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みなさん、おはようございます。
私は、この教会の司官牧師、ユンソンと申します。
初めてお目にかかる方々もいらっしゃるかと思いますが、日本人ではありません。韓国人です。
今日、こうして名谷教会の秋の特別展望集会にお越しいただき、ありがとうございます。
私のことを少し紹介させていただきたいと思いますが、私は高校のときから日本語を勉強して、日本語に日本の文化に触れたと言いましょうか、
そういう機会が与えられていました。そのときから、日本も日本の文化も日本の食べ物も何でも好きでした。
私が初めて日本に来たのが、1994年、東京の成田空港に着いたときの、その感動と感激は忘れられないほどでした。
本当にですね、初めて食べたものとか、東京ドームで大きな集会がありましたけれども、その集会に出たり、忘れたりとか、東京大学とか、あるいは東京の新宿とかに、
実は今日の放課後だったわけですけれども、その初めの日本の空気に触れて、本当に良い思い出を持っておりますけれども、
大学の専門も日本語をしました。韓国では日本に関しての専門がいくつかありますけれども、日本学とか日本語とかありますけれども、私は日本語と日本文学を専門したんですね。
それで、2000年に新学校に入学しまして、2008年、私含めて5人の家族が福岡に渡ってきました。福岡で4年間、福岡の教会で放課をしまして、今年の3月から明谷教会に赴任してきたんですね。
明谷教会はとても良い教会で、信徒さんもなかなか良い信徒さんなんですね。これはお世辞じゃありません。
とても愛し合って、助け合って、うちの子どもにも私の夫婦にも、信徒さんが本当に誇り高いから使えてくださると言いましょうか。その愛は本当に言いつくせないほどですね。
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3月末、4月に赴任して、この秋10月20日、特別伝道集会がありますと言われました。
その日に思ったことは、こういうふうに信徒さんが私のことを期待しているのだなと思って、感謝の気持ちが湧いてきました。
それでも感謝を持って受け止めて、今日この伝道集会に講師として立たされまして、また御言葉を取り聞く。ともに恵みをいただくことを感謝、また光栄と思っております。
どうしても日本人じゃありませんので、日本語に足りないところ、間違ったところ、変な日本語とかあるかもしれません。御了承いただきまして、間違った言葉は聞き流してください。
そして一言でもですね、聖書の御言葉を心に受け止めていただけたと、そう願っております。どうか今日せっかくですね、天候の良くない日にせっかくおいでいただきましたので、
今日の集会に参加されたやりがい、また祝福が豊かに皆さんの上にありますようにお祈り致します。
今日のお話を始めながら、皆様に一つお尋ねしたいと思います。それをもって今日のお話に入りたいと思いますが、皆さんは本当に幸せでしょうか。
誰にでも私は幸せだよと言えるでしょうか。皆さんどんな人が本当の意味で幸せな人なんでしょうか。
日本という国は、世界でですね、アメリカも次で、中国と世界任意を置いてですね、争うほどの経済大国です。
物はあふれています。より住宅も、いい車も、食べ物もあふれています。また、引退後は、定年の後は年金をもらいながら、他の国と比べたら割合に安定した暮らしを送ることができます。
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福祉や医療水準もとても高い国です。
例えばですね、定年後の日本の方のライフスタイルを考えてみました。前からも見えてくるわけですから、大体引退後の1日の暮らしのサイフルはこんな感じじゃないかなと思うんですね。
朝5時か6時ごろ起きます。それで犬を散歩させます。ある時でですね、たまに街を見たらですね、人が犬を散歩させるのか、犬が人を散歩させるのかですね、引っ張られてですね、見ることがよくあります。
散歩が終わったら、長官に目を通します。朝食をもらいます。テレビを見たり、趣味生活をしたりします。ある人は浮気をすくったり、階段にあるきれいなお花に水やりをしたり、あるいは健育に行ったり、スポーツに行ったり、ジームに行ったりします。
