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おはようございます。
今日は、名谷教会の創立28周年記念聖日礼拝です。
教会がここに建てられてから28周年になります。
今まで教会の歩みや営みを導いてくださった主なる神様に心から感謝申し上げます。
また、同時に教会や兄弟姉妹のために見えるところ、見えないところで喜んで奉仕をしてくださった多くの先生方、あるいは天に召された愛する兄弟姉妹の方々、またここにおられる皆さん方に心から感謝申し上げます。
これからも主なる神様が私たち一人一人を導き、主の教会を導いてくださることを信じて、信仰と希望を持って進んでいきたいと願っております。
今日は、教会創立記念礼拝に改めて、教会の存在目的、目指す方向について二言から教えていただきたいと願っております。
その箇所として、出自エジプト記13章21・22節を選ばさせていただきました。
旧約聖書に書かれているイスラエルという民族は、神によって特別に選ばれた民族です。
彼らは神の御業のために用いられました。
彼らは神の民、神の教会を象徴するものとして用いられたということになります。
イスラエルは神様が立ててくださったモーセを通して、エジプトから出ることになりました。
彼らが向かう地はカナンという地です。
カナンは神様が彼らの先祖のアブラハムに約束された地です。
そこに向かっていく旅が今始まったのです。
しかしどうでしょう。
その旅は彼らにとって今まで体験したことのない道のものでした。
その旅の先に何が起こるか、あらのにどのような危険があるか、彼らにはわかりませんでした。
彼らはただ神様だけを信じながら、モーセの指導に従って進んでいくしかありませんでした。
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ですから彼らの生死に対する力は神様にあるということになります。
イスラエルはエジプトを出てから、神様の力強いその守りと導きを体験するようになりました。
今まで体験できなかった不思議な神様のお助けでした。
例えば公会を真っ二つに分かれて歩いて渡ったこと、40年間マナを食べられたことなどです。
今日の聖書歌手は彼らがそのエジプトを出て、そんなに長くたっていない時の出来事でした。
彼らは今海外旅行に出たわけでもなく、夏休みを使ってキャンプに出たわけでもありません。
彼らが出て行って初めて体験する地は砂漠のような荒れた地でした。高温で乾燥な地でした。
昼はとても暑くて、夜はとても寒い土地です。
また野生動物の危険もあります。最もの心配は食べ物や飲み水の心配です。
あるいは50万人あるいは100万人以上の群れでしたから、病気、疫病の心配もあるわけです。
また、カナンまで行く途中に様々な敵があるわけです。
その他にもたくさんの心配や危険がある旅でした。
そんな中、彼らはカナンまで進んでいかなければなりません。
彼らを囲んでいる状況は決して優しくありませんでした。
非常に厳しい状況でした。
また、この先不安で厳しいからエジプトに戻りましょう、そうするわけにもいけません。
進むには本当に厳しい不安があるわけです。
このような時に不思議な形として神様のお助けが現れました。
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21・22節を見ますと、
主は昼は仏像の彼らを導くため雲の柱の中に、
また夜は彼らを照らすため火の柱の中にて、
彼らの前を進まれた。
彼らが昼も夜も進んでいくためであった。
昼は雲の柱が、夜は火の柱が民の前から離れることはなかった。
この雲の柱、この火の柱、
彼らにとっては聞いたことも見たこともないものでした。
彼らは実感できたことでしょう。
自分たちを守る者は唯一の神様のみであること、
そしてそれが実際に目に見える形として明らかにされました。
彼らはこの神の守りを、不思議な雲の柱、火の柱、
それを通して自分たちを守り、自分たちから離れない神様、
自分たちの前を進まれる神様を、彼らを実感しました。
そしてその柱のみなを褒めたたえました。
その歌が彼らの子孫に歌われて、その賛美が詩編に書かれて、
その父から子供へ、その子供へ伝えられて歌われました。
私がお読み出します。
詩編の121編、5節、6節、7節のあたりを読ませていただきます。
主はあなたを守る方。主はあなたの右手を覆う影。
昼も日があなたを打つことはなく、夜も月があなたを打つことはない。
主はすべての災いからあなたを守り、あなたの魂を守られると歌われていました。
本当に彼らは昼も日が打つことがなく、夜も月が打つことがない。
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主なる神様はすべての災いから自分たちを守ってくださる方であることを
今、この荒野にて彼らは体験しております。
ですから荒野での40年間は、
全能なる神様のお守りをとてもはっきりと体験できた時間でした。
そしてこの昼の雲の柱、夜の火の柱は
