1. 名谷教会 podcast
  2. 2013/10/27:聖日礼拝(旧音源)
2013-10-27 1:25:26

2013/10/27:聖日礼拝(旧音源)

2013/10/27 聖日礼拝(旧音源)




00:01
阿弥陀佛
皆さん、おはようございます。
熱に入る前に、隣の方々と挨拶していきたいと思います。
いらっしゃいました。おはようございます。
それでは一言、お祈りいたします。
愛する天皇、父の神様、皆がね、賛美だしてます。
こういった今日も、主が新しい日を、私たちに許して下さい。
命を許して下さい。
そして、主の宮に、主が私たちを引き寄せて下さい。
このようにして、愛する兄弟姉妹たちが、
運んで、礼拝を捧げるこの恵みを、心から感謝いたします。
どうか、主よ、主なるイエスを崇め、賛美する、私たちの一生が得られますように。
また、今から神様が、私たち一人一人に語って下さる二言葉に、
先祖に振り下して、二言葉に従う。
そして、二言葉に生きる、私たちありますように、
どうぞ、主よ、一人一人の信号を強め、
変えて下さり、成熟、成長させて下さいますように、お願いをいたします。
このものがかくして、あなたの栄光だけを表して下さい。
いだねて、期待して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、先週の秋の特別伝道集会です。
祈って下さり、また伝道して下さり、いろいろと報じて下さいまして、
これから感謝いたします。
初めての方も、あるいは二回、三回、それ以上お見えになった方々もいらっしゃったかと思いますが、
神様の恵みがですね、二言葉の種がまかれたと信じておりますので、
これから神様が、精霊様が働いて下さってですね、
どうか、一人でも多くの人々が救われますように、祈って、期待していきたいと思います。
今日は、先週の週報にもありまして、今日もかけてありますが、
03:00
世界のプロテスタント協会、日本では神教とも言いますが、
我らのこのプロテスタント協会では、10月の第4の聖日礼拝を宗教改革祭で守っています。
今日は、私が信じるのは12のところですが、その入る前に、
ちょっとだけ、これは大事なことですから、お話をしてから、また本文に移りたいと思います。
宗教改革、皆さんご存知でしょう。
その宗教改革と、そして、我らのこのプロテスタントのその意味についてお話したいと思います。
しかもっと時間をですね、もっと十分もってお話をしたいと思いますが、
私たちがカトリックでないこと、いや、カトリックでなくてはいけないこと、
なぜプロテスタントが始まったのか、そして私たちはどうあるべきなのか、
信仰の土台が何なのかを、そのことをですね、少し触れていきたいと思います。
皆さん、宗教改革と言われたら、思い浮かぶ人がいるでしょうか。
マルチン・ルーサーですね。彼は最初はカトリックの神父でした。修道士でした。
聖書もね、聖教師みたいにですね、その聖書をもらったんですけど、
彼が修道士として、神父として、自分が知っている聖書とカトリック公教会が教えている書の距離があまりにも違っていることに驚かされました。
ルーサーは特にローマ教、そしてダラテア教を主に彼は本当に力を入れてですね、教えていたところ、
多くのカトリック公教会の教えの間違いに驚かされて、
その他の最も重要な間違いは、人が救われるのは、ただ神様の恵みによるものですね。
神様の側が100%です。人間側0.00001%も功績とか努力とか行いは介入することができないんですよね。
しかし当時も今もそうですけど、カトリック公教会は、人間側も努力が必要、善行、良い行いが必要、そして神の救いが必要。
06:08
この2つが、神人、神と人が共同して救われるという、神人救いに関してですよ。神人共同説を昔も今も教えている。
それでですね、マルチン・ルーサーは、ローマーみたいな手紙の1章17冊の、義人は信仰によって生き、皆さんご存知ですよね。
その御言葉を掴みました。そしてその当時、今はしてはいないことですけど、その当時の教皇がですね、ペペロ大聖堂があります。
ローマにいたらめちゃくちゃひどいところですが、100年も経ってもそれが建築ができなかったので、お金がなかった。
そしてそのお金を集めるために、皆さんご存知の免罪負、あるいは職優状と言いますね。それを聖書にもないことを、評判をしたり。
その免罪負を、お金を払って買えば、自分の罪が許される。
また、もっとお金を集めるためにですね、死んだ人はすぐに天国や地獄に行くのではない。聖書にもない煉獄というところがある。
そこに人は留まっている。そしてこの地上にいている人が、その死んだ人のために取り出して祈れば、あるいはお金をその当時のことですよ。
現金箱に入れて、そのコインが落ちる音がした瞬間、煉獄にいた人は、そのお金の祈りによって天国に行けるというとんでもないことを教えました。
ルーターは、クリチャンの両親として、これは到底いけない。これは非聖書的な、反聖書的なことだと、彼は死ぬ覚悟をして、そのカトリックの罪を批判する95カ条ですね、その問題を打ちつけました。
そしてその後、次から次へ、スビングリア、カルビン、カルバニア、イングランド、スコットランド、フランスなどで、当時のカトリックに反対する、抵抗する宗教改革が起きまして、そして我らのプロテスタントが始まったわけです。
プロテスタント、宗教改革のスロガンは、「ただ聖書、ただ信仰、ただ恵み」ということです。ソラフィレ、ソラスクリプラ、ソラクラシアというガセン語がありますけど、それがソラなんですね。
09:14
聖書に戻りましょう。信仰に戻りましょう。ただ恵みですということを掲げて、我らのプロテスタントが始まりました。皆さん、私たちは聖書に戻らなければなりません。神様に戻らなければなりません。
私たちが信じるのは、礼拝するのは、教皇でも人でもペテロでもありません。神様です。何かの伝統や形式や習慣でもありません。そして、宗教プロテスタントはカトリックという要素や様々なものとせっかりと立ち切って、説別して始まったわけです。
