1. 名谷教会
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2025-08-10 30:59

2025/08/10:静かに救いを待つ

2025/08/10 聖日礼拝

加藤満牧師

哀歌 -33


サマリー

このエピソードは、戦争の悲劇やその影響について深く考察し、特にエルサレムの破壊とその象徴である神殿の倒壊に焦点を当てています。また、悲しみを言語化することの重要性が強調されています。エルサレムの苦しみと悲しみが描かれ、罪によってもたらされた破滅が語られます。アイカはその中で神の救いを待つ希望を示し、主の憐れみが尽きないことを強調します。このエピソードは、主の憐れみに期待し、静かに救いを待つことの重要性を語っています。

祈りと感謝
それでは一言お祈りを致します。
憐れみに満ちておられる、天の父なる神様、尊い皆を心から賛美を致します。
今日も私たちをあなたの御前へと集わして下さり、あなたを仰ぎ、ご一緒にあなたの御言葉に聞けますことを感謝を致します。
今日あなたは限りない愛をもって、私たちを愛し抜いて下さいました。
十字架にあらわされたその愛、巫女が父を流されたその十字架の術によって、私たちの罪が許され、神のことされ、そして三日目に甦えられた命、永遠の命を私たちに与え、
永遠なる死と共に死をも超えてあなたに結ばれたそのような命に、私たちを生かして下さっていることをありがとうございます。
私たちは弱く、あなたを手放しやすいものであるかもしれません。
しかし主は私たちを確かに握って下さっています。
あなたは私たちを手放されない主であることを覚えて感謝を致します。
それゆえに私たちは、あなたを何度もこの礼拝の場においても、あなたを見上げます。
どうか私たちに今朝も、あなたの信仰を与えて下さって、あなたを見上げ、あなたと共に歩む勇気をどうか与えて下さいますようにお願いを致します。
ここに集いたくても集えないお一人一人がいることも覚えています。
特にこの季節の中で体調を崩しておられる兄弟姉妹がいることも聞いています。
神様がお一人一人を慰め、またその病に触れて癒して下さいますようにお願いを致します。
施設におられる方、ご自宅で礼拝を守っておられる方々の上に、あなたがなおも届いて下さり、あなたの本当に慰めを与えて下さいますようにお願いを致します。
祈られたように戦後80年を迎えております。
神様、改めて先の大戦の本当に大きすぎる悲しみとその悲劇を私たちは知っています。
ただ本当に世界では今なお戦争が続いておりますし、私たちにそれは無関係でないことも思わされます。
主よどうか、あなたがこの世界に何を成しておられるのか、そして戦争という現実にあなたは何を語っておられるのか、どうか目を覚まし続けるものであらせて下さいますようにお願いを致します。
祈り、そして備えることができますように、そのために今日もあなたが御言葉を開いて下さいますようにお願いを致します。
これからの時を見てに委ねます。主が導いて下さい。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。アーメン。
キャンプと人間関係
ツナキャンプのために覚えてお祈り下さってありがとうございました。
4日から6日までキャンプがありまして、東京会からはイセリー、ノア君とトワ君が参加をしました。
とても良いキャンプでした。キャンプが終わった後、私たちそのままの足で山梨に向かったんですが、山梨に向かう車の中ずっと話題は、今年のキャンプ良かったなという話題でした。
本当にノア君、トワ君がこのキャンプで与えられた人間関係であったり、またその友達の関係を通して、様々な機会を通して彼が続けてイエス様に出会うことができるように、祈り続けていただけたらと思います。
そして私たちはその後山梨に行ったんですが、お祈り下さってありがとうございました。
アユナ先生のお母さんの手術が5日にあったんですが、無事にそれも終えることができまして、お母さんに会いました。元気なお顔をなさっていました。
今、回復期にありますけれども、またお母様の今後の生活のことも祈っていきたいと思っています。
アユナ先生は今晩帰られます。来るまでまた帰ってきますので、彼女のことも覚えてください。
来週は九州のキャンプの講師に彼女は行きますので、そのご縁のためにも覚えていただけたらと思います。
今朝は少し戦争のことを覚える礼拝をご一緒にしたいと思っています。
年に一度8月にそういう機会を持ってますけれども、最初に一冊の本をご紹介させていただきたいんです。