彼らを火難に入るまでずっと彼らを守ってくれました。
戻ってまして21節を少し注意深く読みますと、
さっきも強調しましたが、
彼らの前を進まれたという言葉。
彼らの前を進まれた。
神様は昼は雲の柱の中に、夜は火の柱の中にいて、
彼らの前を進まれました。
これはですね、ただ雲の柱が見えた。
すごい、夜は火の柱なんだな、という話を超える神の御業です。
主が、全能なる神様が彼らを導くために、
昼は彼らを導き、夜は彼らを照らして、
柱の中にいて彼らの前を進んでくださったということです。
主なる神様が彼らをエジプトから出て行かせました。
そして彼らに対する無限の責任を持ってくださったわけです。
脱出はさせてくれたんだけど、その後は自分たちでやりなさい、
そういう無責任的な神様ではありません。
あるいはたまに戻ってきて、久しぶりだな、というふうな神様でもありません。
ずっと離れなかったということです。
ずっと離れなかった。
エジプトを出てからも、昼も夜も、ずっと離れなかった神様。
昼も夜も、ずっと守ってくださった神様。
ずっとというものは、どういう意味があるでしょうか。
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それは彼らが信仰が熱い時も、しかし不信仰の時も、
感謝を捧げる時も、つぶやきの時も、
実は神様は離れなかったということなんですよ。
神様が、彼らがつぶやいたから、不信語だったから、
もう柱を撤回するわ、ではなかったんですね。
もちろんその間に様々な神の裁きは確かにありました。
しかし神様は彼らを離れることはありませんでした。
彼らの前を主御自身が先頭に立って進まれたということなんです。
彼らにはこの先に何があるかわからなくて、不安で恐れていたということです。
その恐れている彼ら、不安を抱いている彼ら、
その前を主御自身が善能なる神様が立ってくださって、
彼らをリードしてくださったということです。
道を切り開き、敵を打ち破り、
彼らをやがて約束の地の可能に導き入れてくださいました。
その神様が明谷教会の28年間の歩みを守られた方です。
主なる神様です。
神様は西武教会から開拓するよう、
ビジョンを与えられ献身するように召してくださいました。
その神の召しに多くの兄弟姉妹たちが献身されました。
祈りを捧げ、献金を捧げ、様々な奉仕を捧げられたことでしょう。
その祈りや奉仕の上に、多くの先生方、兄弟姉妹方の老苦、涙の祈り、奉仕、
その上に主御自身が主の教会を建て上げてくださいました。
イスラエルの人々は40年間離れなかった神様のごとく、
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この教会を主は離れることなく、
どんな時もずっと先頭に立って導いてくださいました。
28年という時間は決して短い時間ではありません。
最初の文庫の時からでしょうか、一番最初の開拓の夢、
そこから数えると50年近い歳月だそうですね。半世紀ですよ。
その歳月を主は皆さんと共に歩まれました。
時には雲の柱のように、時には火の柱のように教会を守られ導かれました。
皆さん一人一人がその証人ではないでしょうか。
本当に様々なことがあっただろうなと思います。
28年だけ数えると、この小さき者はそのうちの8年間を奉仕させていただきました。
それも短いといえば短い時間ですし、短くないといえば短くない時間かもしれません。
ここまで主の教会のために、身国のために、兄弟姉妹のために、福音選挙のために、
共に汗を流し、共に祈りを捧げ、共に伝道し、
共に礼拝を捧げてここまでご一緒に歩んでこれたこと、
その主の憐れみを、主の導きを本当に感謝しても感謝してもお返しすることができないんだなと思わされます。
そこで今日は、今までの神様のお守りを感謝しつつ、
同時にこれから私たちは、どうその主にお答えするかを考えていきたいと思います。
つまり、どの時代であっても変わらない教会の使命についてです。
時代が変わろうが、状況が変わろうが、あるいは教会の構成が変わろうが、
今、決して変わらない教会の本質、教会の聖書的在り方について学びたいと思います。
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そしてこれを覚えて握って実践する一人一人、明大に教会でありたいと切に願います。
第一は、教会の歩みを導かれる主に感謝し、その身もねに応える教会であることです。
教会が歩むべき本質的な方向性がありますね。
決して変わらないものです。
それは主の身もねに応えるという方向性です。
教会は利害関係の団体でもなく、親睦団体でもなく、交わるためにできた集まりの群れでもありません。
あるいは、我々人のニーズのために構成された団体でもありません。
教会の頭は主イエス・キリストです。
主はただ一人です。
これより教会の在り方を明確にしてくれる命題はないと思います。
しかし、これほど守り続きにくいものもないと思います。
なぜなら、教会の頭はイエス・キリストですが、実際に集まって私たちが関わって目に見えるものは、