そうするとお昼になりますね。で、お昼をもらって、眠いんですね。昼寝を少ししたり。
で、夕方になったら、あるいはお昼にですね、パティオの屋台に行って、お友達に会って、お茶を。で、おしゃべりをして、そして丸八に行って買い物をして、夕食をすくって、
夜は連続ドラマを見て、あるいは管理のドラマを見て、そしてもう十一時か、寝よう。で、寝る。
だいたい定年後のライフスタイルはこんなパターンでしょう、皆さん。もちろん違うかもしれません。
一見見ますと、とても幸せに見えるかもしれません。何の問題もなく、顔にはいつも笑いが咲いていて、ハッピーな顔のように見えるかもしれません。
しかし、実はそうでない人たちが大勢、この国、この町に、あるいは今日の皆さん方の中にもおられるかもしれません。
実は見ようほど、心の病や痛みを抱えている国が多くないという現実。
鬱の国、自殺の国、引きこもりの国、シングルマザーの国、いじめの国、こういったものが実は正常ではない、異常なんですね。
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それにもかかわらず、メディアはどういうふうに私たちに認識させるのかと見たり、日本に来てテレビとかを時々見たりするんですけれども、だいたい他の国と比べます。
アメリカとか、韓国とか、中国とかを比べて、日本のシングルマザーとか、離婚とか、鬱とか、引きこもりとか、自殺とか、中国、韓国と比べたら、そんなに高くない。
だから日本は大丈夫だと、そういうふうに誤魔化しているわけです。異常は異常です。
今日のお話はちょっと重めの話になるかもしれません。しかし今日、この9回にお付き合いの方々は、小学生でもないし、50、60、70の方々ですから、失礼なお話になるかもしれませんけれども、皆さん方の人生はこれからだとは言えないお年だと思います。
今から昇る日ではないです。失礼ですが、沈む。
そうでありましたら、皆さん方のご自分の人生について、真剣に今日一度深く考えていただきたいと願っております。
私に子供が3人おりますが、下の2人は流沙汰小校に行っています。一番、母親が1年生、その上の女の子が5年生ですが、
少しずつ知るようになってわかったことは、その子供たちのお母さんとかお父さんとかが離婚をして、おじいちゃんのところに一緒に暮らしている子供が案外多い。
あるいは、子供が学校を終わって、お母さんがシングルマザーでお仕事をされていて、おじいちゃんのところに遊んで、お母さんが帰ってくることを待っている。
そうすると、夜7時とか8時にお母さんが子供に迎えに来る子供たちが案外多いんですね。
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ちょっと寒いでしょうかね。どうでしょう、皆さん。
曲劇ですね。あれをですね、ごめんなさい。それをスイングすればですね、温度は25度ぐらいがちょうどいいかと思います。
ごめんなさい。26度ぐらいね。26度。
今日のために新しくつけましたので、ぜひぜひ堪能してください。古いものは撤去します。
まだ私たちもあのクーラーも慣れてますので、これからしっかりしていきたいと思います。
このようにですね、離婚だけではなく、心の病を、あるいは人生のストレスを、あるいは病気を、
様々な課題を支えているまま暮らしていらっしゃる方が大勢いらっしゃるでしょう。
その時に、いやもうしょうがないと、そういうふうに諦めているのではありませんか。
あるいは、まあなんとかよくなるんだろうと、そういうふうに漠然と考えているのではありませんか。
本当にそれでいいんでしょうか。いいえ、決してそんなことはありません。
神様が私たちにくださったこの聖書の御言葉は、私たちにこのように話をしています。
作り主、創造主が笑える。
作り主の神様が人間をお作りになりました。
そしてその人間に誠の幸福を与えてください。
乏しい人生ではありません。苦しい人生ではありません。
あるいはもう人生そもそも問題があるんだと、そういうふうにして諦める人生ではなく、
あふれる人生がある、豊かな人生があるんだよ。
そしてあなたも豊かな人生であってほしいと、作り主神様は皆さん方を招いておられる。
聖書の御言葉は私たちにこのように語って、いや叫んでいました。
