1. 名谷教会 podcast
  2. 2019/11/03:知られない神
2019-11-03 36:50

2019/11/03:知られない神

 2019/11/03 聖日礼拝

斎藤亘師

使徒の働き -34

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おはようございます。
大変、私は今朝、これから生産式を行うということで緊張しております。
赤城一丸教会を辞めて約10年になるんですが、久々の生産式。
先々週はまた、国別式を行うというようなこともありましてね、これも赤城一丸教会に関連したことなので、
ちょうど先生は、教壇の牧師収容会ですか、そこで留守になるので、その時の報酬をお願いしたい。
国別式も久々にやりましたけれども、間違うところもないように思いながら、今朝、この生産式もそれに当たろうとしております。
今朝は、小林さんもね、司法では退院されたので、今朝の礼拝にもみなっておりますし、
久々の方々もいらっしゃいますので、では、いつものようにご挨拶いたしましょうか。
では今朝は、読んでいただきました、この人の働きの17章から、知られない神にという、このパウロが使いました題をもって、この箇所からお言葉を開いていきたいと願っております。
昨日、今に戻りましたが、ちょうど池上柏さんがね、日本の神道のことについてクイズ形式でやっておりましてね、
私も、あの方はどこで調べるのかよく知っていらっしゃるので、なんでもね、私は興味を持って聞いておりました。
そしたらその、日本の神社はコンビニとどっちが多いか、そういうクイズでした。
そしたら考えておりましてね、もうあちらこちらにそのコンビニがありますから、確か皆さんコンビニという答えを聞いたんだと思います。
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そしたら確かにコンビニが5万点ほどあるそうですね。ところが神社は8万だって。
で、私もそんなにあるもんかなと思いましたけれども、実際あの、今ユン先生は韓国に行かれておりますけれども、
初めて行ったときにね、もうどの線に乗っても電車ですが、十字架が見えるんですよね。
ああ、こうだったらいいのになあ。ところが日本は、どこに行っても神社があるって思い出しましたよ。
で、ちなみに宗教法人法によって決められております、登録されております、日本の宗教人口というのは、約人口の倍あるそうですよ。
ですから、今1億ぐらいでしょうか、1億。そうすると宗教法人で登録されております、やはり宗教人口、2万からあるみたいですね。
いったいどこで、そこがちょうど私は昨日のテレビを見たり、それからこのアテネの町の様子を見たり聞かれますとですね、
非常にそのアテネと日本の宗教観点でしょうか、それが似てるんだなと、改めて思いました。
で、当時のこのアテネもまた人口以上のそういう、日本についていうと神社等のそういったものがあったそうですよ。
そこにこのパウロたちは初めてこのヨーロッパに渡って、そしてアテネにまで来たんです。
そして2人の電動車を待つ間、彼はアテネという町がどういう町かということで歩いているときに、本当にパウロのことを借りているならば羽を持たすというぐらい、いろんなところにそういうものが立っている。
そして前に彼が見つけたのは、知られない神にという、そういう祭壇まで設けている。
この辺りもなんとなく日本的な感じもしないではない。
日本には矢をよろずという神々がどこに行ってもあります。
そしてそちらが文化遺産として評価されたりするところもあったりするわけですが、
アテネの人たちは、ある人たちが非常にこの宗教神というものを大切にして、そして自分たちはここまでいろんな神々を祀ってきている。
あるいは私たちの知らない神々もそこにおられるかもわからない。
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考えついたのが、それを一束にというのでしょうか、まとめて。
それでもし知られない神という神々がおられるとするならば、そのまま放っておくわけにいかないので、
それをまとめて知られない神にという祭壇を作って、そして大切にしろという、そういうところがあったようです。
ですから、パオロはそのアテネに初めて来ましてね、
そしてギリシャ文化の発祥の地ですから、いろんな点で知られたところがあるんだろうと思いきが、
彼はもう至る所にそういうものがあり、そして徒然つまりは知られない神々という祭壇までも受けて、そしてやっているというところに、
パオロはこの意気込みを感じたと書いてあります。
今朝の活動は、そういう事柄を背景にして、この記録が記されておりますし、
またそれからのパオロたちのアテネの伝道というものが展開していくわけです。
で、このギリシャ文化という、そういった点においても優れたものが、いまだにそれぞれはいろんな点で生かされているわけですが、
パオロはそこで、これは17章の、今日は22節から読んでいただきましたけれども、
少し前にアテネに行きまして、彼がそこで思ったことは、この18節、17章の18節と読みますと、
このエピクロス派というのと、ストア派というですね、大きく二つの、そういった哲学を誇りとするような人たちの存在がそこにある。
