1. 名谷教会
  2. 2019/08/04:神に祝福された人..
2019-08-04 51:38

2019/08/04:神に祝福された人生の法則21(7)ヘルシー・クリスチャン・ライフの法則

 2019/08/04 聖日礼拝

尹善鎬牧師

出エジプト記 -16

00:01
皆さん、おはようございます。
毎日暑い日が続いていますけれども、
またこのように暑さにも負けずに、
宿の宮に集まって、
共にね、今日は子どもたちもたくさん来て、
一緒に礼拝できることを本当に感謝いたします。
神様が、私たちの霊魂どもを支えてくださっておられることを、
本当に心から感謝いたします。
メッセージに入る前にですね、
先週1週間、皆さんの大きなお祈りと、
あるいは捧げ物、あるいは
お家の招待なりに、一緒にですね、
働いてくださいました、
資本の協会からの選挙チーム、
5人の30代の青年との活動がですね、
いろんな分野で活動ができました。
本当に感謝いたします。
簡単にですね、たちに5、6枚ぐらいですけれども、
近くても来れなかった方々、
背後で祈ってくださった方々のためにもですね、
密着報告をしたいと思います。
まずですね、土曜日と月曜日は、
トラックと一緒に、
協会のチントさんが10人ぐらいですね、
土曜日も、土曜日はちょっと、
あいにく雨でしたけれども、
皆さん、雨の中でもですね、
一緒に本当にトラックとあいを着てくださり、
またその後は、
まあ十分見えるんじゃないですかね。
いいですか。
そういうような時がもたれました。
感謝いたします。
次。
それから日曜日の夕方は、
京都の青年たちを招いて、
交流会をもたれました。
一緒に食事をしたり、
またクリスさんとして、
社会人も学生さんもいましたけれども、
彼らが相談して、
先輩として一緒に相談の窓口のようにですね、
祈り合うときがもたれて、
特に京都の青年たちがですね、
本当に喜んで励まされて帰りました。
ありがとうございました。
月曜日の夕方は、
近藤姉妹のお家と中川先生のお家も、
両方でですね、家庭訪問させていただきました。
私の手元には、
中川先生のお家の写真がなかったので、
近藤姉妹のところで写真ですね。
暑い中、本当にいい間際のときがもたれて、
彼らもですね、本当に感謝して恵まれて、
いろんなことを学んで帰りました。
火曜日の夕方でしたね。
韓国語が好きな人、
日本語を喋れる方、
交流を求める方々、
外に大村巨大の知り合いの方々とか、
E君の知り合いの方々が来てくださって、
一緒に良い間際ができたとき、
03:02
あんたこの日比谷の方もですね、
1,2,3人も来てましたから、
良い印象を持ってですね、
間際のときがもたれました。
本当に感謝いたします。
それから水曜日は、
ピアノと歌も歌ってくれて、
コンサートが開かれました。
大体私が数えた人数としては、
40人くらいだったと思いますけれども、
暑い中、多くの方々が来てくださって、
本当に良い間際のとき、
またコンサート、メッセージのときがもたれました。
皆さんも暑い中、多くの方々をですね、
誘ってくださり、祈ってくださり、
また一緒にね、参加してくださって、
本当にありがとうございました。
はい、写真はここまでです。
見えるところで、見えないところで、
皆さん本当に喜んでですね、
放送してくださって、
心から感謝いたします。
では、メッセージの前に隣の方々と
挨拶をしましょうか、皆さん。
はい、よろしくお願いいたします。
ありがとうございます。
指導と祈りいたします。
神は大せられた。
私はあなたと共にいる。
これがあなたのための印である。
私はあなたを使わすのだ。
あなたが民をエジプトから連れ出すとき、
あなた方はこの山で、
神に仕えなければならない。
神様感謝いたします。
世の中から私たちを
生命として育してくださって、
あなたの子供としてくださった恵みを、
この朝、改めて覚えて、
心から感謝申し上げます。
今から主よ、
生ける主御自身が語ってくださる
主の御声に耳を傾け、
心が開かれ、
私たちの魂が主人を愛し、
あなたの御言葉を聞きし、
そして恵みと力を天から揺らし、
そして立ち上がって
主のために生きるものとしてくださる。
ただただ主の栄光だけが現れますように。
イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン
06:27
ヘルシー・クリスチャン・ライフの法則
いろんな運動器具などが開発されて、
買ったり売ったりしてあります。
食べ物にもとても注意して、
良いものだけを食べられたり、
そういうふうにして、
体の健康に注意を払って、
元気に長生きしたいという、
人間の願いがそこにあるかなと思いますね。
それは大事なんですよ。
神様がくださった体ですから、
この体をちゃんとよく保って、
管理することも、
これも大事なことですけれども。
ところで私たちは、
天の父なる神様を信じるクリスチャンとして、
体の健康問題だけではなく、
自分の心肝の健康、
霊性の健康、
あるいは自分自身の霊的状態にも、
注意を払うべきではないでしょうか。
もちろん神様を信じるとき、
その最初からですね、
完璧な心肝状態になる人は、
一人もいないと思いますね。
信仰的に見れば、
最初はあの後ろにいる赤ちゃんみたいに、
幼稚だったり、
走るところか、歩けたらすごいくらいの、
クリチャンの時期が、
私たちにあったのかもしれません。
みんなそうだったと思うんですね。
しかしどうですか。
信仰生活をしていく中で、
1年、2年、5年、
10年、あるいは20年、
あるいは30年、あるいは50年、
信仰生活を積み重ねていく中で、
09:03
時には四国もありますけれども、
時にはいろんな訓練を受けたり、
時には苦しみや悲しみのトンネルを通り抜けたり、
特にですね、
信仰生活をしていく中で、
自分自身が一体何者なのか、
自分自身の正体を、
神の目で見ることができるようになる。
そして、神様が望まれる、
この成熟を成し遂げる、
そういう時にいくと思うんですね。
皆さん、実際に神様に祝福される、
その人生の始まりは、
自分自身のことや周りのことや、
あるいはこの世界のこと、
あるいはこの世界のことを、
人間の目で見て判断するのではなく、
神の目で、神の心で、
聖書的な目で見て判断して分かって、
行動をとる時に、
その時に初めて神の祝福が始まる。
そして、このように成熟するためには必ず、
神様のお取り扱いというか、
神様の働きというか、
あらゆる神様の方法を通して、
気づかされる伝達のプロセスが、
そこに起こるんです。
そして人は成熟されるんです。
尖った小石がお互いにぶつかって、
丸くなるように、
我々の尖った人間性、人格、性格、
習慣、癖などなどが、
神の訓練というプロセスを通して、
丸く丸く丸く丸く、
清くされるプロセスが、
みんなに必要なんです。
ところがその時には、
必ずのように痛みが伴われますね。
苦しみが伴われる。
時には逃げたい気持ちもする時があるかもしれません。
しかしそのような神様の訓練という、
あのプロセス、
あのお取り扱いを受けてこそ、
私たちは神にやっと用いられるものになれるんです。
12:00
信仰的に一人前の信者になれるのです。
今日、モーセの話がその話なんです。
モーセはイシュライ人でありながら、
神様の不思議な保護の中で、
あのエジプトの大きな国の宮廷宮殿で、
40年間、なんと最高の教育を受けていました。
しかしどうですか。
死と殺してしまったあの失敗や序説を経験しながら、
アラノへ逃げて、
そこでまだ40年間暮らすようになります。
そしてモーセは、
あのアラノで自己不信というか、
自己喪失というか、
そういう感情に陥ります。
そしてそれが、
自己劣等感というものにつながってしまいますね。
神様はモーセを用いたいんですけれども、
モーセが準備できていない、
自己不信や自己喪失、
劣等感に陥っているモーセを、
そのまま用いたり祝福したりすることはなさらない。
皆さん、私たちが神様に用いられるとき、
神様に祝福されるときは、
高慢も問題なんですね。
本当に大きな問題。
用いられない、祝福されない。
ところが高慢だけではない。
自己否決と言いましょうか、
自己劣等感も大きな問題、課題なんです。
私はできない、私はできない、できない、できない、
だめだ、だめだ、だめだ。
それも神様に用いられない、祝福されない大きな課題なんです。
よく心理学者たちによれば、
この高慢というものと、
劣等感というものは、
同じルーツを持っていると言われますね。
もう同じく通じている。