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ちょっと聴いてほしいと。
作り主なる神様の御声に、きょう神家たちたち、聖書の一箇所ですね、
さっきからお読みしたいと思いますが、よろしかったら一緒に読みませんか。
私はから一緒に読みたいと思います。
私はあなた方のために立てている計画をよく知っているからだ。
主の御告げ、それは災いではなくて平和も与える計画であり、
あなた方に将来と希望を与えるためのものだ。
ありがとうございます。
創造主の神様、唯一の神様が、
その神様は日本の町で人間が作って刻んで作った日本のたぬきとか何とか椅子で作った、
あるいは日本の八百万の神ではありません。
そういったものたちはですね、人間が作り出したものに過ぎません。
単なる意識に過ぎない。
そこには何の命も力もないものに過ぎません。
皆さん、私たちを一人一人を大切に心を込めて最高のものとして作られた神様がですね、
私たちを人間にですね、この万物の頭として、この万物を納めて、
そうして神のことで生きなさいと作ってくださった。
その人間が万物を納める、導くのではなく、
たぬきに、椅子に、木に、狐に、拝んだり、
そうしている人間の姿を作り主の神様が、
人間のその姿を見たらどれほど心を痛めることでしょう。
悲しく思うわけなんですよね。
作り主の神様は、皆さん方に与えようとしておられるのは決して災いではありません。
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呪いではありません。苦しみではありません。
将来と希望であります。
今日の御言葉にこういう御言葉がありました。
主は私の主事か。私は乏しいことはありません。
どういう意味でしょうか。
作り主なる神様、唯一の神様と結ばれている人には、乏しいことがありません。
唯一の神様にある人には、乏しいことはありません。
イスラエルには羊が多いわけです。
日本も北海道に行きましたら、羊があるいは牛が馬が多いわけですけど、
女に羊飼いは、その羊、あるいは牛でもいいです。馬でもいいです。
草を、餌を、牧草を提供する。水を提供する。
そして見守ってくれる羊飼いが必要なんです。
特にこの羊という動物はそうなんですね。
臆病者で、弱気者で、視力もめちゃくちゃ悪くてですね。
羊飼いが必要なんです。
同様に皆さん、私たちを作られた神様が、私たち人間には必ず必要なんです。
そしてその神様のうちにあるときに、人間は乏しいことがありません。
皆さんこの乏しさ、欠乏と言いますよね。
この乏しさは単なる物質的な乏しさを意味するのではありません。
多分ですね、皆さんの中には物質的な乏しさのゆえに苦しんでいる方は、
もしいらっしゃらないかもしれません。
しかし皆さん、物質的に乏しさがない。
だからといって人間は幸せなんでしょうか。
そうは限りません。
金も多くて、家も多くて、そして車も良い車も持って、良い外場で仕事をして、
だからといって全ての人間は幸せなんでしょうか。
決してそんなことはないと思います。
冒頭に申しましたように、日本はですね、世界経済大国2位、3位の国です。
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ないものがありません。
ほとんどの方々が余裕ある暮らしをしています。
定年の後も年金をもらって、自分のお家があって、そこで暮らしている人が大勢います。
物質的に富んでいます。豊かです。
韓国だけ行ってもですね、まだまだ街に行ってもですね、
60、70、80代のお年寄りの人々がですね、ダンボール箱を拾って、空き缶や空き瓶を拾って、
それを売って1日延命する人がまだまだ多いんです。
でも皆さん、物質的に富んでいて豊かだから、人は必ず幸せなんでしょうか。
そうではないと思います。
なぜでしょうか。人間は物質、物がいくら富んでいても、いくら持っていても、
それだけによっては、人は幸せになれない存在だからです。
そもそもそういうふうに作られたからです。
人間には体だけではなく霊がある、魂がある。
人間はですね、霊的な存在なんです。
皆さん、人と動物の違いは何でしょうか。
犬も考えはします。感情もあります。
しかし動物には霊がありません。
この霊というもの、霊魂と言ってもいいと思いますが、
