神様の名を呼ぶ態度
今日は、新旧式ということで来てくださった方もいらっしゃいますし、
また、お子さんの祝福のお祈りのために来てくださった方もいて、
すごく感謝しています。心から歓迎をいたします。
また、先んじて休暇をいただいてありがとうございました。
ゆっくり休めましたし、無事に帰ってきました。
また、続けて報酬をさせていただきたいと思います。
一言短くお祈りをして、メッセージをさせていただきます。
愛せる天の父なる神様、尊い皆を心から賛美をいたします。
今日も私たち一人一人を主の御前へと招いてくださり、
あなたの命の言葉によって私たちを生かそうと、
あなたご自身がこの場所にいて待ち構えていてくださることを感謝をいたします。
私たちを愛し、私たちが一人一人が滅びないために、
私たち一人一人が罪の歪みから解き放たれ、自由になるために、
あなたは愛する御子イエス様を十字架へと捧げてくださいました。
その流された血汁によって私たちの罪が完全に許され、
神のことされ、それだけではなく、
三日目に甦えられた主の命によって、
永遠なる主と共に生きる永遠の命を与えてくださったことを感謝をいたします。
私たちは主よ、本当に多くのことを抱えています。
多くのものに取り囲まれています。
その中で無力を感じるお互いですけれども、
しかし、あなたが共におられることが何よりもの支えです、力です。
どうかそのことをまた今朝も受け止めることができますように。
そして御言葉を通して、
あなたがここほどまでに私たちを愛してくださっているのか、
その事実にまた目を開かれることができますように、
聖霊様が働き、私たちを導いてください。
お願いをいたします。
特にここに来たくても来れない方々、
ご自宅で礼拝を守っておられる方々がいらっしゃることを覚えますし、
施設におられる方、
また施設の中で心を痛めておられる方もいらっしゃることを覚えます。
お一人一人が慰められ、死によって責められますように、
あなたが働いてください。
お願いをいたします。
これから御言葉を開きます。
あなたが私たちに命の言葉を語りかけてくださいますように。
あなたに期待をして、
イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アメン。
昔、地元の友達に愚痴られたことがあります。
仮にその人をA君としましょう。
彼からこういう愚痴を聞かされました。
このA君が大学を卒業した後ですね、
小学校以来会ってなかったB君という友人から連絡が来たそうです。
久しぶりに会いたいとのことで、
二人は地元のガストに行ってですね、
そこで再会して、
4時間ぐらい昔話で盛り上がったそうです。
小学校の時、お前ああだったよな、こうだったよなと。
A君はとても楽しかったそうなんですよ。
いや、それだけではなくて、
突然こんな小学生以来連絡をしてくるなんて、
B君は一体何かに困っているのではないか。
そういう心配まで彼はしました。
けれども最後の方で、
その4時間話して楽しく喋ったその会話の最後の方で、
B君が話題に出してきたのは思いもよらない話でした。
いわゆる隙間時間で簡単に稼げるという類の話です。
簡単に言うならば、マルチ商法の関与だったわけですね。
A君はそれを聞いてとてもショックを受けたそうです。
とてもショックだった。
B君は私に会いに来たのではなくて、
関与目的で来たんだということ。
それじゃあ、これまで4時間楽しく喋っていたこの時間は一体何だったのか。
彼を心配し案じた私の気持ちはどうなるのか。
私たちの友情は一体何だったのか。
そういうことを思ったそうです。
私はA君にこういうふうに愚痴られました。
結局Bが欲しかったのは、
俺の名前だけで、俺に対しては興味も関心もなかったんだ。
それがただただ悲しい。
ただただ悲しいという話を愚痴られました。
私はこの話を、今朝の聖書箇所のメッセージを頭の中で思い、
巡らせる中でふと思い出したんです。
今朝の聖書箇所は特に今日注目をしますのは、
続けて十回、旧約聖書の十回を見てきていますけれども、
十回の第三の言葉、第三の言いましめと言われる、
七節の言葉ですね。
あなたはあなたの神主の名を乱りに口にしてはならない。
主は主の名を乱りに口にするものを罰せずには置かない。
この言葉を思い巡らしながら、
あなたの神様が言わんとしていることというのは、
今言ったようなA君とB君の関係に似てるんじゃないかな、
とふと思わされました。
あなたはあなたの神主の名を乱りに口にしてはならない。
毎回確認をしていきますけれども、
十回を見ていっています。
十回の言葉というのは一見厳しそうに見えますが、
