00:00
ご着席ください。聖書朗読を、わしを、まさこ姉妹にしていただきます。
今日の箇所は、丸子の福音書、12章28から34です。
立法学者が一人来て、その議論を聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを知って、イエスに尋ねた。
すべての命令の中で、どれが一番大切ですか?イエスは答えられた。
一番大切なのは、これです。
イスラエルよ、聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
次にはこれです。あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。
この二つより偉大な命令は、他にありません。
そこで、この立法学者はイエスに言った。
先生、その通りです。主は唯一であって、その他に主はない。と言われたのは、まさにその通りです。
また、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また、隣人をあなた自身のように愛することは、どんな前生の生贄や備え物よりも、ずっと優れています。
イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。
あなたは神の国から遠くない。
それから後は、誰もイエスに会えて尋ねるものがなかった。
続いて、聖火隊に聖火443番を賛美していただき、その後、内田牧師より一番大切な命令と題してメッセージしていただきます。
いかなれば 君はたく われを愛したのか
君はたく われを愛したのか
願いして 見つける意味 われを入れた
君はたく われを愛したのか
03:06
君はたく われを愛したのか
君はたく われを入れた
君はたく われを愛したのか
君はたく われを入れた
君はたく われを愛したのか
君はたく われを愛したのか
君はたく われを愛したのか
皆さんおはようございます。
では今日も見言葉をいただきますが、その前に一言お祈りをさせていただきます。
神は実にその一人号をお与えになったほどによ愛された。
それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。
天の父なる神様、あなたの御名を掲げて心から賛美申し上げます。
今日もこうして私たちをこの御堂へと導いてくださり、あなたを礼拝できますその特権に預かっていることを覚えて感謝をいたします。
賛美は私たちの祈りであり、また信仰告白です。
神はその一人号を保うほどによ愛してくださり感謝をいたします。
穢れ果てし我さえも愛したもそのあなたの御愛に今日も満たされまた導かれてこのところにいますことを覚えて皆をあがめます。
06:00
罪を犯して神に背き、敵とさえしている。
そんな時にもあなたは私たちを愛しまたイエス様をお送りくださり、そのあがないの御業をなしてくださいました。
イエス様が来てくださらなければどうしようもないこの罪人は今どこをさまよっていることでしょうか。
もう一度あなたの御前にあって十字架を仰ぎ、
罪を廃してあなたのその御愛とまたそのあがないの御業を覚えて心からあなたに感謝申し上げるものとしてくださるように、
そのための礼拝でありますから、私たちの捧げるこの礼拝をどうぞ清めてお受け取りくださいますように。
またあなた様からの更なる御玉の注ぎと新しい命を与えてお一人お一人をそれぞれにお使わしくださいますようお願いいたします。
どうぞ今日のこの礼拝を通してまた神御自身が私たちの神として、
そして私たちを憐れみ支え伴ってこれからの日々を会いましてくださいますように、
今日こうしてここに来れたことを心から感謝をいたします。
来れなかった兄弟姉妹方どうぞその方のところにもあなたが行き巡ってくださり、
その隣人となってくださっていますことを覚えて皆をあがめます。
また御言葉を通して私たちをもう一度整えてくださいますようにお願いいたします。
語るものは乏しくまた不完全なものであります。
ですから主をどうぞあなたが清く完全なお方でありますから、
そのお方の御声を聞くことができますように。
今からの御言葉の一時もどうぞ主が憐れみ支え、
そしてあなたからのその礼の満たしとまた御愛を存分にいただいてそれぞれ出ていくことができるように、
またあなたの宮座がこの教会に現されますように、
全世界の教会が私の教会としてまた整えられ用いられてまいりますように、
福音があまねく行き渡るようにまたそれぞれの賜物をあなたが用いてくださるようお願いいたします。
御子の降誕をお祝いする日が近づいておりますけれども、
今はただあなたの身を拝してあなたのお声を聞くものとさせてください。
全てを委ねて主キリストのお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
09:02