皆さん、聖書をどこを見ても、救いはただ100%完全に神様の恵みのみによるものです。人間の行いは、信じて救われたものがその恵みに応答としてするのが善行であり良い行いです。
人の功績や努力や頑張りや良い行いによって、人は救われることは決してありません。やはり、聖書は教皇、あるいはマリアを、あるいは連獄を教えても信じてもいません。
もう多くありますけど、その中の4つぐらい、5つ、6つぐらいお話したいと思います。
まず、20世紀の最高の説教者として作られている英国のマルティンロイド・ロンズという有名な先生がいらっしゃいます。
日本でも本が結構訳されていますが、その先生は今も亡くなられていらっしゃらないですが、この先生はカトリックに対してこういうふうに大胆に述べられました。
ちょっと皆さんにはショックかもしれません。
ローマ・カトリックはサタンの最高傑作だとマルティンロイド・ロンズ先生は述べられました。
いくつかをお話したいと思います。
まずはもう一度確かめますが、救いは、人間の功績は介入することはできません。
12:06
全くただ神様の恵みのみに良し。
しかしカトリックは新人共同説を言います。
人間が50%、神様が50%、それで共同して救われるという非聖書的な意を教えています。
だからカトリックは善行欲望の意を奨励するんですね。
これをして自分が救われる、救いが確かになると信じるからです。
ローマ書1章17節を見ますと、偽人は信仰によって生きるとあります。
二つ目です。カトリックの教理教第969項目を見ますと、
マリアを指して、マリアを忠悔者、恵みを保う者、助け主という名を持って教会にあって祈りの対象になるという項目があります。
また、南米のある推秘教は神父さんですよね。
三位一体の神様ではなく、四位一体の神様を勧めてキャンペーンをしています。
つまり四位神様、イエス・キリスト、聖霊様、もう一人は誰でしょう、マリアさんを入れて、
四位一体説を勧めて、そして署名をもらっていることを知っています。
みなさん、聖書一冊を見てみたいと思います。
第一手持て、二問五説です。
私たちが聖書を正しく知っておかなければならないんですよね。
第一手持てですよ、二問五説です。
新約聖書、四百七ページです。
いいですか、三杯。
神は唯一です。
また、神と人との間の忠悔者も唯一であって、それは人としてのキリストイエスです。
聖書は、この世に神様と我らの間の忠悔者は、人になってくださる忠悔者は唯一である、その方はイエス・キリストですと聖書書かれていますが、
カトリック公教会はマリアをイエス様に変えてしまう、あるいは助け主として聖霊様に変えてしまう、
15:08
とんでもない非聖書的、反聖書的教理を教えています。
もう一つ申しますと、カトリック公教会はこういうふうに教理に明記しています。
カトリック公教会は時間的にも論理的にも聖書より先ですし、カトリック公教会がなくしては聖書は存在しない。
聖書はなくてもカトリック公教会は永遠に続くという論理を教えています。
皆さん、御言葉は神と共にあります。
何も誰も神様より先にあるものはありません。
聖書の見事は神様の御心にあったものが、人間の記者を通して記されたわけです。
だから聖書の見事はもうすでに神様の内に永遠からあったものです。
四つ目をお話したいと思います。
もう皆さん御存じのカトリックの神父様は、罪を許す役割をします。
そして神様と人間との間に最初の役割をしています。
そして国会というか、許しの秘籍というか、神父様にこういう自分の罪を告白します。
そうすると神父様がロザリオの祈りを何回しますか。
宗の祈りを。その宗の祈りは宇宙の宗の祈り違いますよ。
宗の祈りを何回祈ってください。
そしてこれを何回、これを何回、これをしたら、あなたのその罪は許されますと神父が教えています。
聖書をどこに見ても人間は人間の罪を許す役割も権威も与えられていません。
聖書を一括見てみましょう。ヘブロビトへの手紙、十章、十九節から二十二節です。
ヘブロビトへの手紙、十章、十九節から、二十一節だけでいいですね。
十章も十九節から、いいですか。
18:00
それでは新約聖書、四百三十六ページです。
十九から二十一節まで読みたいと思います。
こういうわけですから、兄弟たち、私たちはイエスの血によって大胆に誠の聖女に入ることができるのです。
イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
また、私たちには神の家を司るこの偉大な祭祀は誰でしょう。イエス様です。
イエス様だけが私たちの罪を許してください。
もう一つ、カトリック公教会は文書に明記されていますが、カトリック公教会のみに救いがあると主張しています。
しかし、今、世界にエキュメニカルという運動が世界の教会に蔓延しているんですが、
エキュメニカルというのは簡単に言えば、どこの宗教にも救いがあるということです。
日本にもそういう動きが見えてきますし、他の国にはそれがもっと明らかに動くがありますが、
カトリックの神父が仏教の僧侶とか、あるいは他の宗教の神職者と一緒に勘断を持ちたり、会議をしたりして、
カトリックだけではなく仏教にも、例えば天理教にも救いはある。
だから、お互いの宗教を尊重して、それぞれ人の救いに励みましょうと言う。
彼は明らかに反聖書的ことを教えています。聖書にはイエス・キリスト、他には救いはないと書かれているわけです。
他にも多くありますが、今日はここまできまして、ですから皆さん、私たちは皆さんの信仰がどこに立っているのかを、よく知っておいていただきたい。
教会の中にカトリック的な要素を中途半端に受け入れたり許してはいけません。
聖書を偏失してもいけませんし、神様以外にどんな人間もどんな聖人も、礼拝と祈りの対処にしてはいけません。
21:15
すでにその時点でそれが偶像礼拝になってしまいます。
救いは、ただ三味一体の神様によるものです。
私たちが信じる対処は神様であり、祈る対処も神様であります。
ただ聖書、ただ信仰、ただ恵み、これが宗教改革の誠の聖書です。