厳しい言葉や私たちを束縛するための言葉ではないですよ、
ということを毎回確認をしています。
十回の言葉というのはイエス様を信じ、
神のことをされている私たちであっても、
まだまだ罪の歪みってある。
人間としていろいろな痛みはある。
神様は私たちを愛するが故に、
その歪みや痛みから解放し、
癒やしたいと願われる神である。
その時に神様が語られる言葉で大事なのは、
十回ですよ。
十回というのは厳しいことをスパンと指差しながら、
あなたと神様の関係、あなたと隣人との関係は、
ここが問題があるんじゃないですか。
ここに痛みがあるんじゃないですか。
じゃあそのところをどうにか一緒に考えていきましょうよ。
種の名を呼ぶことの問題点
それが十回の言葉です。
今日はまさにこの種の名を乱りに呼んではならないということ、
このことを通してある種、
神様と私との関係において大切なテーマを扱っているので、
そのことを一緒に見ていきたいと願っています。
さてですね、今朝の言葉は二十章の七節です。
もう一度前半だけ読みますと、
あなたはあなたの神、主の名を乱りに口にしてはならないという言葉ですね。
これは一体何を注意しているのでしょうか。
種の名を口にするな、
つまり種の名、神様を呼ぶことを全面的に禁止している、
そのような言葉なんでしょうか。
そうではないはずです。
聖書の中には実に種の名、神様と呼びかける場面であったり、
呼びかけようという言葉がいくつもあります。
せっかくなのでちょっとちらちらしておきますけれども、
例えば詩編の135編の1節から3節、
開くのが大変な方はお読みしますので聞いていただけたらと思いますが、
詩編の135編の1節から3節というところはこういう言葉があります。
詩編135編1節から3節。
ハレルヤ、種の皆を褒めたたえよ。
褒めたたえよ、種のしもべたち。
種の家で使え、私たちの神の家の大庭で使えるものよ。
ハレルヤ、種は誠に慈しみ深い。
種の皆に褒め歌を歌え。
その皆は実に麗しいという言葉があります。
種の皆を褒め歌いなさい、呼びなさい、歌いなさいということを言っている。
それは本当にそういうふうにしなさいということでしょう。
もう一箇所だけ開かせていただくならば、
エレミア書の後ろのアイカというところがあるんですけれども、
アイカの3章の55節から57節。
これも私読みますので、開ける方は開いていただいたらいいと思います。
アイカの3章の55節から57節。
種よ、私は皆を呼びました、穴の深みから。
あなたは私の声を聞かれました。
私のうめき声に、私の叫びに、耳を閉ざさないでください。
私があなたを呼び求めると、あなたは私に近づき、恐れるなと言われました。
とても慰められる言葉ですけれども、
これもアイカの主人は穴の深みから種の皆を呼んでいる。
要は自分のどん底からですよ。
自分の本当にどうしようもないどん底から神様と呼びかけている。
そのことが聖書に書いてあります。
イエス様も有名ですけれども、
ヨハネの福音書というところには、
私の名によって祈りなさいということを言っているので、
ですから種の名を呼ぶこと自体というのは聖書にあふれているんです。
だからそれ自体が問題ではないですよね。
じゃあ一体何がここで問題視されているのでしょうか。
それは、種の名を呼ぶときの態度であったり心構えということ、
そういうことだと思うんです。
具体的に言うならば、これは種の名を呼ぶときに
身だりに呼ぶなということです。
身だりに呼んではならないよということが注意されているんです。
身だりに。
この身だりにという言葉は、元のヘブル語ですとこういう言葉なんです。
空っぽだとか空虚という意味です。
空っぽという意味です。身だりにということ。
身だりに呼ぶな、それは空っぽだということですから、
つまり種を呼ぶときに空っぽで呼ぶなということですよね。
種の名を、種を空っぽで呼ぶなということです。
より意味がわからなくなってきたような気がしますけれども。
けれども、この内容を理解するためには、
そもそも名前って何なのということを
名前の重要性
ちょっと考えなければならないと思います。
名前とは一体何なんでしょうか。
ちょっと一つ例えというか、お話をしますと、
例えば、私、もう一年前になりますが、
皆さんに自己紹介したはずなんですよ。
私は加藤美鶴ですと。
私が名前を自己紹介したら、皆さんは、
ああそうか、この人は加藤美鶴なんだということがわかって、
その次から私に会うときには、
加藤先生って呼ぶことができますよね。
加藤先生と。
これが、ちょっと想像してください。
名前がなかったら、どうでしょうか。
名前がなかったら。
