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アーメン
皆さん、おはようございます。
今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。
もう7月です。
1日1日が本当に早いなと、そういうふうに思うところであります。
皆さんは、毎日毎日の暮らしの中で、これは必ず私は毎日やっているということはないでしょうか。
人それぞれ何かのルーティン、習慣があるかもしれないと思うんですね。
例えば、ある人は毎日ブラックコーヒーを飲まなければならない。
あるいは、毎朝朝食はしなくても新聞を見なければならないとか。
あるいは、毎朝散歩をしないといけないとかね。
皆、良い習慣かもしれないと思います。
そこで私たちは、未国の民として、神の国の民として、
父なる神様と深い交わりを持つために、毎日毎日の清い習慣をもっと深くしっかりとしていきたいと思います。
今年は、このコロナとの戦いでもう半年が過ぎてしまいました。
個人的にも、あるいは家庭的にも、教会的にも、特別なことはできなかったでしょう。
そんなことがたくさんありました。
実は私も、去年行かせていただいたフィリピンの青少年の修業会が、今年も5月末に開く予定でしたけれども、
私も、またもう一度招かれて、行けるかなと思った日や、このコロナで行事もキャンセル、飛行機も飛んでないので、
当然私も行けなくなってしまったんですけれども、
このように教会も人を呼んで、伝道集会を開くこともできない、特別なことはできないかもしれませんが、
今日のようにですね、誠実礼拝を守ること、あるいは水曜・北海、あるいは早天・北海、あるいはおうちで、
毎日毎日、御言葉と祈りのこの清い習慣、経験な時間をじっくりと真面目にやっていきたいなと、そういうふうに願っております。
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こんな時にですね、やれないことがたくさんあるということは、何かをやれないから、その分時間がある意味であるということなんです。
余るわけではありませんが、あるという、取れるということなんですね。
だからそういうことを覚えてですね、こういう時に特別なことはできないんだけれども、
信仰の基本を、ベーシックをですね、しっかりとですね、作り上げていきたいと、そういうふうに願っております。
今日はイエス様の例え話、私たちへの問いかけ6回目です。
タイトルは、地上の王、生産許しです。
今日の例えが始まる前にですね、イエス様がこの話をなさった背景、理由があったんですよ。
読んでないんだけれども、今日の18章の21節からご覧下さいますか。
そこを見るとですね、ペテロが身元に来て言った、主よ、兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで許すべきでしょうか。
7度まででしょうか、とですね、突然ですね、ペテロがイエス様にお尋ねしたんですよ。
なぜペテロがこの質問をしたのか、背景は全然どこにも書かれていないのでわかりませんが、
推測してみるとですね、ペテロは誰かを許さなくちゃと思うんだけれども、許せないから悩んでいたかもしれない。
あるいは誰かがペテロさんに、ペテロさんこんなね、誰かね、もう本当に許さなきゃならないんだけどどうしたらいいんですかとね、
相談されたかもしれない。わかりませんけれども、自分が悩んだのか、誰かの悩みがあったのかわかりませんが、
どれぐらい許したらいいんですか、イエス様。何度までしたらいいんですか。7回許したらすごいでしょう、とね。
7という数字はね、もう聖書では完全数を意味するわけですから、それぐらいならもう十分でしょう、みたいにですね、ペテロはイエス様にお尋ねしました。
こんなですね、突然の質問ですが純粋な、隠さないでですね、心をイエス様に尋ねる、それがペテロのいいところかもしれない。
ところが、その話を聞いてイエス様が答えられた答えは驚きでした。22節ご覧ください。
イエスは言われた、7度までなどとは私は言いません。7度を70倍するまでと言います。びっくりしました。
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ペテロはね、7回ぐらいだったらもう人間としてすごいでしょう、と思っていたのでしょう。しかしイエス様は、7回を70倍しなさいと。
つまり、もう完全に許し切ってください、完全に許しなさいと。もう完全に受け入れるまで、そのことを全部もう忘れるまで許しなさい、という話をして、
そしてその後、今日朗読していただいたこのたとえをイエス様が話されたわけなんです。
だからその背後にはですね、この許しというテーマがあるわけなんですね。