結局一挙であるということなんですね。
モーセはどうですか。
あのパロの宮廷にいるときに彼は、
本当にもう自己過信のように高慢なものでした。
何でもできる、自分でこのイスラエルを救おうと思うほどの
自己過信の状態でした。
でも、あのアラノに逃げなきゃならない状態になって、
15:05
彼のあの自己過信や高慢が打ち砕れて、打ち砕れて、打ち砕れていきました。
ところがそこで彼は、
自己喪失になってしまったんですね。
でも神様は、あのモーセを用いたい、祝福したい、
神様の素晴らしいプランがあるわけなんです。
そして神様は、モーセを用いるため、
彼を祝福するために、
いわゆるお取り扱い、神様のモーセメンテナンス作業にさえられました。
四つのプロセスを経て、モーセは神様にお取り扱いされて、
やっと自分が何者なのか気付かされました。
そして神の前に裸のように立たされて、
やっと神にまず最後に満たされて申し入れました。
第一、神様のモーセお取り扱い、メンテナンスの第一の作業は、
モーセを自己劣等感に向き合わせ、向き合わせ、
神様はモーセを癒して、彼を祝福するために、
彼の問題を向き出し、
それに向き合わせました。
もう即死させるんですね。
目をそらすんじゃなくて、
自分が今どんな状態なのかを即死させられました、モーセは。
皆さん、本当に私たちが神にあって、
ヘルシークリスチャンライフ、
本当に健康で健全なこのクリスチャンライフを送るためには、
まず第一、このプロセスは欠かせないものです。
自分の課題に向き合うこと、即死すること、向き出されることです。
例えば皆さん、何か体にですね、
ちょっと服を着たら見えないところに大きなコブができてしまったとしましょう。
痛みもある。
でもそれをね、取ってね、治療するためには病院に行って、
自分が男性であろうが女性であろうが、
お医者さんにそれを見せなくてはならないんですよね。
胸であろうがお尻であろうが頭であろうが、
それを見せなくてはならないんです。
これと似ているんです。
私たちのその弱いところ、
18:01
今までもしかして見えてきたあのところ、
向き合っていなかったあの部分、
それが弱さであるかもしれませんし、
罪であるかもしれませんし、
心の傷であるかもしれませんし、
そこを向き合うこと、即死することです。
神様は孟子にその部分を向き合わせられました。
それで孟子は今日の十一節に、
神の前で彼は自分自身のことについてこういうふうに言っています。
十一節聖書をお持ちの方はご覧ください。
私が読みたします。
孟子は神に申し上げた。
私は一体何者なんでしょう。
ハロのもとに行って
イスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。
孟子は自分のことをこう言いますね。
神様、私は一体何者なんでしょうか。
孟子はあらのの四十年間、
自分自身が誰なのか、
ある意味でわからなくなってしまいました。
四十年前の孟子は自己確信に満ちているものでした。
自己高慢の最高潮のものでした。
でも今は、
私は一体何者なんでしょう、
という自己喪失感に陥っているんですね。
まずそこを向き合わせる。
そして孟子に自分自身が一体何者なんだろうか、
考えさせられ即死され、
そしてその次の段階に移ります。
二番目の神様の孟子へのお取り扱いのプロセスは、
自己不信に向き合わされます。
四章一節を見ると、
孟子は神様にこういうふうに答えます。
孟子は答えて申し上げた。
ですが彼らは私を信じず、
また私の声に耳を傾けないでしょう。
死はあなたに現れなかったと言うでしょうから。
四十年前は自信満々の孟子でしたね。
しかし今は全く自信がなくなってしまいました。
一言で言うならば、この四章一節をね。
誰も私の声を聞いてくれないんですよ。
21:01
誰が俺のこの話を聞いてくれるんですか。
そんなはずがないんですよ。
といった自己不信に陥っている孟子でした。
孟子は同じ民族の人たちを救おうとしましたけれども、
むしろ彼らに拒絶された経験がありました。
もしかしたらあの時の拒絶されたあの経験が、
孟子の心の苦い根の部分になっていたのかもしれません。
人は確かに小さい時、あるいは大人になっても、
誰かに拒絶される。
それがしかもっと大きな何かの場面でのものだったら、