しばらくは人と関係を結ぶときに、あなたって言いますよね。
あなたは、彼は、大名詞で話ができるんです。
けれども、しばらくやっていくと気づいていくんです。
これ以上関係が深まらない。
名前を知らない限り。
あなた、あなたって言っているだけでは、関係はいつまでも深まらない。
名前と実在の結びつき
不思議なものなんです。
でも、こういうことがおそらく起きるんです。
なんでなんでしょうか。
それは、おそらく、
名前は、その名を持っている存在と結びついているんです。
名前というのは、その名を持っている存在と結びついている。
難しい言葉で言うならば、
名前と実在は一体なんです。
名前と実在というのは、結びついている。
名前とその実在というのは、切り離せません。
私たちもそうですけれども、
名付けられるから認識できるんです。
なんとかハラスメントって最近増えてきましたね。
でも、あれも昔からあったことです。
昔からあったことをみんなが問題視できるのは、
なんとかハラスメントという名前を付け始めたからです。
名前が付くと認識ができる。
理解ができる。
そして、名前を呼ぶから関係が深まっていく。
そう言えると思うんです。
余談かもしれませんが、
創世紀というところを見ると、
神様が作られた最初の人間アダムが、
神様と一緒にやった働きは何か。
動物の名前を付けていくということなんです。
実に神様の大切な創造の働きを担っている。
また、名前と実在が結びついているから、
その逆もしかりなんですね。
聖書の中でよくありますけど、
名前が変わるってありますよね。
アブラムからアブラハムだとか、
ヤコブがイスラエル。
あれは何かというと、
実在の方が変わったんです。
神様との戦いの中で。
神様との取り扱いの中で。
実在が著しく人間として成長した。
変わったから名前が変わるんです。
そういう風に、実は名前と実在というのは
切り離すことができない。
そのことを覚えておいていただきながら、
神様の名前と実在
もう一歩踏み込んで、
もう一つのことを考えましょう。
では、神様の名前って一体何だったでしょうか。
神様に名前はあったでしょうか。
よくご存知の方は分かるかと思います。
モーセがそのことを神様に聞きましたね。
出エジプト紀の4章あたりで。
モーセがまさに、
イスラエルの民を奴隷から導き出すときに、
あなたの名前は一体何ですか。
教えてくださいと神様に聞きました。
とにかく彼は、具体的なホニャララという名前を
神様が教えてくれると期待していたはずなんです。
けれども、神様がモーセに答えた名前は何かというと、
私はアルでしたね。
私はアル。
これは何でこんなことを言われたか。
先週の話と少し繋がるんですけれども、
神様というお方は目に見えないほど偉大なんです。
だから神様というお方を何かの像に形容すると
誤解が起きて何かおかしくなるという話を
先週見ましたけれども、
それと同じように目には表せないほど
偉大な実在を持っている神様が
特定の名前にまた限定されることもないんです。
特定の名前を知ることを私たちは難しい。
けれども、だからこそ神様は
私たちに名前を記すよりも
神様をご自身が持っている一番確かな性質というか
一番のご性質と名前として教えられた。
それは私はアルということです。
実在しているということです。
私は存在をしているということです。
言うまでもないかもしれませんが、
聖書という読み物においては
神様の実在というのは前提です。
問われることすらありません。
人間はどういうふうに作られたかということは聖書は書きますけれども
神がどういうふうに作られたかということは聖書は書きませんよね。
それと同じように創世紀の始めも
聖書の一番最初の書き始めも
はじめに神はから始まります。
聖書という書物が言わんとするのは
私たち人間がここに存在しているという
ある種の実在性よりも
神の実在の方が確かなんだというのが聖書の主張です。
ちょっと難しい言い方をしました。
でもそういう読み物ですね。
さて遠回りしましたけれども
ここまで見ますと
この第三回の今しめの意味が何となく見えてくるんです。
先ほど確認をしましたが
名前と実在は切り離せないんです。
名前とその名を持っている存在というのは切り離せない。
そうであれば
種の名を乱りに
種の名を空っぽに口にするなというのは一体どういう意味か。
それは
その神様の名前と実在を切り離して読むなということです。
空っぽで読むな。
種よと名前を読みながら
そこに神がいるということを
切り離して読んではいけない。
名と実在を切り離して読んではいけない。
種よ、種よと読みながら