この霊魂霊は、ただ作り主の神様が人間だけに吹き込んでくださった賜物、贈り物、プレゼントなんですね。
創造主神様が人間をお作りになる時に、人間に霊を吹き込んでくださった。
だから人間は霊的な存在なんです。
だから物質がいくら満足していても、いくら物が溢れていても、
この霊的な乏しさを解決しない限り、人間は決して幸せになれないということです。
皆さん、人間には宗教がありますよね。
皆さん、皆さんのお家にある犬とか猿がどこかにいて、
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拝んだり祈ったりすることを皆さん見たことあります?ないんですよね。
動物がどこかの仏閣にいて、祈る。
そういう動物はいません。何ででしょうか。
動物には霊魂霊がないからです。
しかし人間にはどこの国の、いや人類歴史上今まで全ての人間には宗教品がある。
何ででしょうか。霊魂が最初から吹き込まれて作られたものだから、それを求めるものだからそうなんです。
どういう意味でしょうか。最初から神様と付き合うように作られました。
神様から離れたら決して生きられない。幸せになれない。
自分の存在の満足を得ることができない。
人生の本当の意味を見出すことが、見つけることができない。将来の希望も得ることができない。
神様と離れていました。
だから皆さん、人間は作り主なる神様と結ばれているとき、
そのときに初めて人間はまことの幸福を得ることができる。
喜ぶことができる。楽しむことができるという意味です。
皆さん、これこそ人間の幸福の法則です。いや人生の法則。
皆さん、人がどれほど全域的な存在なのか、宗教を求める存在なのか、
日本だけではなく全世界を見ても宗教がない国はありません。
神のない国はありません。
人間が作られた神であろうが、アメリカにも中国にもアフリカにも、
アフリカのマサイ部族にも行っても宗教があるんです。
皆さん、なぜ人は宗教を作るのでしょうか。なぜ神々を作るのでしょうか。
もし物質だけで、体だけで、それで十分であれば宗教はいらないんですよね。
そうしたら、あの国この国は宗教がないはずなんだけども、宗教のない国はどこの一国もありません。
何十人の集まっている部族であっても、そこには必ず何らかの宗教があるんですよね。
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人間が物質だけで満足十分だと思う存在であるならば、宗教を作るはずがないんですよね。
皆さん、人には満たされないと、それを欲しがる欲求というものがあります。欲があります。
例えばですね、何日間も食べていないとお腹がすくんですよね。
そうすると食べ物を欲しがる、ニーズ、欲求があります。食べ物だけではないんですよね。
男性は女性を欲しがる、女性は男性を欲しがる、あるいは仕事を欲しがる。
何かを空いている穴があると、そこを埋めようとする、満たそうとする本性が人間にはあるんです。
それがこの日本に、この世界にでも宗教神々を作る、それはどういう意味ですか。
裏返して考えますと、霊的に満たされていないから、空いているから、穴があるから、
それを無意識中に人間というものは、それを埋めようと満たそうとするから神々を作ります。
それが乏しい、欠乏という証拠なんです。
つまり皆さん、すべての人は作り主なる唯一の神様と結ばれて生きるように設計されている。
創造主の神様を信じ、創造主の神様に信頼し、そして創造主の神様に助けていただく時に、
人はやっと誠の幸福を楽しむ、得ることができる、そういうことなんです。
ところが人が神様とのその関係を断ち切ってしまいました。
自分一人で生きていける、神様なんていらない、そういうふうに思ってしまって、関係を断ち切ってしまいました。
自分を作った創造主の神様を捨ててしまったわけなんです。
それで人間は自分一人で生きられると思い込んでいました。
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そうして数百年、数千年が経ちましたわけなんですね。
だから、もともと創造主の神様が自分の家にいらっしゃるはずなのに、断ち切ってしまって、そこが空いているんです。空白になっている。
そのところを人間は何とかの神々を作って、それを満たそうとするわけなんです。
