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2024-05-12 26:37

2024/05/12:父と母を敬う祝福

2024/05/12 聖日礼拝

加藤満牧師

出エジプト記 20:2-12


サマリー

彼/彼女の父と母を敬いなさいという言葉は祝福であり、神様を敬うことと結びついています。親子関係の痛みは他者との関係にも影響し、許しに向き合うことが回復のための道です。エペソビという手紙の6章の1節から4節で語られている父と母を敬う祝福について考察しています。神様は私たちの存在を尊く思い、傷を癒したいと願っており、親を敬うことが祝福に導く言葉だとされています。

親子関係と神を敬うことの関連
それでは、短く一言お祈りをさせていただきます。
愛する天の父なる神様、今日も死の御前へと私たちを招いてくださり、
あなたは御自身の命の言葉によって、今日も私たちを励まし、生かしてくださることを感謝いたします。
あなたは限りない愛をもって、私たちを愛し抜いてくださいました。
巫女が流された十字架の血潮により、私たちの罪を許し、
神の子と死、死を甦えられた復活の命、永遠の命を私たちに与えてくださり、
あなたはもはや一人で生きるのではない、永遠の主である私と共に生きるのだと、
切り離されない、死と共に生きる、新たな人生を開いてくださったことを感謝いたします。
そして、私たちを、あなたの御国を築くために、あなたが用いてくださることを感謝いたします。
神様、変わらずに世界は混沌として、戦争がありますし、
また、そのような広いところではなくて、そこにいる一人一人が傷ついていることを覚えます。
しかし、それは一言ではなく、私たちの周りにもまた、
このような悪によって傷つく、そのような現実があることを覚えます。
主は、あなたは一人一人の主です。
そして、一人一人を愛し、慰めてくださいます。
どうか、あなたが今日も、この礼拝を通しても、私たち一人一人に慰めを与えてくださり、
また、世界において傷ついている一人一人にも同様に、主が臨んでくださいますように、お願いいたします。
異性者をどうか主が憐れみ、導きを与えてください。
ここに来たくても来れない一人一人がいることも覚えています。
施設におられる方、また、自宅で礼拝を守っておられる方々、
心が痛んで来れない方々、お一人一人を主がどうか憐れんでくださり、
あなたに出会うことができますように、お導きください。お願いいたします。
これからの時を見てに委ねます。
御言葉を開き、私たちにあなたの声を聞かせてください。
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
実会を順に見てきていまして、今朝は第5回をご一緒にいたしていただきたいと願っています。
計らずも今日は母の日で狙っていませんが、今日この箇所が開かれました。
あなたの父と母を敬えということです。あなたの父と母を敬え。
おそらくこの教えは、聖書でなかろうとも、他の宗教でも、
道徳の教科書にでも載せられていることではないでしょうか。
父と母を敬うこと。
人によっては、それは人間として当たり前のことじゃないか。
そういうふうに思われる方もいらっしゃるかもしれない。
おそらく教会を出て、父と母を敬うことは大事ですよね、と
教館を求めても、大体の人がそうですね、と頷かれる。
そういう話だと思っています。
けれども、
私たちが当たり前のように、父と母を敬うことは大事だとわかっている。
そのような人に、
では、あなたはご自身のお父さんお母さんを本当に大事にしていますか。
そう問いかければ、どうでしょうか。
もしかしたら、その反応は、いろいろな反応が返ってくるかもしれないなと思います。
はい、そうしていますという人もいれば、
いやーと口をつぐむ、そういう方もいらっしゃるかもしれません。
皆さんはどうでしょうか。
実は、いろいろな人の救いの証というものを、私自身もこれまで聞いてきましたけれども、
この父と母を敬いなさいという言葉につまずく方は、実に多いです。
聖書の言葉は素晴らしいですね。
神様の愛は本当に良いことですね。
でも、父と母を敬いなさいという言葉を聞くときに、
あーと立ち止まる人たちが本当に多い。
あるご年配の方が救われてからこの箇所に気づいて、クリスチャンをやめようかと思った。
や、聖書から父と母を敬いなさいという言葉を墨で塗りつぶしたいという証を聞いたことがあります。
ある青年からは真剣なトーンで、親を殺したいと相談されたことがあります。
実に親子関係に深く傷ついている、そういう方々がいるということも事実だと思います。
そういう人にとってあなたの父と母を敬えという言葉は、
実に濃くな言葉に響くということも理解ができるわけです。
さらに濃くなことといったらあれですけれども、
実は聖書の基準というのはとても明確なんですね。
今朝実会のこの箇所を読んでいただきました。
この箇所だけを読んでもわかります。
父と母を敬うことは祝福なんです。
父と母を敬うことは祝福です。
けれども一方で、執営地域時の21章の17節というところには、こういう言葉もございます。