ではここまできまして、賛美歌を一曲したいと思いますが、マルチン・ユーザーがこの宗教改革を掲げて作曲、作詞をした賛美があります。
280番です。神は我が矢倉という賛美ですが、この賛美を1番と4番を、この宗教改革の聖品を思い起こして、
私は本当に正しい金庫の上に立たされているこの恵みを感謝して、この280番の賛美を1番と4番を賛美したいと思います。よろしくお願いします。
神は我が矢倉 肌強きさて
苦しめる時の 先助けと
御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御御
四番
つまきのしさらのよしふけぐとも
24:02
くのみことばとすすりにすすんで
わがいのちもわがたほらばとりへ
はみのすにはまおわれにあり
アーメン
じぶんをゆるすこと
かみさまのゆるしについて
じぶんをゆるすこと
らんせいはきりすときょうをしんじるかぞおおくのひとびどをしょけいするにかかわっています
さんせいもしてあるときはきりすさんたちをつかまえてどうこくにいれてしまった
きりしきょうをしにさせたりしにしなかったらしょけいするようにしてきたざんにんなものでした
かんがえてみますとこのざんせいのゆえにおとうさんおかあさんかぞくをいのちをおしらわせたひとかおおくありました
あのドイツにユダヤ人をぎゃくさつったひとらがあったときならばこのじだいにはこのざんせいがいました
このざんせいはそのごじきてきにイエスキリストにであいました
27:05
そしてじぶんがどれほどひどいざんにんなつみをうかしたのか
どれほどひどいはくかいさだったのか
それをイエスさまにであって
そしてそのごこのざんせいはじぶんのつみをてっていにくりやさねて
くかいさひとびとひとがこんどはひっくりかえられて
イエスさまをつたえるでんどしゃになりました
このざんせいはじぶんのつみをゆるしてくださったそのイエスさまにであったあと
じぶんのそのつみがゆるされたことをかくしんをしました
そしてみごとじぶんのそのむかしのそのつみをおかしていたあのじぶんをのろうことをしません
じぶんじしんをそのわなでくくりしめることしかけることをしません
じぶんをくるしめることをじぶんをなやますことをしません
むしろじぶんのそのつみをゆるしてくださったイエスキリストのあいをもてつたえる
ゆるしをつたえるものになりました
だれでしょう
だめでしょう
ストパウロです
ストパウロだそうです
パウロ先生がかきおこったそしてそれがせいそになったその書かんぶには
もうさいしょからさいごまであふれみちているあふれながれていることは
イエスキリストのじゅうじかのゆるし
じゅうじかのあい
それがゆたかにあふれながれている
ローマ書から見ていきますと皆さん
ストパウロはもちろんじぶんのかこうをわすれてはいなかったです
しかしそのじぶんのかこうのあのおおくのひとびとをですね
いのちをもうしなわせたそのはくらいのじぶんのことを
ずっとそれをですね
あたまにかかえながらじぶんをくるしめてくるしめて
じぶんをもってもって
そういったことをいっさい
だれでしょうか
そのつぎよりイエスキリストのじゅうじかのゆるしが
そのちからがはるかにまさる
30:03
さくがいしゃだったじぶんをイエスキリストとともにじゅうじかにつけて
そのじぶんはもうそんざいしないということです
もうひとりはじゅうにめいのきょだいがいました
じゅういちめいのおとうとをおとうさんがそのおとうとばっかりですね
とくにきにいってですね
あいしがってですねおいしいものもいいふくもですね
そのじゅういちばんめのおとうとだけにですね
あたえたりしたんですね
それでそのうえのじゅうにんのあにたちは
もうねたみにねたみに
ちっとにですねもえてもえてですね
じゅうにんがあつまったわけですね
そのじゅういちばんめのそのおとうとのわるこちをしてるんです
もういつももうえらいそうに言って
もう一回もうみえなくなったらいい
みえなくなったらいい
わるこちばっかりしてました
ねだんでいました
にくしんでいました
それはこころだけでおわってなかった
やがてそのじゅうにんのあにたちは
そのじゅういちばんめのじぶんのおとうとですよ
兄弟を外国の奴隷にお金をもらって
もううってしまいました
そしてじぶんのおとうさんには
あの彼はもう死死にくいつくされて
もう死にました
うそをつきました
皆さんよく考えてください
にくしにうらみそしる
そういったものはうそもつく
しともうってしまう
ついからつぎへつみが
もうれんさでですね
ばとんりんれいするように
ついからつぎへつみがおころです
ところがその奴隷に
ぶられたくまったそのおとうとは
くさい あのあいつたちをいつか
ころしてしまえ
じゃなくて
うらむはずなのに
にくむはずなのに
そんなことは一切ありませんでした
ひとばんで奴隷になってしまったんですよ
しかし兄たちはうらんだり
33:01
にくすんだり
わるけきをしたり
そんなことはありませんでした
ろうやにもいれられてしまいました
そのつみはごうかんでした
くやしいたちばに
いれられてしまったわけです
彼はうらみもみくしみも
あるいは兄ばでずっとみくしんで
許せない許せない
そういう気持ちをもっていませんでした
彼はあとに
その国の総理大臣になりまして
兄たちと親父が
そのふるさとにつくりがおきまして
たべものがなくて
お米をこいにきました
これはチャンスだぞ
もうみんなろうやにいれてしまうぞ
そうしてもいいほどでしたけど
決してそんなことはしていませんでした
それは誰でしょう
ヨシエフです
そしてその彼の最後のお話が
今日の本文です
そのところちょっと見てみましょうか
もう一度
今日のご実況を見てみましょう
19節20節です
19節20節を一緒に読みたいと思います
皆さんヨシエフのその立場を
よく考えていただきたい
そんな立場で長い年月を
どういうふうに彼が通り抜けてきた
こういうふうに言っているのかを
見ていただきたいですね
19節20節を一緒に
ヨシエフは彼らに言った
恐れることはありません