今年出た本でして、一郎君の写真、日照記を探してという絵本があります。
桐生さんに勧められて立ち読みしてて、私ちょっと本当にその時に涙が出そうになって買いました。
後ろにまた置いてますので、見ていただけたらいいと思います。
簡単に内容を話しますと、戦争の悲惨さを語る絵本ってたくさんあるんですが、
今回の主人公は現在に生きる新聞記者なんです。
その新聞記者の方に一通の依頼が来た。
アメリカで太平洋戦争を研究しているグループから、アメリカで見つかった日照記。
そこに一郎君という名前が書いてある。
この一郎君を探してくれないかという依頼が来るんですね。
その一郎君を探すために記者はいろいろなところに行きながら、戦争の悲惨さに出会っていくという話なんですが、
日照記っていうのは、当時私もこれで知ってたんですが、兵隊さんが出て行くときに木の丸の旗にそれぞれ願いを込めて名前を書くんですよね。
それをお守りとして持ちながら戦場に行くということでした。
そのような日照君を探す旅というか、ところへと行くわけですね。
いろいろな人のところに出会っていて、最終的なことを言いますと、この記者の方は一郎君を見つけるんですよ。
ただ、一郎君はソロモン諸島の戦争で亡くなっていることがわかりました。
22歳の若さで亡くなっているのです。
絵本の最後の方にこのような文章があるんですね。
日照記や遺書など、持ち主がわからないまま故郷に戻れない兵士たちの持ち物は、今も勝手の戦地にたくさん残されています。
一郎君のように家族のもとに帰りたいと願いながら帰ることのできなかった丸々君たちがたくさんいるのですという、そういう文章が書かれています。
この絵本が私いいなと思ったのは、戦争の出来事も悲惨なんですが、そこに携わった一人一人に人生があったんだということを改めて教えられるということでした。
戦争災害で失われる人の命を、私たちは別に悪いわけではないのですが、数字情報に切り替えるところが時にありますね。
太平洋戦争で亡くなった日本の兵士は200万人以上と言われます。
ただその200万人の一人一人に人生があった、そこで失われた数字の1の中に一人の人生があったということを真正面から受け止めようとするときに、私たちは本当の戦争の悲惨さを知っていきます。
その悲しみはあまりにも重たいもので、言葉を失うようなものですね。
そしてそのような現実は今も続いているわけであります。
しかし言葉を失うような大きな悲しみから、私たちは時折言葉を失う、そのような悲しみに出会うのですが、悲しみから回復する一つ目のポイントというか、
その道筋において大事なことは何かというと、自分の悲しみを言葉にできるかどうかです。
言語化することができるかどうか。
そしてその悲しみを言語化するというのはまさに触れたくない扉を開けるようなものなので、
血の滲むような身を引き裂くような痛みを持ちながら時に言葉を紡がなければならないことがあります。
ただ、聖書の中には、そのように血を流しながら悲しみを言葉にした書があります。
今朝読んでいただいた愛歌がそれであります。
実は余談ですが、東日本大震災の時によく読まれたことは、詩編の、嘆きの詩編、そして愛歌がよく読まれたと言われます。
悲しみを言語化することが難しい。でも、先んじて悲しみを嘆いてくれている人の言葉が、自分の悲しみを導いてくれて、
その悲しみの言葉に導かれて、私は自分の涙を流すことができたという証をよく読むことがあります。
泣けるって素晴らしいことですね。泣きもできないってことは本当につらいことです。
この愛歌の言葉に導かれながら、しかしそのような悲しみの中にも希望があるということを、今朝はこの箇所からご一緒に見ていきたいと願っております。
二つのポイントでお話をいたします。
一つ、それはエルサレムは罪に罪を重ねたという言葉が愛歌にはあります。
エルサレムは罪に罪を重ねた。
愛歌という言葉はご存知かもしれません。
ミナミユダという当時のダビデの国の末裔ですけれども、ミナミユダの国が崩壊したその悲しみを歌った歌であると言われます。
バビロンによってミナミユダは国家運営を担うような主要な人物たちは全員保守で連れて行かれてしまいました。
そしてエルサレムの都は完膚なきまでに破壊をされます。
そしてユダヤ人にとって、彼らにとって特に大きな悲しみはエルサレム神殿が破壊されるということでありました。
エルサレム神殿というのは神の家、私たちと共に神が共におられるということの目に見える象徴でした。
それが完膚なきまでに破壊をされたのです。
