1. 名谷教会
  2. 2015/01/01:聖日礼拝(旧音源)
2015-01-01 52:44

2015/01/01:聖日礼拝(旧音源)

2015/01/01 聖日礼拝(旧音源)




00:01
みなさん、あらためて明けましておめでとうございます。
そうですね、メッセージに入る前に、いつものように隣の方々、新年の挨拶をしませんか?よろしくお願いします。
よくいらっしゃいました。
一言をお祈りいたします。
父な神様、感謝いたします。
こうして、私の命をゆるってください。
また、伸ばしてくださって、新しい年を迎えることができることを感謝いたします。
また、主を愛し、主に出会いできるこの恵みを感謝いたします。
どうか、この元旦の日に、主の御言葉を一人一人に、主をどうぞお授けくださいましょう。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は、私の福音書6詩書25から34節のところから、
神の国と神の義をまず求めなさい、という題を持って、
共に主の御言葉をいただきたいと願っております。
新しい年が始まりました。
皆さん、私たちの神様は、想像の神様でありまして、
私たちのすべてのことを新しくされる神様です。
神様はですね、新しくされるのが大好きなんですね。
神様は日々、私たちの魂を新しくされます。
神様は、私たちの時を、日を新しくされます。
神様は、私たちの時を新しくされます。
それだけではなく、主の境界を日に日に新しくされる方であられます。
ですから皆さん、神様はですね、
私たちが以前の過去の痛みや悲しみなどに、
そこにずっと留まっていることを願っておられないんですよね。
神様が私たちのために新しい日をお渡しになりましたから、
03:02
新しい日を喜び楽しんでほしいと思われるわけなんです。
そして、主の境界が、主から新しい恵みをいただきまして、
新しい歩みをスタートすることを主は切に願っておられます。
アメリカの社会学者のアーニンという方がですね、
長い間人々はいったい何事で心配するんだろうか、
それをですね、統計をしました。
そして、それを結果を出しましたが、
大体私たち人が心配している言葉の中でですね、
100%の中に40%は絶対に起きないことである。
そして30%はもうすでに起きた過去のことである。
そして22%はですね、本当にもう大したことじゃなくて、
本当にもうささやかなことであってですね、
それから4%は絶対に変えることができないことだったそうです。
だから実際に心配事はですね、4%しかない。
だけど、私たちはあまりにも心配が多いのではないかなと思ったりするんですけれども、
こういうお話はですね、引用しなくても、政教だけですね、読んでみてもですね、
今日の御言葉にもありますように、心配するのはやめなさいと家様は言われました。
ところが、私たちが心配せずに祝福されたものになるためにはどうしたらいいんでしょうか。
この新しい年を一緒にやって、心配なくて一緒に喜びの道をみんな歩みたいと、
そう願っていらっしゃるんですよね、皆さん。
そのためにはまず、全知全能なる神様が帰りにて満たしてくださることを信じること。
わかるでしょうか、皆さん。
全知全能なる神様が自分を、家庭を、首脳協会をいつも帰りにてくださって満たしてくださること、
それを疑わずに確実に信じること。
06:06
今日の御言葉ですね、25節をもう一度ご一緒にお読みしたいと思います。
25節です。一緒に読みましょうか。
3、だから私はあなた方に言います。
自分の命のことで何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、
また身体のことで何を着ようかと心配したりではいけません。
命は食べ物より大切なもの、身体は着物より大切なものではありませんか。
26節私が読みますね。
空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、蔵に収めることもしません。
けれども、あなた方の天の父がこれを養っていてくださるのです。
あなた方は鳥よりももっと優れたものではありませんか。
空の鳥も桃花もすべてを養ってくださる神様が、
それらよりもっと大切な私たちを養ってくださらないはずがない。
皆さん、神様は私たちの必要をご存知である方です。
礼の必要、心の必要、また上等的な必要、またこの肉の種の必要なことを、