どうして私が神の代わりでしょうか
あなた方は私に悪を諮りましたが
神はそれを良いことのための
計らいとなさいました
それは今日のようにして
多くの人々を生かしておくためでした
アーメン
皆さんこれこそ
クリスチャンの持つべき
信仰態度ではないでしょうか
自分を奴隷に打ってしまった
それでも傲観の罪やさまざまな罪でも
牢屋に入れられてしまって
暗い時期を送らざるを得なかった
しかし彼は
19節
兄たちがですね
私を許してください
許してくださいと
言っている時に
ヨシエフは何と言っていますか
どうして私が神の代わりでしょうか
36:02
皆さん
聞いていてください
許しは
私たち人間の権限ではありません
神様の権限です
人を裁くのも
人を許すことも
誰の権限ですか
私たちはただただ
愛することしか
その義務しか与えられていません
皆さんこれが信仰です
どうして
ヨシエフにこんなことができたんでしょうか
皆さんもし皆さんが
皆さんとヨシエフと立場を
取り返ってきたら
皆さんはどうしたんでしょうか
ヨシエフはどうして
私が神の代わりでしょうかと
言っていますね
そして
あなた方は私に悪をはからいましたが
それを良いことのためのはからいとなさいました
神の目で自分の身に起きる全てのことを
悔しいことも
嫌がられていることも
悪いことをやられても
そのことを神の目でそれを見る
そしてそれを
人が良いことに変えてくださることを
信じる期待する人は
ヨシエフのように生きることができるんです
ヨシエフが
売られたその時からずっと心の中に
あの兄たちを
恨んでいくところどころで
悪口を言いふらして
そして自分のこの気持ちを
他の人から堂々としてほしくて
ずっと憎しみを抱えていたならば
もう
ヨシエフは
ここに来る前に
癌にかかって死んだかもしれない
心が腐ってですね
腕がですねボロボロになって
死んだかもしれない
私たちもヨシエフのような
態度を持ちたいです
皆さん
人はそれぞれ
身についている態度があります
例えば
何か悪いことをやれられた時に
あるいは何の悪いこともなかったですよ
何かの二人の中で
揉め事があったとしましょう
それが教会の間であろうが
家族の間であろうが
何か揉め事が
喧嘩があったとしましょう
その時に
それをどういう風に対策するかは
その人の身についている
例についている態度があります
39:01
ひとつ
怒ってしまう人は
怒りが身についている
そして怒る態度が
身についています
あるいはいつも
言い訳ばかりをする人は
それもその人の態度です
あるいはよく自分が先に
謝る人は
謝る態度が身についています
人の
良くないこと
悪いこと
自分を傷つけた人であろうが
その人をよく許す人は
許す態度が
その人についています
皆さんはいかがでしょうか
よく皆さん自分自身のことを
考えてみていただきたい
自分は何かの
そっとした揉め事があったとき
そっとしたトラブルがあったときに
あるいは
何の悪いこともないのに
自分の思い込みで
気持ちが
荒くなっていたときに
どういう風に自分は
それを
やってそれを解決していこうのか
どんな態度を普段持つのか
皆さんご自分のパターンを
考えていただきたい
私はマジですが
昨日も言ってお話ししましたが
私はですね
今も身近なモデルしか
身近な夫ですけれどもね
結婚の初期はですね
自分が悪い方ですよ
それでハンナから
言われるんですよね
そうじゃない
もう言い返してですね
いつも
自分の誤りを認めない態度が
自分についていました
文句を言う
言い返す
そういう態度が自分についていたわけです
その当時は知らなかった
しかし祈って祈って
そして神様から決めされて
自分にこういう
良くない態度がついている
それを教えられてですね
本当にですね
神様にですね
祈って
教えられたことがたくさんある
皆さんいかがでしょうか
クリータの中を見てみますと
洗礼を受け入れられて
救われたクリータの中に
少なくない方々が
自分の過去に囚われていて
自分自身を救われて
恵みの内にあるにも関わらず
昔の自分をですね
苦しめて苦しめている人が
少ないんじゃないかなと思います
42:00
過去自分が犯した過ちや
あるいは自分が苦しめられていたその自分を
あるいは無力で無気力であった自分等
それをですね
主が洗い流してくださったのに
それをまだ自分が
整って整って
自分自身を苦しめている人が
少ないのではないかなと思います
信仰によって救われたにも関わらず
神様はあなたの全ての罪は許されました
と官用形で宣言しておられるにも関わらず
自分の過去のその罪はですね
続けて続けて思い起こして思い浮かべて
そして自分を苦しめている人が
少なくないのではないかなと思います
皆さん私たちは
信仰によって救われ
そして全ての罪は許され
罪はないものとして
主が拭いてくださった
あなたの過去のその罪が
過ちがどんなものであっても
どれほどひどかったことであっても
全て許されました
そして神様は清くもしておられました
これが神様の罪許しであり
神様の愛なんですよね
ですから皆さん
自分の昔の自分を
それをもう手放してください
死の御前に下ろして
死を忘れさせてください
二度と自分自身を
苦しめることがないようにしてくださいと
呪いでありませんか皆さん
もし皆さんの今までの人生の間で
必ず何かの出来事過去があったでしょうか
あるいはつらいつらい何かの
まだ自分を許してない
繰り返しの何かの罪があるでしょうか
それで自分も救われたりは変わらず
今も自分を苦しめたりしてはいないでしょうか
自分の話を私の話をですね
ちょっとしたいと思います
45:00
前話したかったと思いますが
私は高校生の時にまず
自分の父のことをずっと恨んで
憎していたんですよね
同時にそんな自分を
父をですね
恨んで憎しんでいる自分を
自分が許せなかった
同時のですね
複雑なこの悩みが
自分の内側にありました
信仰を反対し
母との間に様々なことがあって
家様を信じていましたよ
確実に通っていました
でも父のことをですね
憎しんで憎しんで