まず第一子輪と人への手紙の十三章をお読みいたします。
新約聖書の三百三十六ページの第一子輪と人への手紙十三章のところです。
第一子輪と人への手紙十三章。
たとい私が人の意言や見使いの意言で話しても、愛がないならやかましいドラやうるさいシンバルと同じです。
またたとい私が予言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、
また山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら何の値打ちもありません。
またたとい私が持っているものの全部を貧しい人たちに分け与え、また私の体を焼かれるために渡しても、愛がなければ何の役にも立ちません。
愛は寛容であり愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
全てを我慢し、全てを信じ、全てを期待し、全てを絶え忍びます。
十三説。こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番優れているのは愛です。
教会の結婚式で語られる聖書の歌書というのは大体決まっているようであります。
あまり民数記とか歴代史とか呼ぶ記とか、そういうところはあまり引用されない。
大抵、ヨハネの福音書のカナの婚礼の歌書とか、あるいはエペソビトへの手紙の五章。
夫たる者よ、妻たる者よ、あの歌書ですね。
それと必ず引用されるのがこの第一コリントビトへの手紙の十三章。
これは愛する二人が新しい道に向かっていく。
その門出にふさわしいということで、この歌書が取り上げられて、いつしか愛の賛歌と呼ばれるようになっています。
しかしこのパウロがこれを書いたのは、結婚式のために書いたのではありません。
12:07
当時のコリントの主に召された人たちの群れである教会にあてた手紙であるわけです。
パウロはコリントの教会を開拓し、今は遠く離れたところにいるんですけれども、
そのコリントの教会をずっと覚えて、そして祈っていました。
このコリントの教会は問題の多い教会であったんですけれども、
それでもコリント、懲りずに気にかけて、そして心配して、そして祈り、手紙を書いたわけですね。
パウロはこの手紙の中で何を言いたかったんだろうか。
それはこのコリントの教会に必要なものは何か、大切なものが欠けてはいないかということを改めて教会に問いかけたわけです。
そしてこの十三章の最後に、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。
その中で一番優れているのは愛です。そのように締めくくったわけです。
この愛というのはアガペの愛です。
この十三章は結婚式のために書いたのではないと言いましたけれども、
やはり夫婦にとってなくてはならないものは愛であるということは間違いないと思います。
それと同じように花婿であるキリスト、そして花嫁である教会、
その間にはこのアガペの愛が絶えず流れていなければいけないのだということを
パウロはここで言っている。
そういう意味で二人の門出にふさわしい愛の酸化でもあると言えるものであります。
そのアガペということをこの十三章で私たちにも今日語っているわけであります。
そのアガペ、愛はたとえ私が人の意見や密会の意見で話しても、
当時教会で意見を語るということは素晴らしい賜物として皆が称賛しておった。
できれば私もそういう賜物が欲しいと皆が憧れていたそういう賜物であります。
しかし、たとえ素晴らしい賜物としての意見を話したとしても、
15:05
愛がないならそれはただのやかましいドラやうるさいシンバルと同じです。
たとえ私が予言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、
山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、ここにもあらゆる奥義に通じて、
そしてあらゆる知識に通じて、素晴らしい予言の賜物も持っている。
何と素晴らしいんだろうと皆が憧れるし、もしそういう人がいたらほとんどの人がその人を褒めたたえるでしょう。
そして山を動かすほどの完全な信仰を持っている。
信仰がなければ神に喜ばれることはありません。
ですから信仰を持っている、これは何よりも素晴らしいことであります。
しかしとパウロは言うのです。
愛がないなら何の値打ちもありません。
たとえ私が持っているものの全部を貧しい人たちに分け与え、また私の体を焼かれるために渡しても、
こんな犠牲を払って、そして何とか人に喜ばれよう、人のためになろうとしたとしても、
そこに愛がなければ何の役にも立ちません。
一切は無益だと言うのです。
神が天と地を創造された、その言葉で聖書が始まっている。
それはまず神ありき、そこから始めなければいけないという一つの表れであろうというわけですね。