あるいは他のものをもってそれを満たそうとするんです。
もともとは神様を求めるべきなのに、人間が何かの良い行いを、あるいは趣味生活を、あるいは性的なものを、
あるいは世のものをもってその空白を、そのところを埋めようと満たそうとする。
しかし、どんなものをもって満たそうとしても、はねることができない。
満たすことができないんですよね。
その穴にはそこにぴったしの神様じゃないと、他のものをもっては満たすことができない。
はねることができないからです。
皆さん、このように人間は作り主なる神様にお会いして、そしてその神様に結ばれているときに、まことの幸福を得ることができる。
味わう、楽しむことができるんです。
これ以上、他の宗教を求めなくていいんです。
いや、求めてはいけません。
世のものをいくらもって満たそう満たそうする。
そういったことをしなくていいんです。
そもそも、作り主なる神様の代わりに、他のものをもって、それを変えることはできないからです。
皆さん、作り主なる神様にお会いすれば、人生のさまよい方向は終わります。
作り主なる神様、十一の神様にお会いすれば、その神様がもっておられる将来と平安と希望と喜びが、あなたのものになります。
だから、その作り主なる神様に出会って、その神様に結ばれている人は、今日の御言葉のように、このように歌うわけなんですよね。
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死は必然、私は乏しいことがありません。私の杯はあふれていますと、歌うことができるんです。
作り主の神様にお会いすれば、唯一の神様にお会いすれば、人生の方向さまよいは終わります。
苦しみは消え去り、悩みは消え去り、誠の幸福が、誠の幸福が、自分の人生に尋ねてくるんですね。
作り主なる神様は、あたさしにこのようにおっしゃっています。
御言葉を一回見てみたいと思いますが、このところですね。
よろしかったら、もう一度一緒に読みませんか。
もしからさん、もし心を尽くして、私はあなた方に見つけられる。
感謝します。
私はせが、皆さん方が心を尽くして、唯一の神様、作り主なる神様を探し求めるなら、見つけることができるんです。
探し求めるなら、見つけられます。
神様はかくれんぼを好きであります。
皆さんが探し求めたら、すぐに現してくださるんですね。
そして出会ってくださるんです。
どうか皆さん、この作り主、唯一の神様を探し求めていただこうではありませんか。
そうするならば、見つけることができるんです。
もう一度申しますが、人間は霊的な存在です。
ですから、作り主なる唯一の神様に出会っていない限り、人間は決して幸せになれない。
何をもっても、その神様のいない空白を埋めることができない。
だから人間に不幸が、悲惨なものが、苦しみが残るわけです。
皆さん、作り主なる神様は、皆さんのそばにおられます。
そして皆さんが探し求めるなら、その神様が出会ってくださる。
手を差し伸べてくださる。
そして結んでくださる。
あなたを神の子供にしてくださる。
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そして全知全能なる神様が、その力をもって、あたさちを幸せの道へ導いてくださるんですね。
ところが、ここでひとつ重大な課題がひとつあります。
その神様に会うことができないように妨げるものがひとつあります。
作り主なる神様とあたさち人間を、もう関係を隠してしまったことがあります。
それを聖書では罪と言います。
聖書は罪に対してこのように言っています。
聖書を一箇所見てみましょう。
ローマ人への手紙という言葉ですが、そのところ一緒に読みたいと思います。
全ての人は罪を犯したので、神から栄養を受けることができず。
こういう意味です。
全てです。
歴史上全ての人類は罪を持っています。
だから、神の栄光に自分で到達することができなくなってしまいます。
皆さん、罪というものは、作り主なる神様の存在を認めないことです。
認めようとしない。
あるいは、神を抜きにして自分で生きようとすること。
それを罪と言います。
聖書で使われた言葉、ヘブナイコという言葉ですが、
罪という言葉の言語の意味は、的外れという意味があります。
矢を置いて、そうすると、それがこの的に当たるはずだけど、外れています。