恨んで恨んでいた
許していなかったですね
家様を信じているのに
自分の内側にですね
人を許していない自分がある
そして人を許していない自分を
また自分が許していない自分がある
本当に苦しかったです
御言葉を信じています
家様を信じています
しかし父を許していない
そして僕から解き放れていない自分のことで
苦しんでいたんですね
その時に大学生になってですね
与えられた御言葉の中の一つが
この御言葉です
一緒にですね
お開けしましょうか
詩編124.7節です
旧約聖書1038ページですね
詩編124.7節
旧約聖書1038ページです
よろしいですか
私たちは引っ掛けられた罠から
鳥のように助け抱かれた
罠は破られ
私たちは助けられた
アーメン
皆さん
人を許していないこと
恨んでいること
あるいは人を阻止する
悪口をしていること
憎しんでいること
48:00
許せないことは
実は自分が自分自身を
引っ掛けている罠なんです
そしてその罠に自分が
引っ掛けられているんです
そして自分が自分自身を
苦しめているわけなんですよね
だから
自分自身を許すことが
神の身旨なんです
主がおいでになったのは
私たちに
解放を与えるためなんです
あらゆる罠から
私たちを解き放つために
解放するために
来られたんですよね
この御言葉が自分に
与えられて
悔やるために
そして
許すことができるようになりました
そして
憎んでいた
恨んでいた自分のことも
イエス・キリストの十字架も
父親によって許されたんだ
確信が与えられて
その自分のことも
ここの自分のことも
主の恵みによって
許すことができたんだ
だから私は
二度と昔の
父を憎んでいた
恨んでいた自分を
恨んだり
そのために苦しんだり
そうしたことは一切ありません
皆さん
これこそ福音なんです
皆さん
神様は
あなたを
あなたのことを
許されます
ですから
あなたも
自分自身を
許してください
ここの
あの時の自分が
今の
皆さんを
引っ掛けることがないように
縛ることがないように
とらわれることがないように
言葉の上に
引っ掛けられた
その罠から
抜け入れてください
罠はありません
神様には
罠はないですよ
とおっしゃっている
自分が自分の
罠をまだ作りだして
作りだして
それを
縛って
縛っているのではないでしょうか
昔の
自分を
解き放してください
それが
作りです
それが
神様の
御心なんです
皆さんが
人に犯した罪
あるいは
自分自身に犯した罪
51:00
あるいは
神様に犯した罪が
いくら
莫大なものであっても
神様は
全てを
お許しになる
ところが
ここには
一つ
重要な
前提があります
それは
その自分の
過ちを
主の御前に
徹底に
悔い改めることです
悔い改め
なくしては
許しは
ありません
皆さん
徹底に悔い改める
というのは
どういう意味なのか
10年前犯した罪は
10年間
ずっと
毎日悔い改めることは
徹底した悔い改める
という意味ではありません
それはむしろ
そんな悔い改めは
神様の許しを
信じない
確信しない
不信心のような
ものです
徹底的
徹底した
悔い改めとは
自分の
罪を
神様の御前に
告発
告白する
そして
自分の
過ち
罪を
認めることです
そこから
徹底した
悔い改めは
始まります
そして
自分は
罪人であることを
告白することです
そして
自分には
自分の
罪を
コントロールすることが
できない
そんな能力が
自分にはないことを
そんな
みすぼらしい
罪人であることを
死の御前に
告白すること
それが
徹底した
悔い改めです
そして
聖霊様に
私を
清めてください
この
怒りを
この恨みを
この囁りを
この
昔のあの
トラウマをしよう
あなたが
綺麗に
洗い流してください
私には
それが
できません
あなたにはしか
できます
しよう
私を
解き放してください
そして
その上で
自分の
意識を
持って
罪を
罪から
離れ
罪を
断ち切る
そして
強い
生活を
求める
この
プロセスが
徹底した
悔い改めなんです
ですから
皆さん
このように
皆さんが
祈りましたならば
神の
罪許しの
恵みを
確実に
信じてください
自分の
感情に
頼ってはいけません
疑ってはいけません
あるいはですね
人間の
記憶というものは
あの
年数がですね
1年
2年
3年
4年
5年
6年
7年
8年
この
年数がですね
経っても
経つほど
昔の記憶は
あまり覚えてないんですよね
20年前の
何かの罪を
54:00
犯しました
それを
その日に
確かに
徹底に
悔やさめたんですね
20年が経って
あの時に
悔やさめを
した
したっけ
それです
また悔やさめよう
そういう記憶に
寄ってはいけないんですよね
御言葉に
徹すことです
徹底に
悔やさめな
種は
真実な
形ですから
清めて下さい
御言葉に
徹す
そして
その許された
その
恵みを
いただいた
ものとして
そして
主に
喜ばれる
主に
受け入れられる
清い
生きた
生け贄として
主に
捧げる
それが
私たちの
生き方で
あります
ですから
そのように
徹底に
悔やさめな
種は
そのように
悔やらためて
許しの
恵みを
確信する
ものは
この
ローマ書
八書
一節
二節を
信じます
その二ヶ
箇所を
見ましょうか
ローマ書
八書
一節
二節
新学聖書
三学ページです
お書きください
はいでは
ここを読みましょうか
八書の
一節は
女性の方が
二節は
女性の方が
お読みしましょう
いいですか
女性の方から
一節
三杯
なぜなら
キリスト
イエスにある
命の
御霊の
原理が
罪と
死の原理から
あなたを
甲斐を
したからです
アーメン
皆さん
信仰によって
救われました
私たちは
信仰によって
救われた
私たちはですね
今は
キリスト
イエスにある
ものが
罪に
定められることは
決してありません
神様も
人も
社さんも
誰も
あなたの
過去も
その罪をですね
訴えたり
定めることは
ありません
アーメンですか
信じてください
御言葉を
信じてください
なぜなら
キリスト
イエスにある
