1. 名谷教会 podcast
  2. 2016/01/17:聖日礼拝(旧音源)
2016-01-17 29:19

2016/01/17:聖日礼拝(旧音源)

2016/01/17 聖日礼拝(旧音源)




00:02
アーメン、ありがとうございました。
皆さん、おはようございます。
今日もよこそ、礼拝においてくださいました。
ではですね、御言葉をいただく前に、周りの方々と挨拶をさせませんか。
はい、よこいらっしゃいました。
はい、では一言お祈りいたします。
全ての祈りと願いを用いて、どんな時にも御霊によって祈りなさい。
そのためには、とりあえず目を覚ましていて、
全ての生徒のために、引退の覚悟を尽くし、また祈りなさい。
アーメン。
主よ、今日も神様の御言葉をいただきます。
全身全霊で耳を傾けて、主を仰ぎ見て、
上から上げをもって、あなたの御言葉の恵みを、
下へ求める、この群れの上に、主よ、
あふれるほど、王たちのような、あなたの恵みを、
我らに降り注いで下さいますように。
そして、その御言葉によって潤され、恵まれて、成長し、
家様の神様の身姿へ、主よ、作り変えられますように、
我らを祝福して下さいますように。
このものがこして、神様の御言葉とあなた様だけが現れますように。
神様の御名によってお祈り致します。アーメン。
はい、新年からですね、信仰生活の五つの基本を
御言葉から学んでおりますけれども、
一番目は、何でしたか皆さん、覚えていますか?
キリストを伝えることでした。
そして二番目は、礼拝に行けるでした。
そして今日は、御言葉と祈りに行けるということです。
皆さん、何をするにしても、基本はですね、
基本はとても大事だと思うんですね。
先週金曜日に、ハンナが留守でしたから、
既存の授業参観に行っていきました。
授業している隣の教室に、子供たちの木工の作品が展示されていて、
その下に、これが何なのか、タイトルがあって、
2行、3行ぐらいの説明が書いてあってですね、
大体3年生の文字は、こんなもんならと思っていて、見てですね、
03:01
こう見たらですね、ある男の子が来たけれども、
字がですね、大人が書いたようにとてもきれいでですね、
しっかりしている文字を書いていて、
それはもう大人のような字だってですね、本当にびっくりしました。
たぶんですね、その子は習字をちゃんとですね、きちんと基本を習ったからですね、
ああいうふうに書けた、私は思いました。
皆さん、信仰生活においても、基本がとても大事です。
その基本から、今年の新年はですね、その信仰の基本から三言葉、
通して学んでいきまして、そしてしっかりそのベースをですね、
すくっていきたいと、そう思っております。
その中で今日は3番目、三言葉と祈りに生きるというタイトルです。
今日は特に今日の制作活動の中で18節を中心にして、
三言葉と祈りに生きるときに、特に祈りということについて、
ご一緒に考えていきたいと思います。
まずは祈りの目的は何であるかということです。
祈りのことを考えますときに、私たちは実にさまざまな祈りを捧げるわけです。
では皆さん、祈りの本質は一体何でしょうか。
言うまでもなく、それは神様とのお交わりなんですね。
神様とのお交わり。いかがでしょうか。
皆さん、先週1週間、神様と親密に深く交わりを持って来られたでしょうか。
祈りのゴールは、私たちが神様との交わりの中で、
今日作り上げましたエフェクトビートへの手紙の関連で言えば、
神様が願っている私たちに成長すること、
そして私たちはこうして神様の願いが起業において実現することにあり、
このことが実はクリスチャンの戦いの中心であり、
このことのゆえに、パオロシとは今日18節において、
もう一度18節を一緒にお読みしませんか。
18節だけをもう一度ご一緒にお読みしたいと思います。
3、全ての祈りと願いを用いて、
06:13
このようにですね、戦いがあるその中心で忍耐の限りを尽くして、
また祈りなさいと進めているわけです。
神様の目からご覧になって、私たちがキリストに似た私たちに成長していくこと、
ここに実は私たちの祈りの戦いというものがあるんです。
そして自分自身を通して神様の御心がこの地上において実現していくこと、
ここにも私たちの祈りの戦いがあるわけです。
そして私たちが人として成長し豊かになるために、
横との交わりと、また縦の神様との交わりがどうしても必要であります。
その交わりの恵みに預かる手段が、
それが仕事の恋愛であり、あるいは日常生活における御言葉と祈りの生活であります。
ですからこの御言葉と祈りの生活に忠実に送っている人は、
横との交わりも縦神様との交わりのその生活も忠実にできていることではないでしょうか。
ここでファウルはこういったことを踏まえた上で、