ですから今日の十三章もパウロが私たちに言っているのは、
神様がパウロを通して私たちに今日語っておられるのは、
まずアガペありき、まず神ありきと同じように、まず愛ありきだ。
そのことを私たちに今日神様は語っておられる。
コリントの教会よ、今日の教会よ、まずアガペがあるのか、愛があるのかどうかを問うてみなさいと、
そのように私たちに語りかけておられるわけです。
それは神様がおられるかどうかということ、そこに通じるものであるわけです。
それは神は愛だからです。神と愛は一体であり同じものでありますから、
神があるならばそこに愛があり、愛があるならばそこに神がおられるでしょう。
18:06
そのように今日おっしゃっておられるわけです。
コリントの教会よ、今日の教会よ、教会が神を崇めているのかどうか、
そのことをもう一度自ら問いなさい。
教会を主の教会、神の教会として立て上げられているかどうか、
教会から神様を占め出して私の教会になっていないか、
誰それさんの教会になってはいないだろうか、
誰それ先生の教会になってはいないだろうか、
そういうことをもう一度問い直すようにと、
主が今日私たちにも問いかけておられる。
教会に神がおられる、あるいは神がいてくださらなければ、
それは教会として相応しくないでしょうし、
神は愛ですから、神がおられるところにはそこにはあがての愛があるんだ、
そのことをもう一度私たちにも今日示してくださっています。
マルコの福音書に戻りますけれども、
立法学者の一人がまたイエス様のところにやってきました。
これまで祭司や、あるいはパリ祭人や、
茶道会人や、いろいろとイエス様のところに来ては、
イエス様に質問をしました。難しい質問をしました。
それは何とかしてイエスを落とし入れようという一つの策略であったんですけれども、
イエス様は一つ一つそれを知りづけなさったわけですが、
最後に立法学者が一人来て、またイエス様に尋ねたということが28節に書かれてありました。
それは全ての命令の中でどれが一番大切ですか。
全ての命令、これは神様が私たちスラエルの人たちに与えられた忌ましめのことです。
レビキーなどを通して書かれているような、
これをしなさい、あるいはこれをしてはいけません、
そういうものがたくさんありました。
これをもし破るならば命は断たれるとか、
これをしてはいけないというものをしたら石打ちの刑にされるとか、
しなさいと言っているものをしてしまったら、
してはいけないというものをしてしまったら、また打たれるというようなこと。
ですからどの命令、どの忌ましめも大切である。
21:01
そんなことは誰もがわかっている。
そこを狙ってこの立法学者が、
それでは全ての命令の中でどれが一番大切ですか。
そういう質問を長い間掛けてきたわけです。
こういう意地悪質問というのも時々ありますね。
あなたの嫌いなものは何ですか。
見るのも食べるのも嫌なものは何ですか。
ありますね。大根と人参と玉ねぎと。
そうですか。
それではその中でもし一つだけ食べなさいと言われたらどれを食べますか。
食べれない。見るのも嫌だ。食べれないと言っているんですから食べれない。
でも一つ食べなければいけないとすればどれを食べますか。
そんなようなことなんでしょうか。
どれもが大切な命令、忌ましめ。
しかしその中でも一番大切なものは何ですかということを問うてきたわけです。
それに対するイエス様のお答え。
一番大切なのはこれですということを答えられた。
イスラエルよ聞け我らの神である主は唯一の主である。
心を尽くし思いを尽くし知性を尽くし力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。
次にはこれです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。
この二つより大事な命令は他にはありません。
イエス様はたじろぎもせず見事にその答えをここに書かれたわけです。
しかしイエス様に対してこのように言いたくなる思いがあるんですけれども。
大切なのは一番大切なのはどれですか。
一番ですから一つじゃないんですか。
イエス様はあなたの神である主を愛せよ。
次にはこれです。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。
この二つより大事な命令は他にありません。
イエス様一番は一つじゃないんですかと言いたくなるんですが
そこはイエス様寛大なイエス様ですからそんなことは気にしたくてもよいと
この二つはこうおつつけがたいですから一番が二つあってもいいのじゃという
そんなぐらいのことでしょうか。
そういうイエス様は本当に大好きであります。
ですからイエス様流に言うと一番大切なものは別に一つじゃなくてもいい。
24:05
神である主を愛することそしてあなたの隣人を愛すること。