そのあのことがある人にとってはトラウマになったりもします。
そしてもう人と関わることが怖くなって、
自分はもうみんなに嫌われているんだ、拒絶されているんだというふうに
思い込んでしまうことも起こるかもしれません。
もしかしたら孟子にそういう痛い経験があったのかもしれません。
しかし逃げていてそれが癒されるか、そんなことはない。
むしろ神様は孟子のあの痛い部分を、
暗い部分を、隠したいあの部分を持ち出して引き出して、
それを向き合わせられて、そしてそこから神を見上げるように、
今神様が段階を越えて彼を癒しておられる。
孟子は自分自身を信じることができなくなってしまいました。
私たちもそういった経験があったのかもしれません。
生きていく中で誰かに拒絶された経験、
あるいは捨てられた経験、嫌われた経験などなどがあるかもしれません。
そんなネガティブな経験が私たちの人格形成に悪い影響を与えてしまって、
誰も自分のことを聞いてくれない、信用してくれない、
もう被害期に囚われている人たちが案外世の中に多くいるかもしれません。
あるいは私たちの中にもいるかもしれません。
その弱い部分、暗い部分を持って死の前に出て行って、
24:05
自分のこの部分が死よ、痛い部分ですよ、暗い部分ですよ、と神様にそれを打ち明ける時に、
癒しが至福が発揮されます。
3番目、孟子は自分は何もできないという自己無力に向き合わされます。
4との10節を読みますと、孟子はこう言います。
孟子は主に申し上げた。
ああ、主よ、私は言葉の人ではありません。
以前からそうでしたし、あなたが下辺に語られてからもそうです。
私は口が重く舌が重いのです。
どういう意味ですか。
神様が孟子にあなたはあろうと言ったのに、パロに行って私の神を出せと言いなさい、行きなさいと言われた時の孟子の反応です。
神様、僕はできません。
パロに話すなんてとんでもないです。
そんなことできません。
私は口下手で、口が重いのです。
自己無力に陥っている孟子です。
でも実は孟子はどんな人なんでしょうか。
聖書の孟子の方を開きましょうか。
新約聖書に行きましょう。
司徒の働き七章二十二節を開きましょうか。
新約聖書の七章、司徒の働きですね。
司徒の働き七章の二十二節。
司徒の働き七章二十二節。
239ページですね。
聖書が面白い方は一緒に読みましょうか。
二十一節、二十二節一緒に読みますね。
せーの。
ついに捨てられたのを太郎の娘が拾い上げ、
自分の子として育ったのです。
孟子はエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、
言葉にも技にも力がありました。
どうですか。
孟子はですね、すごい学問を学んでですね、
言葉にも技にも力がある優秀な人でした。
もう十遍かと言っても負けないくらい。
ほんとにね、そんな彼が今は口が重いです。
27:02
舌が重いです。話せません。できません。
といった自己無力に陥っているんです。
もちろんこの部分に対しての解釈はいろいろあるかと思います。
本当に孟子は荒野の四十年間砕かれて、
本当に謙遜な人になったなと、そう言えるのかもしれません。
でもですね、またある角度から見るならば、
確かに謙遜はいいもので神様に用いられますが、
いわゆる謙遜を超えて、もう自己喪失。
私は何にもできない、できない。
そして神様はそれでもやってごらんと言っても、
それでも拒んでできない、できない、しない、しないと言ったら、
それは謙遜じゃないんですよね。
もう無力だと思い込んでいる孟子であります。
今のこの荒野で神に出会っている孟子はこの状態でした。
私たちも同じことを繰り返してやっていく中で、
人生の中で、時には本当に自分には何もできないんだという
無力感を持つ時があるだろうなと思いますね。
例えば栗さんの親の皆さん、大きな日本の教会の課題でもありますが、
自分の子供たちを信仰に導こうとしてあんなに熱心だったのに、
あんなに教会に連れてきたのに、あんなに祈ったのに、
思った通りになっていない。
それで無力を感じることがあるかもしれません。
世の中のリーダーたちもそんなことを感じるかもしれませんが、
私のような僕たちは、もちろん僕から自分の力でできるものではないんですけれども、
祈った通り、思った通り、あるいは教えた通り、あるいは導いた通り、