このエピクロス派というこの人たちは、これもちょっと日本人に似たようなところがあるんですけれども、
今更神様が存在したところで、私たちには関係ないんじゃないか。
非常に冷ややかにですね、いろんな祀ってあるのを見て、彼らは我々の哲学から言うと、
あんなものはもう関係ないというようなことでもって、これを否定し、カウンザル。
それに対してこのストア派というのは、これもこういうところがあるから、いろんな神々がそこに存在したんでしょうけれども、
阪神ドンというんでしょうかね、日本人の私たちは、やはり大きな木を見ますとね、
何かこれを締め縄に張りますと、木の神様というんでしょうか、そういうふうに祀ってしまう。
私が前におりました平方は京阪電車が走っているんですが、そこにかやつまという駅があるんですね。
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で、そのかやつまの駅も交換になりましたときに、私はそれ前からあの木はどうなんだろうかなと思っておりましたがね、
やはりそれはその神社、なんですか、信仰というのがですね、その辺り一体にそれは体制されていましたんでね。
それを真っ最中じゃなくて、それを使って、そしてフラットホームの真ん中にですね、ゾーンとその木が今でもあるんですよ。
で、夏の暑いときは木陰になりますからね、適当にこれいいなと思いましたけれども、ところがことの起こりはそういうところがあって、
ですから京阪電車もあの木は切り倒してはならない、またそんなことになれば京阪電車はね、大変な事故を起こしたり、いろんな目で起きるかもしれない。
それでですね、それを体制にしていた。やっぱりそれもですね、やはり反信論的なそういうのは、ここにも神社がおられる、あそこにもおられる。
非常にアセネの人たちの宗教信と、日本人の持っているその頃の宗教信というのが、やはり反信論どこにでも神がおられる。
それも神、こちらにも神がおられる。山上では神々をそこに見るとかですね、あるいは太陽を見るならば、あるいは富士山を見るならばという、
そういう信仰にそれを結びつけてやっているところに、これもアセネと日本のこの宗教的な線での類似性があるんじゃないかなと、そういうところを見てまいります、そう思います。
ですからそういう影響もあってか、このアセネの人々は、そういういろんな神々をそこにこのまする。
そして姉妹には申し上げたように、私たちのまだ知らない神々がおられるからということで、そういう祭壇まで築いて、そしてやっているという、そういうところですよ。
パオロはそのアセネで、彼はですね、この伝道を始めたわけですよね。
今思い起こしますのは、京都信愛教会という、そこは岡本大造という先生が開拓なさって、そして始めなさった。
この先生はもともと京都の人でしてね、私はある週から頼まれて行ったときに、それこそすぐそこにですね、北の天満さんがあるわけですが、この先生は子供の頃から病弱なところになって、
よく母親に連れられて、いろんな神社、仏閣を行った。
ですから、その先生が言うのには、いや、それがね、まだ私の知らないね、行ってないところのそういうものもまだあるんですよ、京都には。
ということを聞いて、こんなにあるものにまだあるんですか、先生に聞き返したことがあるぐらい、京都はそういうところです。
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非常に日本人のそういった特質をそこで持って特徴を表しているなというところがそういうところにあるわけですが。
で、パウロはそういうギリシャの、このアテネの人たちのそういうものを見ながら、彼は皆さん方にお伝えしたい、皆さん方が大変信仰心のある、少しで神々を大切にするというのはわかる。
そこで私は皆さん方に、あなた方がまだ知らないということで持って、そこに祭壇を築いている、そのあなた方の知らない神について私はお話をして。
まあ上手な、いいきっかけを使って、そしてアテネの人々の心を掴むんだなと思って、この辺りは私もよく、この下のあたたきを読みますと、たくさん教えられるところであります。
で、パウロはその教えの中でもって、あなた方のまだ知らない、気がついていない神、その方はこういう方なんだ。
そしてそれを言っているのが、この今読んでいただきました二十四節。そこを読みますと、「この世界とその中にあるすべてのものをお作りになった神は天地の手ですから、手でこしらえた宮などにはお住まいにはなりません。」
まず、この世界とそのすべてのものは、これは全部神がお作りなさったんだ。神ではないんですよね。神が作られた始神物なんだよって。
で、そういう方々から、あなた方がいろんなところにそういう祭壇を築いて、そして信仰心を厚くしているけれども、そういう作られたものの中に神は存在できるような、そんな小さな方ではないんだ。
あなた方が知るべきお方は、あなた方が目にしている、このすべてのものを作られたところの神、あなた方が拝んでいるそういったものは皆、大切にしているこの自然界も、そしてまた座山に輝くその星にしても月にしても、また昼は太陽の恩恵を受けるけれども、そういうものも神ではない。