人だからです。自分だからです。
そして、常にイエス・キリストが教会の頭であることを意識しながら歩んでいるものの、
時には、その中心にイエス様ではなく、人が私がトップに立てられることがしばしばあるかもしれません。
だから、これほど守りにくいものもないかなと思います。
教会の歩み、方向、細かい部分まで、私たちは主イエス・キリストに応える教会生徒にならなければなりません。
人に応えるものでもなく、人のニーズに応えるものでもなく、
教会の頭なるイエス・キリストの御胸に応えるものです。
そのために私たちは、聖書を正しく知らなければなりません。
聖書を知ることこそ、主の御胸を知ることであり、
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その主を知る知識によって、私たちは正しく清くその御胸に応える群れとなります。
これが教会です。
ですから、私たちが今しようとすることが、
果たして教会の頭なるイエス様の御胸に合うものかどうかを、
常に考え、調べ、祈るべきです。
そして、いつまでも主の御胸に、あらゆる部分において応等する教会でありましょう。
2番目、福音の選挙のために、一人一人が用いられ、身を結ぶことです。
福音選挙とは、総合的な救いを意味します。
これは、人が救われて天国に行くという、魂の救いを超えるものです。
人が主なるイエス・キリストに出会って、その人の人生がキリストによって変えられ、
この地で天国をもたらし、キリストの香りを放って、この地が神の国になるように使えることです。
そのために、キリストのように生きることです。
聖徒という名前にふさわしい生き方をすることです。
皆さん、神様を愛していますか?
神様を愛するほど、家族を愛し、隣人を愛することが信仰です。
この世界が創造の秩序を回復できるように、できることでもいいから、働くことです。
そのために、私たちが互いに重荷を負うことです。
小さなことから大きいことまで、できることをすることです。
福音選挙とは、こういった総合的なことです。
教会のトラクトを配ることから、世界的な救済団体を運営することまで、幅広い分野が福音選挙です。
ですから、皆さんが今すぐ、世界的な救済団体、例えばワールドビジョンとか国際機関対策とか、
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そんなものを皆さんが今から立ち上げて運営することは、今は不可能でしょう。
しかし、皆さんがお家で、もし子どもがいらっしゃれば、その子どもに、
イエス様のお話をするのは、今晩でもできることです。
あるいは、友人に久しぶりに葉書きを書き送って、そこに聖書の御言葉を書くのは、
礼拝が終わってからでも、皆さんに気持ちさえあれば、いくらでもできることです。
選挙時のために、毎日100円ずつ貯めれば、月1回3,000円金金ができるわけです。
今日からできることです。礼拝のために当番の報酬を喜んでするのは、今日から来週からできることです。
愛する神父のために、朝ごと、あるいは昼、夜、いつでもいいでしょう。祈ることは、今日からでもできることです。
あるいは、夫婦がクリスチャンであれば、聖書の御言葉を、あるいはメッセージを分かち合うことも、とても素晴らしい福音選挙です。
これら全てが福音選挙なんです。
それがやがて、あらゆる形として、選挙に身国につながります。
だから皆さん、私にできないことでため息をするのではなく、私にできることを今からやればいいんです。
今日でもすぐにできることは、山ほどあります。
するかしないか、その気持ちがあるかどうか、その次第だけなんですね、皆さん。
だから皆さん、皆さんにできることから、そして主に力を求めて、あらゆる形として、あらゆる方式として、福音選挙に携わってください。
人生は躊躇して多くの時間を費やすと、ある哲学者が言いました。
塩か甘いか、塩か甘いか、一日中迷って一日が終わります。
何もできない一日が終わってしまう。
躊躇するよりは、もうやってしまっていいのではないでしょうか。
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いや、電話したら向こうが迷惑と思ったらどうしよう。
それより、その魂のために電話一本かけた方が素晴らしい方式ですよ。
躊躇する時間の余裕が我々にはないんじゃないでしょうか。
そのためにぜひ覚えてほしい見言葉があります。
エペソビトへの手紙4章16節です。
私がお読みいたします。
キリストによって体全体はあらゆる節々をささやとして組み合わされ、つなぎ合わされ、
それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛の家に建てられることになります。
ここに、それぞれの部分がその分に応じてとあります。
それぞれの部分がその分に応じて働く。
私たちはそれぞれの部分です。
その分に応じて働けばいいのです。