人が変えられ、僕が変えられ、教会が変えられ、
そういう風にして成長して成熟していけばいいんだけれども、
それができることもありますが、できないこと。
その時に、例えばそれが何十年だったとしましょう。
何十年教えて教えて教え込んで導いて祈って祈って祈っていても、
30:00
人が変えられない、成長しない。
何十年経ても幼稚園生のままであるとしたら、
私のような僕会社はまたそこで自分の無力感を感じるかもしれません。
孟子は今神の前にあって、神様私は何にもできませんよという、
本当に実は何もできないものなんだという自己無力に彼は触手させられています。
皆さん、私が神様に用いたためには、本当に自分には何もできないことを認めさせられて、
そして神の前でギブアップしているんですね。
そしてその時に、見たまによって主の働きが始まるのではないでしょう。
自分が何かをしようとする時、自分が人を変えようとする時に、
自分が人を何かしようとする時には何にも起こらない。
何が起こるどころか、むしろ悪い結果が出てしまうことが、
実は教会の中には神の世界には多くあるんですね。
あの40年前、孟子は神を除いて、神様あなたあそこにとっていて、
私は何かやるからねと、それで何度かやろうとした。
結果は大失敗でしたね。
その自分に今孟子は触手させられています。
このプロセスが我々に実は必要なんです。
逃げてはいけないんです。
その次のプロセスは、見ていますけれども、
孟子はずっと見てきたように、自分自身をものすごく小さく評価しているんですね。
そこにまた孟子は向き合わされるんです。
4章の13節を見ると、孟子はこういう風に言っています。
神様が12節に、「さあ、行け。私があなたの口と共に会って、あなたの言うべきことを教えよう。」とね。
でも13節で孟子はこう言うんですよ。
「ああしよう、どうか他の人を使わせてください。」
これは何回も出てくるんです。
神様が、「あなたが行きなさい。私が共に行く。言葉を授ける。一緒に行くからだ。」と何度も言っても、
33:06
孟子は他の人を使わせて、私にはできません。
自己喪失、自己劣等感、自己不信感、自己無力感、自分を本当に小さく評価している孟子でした。
そんな自分自身に向き合わされて、そしてやっと自分の肩にある全ての力が抜けて、
そしてやっと神の満たし癒しが始まるわけなんですね。
そのように自分自身が何者なのか、自分の正体に向き合わされて、
そして神様は今度はその孟子の心の中に正しくて清い神の思いを、神の心を彼の中に吹き込んでくださりました。
まず第一は、神の考え方を吹き込んでくださいました。
劣等感や自己喪失、無力感に本当にいっぱいだったあの孟子に、自分自身が何者なのか気付かせてくださって、
ゼロにするんじゃなくて、そこに神の思いを、神の考えを吹き込んでくださる。
そのプロセスの始めが三章の四節に、神様は孟子の名前を何度も呼んでくださるんですね。
三章四節をご覧くださいますか。聖書をお持ちの方は私をお読みします。
主は彼が行くを切って見に来るのをご覧になった。
神は芝の中から彼を呼び、孟子、孟子とおおせえられた。
彼は、「はい、ここにおります。」と、神様は孟子の名前を二回も呼んでくださいました。
それから彼に大事なことを委ねてくださいました。
それが先ほど読みました十節。
今行け、私はあなたをパロの下に使わそう。
私の民イスレイ人をエジプトから連れ出せ、とおおせえられました。
皆さん、孟子という名前の意味をご存知ですか。
孟子、簡単に言って引き上げる。
神の民をパロの圧勢から引き上げる、救い上げる、孟子。
彼の名前を改めて呼んでくださって、彼に神の思いを、神の考えを吹き込んでくださいました。
36:11
つまり、世の目で、世の人々の考えや言葉で自分自身を見たり評価したりするのではなく、
神の目で自分自身を、神の思いで自分自身を評価して、
法則自分自身を思うところに、私は彼を今導いておられるんですね。
皆さん、私たちにもこのようなプロセスが実は本当に必要なんです。
世の中の価値観や考え方には、特に比較する考え方が本当にまん延っていると思うんですね。
人と人を比べる、集団と集団を比べる、社会と社会を比べる。
比べて良いもの、悪いもの、良い人、悪い人、有志な人、駄目な人間のように、世の中の考え方は、もうとにかく比べるんですね。