主はすべてご存知でありまして、そしてご存知であるだけではなくですね、
それを満たしてくださる方なのです。
今年一年間見て、皆さん、私たちが必要から満たしていただく恵みを本当にたくさん経験させていただきたい。
そういう夢を見たい。
おそらく皆さんもですね、今まで神様からたくさん満たしていただいた恵みの経験が多く終わりでしょう。
礼的にも肉的にも貧しい時に、あるいは困っている時に、
神様からの満たしの恵みをたくさん経験した生徒たちは、実は心配しないのです。
なぜなら、善のなる神様が私を帰りに来てくださる。責任を負ってくださる。
09:04
いつもそのニーズを主が今までも満たしてくださったことがもうたくさんあったから、
これからも満たしてくださるに違いないと確信が持てるのですね。
もちろんですね、こう見ますとですね、もともと楽天的な方々もいらっしゃるんですね。楽天的。
明日のことは明日は心配しない。
健康のことやお金のことはあんまり心配しなくてですね、楽天的な方々もいらっしゃるわけですから。
ところが逆にですね、本当にもう1年365日心配をもう背負っているように見える方々もいるかと思います。
全世界の人口の悩みをですね、自分が背負っているかのような顔をしてですね、
今日の27節は私が読みしますね、27節。
あなた方のうち誰が心配したからといって、自分の命を少しでも延ばすことができました。
ここに大井さんの三原課題もいますし、科学者の方々もいらっしゃいますけれども、
いくら素晴らしい科学者であっても、大井さんであっても、人間の命を延ばすことはできない。
神の御手にあるわけなんですね。
また34節。だから明日のための心配は何ですか?無用です。明日のことは明日が心配します。
皆さんが心配しなくていいんです。
もうちょっと強く言いますと、明日のことを心配するのは愚かなことなんです。
僕はその日その日に十分あります。
心配というものは皆さん、イエス様が心配するのをやめなさいとおっしゃったから、それをしないのが信仰なんです。
30節の最後にですね、信仰の薄い人たちとありますよ。
ですから、今日の御言葉全体的にこれをまとめますと、心配が多い、それは信仰の薄いという標語です。
自分の未来のこと、先のこと、あるいは命のこと。
心配したからといってそれが解決できるって、できないんですよね。
12:09
信仰が薄いから、まずですね、先走って否定的なネガティブ的な考えを先にやってしまうんですね。
ですから皆さん、心配と信仰は半比例しています。
心配が多ければ多いほど、信仰が薄くなりますよ。
逆に信仰が立派になればなるほど、心配が減ってしまいます。
これは本当にその通りなんです。
ですから皆さん、何よりですね、心配事や、あるいは自分の失敗とか、あるいは自分の弱さとか、
あるいは自分の過ちとか、そういったものを、過去のことをですね、
あまりにも深く考えすぎる、見つめすぎる、
あるいは、そしてそれに埋没するのは、それは神様が願っておられることではないんです。
決して信仰的なことではないんです。
しばしばですね、自分の失敗、過去のあれこれをですね、それを繰り返して繰り返して、繰り返して考えてしまう。
埋没してしまうんですね。
では、どうしたら心配しなくて、信仰的に歩めるんでしょうか。
聖書を一括ですね、一緒にお寄せしたいと思います。
新約聖書のテブル人への手紙、十二章、二節です。
新約聖書、四百四十ページ。聖書をお持ちの方は、新約聖書、四百四十ページをお書きください。
テブル人への手紙、第二十二章、二節です。
それでは、ご一緒にお読みしましょうか。二節だけ。
三節。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、恥ずかしみを物どもせず、十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
一番最初の文章です。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
15:07
これはですね、現代約聖書がありますけれども、そこではこのように訳していますよ。私がお読みします。
私たちの心をそらす者から目をそむけ、私たちに信仰を与え、また私たちの信仰を完成してくださるイエスを仰ぎみなければならない。
これがわかりやすいんですね。もう一度お読みします。
私たちの心をそらす者から目をそむけ、私たちに信仰を与え、また私たちの信仰を完成してくださるイエスを仰ぎみなければならない。