実は神の実在がそこにあるという重さを知らずに
名前を読んではいけないということです。
レビキというところには
19章の12節に書いていますが
偽りの誓いにおいて
神様の名前を使っちゃいけませんよということが書かれています。
それは当然なんです。
偽りというかね
嘘をつく契約をするときに
神の名を使う。
それは神を恐れない行為でしょう。
それはなぜかというと
神の実在がそこにあると思っていないからです。
神様の名前と実在を切り離さない
種の名によって誓いますと言いながら
別にそこに神様がいるということを
全然意識もしなければ
普通に誓えるじゃないですか。
でもそれは誓ってはならない。
なぜならそれは身だりに唱えているから。
そして新約聖書においても
マタイの福音書
ちょっとさっき6章開きましたが
ちょっとここもお読みします。
マタイの福音書の7章の
正式になられたら分かるかと思いますが
3章の説教の中難しいですね。
7章の21節から23節というところに
イエス様こういうことをおっしゃられました。
マタイの福音書の7章の21節から23節というところを
お読みしますけど
こういうことが書いてあります。
私に向かって主よ主よというものが皆
天の御国に入るのではなく
天におられる私の父の御心を行うものが
生えるのです。
その日には多くの者が私に言うでしょう
主よ主よ
私たちはあなたの名によって予言し
あなたの名によって悪霊を追い出し
あなたの名によって多くの奇跡を
行ったではありませんか。
しかし私はその時彼らにはっきり言います
私はお前たちを全く知らない
不法を行う者たち
私から離れて行け
一読して厳しい内容に聞こえますけれども
ここでも同じことなんです
主よ主よと言いながら
御心を行わない人たちに向けて
この言葉は語られている
そして主よ主よと言いながら
予言しました悪霊を追い出しました
色々な派手な業はするのだけれども
自分が聞きづらい神の言葉の見心に対しては
実は聞こうとはしない
なぜか
主よと呼びながら
神様がそこにいると思っていないからです
実在が切り離されているからです
主よと呼ぶ時にそこに神がおられるという
重さを無視しているからです
それはいわゆる
神様のことを知らないということですよね
神様のことを無視して生きていくということと
結びつくので
ここで23節には
私はお前を全く知らないと神様は言う
なぜか
先に私が神様のことなんか知らないという
生き方をしているからです
実に義不尽なことというか
そういうことではなくて
やっていることを同じように
やられているということなんですね
もう戻りますけれども
これはある種
罪がもたらした根深い歪みということだと思うんです
神様の名前と神様の実在を切り離してしまう
先ほどの友達の話ではありませんけれども
私たちは主の名によって祈ることが許されているんです
主の名によって祈りますよね
けれども
皆によってと言いながら
そこに神がおられること
皆によって主よと言いながら
そこに愛の神が私たちのために
そこで待ち構えているということ
その重さを見失ってしまうのであれば
厳しいかどうするならば
むしろ主の名が
あたかも自分の願いを叶える装置として
主よと叫び
皆によって祈る
そういうことをしてしまっているのであれば
結局私たちが欲しいのは
神の名だけであって
神様自身には興味も関心もないのかもしれない
でも
神様はおそらくそういうことをされると
ただただ悲しいと言われるんじゃないでしょうか
神と人との愛の関係を築くということを
神様は願っているのに
あなたの名前だけください
あなたのことなんかどうでもいいです
それは悲しいんじゃないでしょうか
でもそういう態度を取ってしまうことこそが
まさに神に愛され
神を愛するという関係が破壊されている
そういうことが言えるのだと思うんです
では
このある種
十回教の七節は
そういうある種歪みを持っている私たちに
どのような軌道修正を促すのでしょうか
それはたぶん一言で言うと
こういうことだと思うんです
神の名を
神の実在の重さを持って
呼びましょうということです
神の名を
神の実在の重さを持って
呼びましょうということです
このことは
言い換えるならば
実は今朝もう一箇所読んでいただいた
イエス様の死の祈りに結びついているんですね
マタイの福音書の六章の九節というところを
もう一箇所今日読んでいただきましたが
こういうことが呼ばれます
ですからあなた方はこう祈りなさい
天にいます私たちの父よ
皆が聖なるものとされますように
神様の名前と聖とされること
皆が聖なるものとされますように
去年ちょうどこの時期に
この箇所から話をしたことを覚えていますが