私たち
みんなは
聞かれましたね
キリスト
イエスにある
ものです
あるものには
命の御霊の
原理が
あなたを
解放したからです
もう
解放されました
御言葉を
信じてください
二番目に
移ります
二番目は
人を許すこと
人を許す言葉ですね
自分に
57:00
何かの
害をした
害を与えた人
許すことは
なかなか
難しいことで
あるかもしれません
自分を
苦しめた人
いや
自分を
殺した人
自分を
殺した人
いや
自分
今も
苦しめている人
自分のことを
見えないところで
悪口をしている人
あるいは
心に
傷つけた人
あるいは
自分を
詐欺をした人
浮気をした
夫や妻や
親の
金を持って
逃げてしまった
息子とか
等々と
人を許すことは
ですね
難しいことかも
しれない
しかし
皆さん
なかなか
人を
許せない
許してない
そんな
私たちの
弱さを
神様は
誰かを
許してない
ずっと
憎んでいる
あるいは
呪っている
あるいは
自分と
会わない
人を
阻止する
抽象している
そんな
自分が
自家が
自分の
家にあることを
実は
ご存知です
そして
それをですね
神様はですね
そんな私たちのことを
主は
怒りの目
ではなく
憐れみの目を
見て
くださるんですね
その
許してない
許せない
憎み
恨み
つぶやき
争い
そねみ
妬み
そしりの
心を
主が
見られて
いた
見られて
ですね
このように
ここまでだけ
言ってくださるんです
あのことのために
君は
どれほど
自分を
苦しめて
君は
自分の
魂に
気づけているのか
知っているのか
その
恨み
妬み
許してない
その
気持ちのゆえに
君は
どれほど
自分の
霊に
体に
痛い質を
つけて
いるのか
知っていますか
憐れみを持って
主は
語りかけて
くださる
皆さん
人を
許さない
あるいは
人を
許してない
恨み
妬み
そねみ
そしり
などなどは
どれほど
恐ろしい
結果を
招くでしょうか
知恵者である
1:00:00
ソロモンが
浪年になって
人を
恨める
人を
恨める
浪年になって
人生のですね
先輩として
後輩たちに
残した
ことが
真言
なんですよね
真言は
人生の
何というか
金華玉錠
のような
ことです
そのころに
このような
箇所があります
十四章
三十節と
一緒に
見ていきたい
と思います
聖書をですね
みんな
折り書きして
一緒に
見たいと思います
真言は
四篇の
次にあります
十四章
三十節です
この御言葉を
ぜひぜひ
みなさん
みんな
覚えて
いてください
九百世書
千七十五ページです
よろしいですか
十四章
三十節です
はい
九百世書
千七十五ページ
です
九百世書
千七十五ページ
です
九百世書
千七十五ページ
です
九百世書
千七十五ページ
穏やかな心は
身体の
激しい
思いは
骨を
蝕む
みなさん
激しい
思いは
何を
するんですか
胸を
骨を
蝕む
これをですね
他の
日本語の
現代訳は
このように訳しています
聞いていてください
心に
平安の
ある人は
長生き
嫉妬深い
者は
寿命を
縮める
もっと
リアルに
来ますよね
ピント
来ましたか
みなさん
妬み
恐れみ
そしり
恨み
許せない
許さない
その
気持ちはですね
寿命を
縮めているんです
ですから
簡単に
言いましょうか
みなさんが
誰かを
十年間
例えばですよ
十年間
恨んで
いたとしましょう
みなさんは
自分で
自分の
命を
寿命を
十年間
縮めて
死ねて
今日まで
来たわけです
みなさんが今
誰かを
ほしりを
していますか
妬んでいますか
憎しみを
抱えていますか
許してないですか
そしたら
みなさんは
自分自身の
寿命を
縮めています
縮めています
御言葉です
いくらですね
健康の
薬を
飲んでも
散歩を
しても
運動を
しても
心の中に
恨み
そしり
妬み
許せない
それが
あったら
寿命を
縮めて
しまう
それより
神の形に
作られた
1:03:00
ものが
神の
栄光を
神の
形を
効かせて
いるわけなんです
それが
最も
重大な
害なんですね
アメリカの
牧師の中に
ルイス・スミズという
牧師が
いらっしゃいますが
その先生は
この
許すということを
このように
言っています
許すということは
囚われていた人を
解放すること
そして
その
囚われ人は
自分で
あったと
気づくこと
である
そして
その
囚われ人は
自分で
あったと
気づくこと
である
その
その
囚われ人は
自分で
あったと
気づくこと
である
それが
許すということ
どういう意味でしょうか
皆さん
誰かを
許してない
許せない
ずっと
悪口をして
値段で
恨んで
いるんですね
それが
許すということ
その
囚われ人は
自分で
あったと
気づくこと
である
それが
許すということ
いるんですね
そしたら
自分が
その人を
捕らえて
いるのではなく
実は
自分が
自分を
捕らえて
自分が
捕らわれている
人だと
それを
許すときに
それが
気づかされる
という意味です
ですから
許さない限り
自分が
捕らわれ人であることを
気づかないです
これは
どれ程
恐ろしい
業なんでしょう
何にわざわやむのでしょうか。
ですから皆さん、御言葉にあるように、いつも喜んでいなさい。
それは、私たちは神の形にかたぼって作られた尊いものなんですよ。
なのに、人を許せない。
妬む、諸念、恨む、素知る。
神様の形をですね、その尊い神様の名誉、神様の形を、それを穢して潰して潰して進めて進めている結果になるわけなんです。
許すためには、皆さん、御霊の力に頼らなければなりません。
人間の気持ちはですね、決心というものはですね、なかなか許しにくいです。
どうですか、皆さんは、皆さんの家族を、あるいは周りの人々を、祝によく許す上手ですか、許しにくいか。
許すのはなかなか難しいかもしれません。
夫婦の間でもですね。
ですから、聖霊の力が必要なんです。
1:06:00
どうか聖霊様、あなたの御様で満たしてくださって、許すことができる心を、愛することができる心を与えて下さいとですね。