皆さんですから、私たちが心配しなくて、信仰になって歩むためには、祝福された者になるためには、イエスを仰ぎみなければなりません。
イエス様は、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないでくださいとおっしゃいました。
イエスを仰ぎみなければならないとおっしゃいました。
自分の心配とか失敗とか悩みとか、そういったものを仰ぎみるのではない。
見つめるのではない。
イエスを信仰を完成してくださるイエスを仰ぎみることが信仰の道であって、心配せずに祝福に助かることができる道なんです。
皆さん、人間はみんなそうなんです。
自分の失敗や悩み、ありはずみ、それを考えすぎる、目透すぎる、思い出ください。
あるいは憎しみやこの憎い人のことをですね、考えすぎてしまう。
そこに自分の心の目を固定してしまうならば、実は心が病んでしまうんですね。
何より信仰が消えてしまうんです。
ここに以前、あるいは昔、あるいは過去にですね、何か大きな事故があったり、
ショックがあったりしてトラウマで苦労した方々、
あるいはうつうで病んでいた方々、
あるいはもう大失敗をしてしまって恐れがちの人間になった方々がおられるかもしれません。
18:07
私にもですね、大きな失敗を何度もしたことがたくさんありました。
ところがですね、その失敗とか弱さとか、それをですね、ずっと背負ってですね、
もう私は失敗したものなんだ、私はうつうのものなんだ、私にはトラウマがある、
私はもうそもそももう恐れがちの臆病の正真なものなんだ、
そういうふうにですね、実は自分が自分自身を洗脳してしまうのです。
それは皆さん、神様が新しく知ってくださる神様、
新しく作ってくださる真相のクリエイションの神様がくださる心ではないのです。
悪魔さんがくれるここなんです。
お前はダメなんだ、失敗したものなんだ。
死を見上げることができないように妨げてしまう、埋没させてしまうんですね。
それから例えばですよ、誰かに対する憎しみ心をずっとずっと持ち続ける人がいたりします。
私はもう一生あの人を許され、ずっと憎しみ続ける。
あの人は許される資格なんてない、そういうふうに思ったりするんですね。
こういう方々、あるいはずっと悩みを抱えている方々は、実は皆さん、
イエス様が本当に涙っておられます。
新しく知ってくださる。
心を新しく知って、魂を新しく知ってくださったのに、
自分が自分の心にまるでごみを、汚物を満たしているような人生になるわけなんです。
私も過去にそういった時がありました。
人々のことをなかなか許せなかったんですね。
ところがその目が覚めました。
自分は自分の意思で誰かを憎んでいるのではない。
自分は悪魔族に操られている。
イエス様を信じていると言ったのに、自分の心を悪魔族に操られるようにそれをほっとしていた。
もう鳥肌が立ちました。
そして、もしもちょっとした憎しみの気持ちが心から生じようとしたら、
21:01
死の見舞いに比例して祈るんです。
主よ、私の心が地獄にならないように。
私の心はあなたの心ですから、聖霊様がおられる心ですから、
私の憎しみのこの目を主よ、あなたが知るしていてくださいと求め、祈っているんですね。
皆さん、私たちは誰かを憎しんでもいいほど、誰かを許さなくてもいいほど、誰かを裁いてもいいほど偉い人は実は一人もいないのです。
皆、罪人であって偉人ではありません。
私たちは皆、神なるイエス様が十字架で侮辱されて死ななければならないほどの大きな大きな罪人なのです。
そのような私たちが誰を裁く、誰を憎しみ、誰を許さないと言えるのでしょうか。
今日の御言葉を皆さん覚えてください。
心配をやめなさい、憎しみをやめなさい、灰することを選びなさいとイエス様がおっしゃいました。
毎日ですね、家を掃除したり、あるいは新しく皆さんするでしょう。
毎日自分の家にですね、この街にあるゴミステージにあるゴミを持ち込んで、
自分の家に、部屋に、食卓の上にそれを持ち込む人は誰一人いないと思うんですね。
ところが私たちが心配してしまう、誰かを憎しんでしまう、
そしり、妬み、遠走り、あるいは乱なことや様々な罪を考えるということは、
町内のゴミステージに行って、そのゴミ袋を持って自分の家にそれをですね、こぼすことと。
この働くときは、心の中にあるすべてのゴミを皆さん、大掃除しようではありません。
主が一掃してくださって、一心してくださってですね、働くってくださるんですね。
