなたは私を愛していますか。
あなたは私を愛していますか。
と、三回イエス様はお尋ねになりました。
皆さん、イエス様のこのお問いは、ペペロにとっては思い出したくない。
何日か前の、あのペペロのつらい事件を思い起こすお問いでもあります。
ペペロは、イエス様が尋問を受け入れられている時に、
そこにいた人々から、あなたもイエス様の弟子だよね。
三回聞かれた時、ペペロは、もう強くそれを否定しました。
知りません、知りません、関係ないですと、呪うまでして否定をしました。
三回でした。
三回もイエス様を知らないと答えた自身なのに、
21:01
こんな自分に今度はイエス様が、あなたは私を愛していますか。
その話を聞いた時に、ペペロは自分自身を変えりみるようになったのではないでしょうか。
いや、むしろ自分で自分の心の中をね、もぞいてみるようなところが皆さん、
これはね、イエス様がペペロをいじわっているわけではありません。
苦しめているわけではありません。
むしろこのようなことを通して、ペペロにイエス様に対する愛をもう一度満たして、
そして奮い立たせて、彼をこの後から子孫として持ち入るためである。
イエス様が天に引き上げられた後、この地上で福音のために生きるためのイエス様のお働きです。
あなたは私を愛していますか。
何より皆さん、ペペロになさったこのイエス様のこの思いを、
この朝、皆さんは、私たちは、自分自身にこのイエス様のお問いを、
自分自身に対して適応してみていただきたい。
この朝、イエス様が私一人一人に、あなたは私を愛していますか。
本当にあなたは私を愛していますか。
この朝、真摯に、皆さん自分自身の両手を胸に当てて、
千の神を仰ぎきて、正直に神の前でお答えになってみてください。
あなたはこの人たち以上に私を愛しますか。
という皆さんいかがでしょうか。
イエス様がこの朝、一人一人に問うてやられますよ。
あなたは私を愛しているのか。
本当に私を愛しているか。
その時に、このセテルのように、
もちろんですよ、イエス様。
私はあなたを愛していることを、あなたが御存じです。
24:03
と、何の迷いもなく、つくぞうできる、私様でしょうか。
あなたは私を愛していますか。
皆さん、神様が私たちに望んでおられること、
求めておられることは、他ではないです。
本当に心から神を、イエスを愛しているか。
イエス様を愛すれば、
イエス様のために、神のために、できないことはないでしょう。
迷うことはないでしょう。
躊躇することはないでしょう。
神を愛せるから、
私のために生きてきたイエス様だから、
この方を私も愛せるから、できないこと、
したくないこと、何もないんです。
それが礼拝であろうが、捧げ物であろうが、
奉仕であろうが、伝道であろうが、何であろうが、
それは、ただ、神を愛せるかどうか、その愛の結果にすぎない。
今朝、イエス様は、一番大事なお問い合わせをしちゃいます。
あなたは私を愛せますか?
この朝、私たちもペテロのように、
このイエス様に対する愛を、
そして、どんな時に誰に聞かれても、
そうですよ、私はイエス様を愛せますよ。
耐えられるものでありたい。
イエス様はペテロに、
この愛せますか?という、
愛するという言葉の言語的な意味で、
いろいろ解説があったりするんですけれども、
この神科学説は下に客注にもありますが、
イエス様はペテロに、最初の2回は、
あがぱおうという言葉を使って、
つまり、あがぺの愛で愛せますか?という意味ですね。
27:03
3回目はぴれおうという、
ぴれおうの愛で愛せますか?と、
そういう言葉が書かれているわけです。
ペテロは3回全部、
ぴれおう、あがぱおうじゃなくて、
ぴれおうの愛の言葉で愛せますと答えました。
これに対して、
いろいろ解説があるんですけれども、
最も最近の学術学院の研究によれば、
このイエス様の当時、
実際、このヨハネの福音子が書かれた、
英理1世紀ごろ、
このあがぺという言葉は、
確かに神の愛を表す言葉でありますけれども、
このぴれおうという言葉も、
子供に対する親の限りなき愛を、
語る時にも使われたそうなんです。
だから、ここに、
あえてあがぺぴれおう、あがぱおうぴれおうで、
区分しているより、
ヨハネはあがぱおうもぴれおうも、
同義語として、
同じ意味の言葉として使っている、
そういうふうに、
理解したらいいかなと思います。
例えば、
イエス様がマザロを愛しておられるとか、
あるいは、
ヨハネがよく使っている自分のことですけど、
主が愛しているですとか、
する時のその愛は、
確かにイエス様が愛することだから、
あがっぺという言葉を使うはずですけど、
ここにはぴれおうという言葉が使われているわけです。
だから、
もうどっちも同じ意味で使われている。
それが、
ヨハネという人の書き方の特徴なんです。
同じ意味を伝える時に、
ちょっとニュアンスが違う言葉を使っている。
例えば、
今日の21時に、
イエス様がペテロの答えの後に、
15節には、
あたしの子羊よ、
その後の言葉は何ですか。
かいなさいとありますよね。
16節のペテロの答えの後には、
何と言われましたか。
あたしの子羊をほくしなさいとあります。
これをですね、
かいなさいとほくしなさいは、
どういう風に違うんだろう。
考える必要はない。
30:01
もう同じ意味であり、
ヨハネの書き方の特徴であります。
大事なのは、
今イエス様は彼に、
あなたはあたしを愛しますか。
そして、
その愛しますかという言葉の中には、
私はあなたを変わることなく愛しているよ。
あなたが弱いと自分自身のことを、
罪が多くと自分自身のことを、
考えているようだけれど、
私はあなたを見捨てない。
私はあなたを裏切らない。
だから、
この私の愛で満たされていなさい。
そして、
私があなたに与えたこの悲鳴のために、
もう一度立ち上がって歩んでほしい。
私に対する愛を確認して、
満たされなさいということが、
そしてもう一度、
ペテルを別としてお使わしになる、
この覇権の場面であります。
メッセージは終わりです。
この朝、
イエス様は、
私たち一人一人に、
お始めになってやられました。
あなたは、
この人たち以上に、
私を愛しますか?
つまり、
あなたは、
その愛にふさわしい生き方を、
していますか?
と言いました。
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