そして、許すことができるまで、自分の霊が本当に天然であるために、もう諦めないで、許すことができるまで祈り続けていかなければなりません。
そしてそれをクリアしなければならないんです。
中途半端にですね、許していないまま、クリア改めていないまま、してしまうとしては、
皆さん、聖霊様は、愛の御霊です。
聖霊の御霊は、妬み、そねみ、そしり、許せない、そういった心と正反対なんですよね。
御言葉を見てみましょうか。
ガラテアビトへの手紙、5章19節から20節です。
ガラテアビトへの手紙、第5章19節から23節までです。
では、私が19、20、21節を読みますね。
肉の行いは明白であって、水のようなものです。
不貧困、汚れ、高色、偶像霊廃、魔術、敵意、争い、そねみ、生きどおり、当破心、分裂、分破、妬み、明定、幽虚、そういった類のものです。
前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなた方にあらかじめ言っておきます。
その次をよく覚えておいてください。肝に銘じておいてください。
こんなことをしている者たちが、神の国を相続することは、
不貧困、汚れ、高色、偶像霊廃、敵意、争い、そねみ、生きどおり、当破心、分裂、分破、妬み、そういったものを一度二度はして食い温めたらいいです。
そして許されますが、この御言葉にこんなことをしているとあります。ずっとしています。繰り返してしています。
食い温めもしていないです。自分は悪くと思っていない。そしてねたんでいる。争っている。
1:09:05
そういった人は、神の国を相続することはありません。つまり救われません。天国に行けません。これが御言葉の教えです。
しかし御玉の霊はどんなものでしょうか。二十二節を見てみましょう。
3.しかし御玉の御は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、乳和、慈性です。このようなものを禁ずる律法はありません。
みなさん御玉の御を結びましょう。御玉の御は愛です。喜びです。平和です。寛容であり、親切であり、善意であり、誠実、乳和、慈性です。
本当にみなさんに感謝して感謝していることですが、私、歩に行ってもう半年過ぎましたんでしょうかね。
もう七ヶ月になりましたが。
他の教会とかあるいはどういうふうに私について話をしているかですね。教区の先生方に会議であったりするんですよね。
この前、自分でこれを話すのはちょっと恥ずかしいですけど、この前ですね、教区の教師会があって、舞妓びらであったんですよね。
教師として私とそして三陰の森先生と千山一の足立先生3人で食事をしていてですね。
教会の話をしてですね。足立先生からですね。みなさんいかがですかって。
私がとてもいい教会ですよ。役人さんも本当にとても協力できるし、みんなよく祈って伝道もしていて、そういうふうにですね。
そのところ、足立先生はですね、どこから聞いた話をしてきてですね。
こういう噂が流行っている。何ですかって。悪いことですか。いいことですよ。何ですかって。
そしたら、誤解はしないでください。みなさん。妙大に、教会にやっと牧師が不倫しました。
それを足立先生から聞かれてですね。私、本当に恐れる気持ちと同時に感謝でした。
妙大にお人とさんが、みなさんが他のところに行かれて、この水久で足りなくて、いつも失敗だらけのこのものをですね。
1:12:07
みなさんが良い話をしていらっしゃるんだなと。それが回って来たわけなんですよね。
みなさん。日様の身は、文秘と申しますが、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、乳は理性です。
どうかみなさん、信仰によって救われた足立が、日ごろ家庭で、教会で、あるいは外でですね。
肉の行いではなくですね。日様の身を結びましょう。
日様の身を結びましょう。それがあなた自分自身の礼のために良いことなんです。
また、教会のためですし、うちにあがっている精霊様を喜ばせる。
みなさんどうか、誰かに対する憎しみを、あるいは恨みを、恨みを、まだ少しでも抱えているでしょうか。
心の中にそのカスが残っているでしょうか。目に見えないかといって、誰かの悪口をしたりしているでしょうか。
どうか、このガラティアの21説のように、神の国を相続することがない、そのようなところに落ちないように、どうぞよろしくお願い致します。
その恋み、妬み、争い、恨み、素知りを、そして精霊様が私の内側に働いて下さって、許しと仲直りと平安をお持ち下さい。
それが家様の教える二言葉なんです。
最後にもう一つだけお話したいと思います。家様は、又井の福井長御兵と似てみましょうか。
今日は宗教科学の話としてはちょっと長くなりましたが、大事なことですのでお話したいと思います。
又井の福井長御兵です。御兵22説。
これは三条推訓の家様のとても重要なメッセージで、これは三条推訓は、又井の福井長の5章、6章、7章は、
1:15:09
栗ちゃんが、神の弟子が、神の者が、どう生きるべきなのか、その中心を教えて下さった言葉なんですね。
三条の22説から、これは私が読みますね。
しかし私はあなた方に言います。兄弟に向かって、兄弟ですから、教会の兄弟ですよ。
腹を立てる者は、誰でも裁けを受けなければなりません。ですから腹を立ててはいけません。
兄弟に向かって、脳なしというような者は、最高議会に引き渡されます。また、馬鹿者というような者は、燃えるゲヘナに投げ込まれます。
ゲヘナは地獄を意味します。
だから、23説から見て下さい。
だから、祭壇の上に備え物を捧げようとしている時、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、
備え物はそこに、祭壇の前に置いたままにて出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。
それから来て、その備え物を捧げなさいとあります。
今のふうに言いましょうか。ある教会に妻さんと妙谷さんがいます。何かのことでトラブルが起きました。お互いに過ちがあったとしましょう。