それを皆さん、目を開いて下さい。
主はですね、家様がですね、もうあの扉の前ですね、それを捨てなさい、捨てなさい、もう持ち込んではいけなくて、
いや神様、これが欲しいです、持ち込もうとする。
ですから皆さん、24時間、主を仰ぎみようではありませんか。
24:01
祈りと御言葉を通して、主と共に交わりを持ち、主の内に留まっていること。
これが信仰の道なんです。
あくまでも単に自分の心を許してはいけない。
家様にだけ心を許すべきなのではないでしょうか。
信仰を与え、信仰を完成して、信仰を成長してくださる家様を見上げるようではありませんか。
主を見上げれば、主の平安が私の平安になり、主を見上げれば、主の喜びが私の喜びになり、
主を見上げれば、主の愛が私の喜びになるのです。
このですね、先ほどのヘブロビタの手紙12章の2節の、
イエスから目を離さないでいなさい。この目を離さないでいなさい。
現代学は、見上げなければならない、仰ぎになければならないとありますが、
そのですね、もともとの意味はですね、
強力な本望で接着するように、
イエス様に私の目を、自分の目を固定させて接着しなさい、という意味なんです。
それほど実は強い意味を持っているんですね。
皆さん、2015年、この1年、恵みもあるでしょう。低くもあるでしょう。成功もあるでしょう。
しかし失敗する時もあるかと思います。失敗する時。
罪に落ちた時に、その時にですね、自分の弱さも故に埋没されるのではなく、
その時こそ、そのような時の度にですね、立ち上がってですね、死を仰ぎみようではありませんか。
イエスから目を離さないでいようではありませんか。
心の目を、人口の目を、イエス様の十字架にも、接着してですね、離されないようにして歩もうではありませんか。
また世の悔しさに戻りますと、このように心配せずに、祝福された神社になるためには、
私たちがイエスを仰ぎみることと同時に、神様のために夢と美女をもって、それを実践することであります。
27:01
イエス様のために夢をもって、美女をもって、それを実践していく意志なんです。
今日の御言葉のハイライトはですね、三十三節だと思います。
皆さん、キリストの中をよくご存知の箇所なんですけれども、三十三節をですね、今年の新告白として一緒にお読みしたいと思うんですね。
三十三節を一緒にお読みしましょう。
だから、神の国とその人をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。アーメン。
皆さん、まず第一ですよ。まず第一ですよ。
着物、食べ物、これからのことを、まず第一に心配して、それから神の国と神の義を求めるのではない。
順番が間違ってはいけないんですよね。
これはですね、三十三節の御言葉をわかりやすく言い換えるならば、私たちが何を言ったら神様が一番喜ばれるんだろうか。
それを知って、それをやりなさいというメッセージですね。
皆さんは、どんな夢、どんなビジョンをお持ちでしょうか。
夢とかビジョンとか、そんなものは若者のものだろうと思っていらっしゃいますか。
結構そうではありません。日本語の引退という言葉の英語は、リタイアなんですね。
リタイアなんです。タイヤを新しく取り替えて、またこれから新しく走るという意味が、リタイア、引退という意味なんです。
この前、草にいてですね、張先生からセミナーのときに聞いた話です。
韓国のある僕先生が、七十歳で引退しました。
引退してですね、リタイアするべきなのに、すべてをそろそろ、あと何歳しても二、三年だろう。
ゆっくりしようと思ってですね、大したことせずにですね、暇つぶししながら生きて。
しかしですね、なかなか死なないんですよ。
もう九十歳まで生きていてですね、そしてその僕先生がですね、もうすぐ死ぬかもしれないと思って、
それから引退してから二十年も経ったのに、何もしてなくて、二十年をもったいないように過ごした。
そしてその先生が神様の御前にですね、もうクリアしたので、
神様が二十年も大事な人生を延ばしてきたときに、もうすぐ死ぬだろう、遊ぼう、休もう。
30:08
で、二十年を浪費してしまって、そこからその先生が立ち直ってですね、
もう語学も新しく勉強して、そしてですね、いろんなことを学んでですね、
それから後輩の僕たちのために本も書いたり、セミナーをしたり、
そうして過ごしているという話を聞いたことがあります。
皆様、リタイアしていますか。
リタイアを新しく変えて発露いくぞと用意していました?