短い言葉なのでお読みしますが、21章の17節。
自分の父や母を罵る者は必ず殺されなければならないという言葉があります。
必ず殺されなければならない。
父と母を敬うならば祝福。
父と母を敬えないのであれば死。
実に明確なんですね。
実に明確です。
皆さんこれを聞かれてどう思われるでしょうか。
親子関係というのはおそらく地上で最初にできる人間関係です。
それだけに実に密接で豊かな関係になり得る関係ですよね。
親子関係というのは。
しかし同時にそれが何かのきっかけで傷んでしまうときに、そこには非常に深い痛みをもたらす。
そのような関係と言ってもよいのかもしれません。
親も子もこの関係を痛めたいとは誰も思っていないんです。
誰も願ってなんかいないけれども、意識的にもしくは無意識的にそういうことが起きてしまうということがある。
その原因を探っていくならば実に根深く複雑な問題であることも少なくはないわけ。
さてどうしましょうと思います。
今朝はそのすべてを扱うことなど到底できませんが、ただ実戒の言葉に目を向けて参りたいと思います。
実戒というのは何度もお話をいたしますが、それは厳しい戒めというよりかは、
私たちを神の形、本来の私たちの神の形の姿へと回復させていくための、癒しのための言葉です。
実戒をご一緒に見ながら、なぜ不応を敬うのか、その意義を捉えて、
回復の道筋をどこかで見出すことができれば、そう願っております。
親子関係と他者との関係
さて一つ目のポイント、なぜ不応を敬うのかということをちょっと見ていきたいと思いますけれども、
この5回の言葉ですね、今日読んでいただいた12節の言葉がそれにあたりますが、
特にまず最初に注目したいのは、実戒の中でのその位置づけです。位置関係です。
実戒というのは、前半、第1回から4回は、神様と人間との関係について語られていると言われます。
そしてこの後の第6回から10回にかけては、隣人との関係、人と人との関係について書かれていると言われます。
この第5回というのは、ちょうどその真ん中に位置するんですね。
ちょうどその真ん中に位置しながら、ある種、前半と後半のつなぎ目になるような言葉である、そういうふうに言われます。
いわば神を敬うことと、人を敬うことの双方に関係する言葉だと言うんです。
なぜそう言えるのかというと、実は今日の12節のあなたの父と母を敬えという言葉の、この敬えという動詞に関連するんですね。
敬えという言葉です。
この敬えと訳される動詞、ヘブロ語のカベドという言葉ですけれども、
この言葉というのは、人を敬うという動作に使うだけではなくて、実は神様を敬うという動作にも同様に使われる言葉なんですよ。
そういう言葉があえてここで使われているんです。
人を敬うということと、神を敬うということ。
そういう言葉があえて使用されているのは、それはあたかもあなたの父と母を敬うということと、
誠の父である神様を敬うということが、ここで何か重なる表現として表されるようにとあえて書かれているんです。
あなたの父と母を敬える背後に、誠の父となる神を敬うというものが見えるような、あえてそういう表現がなされている。
このことは一体何を意味するのでしょうか。
それは、あなたのこの父と母を敬えという言葉と、これまで見てきました、第1回から第4回で語られてきた誠の父なる神様を敬うということは、重なっていてつながっているということ。
いいえ、言い換えるならば、あなたの父と母を敬えという言葉は、単なる道徳律ではないんです。
これは誠の父なる神様を敬うように、あなたの父と母を敬えという言葉です。
そう理解ができる言葉ですね。
そう言われたら、人によっては反論が出てくるかもしれません。
先生、そうは言っても、誠の父なる神様とうちの親は全然違いますよと。
神様は尊敬できますと。神様は素晴らしいです。
けれどもうちの親は…と、そういう方もいらっしゃるかもしれません。
確かに、父なる神様の愛を持って育ててもらったという経験がもしもあるのであれば、それは本当に祝福です。
心から喜んでいいことだと思いますが、そうでないとするならば、
確かに父なる神様と私たち地上の親というものは全然違うと言ってもいいかもしれませんね。
全く違うかもしれない。
ただ、そうは言いながら、しかしこの誠の父である神様と私たちの親にも共通点もあるんです。
共通点もある。
それは何かと言いますと、どちらも私という人間の命を生み出してくれた、いわば私の命の根源だということです。
これは共通するんです。
私という命を生み出してくれた、私という存在、命の根源。
これは不思議なものですけれども、共感されるかどうかあれですが、
私たちは自分の親を否定し軽蔑をするときに、自分自身の命を否定し軽蔑することにどこかでつながっている。
そういう感覚はないでしょうか。
先ほど申し上げたように、親子関係というのは実に深いものです。
深い祝福になり、深い痛みを時にもたらすものですが、
そうなる理由は、親がいなければ私という存在、命はありえないという祝禅たる事実があるからです。
言い換えるならば、親という存在は自分という存在と結びついている。
親という存在は自分のルーツである。