神の臨済と憐れみが私たちから去った象徴でした。
愛家の一章の一節というところを読みしますと、こういう言葉があります。
愛家の一章一節
私、ああ、一人寂しく座っている。人で満ちていた都が、彼女はやもめのようになった。
国々の間で力に満ちていた者、諸々の衆の女王が、苦役に服することになった。
彼女というのは、エルサレムという都のことを指しています。
人々が賑わった都、力ある都は、苦役に服する奴隷になってしまったと歌い始めるのです。
敵は都のすべてを蹂躙してしまいました。一章の七節にそのようなことが書いてありますね。
エルサレムは思い出す苦しみとさすらいの日々にあって、昔から持っていた自分のすべての宝を、その民が敵の手に倒れ、誰も助ける者がいないとき、
敵はその破滅を見て嘲笑うと。
そして十節を見ていただくならば、諸国の民がその聖女に入るのを彼女は見たとあるように、
エルサレムの神殿、聖女に敵が乗り込んで、それを怪我したということが描かれています。
ただ、都が破壊され、エルサレム神殿が破壊された、
その原因は一体何なのか、主人はこのように理解をいたしました。一章の十八節というところを読みますと、こういう言葉です。
次のページですね。一章の十八節。
主は正しい方である。しかし私は主の命令に逆らった。
エルサレムの悲劇
都の徹底的な破滅と悲しみ。
しかしその原因は、神の前に罪に罪を重ねたエルサレムのところ、エルサレム自身に原因がある。
罪に罪を重ねたという言葉は一章の八節にございます。
エルサレムは罪に罪を重ねた。そのため穢らわしいものになってしまったと。
それゆえに、この二章からはエルサレムに対して、別名すらシオンという名前で呼ばれますけれども、
主が、それこそ主がそこに裁きを下されたのだということが重ねて書かれていきます。
二章の一節には、主は娘シオンを見怒りの雲で覆い、
イスラエルの境を天から地に投げ落とし、見怒りの日に御自分の足台を思い出されなかった。
そしてちょっと飛びますが、四章の十七節というところには、
このような中にある民は自分たちが何をしているのかがわからないということも描かれます。
四章の十七節。
その上、私たちの目は衰えてゆき、助けを求めたが虚しかった。
私たちは救いをもたらさない国に期待をかけ、見張り場で見張りをしたのだと。
十七節の言葉は、とても私たちの戦争の現実にも重なるかもしれません。
東北にいた時に、弱い九条を超える日記の日本キリスト教団の先生に可愛がっていただきましたが、
8月になるとその先生が口癖のようにおっしゃっていたことは、
国は国を守るのであって国民のことは守ってくれない。
国は国のことを守るのであって国民のことなんか守ってくれない。
そういうことを、戦争を生き延びた方ですから、
そういうことを口癖に私に言ってくださったことを覚えています。
国が滅びるというのは実に大きな悲劇です。
二章の二十節をお読みします。
二章の二十節。パラパラ飛んで申し訳ないんですが、
二章の二十節にはこういう言葉がございます。
二章の二十節。
主よ、よくご覧ください。誰にこのような仕打ちをなさったのかを。
女たちが自分の胎の実を養い育てた幼子を食べてよいでしょうか。
妻子や預言者が主の聖女で虐殺されてよいでしょうか。
飢餓のために我が子を食べるという。
その描写は実はこの一回目のエルサレム神殿が破壊された時もそうですし、
紀元七十年にローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊された時にも同じ描写が描かれています。
貴婦人マリア。
本当に倫理的に優れた女性であったマリアが飢餓の中で自分の子供を食べたという記述が描かれています。
実に戦争の悲惨さというものを一番示す最たる描写ですが、
ただ私たちはこれが現在のガザとどれほど違うのかということに目をやっぱり見晴らされる思いがいたします。
大化の詩人は歌うのです。2章の13節というところをお読みしますと、こういう言葉があります。2章の13節。
娘エルサレムよ、あなたのことをどう証言し、何になぞらえよう。
乙女娘シオンよ、あなたを何に比べてあなたを慰めよう。
実にあなたの傷は海のように大きい。誰があなたを癒すことができよう。
あなたの傷は海のように大きい。そこが見えない。
そしてそれはもしかしたら押しては返すかのように、何度も何度も訪れるかのような、癒しようのない傷、海のように深い傷。
どう慰めようか。いや、慰めの術が見つからないような悲しみ。
アイカの救いの希望