今日のたとえは、神の国の民として許しということ、あるいは許すべきその相手とどういうふうに向き合うべきか、どのような生き方が天国の市民としての生き方なのか、イエス様が教えてくださいました。
そして同時にですね、王様は自分のしもべたちと清算をする日が来るということなんですね。
ですからこれは、イエス様のサイリンを同時に教えている御言葉でもあります。
さあ、この背景を心中に皆さん描きながら、今日のたとえを見ていきましょう。
23節ご覧ください。
このことから、天皇御国は地上の王にたとえることができます。
王は、そのしもべたちと清算をしたいと思った。
皆さん、天皇御国、それを今日は地上の王にたとえることができるとイエス様が言われました。
そしてその王は、自分のしもべたちと清算をしたいと思う。
このイメージはですね、皆さん、イエス様が天皇御国の王様として、唯一の王として、最後の日にこの地上に再びおいでになって、
そして全ての人と清算をするということなんですね。
さあ、それでですね、清算が始まりました、24節。
清算が始まると、まず一万タラントの狩りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。
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一万タラント、皆さんね、言われてご存知だと思いますけれども、
だいたい言ってですね、当時の労働者が16万年間、16万年間ですよ、16年じゃないですよ、
16万年間働いて1円も使わずに全部貯めたお金がこの一万タラントです。
いずれにしても16万年間働けないでしょう。
だからこれはもう、数えられないほどの大きな大きな莫大な狩りということなんです。
返せない狩りという意味なんです。
例えば調べてみたらですね、当時の普通の男性の20代の奴隷の一人分のお金が3分の1でなりだったそうなんです。
だから一万タラントだったら、その青年の奴隷を3万人返る、それほどの大きなお金でした。
そんな狩りがあったんですね。
例えですからね、返すことできない。
しかしその返すことのできないお金を、この王様は、このしもべを信頼して貸したということなんです。
すごいと思いませんか、皆さん。
皆さん、どなたかにものすごい大きな大きなお金を貸したことあります?
1億円とか10億円とか、1000万円ぐらいあるかもしれませんけどね。
もうこれは不数にありえないことなんです。
誰もそんなお金を貸すことをしないんだけれども、この王様はこのしもべを信頼して、愛して貸してくれた。
そしてやがて生産の日が来たということなんです。
ところがどうですか。
その次の5節、26節を見ると、理由はわかりませんが、このしもべはこの狩りを返すことができないんです。返済できない状況なんですね。
そしたら王が、自分も妻子も全部売って返済しなさいと命じられました。
当たり前のことなんです。
ところがその時ですよ、26節。
このしもべは主人の前に比例をして、どうか御友よください。そうすれば全部お払いいたしますとお願いしました。
時間をください。そうすれば全部お返ししますのでとお願いしました。
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ところが皆さん、どれくらい金持ちにならない限りは返せません。100年待っても返せないほどのお金なんです。
これはもう、彼がお笑いしますという約束自体が不可能な約束なんです。
王はそれをわかっているんです。このしもべはこれを返せない。
それをわかっているには変わらず、その王はどうですか、27節ご覧ください。
ここに今日の第一の大事なポイントがありますね、27節。
しもべの主人はかわいそうに思って、彼を許し借金を免除してやった。
この王は最初から誰も貸してくれないほどの金を貸してやった。
そして清算をした。しかしこのしもべが全部払いますから待ってくださいと言われた。
しかし彼はそれを返済できないことをわかっているには変わらず、かわいそうに思って、
彼を許して、その莫大な16万年か働かないといけないその借りを免除してやりました。
とんでもないことが起きたわけなんです。
16万年か働いて1円も使わずに貯められなければならないお金なのに、
その借りを、あわれんでください、お借り、お借り、ね、お笑いしますな、ね、
ただ、たったその一言で免除されたわけなんですよ、皆さん。
しかもこの王は、彼は絶対に返すことができないとわかっているにもかかわらず、
なんですね、もらえない許しを、免除をもらったわけなんです。
この渋嫁は誰にもどこにいてもこんな許しはもらえません。
彼は1円も返済していないんですよ。
しかし、ただ、主人の王様の憐れみの心によって、
かわいそうに思うその心によって、免除されました、許されました。
皆さん、ここにこの王は、主人は、私たちの神様であられます。
イエス様であられます。
そして、この一万タラントの借りがある、この借りのある渋嫁は誰ですか?