十八節で祈りなさいと進めているわけでありますが、
ここで進められている祈り方について注目すべき言葉が三つあると思います。
それはまず一行目の下のところであります。
どんな時にもという。どんな時にもという言葉と。
それからもう一つは、
すべての生徒のために三つ目は、
忍耐の限りを尽くし、また祈りなさいということであります。
どんな時にも忍耐の限りを尽くして、すべての生徒のために祈ること。
この三つをぜひ今日覚えていただきたい。
そして心に込めていただきたい。
そしてこれを実践していきたいと願っております。
ある家様と弟子たちが一緒にいた時に、弟子たちが家様にお尋ねしました。
先生、どのように祈ったらよいでしょうか。
09:01
常に祈っている家様の身近にいて、自分たちも祈りについて教えていただきたい。
家様のように祈る、祈り手になりたいと願っていてお尋ねしたわけなんですね。
それでその結果、主の祈りを教えられたわけであります。
その際に神様のことをお父さんと呼びなさいと。
天の内なる神様とありますよね。お父様なんです。
だから天の神様は遠く遠く離れている神ではない。
私の親だ、私の父だということなんです。
ところがよく言われることですけれども、私たちと皆さんと親との関係が、
この肉親の父親との関係ですよ。
それがしばしば自分と神様との関係を規定することがあります。
人の最初の人間関係は親との関係なんですね。
その中で父親との関係において様々な経験をします。
また強烈な印象を受けたこともあります。
とても良い印象を持っている人もいるし、そうでない人もいるかもしれません。
そんな中で私たちはその父親の姿があってですね、
それを無意識にではありますけれども、
神様にそれを投影してしまうということがあります。
そして自分が考えている、持っている父像があって、
神様もこんな父なんだのかなと投影してしまっても決まってしまうことがあったでしょう。
しかし政府によりますと、それはあくまでも
皆さんが私たちが自分が思い描く神の姿であります。
実際の神様とはかけ離れたものが大体多いと思います。
もちろん似ている部分もあるかもしれませんが。
ですから皆さん大切なことは、神様はこうであるはずだとか、
あるいは神様はこうであるはずがないとか、
そういう自分のイメージ、先入観と言いましょうか、
それをまず横に置く必要があります。
それが神様からの恵みを妨げることがきばしがあります。
あるいは自分が神様に近づくことも妨げることがきばしがあります。
そしてその正しい神様像を神様のイメージと言いましょうか、
12:03
神様を生きるためにどこにいたらいいのでしょうか。
御言葉に。
この聖書を通して、私たちは神様がご自身を自己紹介なさっているわけなんですね。
だからこの聖書を通して、神様の御声に御傾けることを通して、
神様を正しく知ることができる、そして近づく、交わりをすることができるようになることであります。
そうした上で聖書を読みますと、
子供と息子の帰りを迎えた父親のように、
その息子がどんなであろうと、何をしたものであろうと、
そのあるがままの姿で受け入れて、その存在を喜びました。
それが神様なんですね。
その父親に例えられたようなお方が真の神様であるとイエス様は言われていました。
ですから、あば父よと祈るように、呼びかけるようにと進めるのであります。
皆さんいかがでしょうか。
日頃の御言葉と祈りの性格を通して、神様が本当に近く、親密に親密に感じられているでしょうか。
ヤコブはヤコブの手紙において、そうした神様の姿を次のように言いました。
神に近づきなさい。そうすれば神が近づいてくださいます。
つまり、神様に近づいてごらん、すると不思議なことを発見するよ。
つまり、あなたが近づく前に、実は神様はあなたを待っておられるよ、という言葉ではないでしょう。
ちょうど、あの後藤息子の帰りをずっと待ちに待っていた父親の姿と同じであります。
ですから皆さん、私たちは今日の生徒活動でパオールは進めていますように、どんな時にも祈ることです。
いかがでしょうか。どんな時にでも祈っておられるでしょうか。
つまり、どんな状態であろうとも、私たちは神様の御前に出ることが許されているんです。
この許しの上に信仰させていこうではありませんか。
例えばですね、父親がものすごく怖い父親だったならば、近づくのはなかなか難しい。
関係が遠い感じがする。そうすると神様も父親のように思ってしまう。
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そういうことは、そんなことはありません。
許されているんです。
待ちに待っておられる神様。
そして、私たちから語りかけを、その私たちの声を待っておられるお方が、私たちの父様、お父様なんです。