私たち人間は、向かうべき的があります。
行くべき方向があります。
決まっているんです。
いるべき席がある場所があります。
結んでいるべき関係があります。
もともと決まっているんです。
その的があります。
そこから、私たち人間は外れている状態、それを罪と言います。
まるで電車が線路の上で走るべきなのに、その線路から脱線してしまうと、大きな事故になるわけです。
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もともと向かうべき的は、神様を信頼する人生です。
もともと歩くべき的は、作り主神様と共に歩む人生です。
もともといるべき場所は、神様の子供という場所です。
もともと結ぶべき関係は、神様との愛の関係です。
それが的なのです。
そこから外れているのです。
ところが人間は、この向かうべき、歩くべき、持つべき、結ぶべき関係を拒絶してしまいます。
人間は自分で作った神に拝んだり、あるいは自分で作った揺れる道で生きようとするから、不安が絶えないわけです。
これが聖書が言う罪というものです。
この罪がある限り、この罪の課題を解決、クリアしていない限り、人間は神様に出会うことができない。
まことも至急数を自分のものにすることができない。
ずっと洗脳に脱線してしまっている電車の状態そのまま。
ですから皆さん、また先を引くになった神様に出会うために、もともと洗脳に戻るために、もともと向かうべき的に向かうためには、
この罪の問題を解決していただかなければなりません。
ところが聖書は、罪のゆえに人々はみんな死んでいると言っています。
身体は生きているかもしれません。しかし神様に出会っていない人は、その霊魂は死んでいます。
またいつか身体も死ぬことでしょう。
皆さん亡くなった人は、自分のために指一本も動けません。
亡くなったからです。死んだからです。
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だから、死んだ私は自分の人生を営むことも、神に出会わせることも自分にはすることはできません。
だから、死んだ私を生き返らせる、死んだこの私を神様に出会わせてくださる誰かが必要なんです。
それを実は私たち皆さんは求めているんですよ。
気づいていないだけ。
死んでいない誰か、私を生き返らせ、神様に出会わせてくださる誰かが必要なんです。
その方がイエス・キリスト様です。
イエスが名前です。キリストはメシア。
クリスマスにね、そういうコンサートとかよくするんですよね、メシア。
救い主という意味です。
救い主、メシア、クリスと同じ意味です。
皆さん、イエス様が唯一のキリスト、メシア、救い主なんです。
このイエス・キリストを信じる者に新しい命を与えて下さい。
そして、死んだ者がどうて解決できないこの罪の問題を解決して下さい。
そして、罪のように死んだ者を生き返らせて、新しい命を引き込んで下さい。
そして、救い主神様との関係を回復してくださるんですね。
聖書はこのように言っています。
ヨガネノフクイショイという御言葉がありますが、3章16節にこのように私たちに語っています。
この朝、皆さん方に神様がこのように語っておられます。
この切なる神様の御声に耳を傾けていただきたいんですね。
一緒に読みませんか。神話からです。
3、神はいつにほどに両愛された。
それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を持つためであり。
神様はこのようにこの朝、皆さんに語りかけておられます。
神様はですね、皆さんにですよ。
私はあなたが不幸になることを望んでいない。
あなたが幸せになってほしいんだ。
まことの救苦を受けてほしいんだ。
45:04
そのためには、私が伝わったこのイエスを信じなさい。
信じてほしい。
イエス・キリストをあなたの人生の救い主として受け入れてほしい。
そして主として心に信じて口で告白して、
救いを受けなさい。
すべての罪から自由になって、
そして私があなたに注ぼうとしているこの祝福を、将来を、希望を受けなさいと、
この朝神様が語っておられます。
皆さん、皆さんに語りかけておられる神様の耳声に耳を傾けて聞いて下さいませんか、皆さん。
今日、大谷教会に初めての方々も、