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私たちです、皆さんです。
実は私たちは、神様に、我々の罪の代価として、
自分の命をイエス様に、神様に捧げなければならなかったんです。
その借りのあるものだったんですよ、私たちは。
皆さん、そう思いますか?ね、そうでしょう。
私たちは神様に、自分の命をもって返済しなければならない債務者だったわけなんです。
そして、しかも、この借りは、我々が持っているこの借りは、
一万タラントよりもっと大きい借りであって、
もう返すことのできない借りであったわけなんです。
ところが、どうでしょうか?
主なる神様は、大なる神様は、私たちをただ可哀想に思って下さいました。
憐れんで下さいました。
私たちがしたことは何もないのに、ただ主を憐れんで下さい。
主を許して下さい。
たったその言葉だけで、まるで十六万年間のような、
あの借りのような、私たちの罪を、傲慢を、あるいは不信仰を、心の罪を、
全てを主は面倒して下さったんですね。
私たちは、ただ、ただ、憐れんで下さい、許して下さいと言っただけなのになんですよ、皆さん。
そして、あの王はですね、このおしもびは絶対に返せないと分かっているにも関わらず、
許して面倒して下さったように、神様も同じなんですね。
私たちがですね、主を許して下さい、もう清く生きます、全てをお捧げします、
御言葉にも絶対に従いますと約束をするんだけれども、
私たちはその約束を全くね、全てを守ることができないこと、しないこと、神様は知っておられますね。
にも関わらず、神様はかわいそうに思って下さった、憐れんで下さった、
罪を面倒して下さった、借りのあるものから自由のものにして下さったんですね。
なんという大きな恵みなんでしょうか、皆さん。
ですから、この一万たらんだの借りのあるこのしもびは、これからどんなふうに生きていけばいいんでしょうか。
こんなにすごい借りを許して、面倒してもらったんだから、やったーってだけじゃないことでね、
もうこれからこの王のために、主人のために生きようとですね、また自分にも借りのあるものは全部もう許してやろうとね、
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そんなふうにね、自分も許されたように、自分もかわいそうに思われたように、
人々を許して、かわいそうに思って、みんな抱きしめて、受け入れていこうと思ったらよかったんだけれども、どうでしょう。
その話をする前に、ちょっと戻ってですね、この許されたしもべの立場ではなく、
許してくださった王の立場から、ちょっと考えていきたいと思います。
王なる神様は、そのしもべが返すことできないことをわかっているには変わらず、なぜかわいそうに思って許して、面倒してくれたんでしょうか。
神様は、なぜ私たちの罪を許してくださったんでしょうか。
神の御言葉を通りに生きている時もありますが、できない時もあるということを神様はすべてね、ご存知だから。
にもかかわらず、なぜ許して、救ってくださったんでしょうか。
この朝皆さん、王なる神様、天皇父なる神様の心を感じる時間になってほしいなと思うんですね。
ただ許してくださった、じゃなくてですね、なぜ私を許してくださったんだろうか。
なぜ私を一人子イエス・キリストを十字架で死なせるほど、そこまでされて私を許されたんでしょうか。
その理由は何なのか。こんなもののために。
神の約束を破ってしまう我々であるのにかかわらず、いくら考えてもその答えを計り知ることはできませんね。
父なる神様、私をかわいそうに思って許してくださった神様。
すべて許してくださって、こんな私を受け入れてくださった神様。
こんな私のために一人子イエス・キリストを十字架で犠牲にされた父なる神様。
すべてを与えてくださって、私を子供としてくださった神様。
神様、なぜ私を許されたんでしょうか。