そしてその次に、パオロ人は、忍耐の限りを尽くしてとあります。忍耐の限りを尽くして、また祈りなさい。
この言葉をですね、新教徒らとしていくは、「根気よく祈り続けなさい。」とあります。
根気よく祈り続けなさい。
これはですね、神様が耳を傾けてくださらないから、外耳が遠いから、「ん?何?」と。
だから、粘り強く訴えなさいという意味ではあります。
根気強く、根気よく祈る。
忍耐の限りを尽くして祈る理由は、神様の側にあるものではあります。
あくまでも祈り手である、私たちの側にある。
つまり、神様の最善の答えがあるんです。
しかし、私たちの願いがそれとずれてある、ずれがある場合が、実は多くあります。
そのずれを、それを調整のために、どうしても根気よく、粘り強く祈る必要があります。
つまり、祈りに祈って、そして神様の御心を知るまで祈る答え。
神様の御心を知るまで、それを悟るまで祈る。
そして、自分の願いがずれているならば、それを修正して、軌道を修正して、神様の願いに一致させること。
そのために、忍耐の限りを尽くして祈るのです。
だいたいどうですか、皆さん。
祈って、祈って、答えがないとしたら、自分が決めた通りにもやってありますよね。
言ってしまう。やってしまう。決めてしまう。
だから、神の御心を知るまで、悟るまで祈って、祈って、あなた達は動かなければなりません。
私は、青年の時に、今その大江戸の先生は、中国でとても立派な選挙をしておられますが、その先生に教えられたことがあります。
答えられるまで祈る。その一つは、結婚のために答えがあるまで祈る。
仕事を選ぶときに答えがあるまで祈ります。
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どんな良い条件が見えても、答えがないと決してそれを主観で言ってはいけないということです。
そして、引っ越しもそうです。行きたいところ、良い意義が見つかった。
そしても、信仰を正確にするために必ず祈って、答えがあるときに引っ越しします。
この三つだけ、祈って、祈って、決めたら、皆さんの信仰は神様に祝福されますよ、という答えを
私は20代の青年のときに教えられました。
そして、私なりに今までそれを徹底に守っていると私はそう思っております。
皆さんいかがでしょうか。
神の御心が何であるか、それを知るために、粘り強く祈る必要があります。
そのことを通して、神様が本当に良いお方であることがはっきりと知り、
そしてそのお方を今まで異常に信頼し、頼るものとなること。
それを神様御自身が願っておられるのです。
そしてもう一つは、生徒のために祈ることです。
つまり、鳥無しの祈りです。
これは皆さん、私たちの救いだ。
この教会、共同体の兄妹たちとの救いと実は深い関係があるということです。
生徒はあなた方はキリストの体であり、また一人ひとりはその部分です。
機関ですとありますよね、皆さん。
私たち教会のことをキリストの体です。
もうここに30数人いますけれども、実はあたたけはキリストの体であって一体なんです。
同じ体をしているんです。
だから神の恵みが隅々までみんなに行き届くことがとても大事なんです。
例えば皆さん、肌で例えてみましょう。
例えば、食べて食べて栄養が腰周りだけに行き届いてそこに溜まっていたらどうなるんでしょうか。
こうなるんですよね、人が。
たまにですね、娘たちにお父さんお腹がちょっと変じゃないとか言われていますけどね。
本当にそうなんです。
僕が貧弱になっている。
そしたら体としてバランスは取れないんですよね。
つまり私たちは一人ぼっちのクリーチャーがいないということは、私たちの救いは教母体全体の救いと関係している。
同じ恵みが、恵みを受けてその恵みがみんなにあふれ流れるということなんです。
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だからこの中で鳥なしの祈りが本当に大事なんです。
自分のために祈るだけではなく、兄弟のために姉妹のために祈ることです。
そして自分が恵まれたこの恵みを分かち合って交わる中で、その中で親子は成長していって、教会全体の恵みがあふれ出るようになるのです。
そのためにどうしても必要なのが鳥なしの祈りであって、そして兄弟姉妹のお交わりであります。
ですから皆さん、皆さん、お一人お一人の聖書は明沢教会の聖書と密接な関わりがありました。
そして明沢教会はこの教団の教会たちと、それからこの日本の教会たちと、そして世界の教会たちと関係が密接にあるわけなんです。
だからこれは体です。勇気体です。
ですから全ての生徒のために忍耐のかけりを尽くし、また祈りなさいという言葉になるわけなんです。