あれは全部、この世界を作られた神の手の業によって存在しているんだよって。神ではない。私たちはまず知るべきことはね、これらのものを全部作られた神と存在というものを、そこに認めるべきだということをそこで言います。
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ですからこの方は、さらに二十五節を見ると、また何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって作られた必要はありません。神はすべての人に命と生と万物とをお与えになった方だからです。
私たちも一生懇願して、豪華に、そしていかにも私たちの信仰を満足させるであろう、そういう手で作られたものではないんだ。京都ですから、そういう神社仏閣に関わるそういったものが、お店がたくさんあります。
ある時、英会話のために来ておりました外人教師を案内して、京都を案内したんですね。
そうしたところが、慶安三次を出て、そして河原町町に出る、そのあたりに、彼女が一生懸命計算しているんですよね。何を計算しているんだろうと思って聞きましたら、そんなに高いんですか、という。
いわゆる金ピカの仏像であったり、それからそういう類のものが置いてあるんですね。それを見て、私は日本の技術は、私は豊田の自動車を乗っています、家のテレビはパナソニックです、みんな私の知り合いも日本のメーカーさんによってできたものでやっている。
けれども日本人は、こんな素晴らしいものを作っちゃうんですか、というならば、そういうものも日本人は器用にやる、そういう類のものも手の技として作り上げてしまう。
それだけではない、金のそれは、たしか50万以上したんじゃないかなと思いますが、その当時でも、ドルは多分360円ではないですけれども、300円ぐらいの時です。
ですからそれを計算しますと、アメリカ人の身体にとっても、やっぱりすごい高いんだなと思ったんでしょうね。
それで、ゼパーとかに入って見ました。一緒に家内に案内して行ったら、何を見てもみんな高い高い高いと、結局何一つ買わないで出てきたということを言っておりましたけれどもね。
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ですからそういう目線から言うと、そういう日本人は、そういう大切な大切なそういう仏像の類、あるいはそういったもののこれも作って、そして何十万もしてこれを売っているということに非常に不思議さを感じた。
また日本人に対しての不思議さでしょうか、それを感じたようですね。
当てでの人は同じなんですね。そういうものを作っていた、そして拝んでいた。
パウロはそれに対してね、この世界を作られた方は、私たちの手によって作られた中に存在するようなそんなちっぽけな方ではないんですよ、というそういう説明ですよ。
私も教会に出した頃ですね、こういう話を聞いても、神様はどこにおられるんだ、そんなわけのわからないようなことを言われたってね、目の前にジャーンとあれば、ああこれが大切な、そういう神仏の類だな、そして大切にする。
大切にするその心のほうが大切じゃないかとか言ってですね、そんな絶えもないような議論をしたことがありますけれども、当てでの人々は、そういう事柄でもって彼らは自己満足的に作り上げたもの、自分たちの手によってなされたものをこれを大切にする。
しかし神は、そういう作られたものの存在ではなくして、むしろ神はね、二十六節に書いてありますけれども、神は一人の人からすべての国の人々を作り出して、日の全部に住ませ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界線と、お定めになりました、とそこに書いてあります。
まあ国境を作ったとかっていうのではないんですけれどもね、パオがここで言いたいのは、やる私たちがいろんなところで存在し、またそこで一つの国を作り、また一つの歴史がそこで持ってこの築き上げられて立ち上がっていく。
しかし神はね、そういったことも含めて、これを作り出した方だ、あらゆるものを作られた同時に、私たちの人間そのものも作られた方であり、そして私たちは作られたものとしての歴史を今日まで歩んできている、それがお互いだ。
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住んでいるところはテヌであったり、エルサムであったり、あるいはイショビアであったり、違うけれども、しかし神様はそれぞれ私たちの置かれているところにおいて、私たちの歴史までもそこにね、この作り、そして私たちに対しての愛を表しなさっている方だということをそこで言うわけですよ。
よく言われるように、ヒストリーという英語のそれは、his storyだ、神様の物語だ、出来事だということをよく聞いてきましたけれども、そうなんでしょう。
私たちが築いてきたその歴史というのは、すべてが神様がお作りなさったその範疇の中での出来事であり、私たちはそういう中で今日まで生かされてきている。
創造者なる神、あるいはすべてのものを支配される神、そしてさらに言うならば、私たちの最も近くにおられる方もこの神です、ということを言います。