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計り知ることのできない、その神の心が外にあるんじゃないでしょうか。
神の身心を全部計り知ることはできませんが、ただ私たちが知ることのできることは、
ただ愛しておられるから、愛するから、ただ私を許したいから、ただ私を受け入れたいから、
神様が愛して許して受け入れてくださった。
そういうふうにしか答えが出てこないんじゃないでしょうか。
皆さん、私たちはこの父なる神様のこの心を、気持ちを感じながら、覚えながら歩んでいこうではないでしょうか。
ただで私を受け入れてくださった神様。
嘘をつくこと、見言葉との約束を破ることを知っておられに関わらず許してくださった神様。
ただ私を愛してくださった神様。
その神様が皆さんこの朝私たちにこの王様のように私がこんなにもあなたを愛したんだから、
あなたを許したんだから、受け入れたんだから、これからもあなたは許して、愛して、受け入れて、
憐れむ人になってほしいと語っておられる主の御心を覚えて、感じて、そして歩んでいきたいと願っております。
例え話に戻りまして、ところが問題がその後起きてしまいました。
この1万タラントの狩りを免除された下部は、そこから出て町で自分に100でなりの狩りのある仲間に出会いました。
自分はたった今1万タラントを免除されたんだから、気まよくお前100でなりくらいもういいよ、もうないことにしようね、
またお金が必要か、それくらいにしたらよかったのにもね、どうでしょうか。
自分は16万年間の賃金を許されたのに、たった100日くらいの賃金のその分の狩りのある仲間をどうしたんでしょうか。
28節ご覧ください。
ところがその下部は出ていくと同じ下部仲間で、彼から100でなりの狩りのある者に出会った。
彼はその人を捕まえ、首を絞めて、借金を返せと言った。
もう首まで絞めてですね、返せってですね。
そしたら、先の自分と同じくこの同僚がですね、もう少し待ってくれ、そうしたら返すからと、全く自分と同じだったんです。
24:03
先も自分同じく言ったじゃないですか、王様にね。
頼んだんですよ。
そしたら自分もね、かわいそうに思って許してやったらよかったのに、免除してやったらよかったのに、この下部はそうしなかった。
どうしたんでしょうか。
30節、しかし彼は承知せず連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。
最悪ですね。こんな悪い下部があるんでしょうか。
自分はですね、もう返せない相当な莫大な借金をね、免除してもらったのに、たった100でなりよう、借金のある。
しかも自分の同僚、仲間なんですよ。
牢にも投げ込んでしまった。
ところが皆さん、この一万タランドの借金を免除された下部は、もしかしたら私たちかもしれませんよ。
到底返せない借金を免除されたにもかかわらず、かわいそうに思って許されたにもかかわらず、
ただで主に受け入れられたにもかかわらず、私たちは時には許しがない。
憐れみがない。慈しみがない。
こういう下部の様子の中に私たちの様子が見えてくるかもしれません。
さて、この一部始終をわかったこの王様は、主人はですね、この一万タランドの借りのあった下部をまた呼びました。
そして三十二節ご覧ください。
そこで主人は彼を呼びつけて言った。悪いやつだ。
お前があんなに頼んだからこそ借金全部を許してやったな。
三十三節。大事ですよ。よくご覧ください。三十三節。
私がお前を憐れんでやったように、
お前も仲間を憐れんでやるべきではないか。
こうして主人は怒って借金を全部返すまで、彼をごくりに引き渡した。
皆さん、この三十三節、この言葉が身国の民の生き方なんですよ。
27:06
特に憐れみ許しという面から見て、私たちのどう生きていけばいいのか、その標準が、