2回、3回お会いしている方々もおられますが、
皆さんがですね、今日、皆さんをおそらく招いた、サポった教会の誰々さんについて来られたことかと思うんですね。
その方を信頼しているから、行ってみよう、そんな感じで来られたかと思います。
さあ、一つ考えていただきたいことがあります。
皆さんのご知人が先に、あるいは奥さんが先に、
さっきのですね、宮原巨大の赤き毛、その毛糸ですけど、
あるいは皆さんの身近な友人が、知人が先に、本当の祝福、幸福を見つけました。
そしてその秘訣を知っています。
そしてその秘訣を、皆さんに教えてあげたいんです。
そしてあなたに、あなたも私のようにイエス様を信じて、幸せになってほしい、
祝福を受けてほしい、救われてほしいと、そういう願いを持って、
今日、皆さんを招いたわけなんですよね。
秘訣を知っている時、
皆さんが危険な道、乏しい人生になってほしくないから、
安全な道へ、良い所へ、皆さん方を案内しているわけなんです。
例えばですね、まるで、こう叩いたらどうでしょうか。
48:00
旅行にどこかに行ったらですね、内藤さんがあってですね、案内をしてくれるんですね。
私が前にですね、イスラエルと、イスラエルの東にあるヨルダンという国がありますけれど、
こういう所に行ったことがあります。写真をですね、お見せしたいんですが、
こういうヨルダンに行ったら、ペトラという所があります。
昔のですね、インディアナ・ジョーンズという映画がありまして、
その所でですね、ミスキーのそういう所がありますけど、
あそこが道も、絶壁も、全部あの色になっているんですね。
だから、ちょっとしたらここが道なのか、どこなのかわからなくなって、
行ってしまいやすい所なんですね。はい、もういいです。
で、あの時にですね、二十何人の群れがガイドさんにですね、ついて行くんですね。
で、もう色がですね、あの色しかないんです。上は空、下は全部あの色ですから、
ここが道なのか道じゃないなか、それが見分けるのが難しい所なんですね。
そこをですね、ずっとこの深い谷があって、その下を通って結構4キロ、6キロぐらいですね、
歩いてあそこに着くわけですが、
ぽつでこういうハプニングがありました。
今言っているのにですね、いつも団体で移動すると、早く足がですね、歩きが早い人もいるし、
遅い人もいるわけなんですよね。
で、後ろに何かの人が遅れて、自分だってついて行って、こうも曲がっているわけですから、
先頭の人々が見えなくなってしまったんですね。
それで何かの人々が、ここが道だと思って、そこに行ったんですね。
で、もう見えなくなって、ガイドさんがですね、僕でしたけれども、その方がもう探しに行った。
で、見たら道だと思っていたのが道じゃなくて、細い絶壁の上だったんですね。
そこを歩いて行ってしまって、その先は道がないんです。
それがわからない。もうその高さの差があるかですけど、その差がわからないほどなんですよね。
それでガイドさんが来て、「そこは絶壁ですよ。行ったらもう大変ですよ。」と、
彼らを戻してくれたわけなんですよね。
今日皆さんをこの教会に、この集会に招いて誘ってくれた人は、
まるでこのガイドさんのような方です。
知っています。この道の先に何があるか。
イエス・キリストなしの人生の先に何があるか。
51:01
皆さんの友人の方が、貴人の方が、あるいは家族が、ご貴人が、奥さんが、子供が、あるいは親の方が知っています。
知っている人はそれを伝えたいんです。教えたいんです。
ここに行ったら絶壁ですよ。もう死にますよ。滅びですよ。それを教えてあげたいんです。
それで今日皆さんをこの所にお招きしたわけなんです。
皆さんの奥さんが、皆さんのご親が、あるいは皆さんの親しい友人、知人の方が、
皆さんに悪を、滅びを、呪いを、災いを、わざわざ教えたくて、
ここにお知れしたことでしょうか。そんなことはありません。
私が生きている、私が味わっている、私が楽しんでいる、このイエス・キリストを皆さんにお伝えしたくて、
そして皆さんの友人の方、知人の方、親友の方々が皆さんをお招きしたわけなんです。
これが私たちの願いであり、いや、作り主なる神様の願いなんです。
もう一度申しますが、神様に結ばれている人生はあふれる人生です。あふれんばかりの人生。豊かな人生。