おそらく戦争において人々が負う傷というのはこのようなものなのでしょう。
慰めきることのできない痛み。ずっと抱え続ける痛み。
ただ、これは戦争という事柄に限らず、私たちは時折人生によってそういうものを互いに抱えますね。
海のような大きな傷を一体誰が慰めよう。
そのような傷と平存しながら生きざるを得ないという事が、私たちは人生において時折あるわけです。
先ほど絵本の中に一郎君の日照記という絵本の中に書かれていますが、一郎君の日照記に実は名前を書いた人を追っていくんですね。
その中で一人ご存明の方に出会う松永さんというおじいさんと出会う87歳のおじいさんです。
このおじいさんが一郎君の日照記に名前を書いたのを覚えていないんですが、
代わりに自分の大親友であったわあちゃんという人の日照記に僕は名前を書いたという事を思い出して語られるんですね。
その時にその名前を書く時に覚えている事は、必死に祈りを込めて願いを込めて名前を書いた。
でもその名前を書いた願いの内容は何か。
どうかわあちゃんがお国のために死ねますようにです。
お国のために死ねますように。
その後戦争の中で松永さんは生き延びました。
日照記に名前を書いたわあちゃんは戦死を致しました。
戦後の時代を生きた松永さんは改めて国のために死ぬ事が当たり前だった時代を後悔するようになります。
本の中でこういう言葉が書かれています。
戦争の時代だからとはいえ大事な友達に向かって国のために死ねと背中を押したんです。
死んできなさいと。
それが戦争。それが日照記ですと。
その方は静かに涙を流しながらそのことを語ったということが絵本の中で書かれています。
今の現実を見てもそうでしょう。戦争の始まり。
ただその原因にあるのは人間の罪ですよ。
罪に罪を重ねた。
それが様々な形で止めどないそして終わることのない報復の連鎖へと繋がっていった。
キリスト教もまたそれは例外ではないのです。
十字軍に従軍した時に十字軍をこぶした司祭ベルナルブスという人は
キリストのために殺しても死んでも罪ではなく最も名誉あることである。
殺すのはキリストのためであると語ったという言葉が残っています。
第一次世界大戦で青年たちが出ていく時にそれを祝福して送り出したのはキリスト教の祭司たちです。
私たちは教会に集っているから大丈夫ということは誰も言えないような気がいたします。
これは私自身も含めてです。
戦争の原因は罪。
そしてそれに加担する。
気づかないうちに加担する。
私たちも実はそのような中にある。
遠い話ではない。
これは私の話なんだということを私たちは互いに受け止めなければならないような気がいたします。
さて、そのような悲惨な海のような深い傷に私たちが出会う時に
私たちは一体何をできるのでしょうか。
二つ目のポイント。
沈まって神の救いを待ちなさいということがこのアイカが語る希望です。
沈まって神の救いを待ちなさい。
実にあなたの傷は海のように大きい。
誰があなたを癒すことができようと2章の13節で語られました。
そのような悲しみに私たちが出会う時に
私たちは本当に指先一つ動かせなくなるような時があります。
ただ、アイカはこのような嘆きの中にも小さな動きがそれでも始まるその光景を描くのです。
ちょっと今日いろいろ読みすぎて申し訳ないんですが、3章の19節から24節というところをちょっと読みします。
アイカの3章の19節から24節。
私の苦しみと殺害の思い出は苦よもぎと苦みだけ。
私の魂はただこれを思い出しては沈む。
私はこれを心に思い返す。
それゆえ私は言う。
私は待ち望む主の恵みを。
実に私たちは滅び失せなかった。
主の憐れみが尽きないからだ。
それは朝ごとに新しい。
あなたの真実は偉大です。
主こそ私への割り当てですと私の魂は言う。
それゆえ私は主を待ち望むと。
アイカもそうです。
嘆きの詩編もそうですが、嘆きから始まったとしてもそこにはどこかで転換点が訪れる。
アイカの転換点はまさにこの箇所でありましょう。
主の恵みを悲しみの中でそれでも私は待ち望むと言い始めるのです。
特に二十二節ですね。
主の恵みを実に私たちは滅び失せなかった。
主の憐れみが尽きないからだと言われる。
これまでは失ったものの大きさを見てきました。
それは決して感化できるものではありません。海のように深い。
けれども、その喪失によって生まれた穴は塞がらないかもしれないけれども、我々はそれでも生きていかなければならない。
その時に、ここでこの主人は過去の喪失から目線を動かして、
いや、私たちは滅び失せてはいないという、今に目線を動かすのです。
でも私は今生きているではないか。