あるいはもうそろそろだろうと思って人生を暇過ごしていらっしゃるでしょうか。
皆さん、一日であっても一年であってもその時間というものは、
神様が私たちのために新しくしてくださった大事な時間なんです。
皆さん、考えてみてください。
天に召されたお亡くなりになった方々には、
明日という日はそれほど求めていた日が明日の日なんです。
その今日というものが私たちに与えられました。
2015年という新しい年を日が私たちに預けてくださいました。
昨日とか今日とか、皆さんは今年のためにどんな夢を、
あるいはどんなビジョンを、あるいはどんなプランを書いたり立てたりされたでしょうか。
二つのことをお願いしたいと思います。
一緒にやってこのような夢、ビジョンをお持ちしたいと思いますが、
まず一つは、まずはご家族の方々を心から愛し、
家様に仕えるように仕え、
そして家族の救いを夢見ていただきたい。
現在はですね、本当に夫婦の間に、
もちろんですね、皆さんの中では本当にラブラブしている方々もいらっしゃるんですけれども、
ここまで来たから別れるわけにはいきませんし、
どうせいい人に行こうと、
そういうふうな言葉を耳にしたりすることもありませんけれども、
皆さん、夫婦は家様が教会を愛するように、愛するために一つにしてくださいました。
33:03
私の夫婦の話をしてあげてもいいんですけれども、
結婚の時や、あるいは二十代、三十代より、今の方がもっとラブラブしているんです。
もっと相手のことを大切にしている。
四十過ぎて物分かりの夫婦のようになったような気がしますけれども、本当に感謝しています。
皆さん、家様はお互いに愛し合いなさいとおっしゃいました。
そしてならば一番近い夫婦の間に、あるいは親子の間に、
家様のように熱く愛すべきではないでしょう。
2015年には皆さんみんなが、
イエス様が私たちを愛してくださっているように、本当に夫婦の間に、親子の間に、
命を捨てるほど愛する家族でありたいです。
この世の中でですね、日本の中で皆さんの夫婦が一番愛して、一番幸せな夫婦になることを夢見てください。
皆さん、夫婦の間が、家族の関係が幸せでないと、何をしても不幸なんです。
夫婦関係が、親子関係が幸せでいないとですね、
幸せであれば、幸せでなければですね、イエス様を愛せることすらできないんです。
目に見える夫を、目に見える妻を、目に見える親を、目に見える子供を、
愛しない人が、敬わない人が、どうして目に見えない神様を愛する、敬うことができるのでしょうか。
今年はですね、もっともっとさらに、
夫婦の間が本当に愛し合って、本当にもう日本中で一番トップで幸せな夫婦になっていただきたい。
それが信仰なんですね。それが信仰なんです。
いくらですね、教会に行ってですね、賛美をして礼をしたとしても、家に帰って夫婦の間が気まずい、幸せない。
そしたら、そこからですね、恵みがですね、もう漏れてしまう。
それから何より、家族の救いのことを夢見ていただきたい。
みんな夢見ていらっしゃると思うんですね。
もっと切に祈り求めようでありませんか。
36:02
また、もう既にですね、夫婦が家族がクリスチャンの方々は、周りの兄弟姉妹達の救いのためにですね、
切に自分の家族のように祈っていただけではないでしょうか。
イエス様は頭であって、私たちはその体なんですね。同じ体なんです。
指が目が病んでいるならば、体中がですね、痛いでしょう。
体の他の器官である兄弟姉妹達が家族の救いのために心を痛んでですね、
祈って涙しているならば、私たちはどうするべきでしょうか。
自分の家族の救いのために、時には断食をし、時には祈りを持って、
時には洋服をかしながらですね、友になき友に祈るのが兄弟姉妹なのではないでしょうか。
それが福の家族で福のファミリーなんですね。
おかげさま、今年はまだ救われない方々、いや、これから救われる家族の方々のために、
夢を持って、ビジョンを持って、共に祈ってまいりましょう。
神の憐れみを求めて、救われるその日が来ることを、
その救いの奇跡が、ミラクルが起きることを切に願って、祈って、祈っていきたいんですね、皆さん。
その光景をですね、夢見ていただきたい。
神は必ず応えてくださいます。
皆さんも信仰にかかって、それから2番、
主の教会のために夢とビジョンをお持ちしたいと思います。