これは27節。これは神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見出すこともあるのです。確かに神は私たち一人一人から遠く離れておられません。
どこどこに行かないとその神に会えないとか、あるいはどこどこに行かないと私たちの信仰は全うされないとか言うんではない。この方はいつでもどこでも私たちと共におられる方だということをパオロはそこで言うんですね。
この11月3日は、10月31日が宗教改革記念日として、その前後の日曜日は、大体が宗教改革にちなんだ聖書のお言葉がそこで開かれてあります。
マルチン・ルターンはその宗教改革というそれを成し遂げる中でもって、当時の最大の権力に対して一筆の動作に過ぎないルターンが向かったわけですよね。
当時の教会のやる95箇所からなる過ちをそこにまとめて、そしてウイテンメルグのその教会のものにそれを掲げた。それがやがて広がっていったわけです。
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しかし、私たちが今日その宗教改革と言って、あいにとらえられないところがあります。
彼は命をあげてそれをしたわけですよ。自分の身の起きどころがないっていうんでしょうか。
もし当時の教会の権力から指名手配されたら、逃れる場所がないくらいに、どこまででもこの当時の教会の権力は、そういうものに対して反学者に対して死に至らせるっていうことがそこにあるわけですね。
そういう時代に一修道僧に過ぎないこのルターンが教会の過ちをそこに指摘したということは大変なことなんです。
そういう背景の中でもって、彼が最も聖書から励まされて、そしてその御言葉に立ってついにそれをやり遂げていく。
これは四縁の四十六遍ですね。
この後の神聖歌の二百何番ですかね、そこでご一緒に歌いたいと思いますけれども、その歌は二百八十番。
これは四縁の四十六遍を背景にして、そしてルターンはその御言葉から作詞作曲という、そして彼はそれを自分に言い聞かせながらその宗教改革というそれを成し遂げていくわけです。
この四縁の四十六遍というのは、これはエルサレムというそこに象徴されるイスラエルが、もう既にサマリアの方はアッシリアによって壊滅されてしまっている、滅んでしまっている。
その勢いをもって、そしてこのエルサレムを包囲しました、このアッシリア軍が、明日の日の出とともにこのエルサレムを滅ぼすという、そういうようなことで。
城内に閉じこもったその秘劇屋とか、そこにはその当時秘劇屋のもとでもって、この預言者として勤めておりますがいずれやとか、秘劇屋は預言者を通して、
私たちは本当に感謝願がここで、私たちをどんなふうに守ってくださるか、死命を祈りしようと言って、武力においては当然立ち討ちできない、そういう最大の兵器をもってこのエルサレムを包囲しておりますアッシリア軍に、彼らがやったことは祈ったということだった。
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支援の四十六遍は、そういうことを背景にして、この四十六遍が歌われておるわけです。
私が平方を辞めるその元旦で会でしたかね、そこに、奥さんは最初は外国の方だなと分かるそういう方で、そして彼らはクリスチャンフォームとして、そして私たちの教会に初めて来られました。
どちらの国から来られたんですかと聞いたわけですけどね、そしたら、私はアッシリア人です。アッシリア人って言ったら、これはもう滅んでしまって存在しないじゃないですかと聞いたことがあるんですよ。
そしたら彼女は、先生ね、アッシリアのクリスチャン人口どれぐらいあると思いますか、日本のクリスチャン人口よりもっと多いですよということを言われてね、そして彼女は、ちょうどお父さんがイラクの方で事業に成功してですね、日本に教会を建てようということで、そしてその教会を平方の一角に建てなさった。
ところが建てたんだけども、この後を受け継いでくれる牧師さんがいないんで、聞けば先生は私の知っている先生と仲良いそうだ。だから先生に同じ平方からお任せしようと思うんですけど、どうでしょうかと言ってね、ご夫婦ともがそのことを言ってくださったんで、
そうですか、平方希望教会から車で行ったら10分くらいの近くなんですけどね、わかりました、じゃあ一回にしてもらいましょうと。それでちょうどこのぐらいの街道ですよ、それを建てて、そうしても使われないままで、おるって言うんでね、さあもったいないと。
で、その牧師は、じゃあね、教育法人になってないもんだから、税金が私たちにかかってくるんですよ、そのあたりも保留して、一つ先生の教会の法人のもとに持って行ってくださいと言われて、すぐに撤走記をしてですね、私がそこを離任するときは性別引きをして、そして平方希望教会などをちゃけるという名称もつけて、そして今もそこで活動がなされております。
当時私はそういう平方というその教会を中心にして、いろんな所に教会を建てあったらいいなという御業務が与えられて、そしてやってたんですね。
その一つが今明けの九州教会として独立してやっておりますけれども、それは京都と言いましても、もうすぐ大阪府と京都府のもうちょっとした違いのところに、重視がたまたまそこは京都府なものですから京都に接続しておりますけれども、そこも今の平方教会から車で行ったらやっぱり10分か15分ぐらいのところなんですね。