今、私たちは滅んでいないではないか。
そしてその理由は、これまで彼自身の中で培われてきた信仰の約束に基づいているのでしょう。
そうだ、主の憐れみはなおも尽きていないから私の命があるんだということです。
どんな悲しみの最中にあろうとも、私が今生きているということは、主の憐れみは確かに今私に注がれているんだと、彼はもう一度それを掴み直すんですね。
都は焼け野原になりました。神殿も破壊されてしまいました。
多くの悲しい現実を目の当たりにしました。海のように深い悲しみを彼は見ました。
主の恵みを待ち望む
そんなことを言葉を閉ざしたくなることはいくらでもあったでしょう。
けれども、私たちはそれでも生きていかなければならないときに、目を向けなければならないのは、でも今あなた生きているでしょうということです。
あなた生きているでしょう。
神の憐れみはどんな悲しみの中にあっても、あなたから離れてはいない。
焼け野原を前に何もできないのです。
しかし、この主人が気づき、実行したことは、ここで繰り返し語られています。
主の恵みを待ち望むということです。
待ち望むということ。
今朝読んでいただいた歌章、25節から33節、もう一度目を止めますけれども、
主は慈しみ深い。主に望みを置く者、主を求める魂に、主の救いを静まって待ち望むのはよい。
人が若いとき首脛を負うのはよい。それを負わされたなら、一人静まって座っていよ。
口を土の塵につけよ。もしかすると希望があるかもしれない。
自分を討つ者には頬を向け、十分に恥辱を受けよ。
主はいつまでも見放してはおられない。
主はたとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって人を憐れまれる。
主が人の子らを意味もなく苦しめ、悩ませることはないのだ。
繰り返される言葉は、静まってという言葉です。
それは、あなたの傷は海のように大きいとき、そのような慰めようのない痛みを得てしまうとき。
静まっていいというのは、簡単に言うならば、あなたが何かをしなくてもいいということです。
何もできないときってありますよ。指先一つ動けせなくなるときって私たちありますよ。
でもそのときに、あなたはその悲しみをもう全部神様に投げちゃっていいんだということを言っているんです。
静まって、何もできなかろうと構わない。
けれども、それは止まっているのではない。
なぜなら、あなたが何もせずとも、主はご自身の慈しみに従って、すでにあなたのために動いておられるからですね。
回復の希望というのはすべて、私に何ができるかじゃない、主に固く根差しています。
だから悲しみの最中に、自分が何をしているかわからないときに、私たちは全部主に投げ出してしまっていいんですよ。
もう、あなたにもう全部投げます。
この悲しみは担い切れません。自分でもどこに光があるかどうかわかりません。
失った喪失からも簡単に目が離せません。
それでもいいですよ。それでもいい。
私に全部任せて、ただ悲しみの中に沈まったときに、あなたは自分の悲しみだけに目を止めるのではない。
私がそれを担っている。そこに私たちは投げてしまっていいんですね。
主の憐れみは、あなたが海のような悲しみの中にあっても、私、悲しみのときって神様どこかに行っちゃいますけどね。
でも事実としては忘れないでいただきたい。
海のような悲しみの中に私たちが囚われようとも、主の憐れみはあなたから尽きていないということです。
いつまでも主はあなたを見放してはおられない。
私たちは戦争の悲しみを覚えます。
今もこの現実が世界にあることを覚えるときに、心を共に痛めながら祈らなければならないと思います。
そしてこの海のような悲しみは時に私たちの人生の中にも起こり去っては寄せてくるような悲しみのように、いつも毎年のように私たちを苦しめる悲しみというのはあるかもしれません。
けれども今朝の御言葉を握りながら、私たちは主に投げながらなおも生きていきたいんですよ。
主があなたに今命を与えていることには意味があって、
そしてそこには確かに主の憐れみは尽きていないからです。
主は慈しみ深い。主に望みを置く者。主を求める魂に。主の救いを静まって待ち望むのは良い。
何もできなくなった。神様全部投げます。いいって言ってるんです。それで良い。
でも主の憐れみの御手は今あなたに動いているということをぜひ覚えていただきたいと願っています。
一言お祈りをしてメッセージを終わります。
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