しかし、神の考えは、神様のクリエイチブな考えはどんなものでしょうか。
使徒を、我々を、何かの物、商品のように扱っているんじゃなくて、
神の存在として、神様の作品として、私たちを思ってくださる、扱ってくださる、大切にしてくださる。
今、孟子に必要なのは、その神の目が必要である。
その神の目で自分自身を正しく見ることが必要だった。
孟子はそれを失っていたからですね。
神様彼を用いるために、まず、神の思いと神の考え方、
全くこの世のものと全く違った考え方を入れ替えてくださるんですね。
その入れ替えがなければならないんです。
世の価値観や、それがどの国の価値観であろうが、
世の価値観を持ち込んで神の前にずっと、100年いても人は変わりません。
神の思い、神の考え、神の生き方に、もう全く入れ替えをしなければならない。
39:05
それができないから、教会に来ても、比較して、喧嘩して、恨んで、妬んで、ことが起きたりする。
神の考えに、神の思いに、もう全く入れ替えが行わなければならない。
そのためには、自分が本当にどんなに惨めな人間なのかを直視させられなければならない。
それが癒しのプロセスなんです。
神様がたちを御門じておられる。
大切にしておられる。
持ちようとしておられる。
祝福を与えようとしておられる。
そんな自分自身を、世の目ではなく、神の目で見ていこうではないでしょうか。
大切にしていこうではないでしょうか。
愛していこうではないでしょうか。
そのためには、まず自分自身の惨めな部分を神の前にやって、
それから神様はこの孟子に、
私があなたと共にいるのだ。
あなたと共に行くのだという、この確信を見させてくださるのです。
孟子は太郎の息子だった自分が、もう天亡くして、この荒野で執事会として40年歳月が、
これはもう長い時間ですよ、40年ってね。
決して短い時間ではないです。
その間、彼の人生は何も起こっていなかったんですね、40年間。
そのうちに彼は、神様と自分は共にいるんだろうか。
神様は自分と一緒にいてくださるんだろうか。
そういう親子の息子が薄くなって、失われていたのかもしれない。
そして自分はできない、もうね、そういうものに陥っていたんでしょう。
その孟子に神様は、主なる神、私があなたと共に行くのだ。
共にいるのだ。大丈夫。という考えを、信仰を吹き込んでくださいました。
三章の十二節を一緒に読みましょうか、みなさん。
生徒お持ちの方は、今日のエジプト期三章十二節を一緒に読みたいと思います。
ご一緒に。神は仰せられた。私はあなたと共にいる。
これがあなたのための印である。私があなたを使わすのだ。
42:00
はい、そこまででいいです。
それから四章の十一節を一緒に読みましょう。
四章十一節。
ご一緒に。主は彼に仰せられた。
誰が人の口をつけたのか。
誰が口をつけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは目を開いたり、盲目にしたりするのか。
それはこの私主ではないか。
十二節もご一緒に。
さあ行け。私があなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えよう。
皆さん、もしかして、自分は何もできないという自己無力、自己喪失、自己不信、劣等感、ダメだと思ってはいないでしょうか。
そして人と比べて、自分は本当に何もできないというふうに押し込んではいないでしょうか。
あるいはそんな経験が昔あったのではないでしょうか。
その時に目を開けて、神を見上げようではないでしょうか。
そして、さあ行け。私があなたの口と共にあって、あなたの言うべきことを教えよう。
世の終わりまであなたと共にいるとおっしゃってくださる神様を見上げて歩んでいこうではないでしょうか。
そして最後に神様はもう手に一緒にいるんだ、一緒に行くんだ。
そして最後に最も大事な彼のお取り扱いが始まる。
それは彼に神の使命を、証明を与えてくださること。
元気になって何をしたいんですか、皆さん。心が癒やされて何がしたいんですか。祝福されて何がしたいんでしょうか。
神のために、二国のために何かがさせていただきたい。
それが自分が作り出すのではなくて、神様から与えられる、委ねられるその使命を、証明を見つけた時に、人は本当の意味で幸せなものになる。