どうか皆さん、今年こそ鳥なしの祈りを実践していこうではありませんか。
そして交わりをまた深めていこうではありませんか。
そして私が恵まれたこの恵みを分かち合う中で、そして同じくみんな一緒に生徒としていくことを望んで、
共にこの2つを実践していきたいと、そう願っております。
以上が今日の御言葉にあらわれたパウルの祈りであります。
そしてこの祈りは私たちにとって真実でありますし、明大に教会にとっても大切な祈りであります。
ところが御言葉とつなげて考えていきたいと思いますが、旧約聖書全体を流れる一つの大きなテーマがありました。
それは神様は御自分の民を祝福しようとしておられるのに、神の民は神様を忘れてしまう、
あるいは裏切ってしまう、あるいは御言葉を捨ててしまうというテーマです。
これが実は旧約聖書には繰り返して繰り返して書かれているわけなんですね。
例えば普通編の78編を見たら、こういう言葉が出てきます。
神様の恵みの御業が次々と紹介されていきます。
ところがそれに対して、一種類の民はどのように神様に応答していったのか。
24:02
それを見たらこういうことがあります。
繰り返し神を試み、二手の力を思い起こさなかった。
つまり忘れてしまったということです。
ですから皆さん、実はこのところに御言葉と祈りがもう一つセットである必要があります。
つまり御言葉というのは神様の恵み、神様がなってくださったことであります。
だから神様の川からのアプローチと言える。
神様が語ってくださる御言葉ですから、神様から私たちへのアプローチです。
そして祈りというのは、その神様に対する私たちの応答なんですよね。
ですから御言葉の生活が祝福されていきますと、当然神様の恵みを数え始めますから、
私たちの心に感謝と喜びが湧いていって、賛美が起こって、それが祈りとなって神様に向かうようになるのです。
ですから御言葉をいただいて、その御言葉に恵まれて応答して捧げるのが祈りでありますから、
御言葉があってこそ祈りがあるということであります。
逆に言いますと御言葉の生活がない、貧弱である、乏しくなっている、
そしたら祈りも貧弱になっていくということであります。
だから良い循環になるか悪い循環になるかということは、ある意味で私たちに責任があるということではないでしょうか。
ですから皆さん、私たちにとって大切なのは、この御言葉と祈りに励むことであります。
皆さん大体ですね、年末になったらダイアリー、手帳をよく買うんですよね。
バイナリーとか手帳を買ったりします。書店や本屋さんに行ったらですね、
シールがいっぱいですね、文字が並べてあります。
皆さんは2016年の皆さんの自分なりのプランを立てたんでしょうか。
あるいは日々のスケジュールを皆さん組むときに、そこに御言葉と祈りのタイムは組まれているでしょうか。
どうか皆さん、今年こそ皆さんの一日の生活の中に御言葉と祈りを毎日のスケジュールの中にぜひですね、組み込む。
そういうまずそこから実践していこうではありませんか。
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朝起きてすぐに御言葉と祈りの時を持つ方々もおられるでしょう。
また全ての家族を送り出して、ほっとひと息ついたところで落ち着いて御言葉と祈りの時間を持つ主婦の方々もおられるでしょう。
あるいは一日の働きを終えて、休日の前に過ごした時間を持っておられる方々もあるかなと思います。
政府を見ますと、イエス様は朝に過ごした時間を持っておられましたので、私はそれがデストだと思いますが、
もしどうしても朝はできないのであれば、大切なことは私たちが御言葉と祈りを通して主婦と出会うための特定の場所と時間を定めて、
それを守り続けていくことではないでしょう。それを実践していくことです。
三日は坊主でいいでしょう。そして三日経って、またやりだして、三日はここに来たら、またやりだして、そして行けば、
三日のうちに一日はできないですから、百日はできるじゃないですか、皆さん。御言葉と祈りは私の祈りであります。
とても忙しいから、先生、そんな祈りと御言葉の時間はありませんよと言われた方がおられるかもしれませんが、
忙しいからこそ御言葉と祈りをつかまないと方向は間違いやすいのが私たち人間であります。
この一年も御言葉と祈りを通して主を深く知る年とさせていただきたいです。
そのためにまずそうした時間をスケジュールに入れていきましょう。
そして私は御言葉と祈りに生きるクリスタル生活を送ることができるんです。
今年こそもっぱら御言葉と祈りに励んでいこうではありませんか。
お祈りいたします。
29:19

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