イエス様のたとえ話からこの三十三節にはっきりと書かれていて、教えられているんですね。
神様が私を憐れんでくださったように、私も仲間を憐れんでやるべきである。これがですね、皆さん。
これが天皇身国の市民のライフスタイルであります。救われた者の生き方であります。
皆さん、私たちが亡くなってから行く天国より、今ここでこの地で身国の民として、それにふさわしい生き方をするのが最も大事なんですよ。
それが一番重要なんですよ、皆さん。身国の民らしく生きること。
それが今回のこのたとえ話のテーマでありますね。それは憐れみと許しであります。
皆さん、神の国は憐れみと許しの国なんです。
父なる神様は憐れみと許しの神様であります。
その計り知れない、理由がわからない、その憐れみと許しをもって、私たちを愛して、かわいそうに思って、受け入れて、受け入れて、許して、許してくださった。
嘘をついても、約束を破っても、御言葉通りに歩まなくても。
そして最後に、イエス様はこのたとえ話をこんなふうに言われて閉じました。
35節ご覧ください。
35節、あなた方もそれぞれ心から兄弟を許さないなら、
許さないなら、許さないなら、天の私の父も、あなた方にこのようになさるのです。
皆さん、私たちがその理由はどうであろうが、
誰かを心から兄弟を許さないなら、私たちも神様に許されません。
これがイエス様の御言葉なんですね。
この王様が怒って、道理を許さなかった下人をこの牢に投げ入れたように、
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終わりの日に、父なる神様が、心から兄弟を許さない私たち、
もしもですよ、もしも許さない、哀れまない、かわいそうに思わない、
受け入れない、排斥する、悪口をする、憎む、恨む、阻止する、妬む、嫉妬するみたいな、
それを悪いと思わない、罪と思わない、悔い改めないならば、その人は決して許されません。
なぜなら皆さん、許さない者、哀れまない者、受け入れない者は、神の御国で生きることはできません。
この偽りと穢れた心で神の御国に入ることができるのでしょうか?できないんですよ。
一箇所、聖書を開けたいと思います。
マタイの福音書5章8節。同じマタイの福音書5章8節です。
6ページ、そこを見ると、イエス様が三乗水君の八の幸いですというメッセージの中で、こう言われました。
8節、心の清い者は幸いです。その人たちは神を見るからとあります。
皆さん、イエス様が神様が最も大事に思われることは、ある意味で熱心ではないんですね。
ある意味で経験ではないんですよ。もちろん信仰の熱心がないのも問題ですけれども、熱心より大事なのは心の清さなんですよ。
経験より肩書より最も大事なのは心の清さなんです。
神の国で天皇御国で最も大きな価値があるならば、それは心の清さなんですね。
その人は神を見るんですよ。この地上でも神を見ますし、神に出会いますし、神の心を知りますし、だから神様と深い交わりができるわけなんですね。
心は清いから、神を見れるから。その人に神様は心の清いものに自分を表してくださる。語り合ってくださる。交わり合ってくださるということ。
そうするとどうですか皆さん。今ここが天国になるわけなんです。今ここが御国になるわけなんですよね。これが大事なんです。
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死んでから行く天国よりもそれも大事なんだけれども、この地上で私たちが救われた者として、神の民としてどう生きるか。
つまりとしては、こんなに許していただいた神の心を知って、感謝して、熱心より法師力より自分の心の清さを持って、神と交わり、そして清く生きることであります。
願わくは、今私たちが住んでいる、今ここ、家庭、教会、この国が神の臨在に満ち溢れ、神の国の民らしく生きる我々でありたいと。
そういう読みがありますように心からお祈り申し上げます。お祈りしましょう。