教会は皆さん、家様の命を代価として据えられて、買い取られたものが教会なんです。
三浦神教会が今年で22周年ですね。
22年前に、この南沖合一丁目27号の番地に建てられた目的を、
誰より皆さんがよくご存知でしょう。
あの開拓のメンバーが大勢いらっしゃるわけですから、
それをもう一度今年それを思い起こしていきたい。
そしてこの地域に出て行って伝道し、福音を述べ伝え、新しい魂を救いに導くために、
共に励んで歩んでいきたい。
三浦神教会がなぜここに建てられたんでしょうか。
39:02
皆さんがお金が余ってこの教会を建てたわけではないんですよね。
時間が余ってこの街道を建てたわけではないんですよね。
新しい魂の救いのためにその教会は建てられましたよ。
それは教会の第一の目的なんです。
この地、このビジョンのために走り続けるこの2015年になりたい。
昔のあの開拓時のあの先生方々、
あるいは常に天に召されて来世にされたあの神徒の先輩の方々が
それほど願って祈って叫んでこられた。
この教会の働きと伝道のために。
今年、改めてもっと明日に新品のタイヤに取り替えて
心を一振に振って走っていきたい。
今年に私から神様からの奇跡とミラクルを期待して祈る一年でありたい。
個人的に、家庭的に、あるいは教会的に
神様が成し遂げてくださるミラクルを信仰によって受ける一年でありたい。
皆さんお一人お一人のこれからの歩みの上に
子供の将来の上に、家庭の上に
この明らかに教会のこの歩みの上に
神様からの素晴らしい奇跡とミラクルを
私へ望みつく、祈り、共に励んで歩むのではありませんか。
そのために、今年は一人でも多くの人々にですね
とりあえず福音を延べ伝えなければならないと思います。
その人々が信じるか信じないかはその人の責任であります。
しかし一度も家様のことを聖書のことを聞いたこともない人が周りにいるならば
その責任はあなたの責任で私の責任です。
ですからとりあえず伝えることです。
十字架を伝え、福音を伝え、イエスキーストを伝えることです。
あとは神様にお任せしましょう。
家族の方々に、友人、知人の方々に福音を伝えましょう。
この街に福音を伝えましょう。
涙をもって福音の種をまく者は喜びをもって借り入れをするでしょう。
それを信御でありませんか。
42:06
とっては世の中に教会が伝道する教会になりたいです。
になったクリスタルは伝道する体質にならなければいけません。
しかし本当に多くの方を誘って、お連れして伝道する方々が大勢いらっしゃいます。
神様が一番喜ばれるでしょう。
常に何回も伝道して、誘って、お連れした方々が大勢いらっしゃいます。
天国の御国の報いが大きいでしょう。
今年は伝道のポイントとして決心所でありませんか。
家族を、友人の方々、知人の方々を誘って伝道しましょう。
もう迷わずですね、今から諦めるのは、伝道するのを諦めるのをやめましょう。
皆さん、悪魔さんが一番喜ぶ言葉が放棄です。諦める。
女神様が一番喜ばれる言葉は信仰なんです。
皆さん、私は騙されてはいけないんですけれども、
悪魔さんは私たちの心の中に、頭の中に悪い種をまいてしまったりします。
例えば、日本は伝道が難しい。伝道はそんなに日にしてはいけない。
日本の伝道は時間が長くかかる。
皆さん、私たちが悪魔さんのサイミンにかかって伝道するのをやめている時に、
イエス様はあの十字架で血まみれの涙をするでしょう。
騙されてはいけない。
夜更かししながら家族のために伝道のために祈るでありませんか。
涙をもって断食しながら祈るでありませんか。
家族を救ってくださるか、私の命を取ってくださるか、どっちかにしてくださいと切迫な心をもって祈る。
そこまで素敵ではないでしょうか。
そういった家族の伝道やあるいは私たちの歩みにあって、
私たちの心や頭や口の中に、
45:00
いけません、だめです、無理です、つらいです、苦しいです、不可能です、嫌です、
こういった否定的な言葉はおやめください。
イエス様が一番嫌われる言葉です。
イエス様は私には何でもできるとイエス様はおっしゃるんですよ。
その何でもできるとおっしゃる死の見舞いに立ってイエス様の顔を見ながら、
だってできないんだよと言っているのは不信心と思いませんか皆さん。
イエス様も釜島ででしょうけれども、私も僕会社として一人の僕として大嫌いな言葉が