そういう言い方は多分避けられないのではないでしょうか。
まさにそれは、神の形として作られた人間が、父なる神様と結びついているようにです。
父なる神様を否定するとき、やっぱり私たちは何かが歪むんですよ。
親の否定は自分の命の否定につながる。
神を否定する人間がある種歪んでいくように。
これは何か重なっているわけですね。
親子関係で傷つくときに、私たちは生きることに自信が持てなくなるということがおそらくあるのだと思います。
強い自己否定の感情を抱えて生きてしまうということがあり得ます。
私なんか生きていても仕方がない。
でもその根は一体どこから来ているのか。
親との関係というものは否定できないところがあるのかもしれません。
いえ、中にはそんな親だからこそ、そんな親などいなくても私自身は自分一人で生きていけると強く生きていこうとする人も中にはいらっしゃいます。
けれども共通して残るおそらく痛みがあるのではないでしょうか。
それは自分の命の根源を敬うことができない。
それを憎んでしまう。
それ故に癒されない痛みがずっとある。
そういうことが私たちはあるのではないか。
このことはきっとあえて申し上げますが、親が存命であるかなんか関係ないんですよ。
その方が亡くなったとしても憎しみを抱え続けることはできます。
そしてそれがずっと私たちを縛るということがあり得ます。
そしてそのある種の痛みは他者との関係に広がっていくと言えるのかもしれません。
今日の歌詞の12節をもうちょっと読みますと、
あなたの父と母を敬え、あなたの神主が与えようとしているその土地で、
あなたの日々が長く続くようにするためであるという言葉です。
与えられた土地で日々が長く続くというのは単純に長寿の祝福。
そういうことも言えるでしょう。長寿の祝福です。
ただもう一つは共同体の安定です。
その与えられた土地で長く続いていくというのは、
家族はある種共同体の最小単位です。
親子関係の痛みがある種他者との関係に痛みをもたらし、
表面的な人は何とでも仲良くできるんですが、
深いところで互いに愛し合うことを困難にするということが起きてしまう。
誰もそんなことは望んでいないのにです。
誰もそんなこと望んでいないです。
今朝のあなたの父と母を敬えという言葉は、
ごめんなさい、私の話もそうかもしれませんが、ちょっと重たいですね。
ただそれが祝福であると聖書は明確に語るんです。祝福だと。
しかしあなたの父と母を敬え、それが祝福の道だとはっきりと言われて、
それが大事だと分かっていても、そう踏み出すことのできない。
私たちは一体何ができるのだろうか、一体何が必要なのでしょうか。
それはおそらく、親を許すということです。
後半の第二ポイントを見ていきますけれども、
回復のために許しに向き合うということです。回復のために許しに向き合う。
エペソビという手紙の教訓
人を許すための法定式での、去年もちょうどこの時期に話しましたが、
人を許すための法定式というものは存在しません。
ただ大事な事実として、それでも私たちが覚えておかなければならないことは、
神様は私たちを愛し、私たちの傷を癒したいと願っておられ、
そのために機会も力も与えてくださるということです。
神様はそのように私たちに働いてくださいます。
その上で、一箇所だけご一緒に読みたい箇所があります。
一箇所というか一つの文章ですね。エペソビという手紙です。
まずエペソビという手紙の6章の1節から4節というところをお開きしたいと思います。
エペソビという手紙の6章の1節から4節というところをお読みしますと、
新約聖書の391ページですね。
エペソビという手紙の6章の1節から4節というところをお読みします。
子供たちよ、主にあって自分の良心に従いなさい。これは正しいことなんです。
あなたの父と母を敬え。これは約束を伴う第一の今しめです。
そうすればあなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続くという約束です。
父たちよ、自分の子供たちを怒らせてはいけません。
むしろ主の教育と勲会によって育てなさいと。
このエペソ書の後半というのは皆さんよくご存知の通り、パウロは家族についてとても具体的に言及をしてまいります。
家族に言及をしていくんです。
そして先ほどの第5回の図と同様に、ここでは夫婦関係と親子関係について書いていますが、
それをキリストと教会という関係と重ねて彼は語ります。
これは結びついているんです。離れてはいない。
教会がキリストに従うように妻よ、夫に従いなさいということが言われる。
そしてキリストが教会を愛するように夫よ、妻を愛しなさいということが言われます。
余談ですがこれは夫の責任の方が大きいんですよ。
教会がキリストに従うのは不完全さがあります。
でもキリストが教会を愛する愛は完全なんです。
この歌詞を読むためにいつもドキッとします。
ああ、夫の責任重たいなということを思わされますが。
そしてここでパウロは、この読んでいただいた通り2節3節では、
この10回の第5回の言葉を解釈をします。
父と母を敬えというのは第一の忌ましめなんだ、一番大事な忌ましめなんだと彼は理解をします。