とにかくこの今しめこの命令は大切なのだ。
それと同時にこの二つが全ての今しめに通じるものである。
神を愛することと隣人を愛することも本当は一つなのだ。
神を愛するならば隣人も愛するだろう。
隣人を愛するということは神を愛することなのだ。
ですから二つと考えなくてもよい。これは一つなのだ。
そしてこの二つはその他の全ての命令を網羅している包み込んでいるそういう命令である。
だからこれが一番大切なのだ。
そのように答えなさったわけです。
そしてこの立法学者がイエスに言いました。
先生その通りです。あなたのおっしゃる通りです。
主は唯一であってその他に主はないと言われたのはまさにその通りです。
また心を尽くし知恵を尽くし力を尽くして主を愛しまた隣人をあなた自身のように愛することは
どんな前生の生贄や備え物よりもずっと優れています。
この立法学者はコリントミットへの第一の手紙十三章を読んだことがおそらくないでしょう。
この時間的なことを考えますと。
しかし彼はまるでパウロが言ったことと同じようなことをここで言っているわけですね。
どんな前生の生贄や備え物よりも神を愛し隣人を愛することの方がずっと優れています。
愛がなければ一切は無益だ。
愛がなければ何の役にも立ちません。
そのことをこの立法学者もここで言ったわけであります。
それに対してイヤツ様がこの立法学者の返事に対しておっしゃった。
あなたは賢い返事をいたしました。
しかしあなたは神の国からは遠くない。
これで立法学者は喜んだでしょうか。
あなたはなるほどよくわかっている。さすが立法学者。
27:00
本当に褒められた良い返事賢い返事をしました。
しかしと言うんですね。神の国からは遠くはない。
神の国にかなり近いところに来ているぞ。
そうおっしゃったわけです。
すなわちこれは遠くはない近くには来ているけれどもあなたはまだ神の国には入ってはいない。
神の国に入るにはふさわしくはない。
そうイヤツ様はおっしゃっておられるわけです。
立法学者はこの返事に対して恐らくがっかりしたと思うんですね。
あなたのおっしゃる通りです。
なるほどあなたの通り神愛し隣り人愛することはどんな生贄や備え物にも優れています。
私もそう思いますと彼は答えたんですね。
これでイヤツ様に喜んでもらえる。
しかしあなたは神の国からは遠くはない。
あなたは神の国に入ったわけではありません。
それじゃあどうすれば彼は神の国に入ることができるのかということですね。
一つは神を愛する隣り人を愛するそのアガペの愛を持ちなさいということ。
このアガペの愛これは元来神から出ているものであります。
人間が自分でそれを作り出したり手に入れたりすることのできないものです。
それは聖書に愛は神から出たものですとそう書かれてあります。
神からの賜物としてその愛がアガペがある。
ですから人間はただそれを分けていただくしかない。
神からそれをいただくしかないというそのことをもう一度思いさせられるわけです。
神はこのアガペの愛これをイエスキリストを通して表されたわけです。
ですからこのアガペを持ちなさいと言ってもそれを持つためにはまずこの愛を表しなさったイエス様を知らなければいけない。
そしてイエス様がどういうお方でありイエス様が何を語り何をなさったのかということを学ぶということですね。
学ぶということは真似るということにも通じます。
いわゆる私たちも何かを習うときにコーチがいて教えてくれる人がいてこうするんですよ。
30:07
ここはこうしなさい。
それは行きません。
これはこうするんですよ。
そうですか。
こうすればいいんですね。
そうそうそれでいいよというコーチを受けてそして自分のものにさせていただく。
アガペもそのようなものと。
イエス様は表しなさったアガペとはこういうものか。
それをイエス様を通して私たちは学びそして学習していく。
私たちはそのためにこのマルコの福音書を読んでいきましょうという。
そして今に至っているわけですね。
二つ目にこの立法学者そして私たちが神の国に入るために第二番目はそのアガペを実践するということです。
イエス様は別の箇所でこの立法学者であなたはなるほど良い賢い答えをした。
よくわかっている。
それならばあなたも行ってそのようにしなさいとおっしゃったわけです。
わかっているならもしそういうところに遭遇したりそういう場に出くわしたときはそれを実践しなさい。
そのようにおっしゃったわけです。
イエス様がどういう方で何を語り何をおっしゃったのかそういうことも学びながら知りながら。
そして自分たちの実際の現実の中で起こったその場面場面でそのことを実践しなさい。
これは簡単にできることもあるでしょうし得意なこともあるでしょうし自分にとっては苦手なこともありますしかなり難しいなと思うこともあります。
それはおそらく人それぞれだと思うんですね。