だめです、無理です、不可能です、嫌です、つらいです、一番嫌いです。
本当に不信心の言葉であります。
生ける神様を死んだ神のように信じるその思い込みを今年はおやめください。
心の中にこの口から頭になるからこの不信心の言葉を思い込みを捨てましょう。
二床拾って捨てましょう。
信仰の言葉、待望の言葉、死がくださる恵みの言葉、救苦の言葉、愛の言葉、許しの言葉を話そうでありませんか。
今年は神様が自分の上に、家庭の上に、死の境界の上に成し遂げてくださる
死の夢を、ビジョンを、ミラクルを夢見て歩んでいきたい。
皆さん、死の祝福というものは、死のミラクルというものは、夢見るビジョンを抱くものの所有なんです。
死にあって夢見るならば、死がそれを成し遂げてくださるんですね、皆さん。
私は22歳の時に日本選挙の夢を見ました。
死から与えられた夢だったから、必ずこれは成し遂げられると確信を持っておりました。
一度も疑ったことがありました。
そして、このように夢は、死が答えてくださりました。
他にもたくさんあります。
大学入試した時に、家は本当に貧しかったですから、学校に行けないほどお金がなかったんですね。
しかし、神様は私のことを愛してくださるから、何とかしてくださる。
大丈夫と思っていたところ、愚かなものなんですけれども、大学4年間トップで勉強して、学費を1円も払ったことはありませんでした。
48:13
夢見て、死を信じて歩む者には、死が見たくてください。
国会の座面も様々な夢を持っております。
世界選挙をさらに進めていきたいと願っております。
今は追い取りですね、感謝なことは、去年みんな皆さんが思いを持って、愛を持ってサポートしてくださりました。
これから1人、2人、10人が100人、100人が1000人ほど、選挙に協力していきたい。
日本中に、日本選挙のために献身する人々を養って、日本選挙を共に担って歩んでいきたい。
死が許してくださるならば、この日本中に百の境界を建てさせていただいて、選挙に励んで、前進していきたい。
そして、この日本で選挙をして、やがてはこの地に骨を詰める、その夢を私は抱いております。
最後にですね、写真をお見通しながらこの証をさせていただきたいと思いますが、韓国のソウルに行きますと、ヤンハリンという場所があります。
ソウルの川が見える三原市のいいところにありますか。
そこは、1800年代末、それから1900年代初に、韓国に入って選挙活動をしていた選挙主たちのお墓がある御苑なんですね。
事故や、あるいは処刑、あるいは病気で亡くなった方々の選挙主のお墓がたくさんあるところです。
何度も行きました。そこに行く度にですね、もう涙がしてるんですね。
その多くの選挙主の中で、韓国のメソディストもアメリカから渡ってきた、アペンジェラというメソディストを選挙したりします。
このお墓なんですけれども、このアペンジェラ先生がソウルに行ってですね、選挙して、こういう言葉を残しました。
多分ですね、日本にも入って来られたプロテスタントの選挙主の方々も同じ神社だと思うんですね。
こういう有名な言葉が残っています。
1900年代初のことなんです。
まだ教会像が建てられていないからといって、だっかりするな。
51:02
ただ、私の教会のために祈れ。
そうすれば、この国中に御国の花が満開する日が必ず訪れるであろう。
私が抱いている夢とは、この国中でキリストを説教することである。
私がこの国民の中でイエス・キリストと十字架に組み付けられたキリストの美を知らせたまえ。
魂を包むこと、これこそ我らの唯一であり偉大な使命である。
皆さん、神の国と神の義のために生きる人生が最も価値ある人生であります。
主の教会のために生きる人生が最も価値ある人生であります。
メッセージを終わりたいと思います。
新しい年を365日という宝を主が私たちに預けて下さいました。
この宝を皆さんは何をされながら過ごそうと考えたり祈っていらっしゃるでしょう。
残りの人生を何のために歩みたいと願ってやられるでしょう。
主のため、教会のため、最も価値あることのために捧げて歩もうではありませんか。
お祈り致します。
52:44

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