しかし神様の外にある人、結ばれていない人生は乏しい、乏しい、乏しい、乏しい人生で、その乏しさが絶えない人生なんです。
何を持っても埋めることができない、何を持っても満たすことができない、作り主なる神様がおられる場所があります。
そこで一つ動画を見てみたいと思いますが、
55:02
この動画を見ていただきありがとうございます。
私の動画を見ていただきありがとうございます。
この動画を見ていただきありがとうございます。
この動画を見ていただきありがとうございます。
この動画を見ていただきありがとうございます。
この動画を見ていただきありがとうございます。
57:08
この動画を見ていただきありがとうございます。
この動画を見ていただきありがとうございます。
この動画を見ていただきありがとうございます。
はい、ここまでです。
皆さん、この朝、唯一の神様が皆さんを招いておられます。
イエス・キリストが救い主であり、救いであると心に信じて口で告白するならば、あなたも救われます。
そして、永遠の命を持つことができ、誠の幸福を得ることができ、死から命へ、闇から光へ、主から自由へ、皆さんを主が招いておられる。
人生のさまよいを終わらせてくださる方がおられるなら、皆さん、ためらわないでほしいです。
人生の方向、さまよいを終わらせてほしいです。
イエス・キリストを受け入れて信じてください。
その方は、皆さんを裁くためにではなく、命を与え、希望を与え、共にいてくださるためにおいでになりました。
そして今日、皆さんのご主人、あるいは奥様、あるいは友人、知人を通して、この集会に皆さんを招いたわけなんです。
なぜでしょうか。皆さん、お一人お一人を愛しておられるからです。誠の幸福を与えるためです。
神様は愛であられます。その愛をもって、今、皆さんを招いておられます。
イエス・キリストを受け入れて信じて、あなたも救われてほしいと主は招いておられる。
この神様の御声に、あなたの王とするあなたの出番です。
1:00:05
では、目を閉じていただいて、静まって、今のお話に、お話を思い起こしていただきたいです。
なぜ人生に、さまよいが、苦しみが、病が、絶えないのか。その原因は、神様から離れているからです。
神様に結ばれる時、神様と私の関係を妨げている罪を解決するためにおいでになったイエス・キリストを心に人生の主として受け入れる時に、人生は変えられる。
そして、まことの祝福を思い切り喜んで味わう、楽しむことができるその道が、イエス・キリストを信じようではありませんか。
心に受け入れようではありませんか。
今、もし、ほんの微塵でも心の中に、イエス・キリストを信じてみたい、ついていきたい、イエス・キリストを救い主として受け入れたい、信じたいと決心する思う方がいらっしゃるならば、
みんな目を閉じているわけですから、安心して、もしそういう方が願いが少しでも心にあるならば、手を挙げてその気持ちを表していただけますでしょうか。
イエス・キリストを信じたい、受け入れたい、そういう方がいらっしゃるならば、手を挙げて表していただけますか。
はい、よろしいです。感謝します。
では私が一言お祈りいたします。
愛する天皇父なる神様、あなたは作り主であられます。あなたは唯一の神様であられます。そして私たちは神様に作られたあなたのものです。
1:03:05
私たちは神様と結ばれているべき存在ですが、その関係を結びを断ち切ってしまって、罪に死んでいます。
しかしイエス・キリストを神様が使わせてください。そのイエス・キリストを救い主として、罪を許してくださる主として、受け入れ信じる者には永遠の命を与えてくださる方であることを今日教えていただきました。
どうぞ今日初めての方々、あるいは二度三度四度の方々、神様が選んでここに送ってくださりましたことを感謝いたします。どうぞしよう。
今日の御言葉をお家に書いてでも、もう一度思い起こして、果たして人生の最後には何があるんだろうか、真剣に考えることができますように、神様、あなたが働いてくださいますようにお願いをいたします。
一人として滅びることなく永遠の命を得て、そして最高の人生、至極の人生を歩むことができますように、しよう。どうぞ一人一人をあなた豊かに祝してくださいますようにお願いをいたします。感謝してイエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。