皆が聖なるものとされますように
皆
神様の名前が
聖とされるというのは
これは聖書の用語では
聖というのは
このようなものと横並びではなくて
この世とは異なる
神が神であるという特別さを
聖と言いますよね
ある種イエス様は
神様を神様として呼びなさい
そして神様を神と呼ぶときに
私たちはそんな
実在なしにポーンと呼ぶような呼び方は
きっとできないんですよ
そこに愛の神がおられるということを知るときに
そしてこれはイエス様からするならば
祈りなさいですから
祈りをやっぱりしなければならないということです
私たちは何度もこのことに関して
祈らなければならない
常にある種
皆の豊かさを見失ってしまう私たちがいます
種の皆というものを
自分の願いを叶える便利な装置に置き換えてしまう
私たちがいます
これは私も含めてですけどね
そうなってしまう私たちがいます
その私たちの叫びにおいて
私たちの祈りにおいて
種の名が聖なるものとなりますように
神を神としてその方の名前を呼ぶことができますように
そう祈りなさいとイエス様はここで教えておられるんです
あなたはあなたの神種の名を
みだりに口にしてはいけないと
口にしてはならないと
今日の20章の7節で言われています
祈りによって神様との関係を築く
この実会の言葉の前に
私たちが今朝互いに受け取りたいことは
種の名を呼ぶ
種の名によって祈るということの
計り知れないほどの豊かさと重さです
豊かで重いことなんですこれは
皆を呼び皆によって祈るとき
名前と実在を切り離さないで理解するならば
私たちが種の名を呼び皆によって祈るならば
神はそこにいるんです
神はそこにおられる
神様はある種そういうふうに
理解されることを望んでおられるんですね
それは豊かなことなんです
私たちはもうよく知っているでしょうけれども
私たちの罪から許し、癒すために
ご自身の命以上に私たちを愛してくださる神がいる
十字架ってそういうことですよね
私たちの罪、私たちの歪み
いろいろな人間の歪みってあります
私だと思っています
でもそういう私たちを癒し救い出すために
神は命をも捧げられた
それほどまでに私たちを愛してくださった
今もその愛は変わらないというのが
聖書の言いたいことですね
その神様が復活してんに登り
今も王となっておられるイエス様がいる
そして前頭の私たちの父なる神がそこで
その祈りを聞き、見てを動かしておられる
祈る、主よと叫び、主の名によって祈るというのは
実に豊かなことではないでしょうか
ただ同時にこれは重いことなんです
重い
必然的に私たちは神様の御前に立たされるんです
主よと祈るときに
そのときに恐れなくていいです
恐怖心を持たなくてもいいけれども
威風の念は痛かざるを得ないですよ
神は神であり人は人ですから
そして自分の願いを聞いてもらうだけではなくて
同時に主がそこにおられるのであれば
主の御心に対して私たちの胸を開かざるを得ない
ですよね
開かざるを得ない
御心とは何なのか
シンプルには私たちが神様を愛し
隣人を愛しともに生きていくことです
それが御心です
でもそれを避けようとする私たちがどこかにいる
神様なんか知らないって言いたいし
あの人とは仲良くなりたくないって私たちがいる
でも主の御前に立たされるとき
そこが問われるんです
このある主
聞きづらいかもしれない主の言葉を
しかし無視はできなくなっていくのではないか
怖いからではないんです
神様と人間の本来の
神様と人との関係にある
本来の豊かさと重さを回復していきましょう
これは本来の豊かさと重さなんですね
罪人を愛する神
どんな罪があったとしても
歪みがあったとしても
それでもなおも愛する神と
神を恐れ神を愛する人という
神と人との愛の関係の回復
それがこの第三回が進めることです
皆によって祈り叫ぶとき
神様はあなたの前におられる
名前と実在を切り離してはならない
そう思わされるときにどうでしょうか
なんと頼もしく
なんと重く
けれども同時に私は思うんですよ
なんと愛おしいことだろうか
神がそこにおられるんですよ
私たちは神様との関係を
よりよく神様との関係を築くための実会ですけれども
ある種神様との間と
私と神様との関係は
豊かで重さのある関係を築きたいと思います
重さがある
私たちの呼ぶ神の皆が
生徒されていきますように
そのためにみだりに私は
種の名を呼んではならない
そのことを
ご一緒に覚えさせていただきたい
私もよく間違ってしまうものですから
種の名をご一緒に
心を込めて
種がそこにおられることを信じ
呼ぶお互いとならせていただければ
幸いだと思います
一言お祈りをしてメッセージを終わります