二人は、二人とも同じ教会の信者です。でもまた、まだ仲直りをしていません。
恨んでいます。憎しみます。あいつが悪い。私は何の悪いこともしていない。許せない。あの人が悪いと、まだ怒りが残っています。許していない。恨んでいます。
仲直りをしないまま土曜日になりますか。日曜日になりますか。
そして祭壇を整えて、教会に運転をして、教会に来ます。
その日の奉仕です。何をすべきなのか。
御言葉は、奉仕をする前に、礼拝を捧げる前に、歌を歌う前に、献金を捧げる前に、まず、教題に行って謝る。
そして、仲直りを先にしなさい。それから、礼拝を捧げなさい、という意味です。
なぜ、こうしなければならないのでしょうか。
1:18:02
神様は、私たちの礼も心も、見極めておられます。
心の中に、恨みがある、妬みがある、そしびがある、そして、汚れている心がある。
そしたら、神様は、その礼拝を受け入れられます。御言葉は御言葉として、皆さん、受け止めてください。
それは、お勧めではありません。イエス・キリストの御命令であります。
ですから、皆さん、もしも、二つの礼拝が、神様に受け入れられる、喜ばれる、全く礼拝として捧げるためには、
心の内に、平安になるように、そして、人を許す、謝る、恨みを、つぶやきを、そしびを、妬みを、常みを、やめることです。
どうか、皆さん、御言葉に基づいて、皆さんにお願いしたいです。
もしも、皆さん、誰かと仲直りをしていないことがありますでしょうか。
恨んでいるでしょうか。あるいは、陰で悪口をしているでしょうか。
誰かの、何かの、あれを、まだ許していないかしら、心に残っているでしょうか。
今日の礼拝が終わったら、今日のうちに、どうか、皆さんが、先に、褒めをされて、謝って、
囚われている人は、その相手ではなく、あなたであるかもしれません。
そして、御霊は宿っておられない。働かないということを、覚えておいてください。
何より、御霊が悲しんでおられるのです。
そして、心に喜びに満ちあおれるように、そして、私たちが本当に捧げる礼拝も、主が喜んで受け入れてください。
そして、二度と自分自身を捕らえることがないように、本当に解き放つために、私が来たのだと、
御霊様の御言葉通りに、私たちが生きることを、主が求めてください。
むし、そういった裏切りとか、妬みとか、そういったものは、自分にはないとしたら、それは感謝のことです。
しかし、これから人生にまたそういうことが、またやってくるかもしれません。
その時に、今日の御言葉を、ぜひぜひ覚えておいてください。
御言葉のメッセージを終わりたいと思います。
1:21:05
神様は、私たちのすべての罪を許してくださいました。
そのように、私たちも当然、兄弟姉妹の過ちを許すべきだ。
二度と自分自身を憎しみや恨みのゆえに、罠で仕掛けることがありませんように、
はかれていない大きな大きな許しをいただいた者として、その恵みを覚えて、愛し合う、支え合う、
精霊の御霊の御を結ぶ、私たちでありたい。
そしてこの地上で、天国の喜びを、喜び楽しんでいく、私たちでありたいと願っております。
お祈りいたしましょう。
今日の御言葉を覚えてですね、心を合わせて、御一緒に一斉にお祈りしたいと思います。
まずは、神様のように御前に悔やかめましょう。
許すこと。そして、私を許してくださいと、自分の罪を悔やかめます。
そして、もしも心の中に、妬み、尊み、恨み、素知り、共和心、争い、憎き通りがあるならば、
それをしよ、私から解き放してくださいと。
許すことができるように、愛で満たしてくださいと。
イエス様のような心を、私にも与えてくださいと。
平安のため、愛のため、生きていきたいと思います。
では、御一緒にお祈りいたしましょう。
ハレルヤ神様、あなたの恵み心で感謝します。あなたの御言葉を感謝いたします。
しよ、どうぞ、我ら一人一人が、あなたの愛のゆえに生きることができますように。
しよ、どうぞ、自分自身を苦しめ、叶われるものがありませんように。
しょ、息をおこえて、貴方の御前に立つことができますように。
しよ、どうぞ、我ら一人一人を、貴方が憶えて祝して下さいますように、お願いいたします。
しよ、我ら一人一人を、貴方が愛を持って、
しよ、どうぞ、愛を許してください。私を許すことができますように。
貴方の愛を持って、
貴方が本当に、私を強くして下さいますように、お願いいたします。
イエス様のように、私をどうぞイエス様を見習って、本当に精霊の御霊が、本当に御霊の御が、愛と喜びと平安と喜びと本当に満ち溢れますように、私をどうぞ我々は心を礼を、あなたが清めて下さいますように、お願いを致します。
一言お祈り致します。
もし人の罪を許すなら、あなた方の天の父も、あなた方を許して下さいます。しかし、人を許さないなら、あなた方の父も、あなた方の罪をお許しになりません。
今日の御言葉をありがとうございます。私は本当に本当に弱い者です。
イエス様のように生きたいです。御言葉通りに従って生きたいです。しかし弱くて、つまづいたり倒れたり、罪を犯したりする弱い者です。
1:24:16
どうか必要神様、あなたが私を清めて強めて下さい。そしてイエス様が我々の本当に莫大な罪を許して下さったように、神なるイエス様が死なければならないほど罪の重大さがありましたが、死は許して下さいました。
許された者として恵まれた者として私も許す。そして心の中の憎しみ、諸念み、争い、妬み、諸知り、そういった憎の行いをやめることができますように、聖霊様、私をどうぞ助けて下さい。
そして御霊の実を豊かに結ぶことができますように、そしてこの地上で本当に天国の祈福を味わい、そして行く所々で本当に御霊の花を咲く、愛の花を咲く、そのようなものとならせて下さい。御言葉を感謝し、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン
01:25:26

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