子供は両親に従いなさいとそのように説きますし、
同時に4節には父たちよ、自分の子供を怒らせてはいけないと親側の責任も語ります。
第5回をさっと見るときに私たちは子供だけの責任のように見えますけれども、そうではないですね。
親側の姿勢もある、親と子の相互に責任がある、そのように彼は理解をして語ります。
ただ、この教えの始まりはどこに遡るかというと、実はエペソ書の5章の最初です。
5章の1節。
ですからという言葉があります。
ですからこれを守りなさい。
じゃあ何だから守れているのか、その前の箇所、4章の32節というところにこういう言葉があります。
互いに親切にし、優しい心で許し合いなさい。
神もキリストにおいてあなた方を許してくださったのです。
ですから愛されている子供らしく、神に習うものとなりなさい。
また愛のうちに歩みなさい。
キリストも私たちを愛して、私たちのためにご自分を神への捧げもの、また生贄へとし、香ばしい香りを捧げてくださいました。
新海約第3版では、この4章の32節は、神がキリストにおいてあなた方を許してくださったように互いに許し合いなさいということです。
神がキリストにあって許してくださったように許しなさい。
エペソ書は巡回書館と呼ばれまして、いろいろな教会で読まれるために書かれた手紙だと言われますけれども、
何でこの手紙にわざわざパウロはこの家族のことを書いたのか。
パウロは当時の教会どこに行っても家族の問題があったからです。
家族の痛みが当時の教会にもあったからでしょう。
父と母を許せない。
そこから生まれてくる、広がっていく家族の痛み。
そしてそれは神の家族である教会への痛み。
そういうものにつながっていったからかもしれません。
けれどもパウロはここで許し合いなさいと語るんです。
許し合いなさい。
なぜなら神がキリストにおいてあなた方を許したから。
すなわちこれはこう言えるのではないでしょうか。
神の子としての尊さ
神はあなたを愛するがゆえに、最も愛する御子あの十字架に使わされ、
御子はあなたを愛するがゆえに、命までもあの十字架で捧げられた。
それほどまでに誠の父である神の目に神の子であるあなたは尊いんです。
尊いんです。
ですからです。
ですから神に習いなさい。
そういうことが言われる。
神の目に私たちは尊いんですよ。
人を許すための法廷式というのは存在しないかもしれませんが、
ただエペスト書が語る許しの前提というのは、
許されている喜びを知っているかということです。
許されている喜びをあなたは知っているか。
許されて神の子として受け入れられている、
神に尊いものとして愛されているその喜びをあなたは知っているか。
それをある種浴びるほどに受け止めること。
浴びるほどに受け止めること。
それが許すために語られる前提です。
私たちのうちにはなおもですね、
なおも私には生きる価値がないという
自己否定の言葉というものが渦巻くことがありますが、
しかしはっきり申し上げます。
その声は全部嘘です。
全部嘘です。
はっきりそう言えます。
なぜなら誠の父である神や巫女を
私たちの命のために十字架に捧げられたんですよ。
それほどまでに価値がある私たち一人一人なんです。
その命が死んでいいとかなくてもいい、そんな命のわけがない。
私たちの命は尊いんです。
憎しみを手放し、家族の祝福を迎える
誠の父の目から見て私たちは尊いんです。
地上の親が何と言おうとです。
あなたは誠の父である神様に喜ばれて生まれた
その事実をはっきりと受け止めなければならない。
そういうことを言われるのです。
もう終わりますけれども。
私たちが今、親を敬うことができているならば
それは心から感謝すべきことです。
本当に感謝しなければならないことです。
当たり前のことではないからです。
けれども、そうではない場合
私は二つのことを今朝の箇所からお伝えできると思うのです。
一つは、神様は私たちの存在をとことん尊いと思い
私たちの傷を癒したいと願い
そのための機会と力を必ず与えてくださるということです。
そしてもう一つは
あなたの父と母を敬え
これは濃くな言葉に見えますが
あなたと神様との関係
そしてあなたと家族、隣人との関係を
祝福へと導く言葉だということです。
これは祝福なんです。どう考えても。
そうである場合
あえて皆さんに申し上げますが
もしも親を敬えていないならば
親を許すことに向き合いませんか?
そのことを向き合って
聞かせていただけたらと思うのです。
憎しみを手放すとき
私たちは信じられないほど自由になります。
信じられないほど自由になります。
憎しみは人の心を縛り歪めていきますが
あなたの父と母を敬え
あなたの父と母を敬うことから始まる
祝福があるんですね。
誠の父なる神が
そう私たちにおっしゃってくださっています。
焦らなくていいかもしれませんが
互いに許しへと向き合わせていただきたい
そのことを願っております。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
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