今私が今日ですね、ネガティブ思考、ポジティブ思考に変えましょう。
自己肯定感を持ちます。そんな話をするわけではないんです。
皆さん、そんな話とか世の中の本やセミナーはもう何百年以降ずっとあるわけなんです。
たぶんそういったね、そういう自己啓発書みたいな、あんな本積み重なったらですね、
45:06
何百メートル何キロあるぐらい地球上にたくさんのそういった本やセミナーがたくさんあったと思うんです。
でもどうでしょうか。そんなことがあって、もし人間が変わるんだったら、この世界は本当に天国になっているはずなんです。
変わっていないんです。なんででしょうか。
人はただのいい考えを持つことだけで、いい本を読むことだけで、いいセミナーに出ているだけで、
人は本当の意味で神にお会いして、そして自分自身が何者なのかも向き合わされて、
そして自分自身の本当の正体を見て気づかされて、そしてそこで悔い改めて十字架の獅子をによって癒されて、
そして神が使命を与えられて、そのために生きるときに、人は本当に変わり幸せになります。
これがなしには、いくらお金があっても、いくら子孫反映しても、いくらたくさんの本を読んでも、
セミナーに出席していても、人は変わるとしたら、世界になんで戦争があるのでしょうか。
なんで客席が差別があるのでしょうか。なんで争いがあるのでしょうか。
本を読むことで、セミナーを来ることで、人間の哲学や倫理で人は変わるんだったら、すでにもう世界中は変わっているはずなんです。
人間はもともと罪の塊だからなんです。
その罪の問題を解決しない限り、人間が成すすべてのものは悪、思いも話もだる、すべての行いは悪なんです。
だからこのように神様によって、自分自身が本当にみじめな人間なんだと気づかされて、そこで食い改めて、
そこで神の思いと考えに入れ替えられて、そして神の使命が与えられて、そのために生きるとき、人は本当の意味で。
だから神様はもうてに、今行け、あたしはあなたをパロのもとに使わそう、あたしの民イスレイ人をエジプトから連れ出せ、
48:04
これがもうてに与えられた神様からの使命でした、証明でした、ビジョンでした、コーリングでした。
そしてこの後もうてはいよいよこの証明のために生きるものになりました。
もちろんその道に早いなことがありましたけれども、あのイスレイ人々を連れ出していったあのもうての人生は、
ライフは素晴らしくて、至極されたあの最後の40年だったと私は確信しています。
だから皆さん、私たちに最も必要なのは、神様から来る使命なんです、証明なんです。
ヨーロッパ人で初めて当時暗黒の大陸と呼ばれたアフリカ大陸を横断して、
また後で選挙主になったレイビット・リビングストン、名前聞いたことありますか、皆さん。
その方がこういう話を残しました。
神の使命を持つ者は、それを成し遂げるまで死なない。
ジョーン・イスレイはこういう話をしていました。
神の使命を達成するまで私は不滅だと言いました。
パールはこう言いました。
人の働き20章24節、これは私も個人的に、日本選挙に神に使わされたときに、私に与えられた一つの使命の御言葉でもあります。
人の働き20章24節、私が読みました。
パールはこう言いました。
神の使命を見つけて、彼はこう言いました。
私が自分の走るべき行程を走り尽くし、収益から受けた神の恵みの福音を明かしする任務を果たし終えることができるなら、私の命は少しも惜しいとは思いません。
何と素晴らしいでしょうか。
神からのビジョンが、使命が与えられて、この任務を果たし終えることができるなら、自分の命は少しも惜しいとは思いません。
この人こそ幸せな人であって、本当に恵まれた、祝福された神の人であります。
人は、イエス・キリストに会って、その十字架の下で、自分自身の罪人の正体を見つけて、そこで悔やめて、
全存在が新しくされつつ、また同時に神から来る使命を見つけ、それを持ってそのために生きる時が、その道が一番幸せ。
51:12
皆さんは幸せでしょうか。
神の使命が与えられて、その使命のために歩んでいらっしゃるのでしょうか。
ここに、本当の意味で幸せなクリスチャンライフがあります。
お祈りします。
51:38

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