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そういうブランチャー署を周りに作っていったらどうだろうかという、サクライト方式というそういうことですけれども。
ですからそういう方向がありましたから、じゃあ私たちが責任を持ってやりましょうということで、私が責任を持たない次の先生が責任を持っていらっしゃっているのでご苦労されているようでありますけれども、
そこで私はアシリアっていうことを聞いて、シエの46分はアシリアが勢いを持ってそしてエルサレムを壊滅する、そしてそれも地球に収める。
そんな中で神は、あのエルサレムの中の小さな祈りのそれを持ちなさって、その世界をその当時アシリアが持っておりましたから、その大群を滅ぼした。
次回過去を読んでいきますと、伊沢さんの33章当たりだったでしょうか、読んでいきますと。
時の声を上げて、そしてアシリア君が攻め込んでくるだろうと思ったけれども、何一つ音がしないんで。
それから正直上がってみましたらね、あの大群がほとんどが滅んでしまっている。
セナケルブというこの指揮官はどこへ行っちゃったのかと言ったら、この王様はとっとと逃げ延びてしまった。
いくらこのイスラエルを相手にしても、こんな人数でね、到底エルサレムを攻めることはできないということで、彼らはもう逃げてしまったわけです。
イスラエルは一人の兵も、一本の弓矢も、あるいは他の者をチーズして、その大群に対して勝利をおさめたという、勝ちどけの歌と言ったらいいかもしれません、この戦の46話は。
そういうところなんですね。
ですからルターは、そういう歴史的な背景の中でもって、こんな私の神が共におられる。
そして彼はその宗教改革の声を旗印を挙げて、そして遂に成し遂げた。
私たちはそういう流れの中でもってですね、歌は恥ありませんけれども、その中でもって起こされたプロテスタントという、そういう政制振興に立つ党会の中でもって、今日私たちは生かされている。
パウロは、この支援の46編にも歌われているように、どんな中にあってでも、誰が一番身近におられるかというならば、私たちを創られた。
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名言の言いされる神こそが、私たちの一番近くにおられる方なんだ。
そこにある、「助けた!」ということも、この46編にも書いてあります。
意図的に、助けという言葉が用いられておりますけれども。
ですから、パウロは、あてのような人々にね、あそこに行かなければ神様がいないとか、ここにいなければ本当にこの恩恵を受けられないとかじゃない。
私たちは、どこにでも、ここにいても。
ですから当時の、馬鹿に行かなければ駄目ですというようなですね、そういう決まりもない。
今私たちがおるところに、神はそばにいて、そして私たちの祈りに応えて、勝利をおさめさせてくださる。
そのことを、ルターはそこで持って経験もし、またこの歌をやげているのが、申し上げたところの、このやろうが力という歌です。
ただ必要なことは、30節に、神はそのような無知な時代を見過ごしに来ておられましたが、今はどこにでもおられ、すべての人に悔い改めを命じておられます。
31節、なぜなら神は、お盾になった一人の人により、義をもってこの世界を裁くため、死を決めておられるからです。
パオロ・アテネの一人に言いました。
あなた方は、このすべてを救いなさった誠の神、そしてこの民が、私たちの救いのためにイエス・キリストを与えなさった。
私たちが大切な、私たちにとって今必要なことは、このイエス・キリストを心から信じ受け入れ、私たちが積み重ねてまいりましたすべての罪を、この方の十字架のもとにおいてね、全部が許されているんだということを、そのまま信じようじゃないですか。
やがてこの方は、私たちを、また私たちのこの世界を、真にお裁きになるために、再びおいでになるんですよ。
パオロはここで、イエス・キリストの誕生と同時にその目的、そして同時に彼は、このお方が、再びこの地上においでになる。
だから私たちは、このお方の前にね、よくこのありをもってお迎えする、これが大切なんですと、パオロはアテネの人々に語りました。
来年はオリンピックが開かれます。
やがてアテネからオリンピックの火が灯されて、そして日本に来ます。
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私は、ちょうどそのようにですね、世界を照らす、まことの光としての、このイエス・キリストの光が、この日本中をずっと回ってね、本当の平和を、そしてその救いを。
そして神が作られた中においての、この日本においての、その素晴らしい救いの場所をなさるようにという、そういう願いを持ちますし、
アテネがね、そういうふうに用いられたらいいなと思いますけれども、そのためにはパオロはまず、この方の前に、すべての罪や過ちを繰り改めて、そして神の元に立ち帰ることで、私たちも一緒でお祈りいたします。
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