できないことのためにため息するんじゃなくて、落ち込んだりするんじゃなくて、私の分に応じて働けばいいのです。
それらの働きのために、皆さん一人一人がそれぞれの持ち場、立場において用いられることです。
そして、主に用いられたい、主を私を用いてくださいという願いを持って働くこと。
それによって教会は立て上げられていきますよ、皆さん。
3番目、互いに励まし合い、愛し合う正当であることです。
第1ヨハネ4の11節を読みますと、
愛する者たち、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
いまだかつて神を見た者はいません。
私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
教会はキリストの体です。私たち一人一人はその部分です。
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多くの部分でできているキリストの体が教会です。
そしてそれが一人じゃなくて、こういうふうに回収、群れ、共同体という形として結びつけてくださりました。
それは私たちが一緒に召されたその召しにふさわしく歩むためです。
一緒にということです。
西洋のことわざに、早く行きたければ一人で行きなさい。しかし遠くまで行きたければ二人で行きなさいというものがあります。
教会は決してその一人で成り立つものではない。
主は一人一人一人を集めて、招いて召して、教会という共同体をつくってくださいました。
一緒に歩む群れ、一緒に礼拝する群れ、一緒に愛し合う群れとして主が招いてくださいました。
神様を信じるということは、この礼的、社会的、精神的、身体的な面においてバランスをとることだと思います。
例えば、熱心に祈るほど親切で優しい人になることです。
神様を愛するほど隣人を愛することです。
さっき申しました御言葉のように、私たちが互いに愛し合うなら、
今、隣にいる兄弟姉妹を心から受け入れて、心から愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまれるとあります。
私たちが互いに愛し合うなら、受け入れ合うなら、許し合うなら、喜び合うなら、
神の愛が私たちのうちに全うされると書かれているのです。
これが実現される場所が教会です。
逆に言いますと、いくら熱心な信者であっても、互いに愛し合うことがもしもないなら、
神の愛はその人に、その群れのうちにとどまらない。
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神の愛は全うされない虚しい宗教神になってしまうということになるでしょう。
神を愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛すること、
イエス様は今しめをただ二つでまとめてくださりました。
皆さん、神様を愛する運、隣人を愛してください。
それを全うしていくのが教会です。
最後に4番目、教会はキリストの祭輪に備えるものです。
キリストの祭輪に備える教会であるということです。
生徒一人一人、そしてその群れである教会が忘れてはならないことがあります。
それはイエス・キリストの祭輪です。
一人一人の人生も人類の歴史も、キリストの祭輪に向かって進んでいます。
個人的に考えれば、祭輪を生きているうちに会うか、死んだ後会うか、その違いがあるだけです。
イエス様は必ず再びおいでになります。
そして世界の歴史を管理し、死んだ者を読み分けられ、世を裁かれます。
そして神の人たちには最終的な栄光が与えられ、
我々信じる者は新しい天と新しい地に導かれます。
そしてイエス様は、創造の時から多くの時代にわたってなされた神の救いを最終的に完了されるのです。
その日を待ち望みつつ、備える群れが教会です。
だから常に私たちは忘れてはいけないこと、それはイエス・キリストの祭輪です。
それに備える一人一人、教会でありたいです。
キリストの花嫁としてです。
いつ備えるか、今備えてください。
今日備えてください。
皆さんの魂を、皆さんの心を、皆さんの体を、祭輪に備えてください。
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今晩イエス様がおいでになっても、悔いのない備えをしてください。
明日イエス様がおいでになっても、逃げることはない、悔いのない喜びをもってお迎えできる備えを、今、今日、その備えをしてください。
明日にまわしてもいいものはたくさんあるでしょう。
買い物は明日してもいいでしょう。
家の片付けは明日してもいいかもしれません。
車の洗車は来週してもいいかもしれません。
学校の勉強は来年してもいいかもしれません。
しかし、イエス様の祭輪に備えることは、今日しなければならないのです。
その清い一日一日、一瞬一瞬が重なって、私たちは清い花嫁として主をお迎えできるのです。
そして、祭輪の日、主からよくやった忠実なしもべだと受け入れていただく生徒協会でありたいと願います。
お祈りしましょう。