しかし何よりも自分がこの私が神の国に入るためにはこの立法学者が近くには来ていてももう一歩神の国に入るためにはこのアガペを実践していかなければいけない。
行かなければならないというよりもこれは神様が願っていることまた命令であるということですね。
ですから私たちのこの残りの生涯今日からこの自分が神の国に入るためにまずアガペを自分のものにしてそしてそのアガペを実践していくということ。
それが神の国に入るために必要なことなのだ。
33:00
しかしそれは決して重荷とはなりません。
なぜなら私たちが何とかしてこのアガペを自分のものにしようそういうものではなくこれは神様が私たちに与えてくださるものなんだ。
それには神を愛する。
神を愛することによってその神の御霊の御としてその愛が私たちに与えられる。
神を愛する者にはその御霊によって私たちにこの賜物としての愛が自然と満たされるのですとそのように聖書は約束してくださっています。
イエス様はこの立法学者また今日の教会の一人お一人にこのアガペの愛を持ってそしてそれを実行することを招いまた命令なさっているということですね。
アガペの愛を持ちなさいアガペの愛を実践しなさいそういうことを言うわけです。
そうすることによって私たちもその愛というものが見えてくる。
もう一度コリントビットへの第一の手紙の十三章のところに愛とは何なのかということをここに書いてあるわけです。
愛は寛容であり愛は親切です。
この愛はというのは愛の人はというふうに読んでもいいかと思います。
愛の人は寛容であり愛の人は親切です。また人を妬みません。愛の人は自慢せず高慢になりません。
礼儀に反することをせず自分の利益を求めず怒らず人のした悪を思わず不正を喜ばずに真理を喜びます。
すべてを我慢しすべてを信じすべてを期待しすべてを絶え忍びます。
教会というのはもちろん人の群れであります。
スポーツもチームプレーと個人プレーというのがあります。
個人プレーというのは例えばテニスであるとか相撲もそうですね。
アイススケートもそうでしょうか。一人で競技をすると。
チームプレーというのは何人かの人たちが集まってそのチームで戦うということですね。
野球であるとかサッカーであるとかバレーボールもそうですね。
チームプレーそれはチームプレーというそのチームが力を合わせてそして相手と戦うわけですね。
36:01
そこに必要とされるのはそのチームの総合力というわけですね。
しかし自分自身もバレーボールをしてわかったことはそのチーム全体の力はどこからくるのか。
それはやっぱりチームの一人一人の力の総合力であるということですね。
それぞれの置かれたポジション。そこにいるその一人が力をつけていく。成長していく。
そういう一人一人がまた集まってそしてそのチームとしての力が増し加えられていくということを思うんですね。
ですから教会ももちろんこの人の集まりですからいわばチームプレーです。
教会を一人でやっているという人はまずいません。
ですから教会の力、それは各人一人一人がどうかということをまた問われるんだと思うんですね。
その一人一人が今日この神様を愛するアガペ、隣人を愛するアガペに魅さされているかどうか。
誰一人かけることなくそういう一人一人のまずその信仰とそのアガペへのあるかないか。
それをもう一度私たちは問われているんだと思うんですね。
そういう一人一人が集まったときにその群れは愛の教会、神の喜ばれる教会となるんだということですね。
ですから私たちはまずこの私がどうだろうか。神様を愛しているだろうか。
そして私にもしそれがなければまずこの私が神を愛するものにしてください。隣人を愛するものに変えてください。
私に欠けていたそのアガペの愛をもう一度乱してくださいというそういうまず一人に私にさせてください。
そういう人たちが本当に群れとして集まっている。そこに素晴らしい教会が形成されていくんだろう。
そこに神がおられるということ。そのことをもう一度私たちは覚えて祈りたいと思います。お祈りをいたします。
愛がなければ何の値打ちもありません。愛がなければ何の役にも立ちません。愛がなければ一切は無益です。
39:11
天の父なる神様、今日のお言葉を感謝をいたします。私たちにもう一度このアガペの愛を満たしてください。
そして私たちが天国に入れていただくにふさわしいその群れとしてその教会を立て上げていくものとしてください。
愛がなければ全ては無益です。一切はむなしいと今日御言葉を通してもう一度覚えたことであります。
今までは愛のない天国に入れていただく資格のないそういうものをもし私たちが立てていたとするならば
主をどうぞ申し訳ございません。お許しください。もう一度私たちは神の教会、そしてアガペのあふれた教会、本物の教会を立て上げさせてくださいますように。
どうぞお一人お一人のうちに主が臨んでくださいますよう、真摯委ねて主キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。