00:01
皆さんおはようございます。
今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。
朝が終わったんですかね。
今日、いい天気の中で、礼拝が行われていることを感謝いたします。
コロナの危険性というか、恐ろしさが絶えないでですね、
また、東京とか大阪では、もっと多く発生していることは、非常に悲しいことです。残念なことであります。
でも、そんな中で、この日本は自由度の高い国ですし、ある程度守られていますからね、
このように宗教活動も許されていて、日曜日に集まることができることも、
本当に神様の恵みですし、祝福だと思うんですね。
昨日夜、私の新学校の同期生が、フィリピンのミンダナオという大きな島で選挙をしていますけれども、
フィリピンは今、全国的にですね、今月でコロナの感染者数が6万人を超えているらしいですね。
そして、日曜日はもう全国民外出禁止らしいですよ。
そして宗教活動は、フィリピンはカトリックとかプロテスターとか多いですからね、
週にたった3回だけ、宗教活動ができるとね。
だから、聖日礼拝も日曜日じゃなくて土曜日にですね、行わざるを得ない、
そういう状況にある国が、フィリピンだけではなくですね、ポーナーアジアは今、とても厳しい中でですね、
タイもそうらしいですね。
だからね、本当に終わりの時代が近づいていることや、また私たちが本当に神の憐れみをですね、求めて、
本当に祈っていきたいと、そういうふうに願っています。
そんな中で私たちはこのようにですね、守られて、教会に行けるしね、
礼拝できることは本当に幸いでありますし、祝福だと思っております。
一緒にね、感謝する心を持って礼拝していきたいと思います。
二脚一言を祈りします。
神様感謝します。
私たちの霊も身体も主が守ってくださって、
あなたを愛する心、また主を慕い求める信仰を与えてくださって、
このようにこの場に集めてくださって感謝いたします。
どうか今から神様ご自身が、どうか一人一人にお語りくださいますように。
聞いて従う信仰の祝福をお与えくださいますように、お願いいたします。
神の智慧による悟りが与えられますように、お願いいたします。
03:02
イエス様の皆によってお祈りします。
アーメン。
今、大の訓書の順序というか、大の訓書に順番に書かれている
イエス様のたとえ話を持ってですね、お話をしている途中であります。
今日は8回目で、この二十一章の28節から32節に
イエス様が父と二人の息子をたとえて話をされたこのところから
聞いて従う祝福という題を持ってお話をしていきたいと思います。
今日のイエス様がたとえ話をされましたけれども、
実際にですね、こういう子育ての経験のおありの方々は
とても同感共感する話だなと思うかなと思いますね。
例えばですね、これをこんな風にちょっと変えてたとえて話をしてみましょう。
ある家に長男さんは翔太君、次男さんは大平君がいました。
それでですね、お父がですね、
おい翔太、今日ね久々晴れてるし、うちの車汚いからちょっと洗車してくれと言いました。
そしたらね、長男の翔太君がね、はいわかりましたって言って、ずっと何もしません。
一日がたっても何もしません。
そして翌日、お父さんがですね、次男の大平君に、
おい大平、あのね車汚いからね、ちょっと洗車してくれと言う。
そしたら次男の大平がね、嫌だと言ってですね、
でも一時間たってですね、いや自分はちょっと悪かったなと思ってですね、
悔いてですね、一生懸命ですね、洗車してくるのがピカピカになりました。
さあ、誰がお父さんの願った通りにした息子でしょうか。
大体皆さんお答えにならないので。
のぶともさん。のぶともさんが答えてくださいますか。
長男ですか、次男ですか。
そうです。正解は聖書に書かれていますね。
次男ですね。
なぜでしょうか。
大事なのは答えじゃないんですね。
父が言った通りに、願っている通りに行ったかどうか。
そこにあるわけなんですね。
今日のメッセージはもうこれで終わりにしてもいいと思うんです。
長男はですね、口先では、はいわかりましたとね、答えはしましたけれども、
従っていないですね、従っていない。
06:02
父の言う通りにしていないということなんですね。
頭の中では洗車をしているかもしれませんが、
実際にはしていなかったということになります。
またこれは聞きはしましたが行っていなかったということになりますね。
ところが次男は最初は嫌だとね、
うちの子どもたちもちょっとゴミ出してくれ、掃除してくれ、
自分の部屋を片付けて嫌だとね、
最初は言って後からやってくれる場合もありますけれどもね、
嫌だとね、したがりませんと言ってもですね、
ちょっと時間が経って反省してね、
そして行った、したがったということなんです。
聞いてしたがった、これは大事なんです。
今日の家様のこのお話はですね、
もう田井野君主は21章まで来てますから、
ほぼ家様の3年の働きの時間がほぼ終わり、後半なんですね。
すぐもう10時間話が始まるんですね。
今この21章の家様の今周りにはですね、
当時のいわゆる宗教人たちね、
パリ裁人とか、立法学者だとか、
そういう人々がそこにいたわけなんです。
彼らは当時イスラエルのいわゆる上位階層のレベルの高いですね、
宗教的にも身分的にも経済的にも、
人々これはもうこう敬まれてですね、
もうそういうふうなハイレベルの人々なんです。
もう知識もすごいんです。
彼らは実は長男です。
今日の家様のお話でね。
しかし、そこへされて身分が低くて、
もう主人人、あるいは友女、あるいはまず人々、
これは次男のような人々であります。
身分的に経済的に宗教的に見ればですね、
一番下の階層の人々であります。
ところがイエス様はですね、
今日の例え話の話をしてですね、
31節にこう言われました。
31節皆さんご覧くださいますか。
2人のうちどちらが父の願った通りにしたのでしょう。
彼らは言った。後のものです。
イエスは彼らに言われた。
誠にあなた方に告げます。
ここでのあなた方はパリ才人、
立法学者のような宗教人たち、彼らですね。
主人人や友女たちの方が、
あなた方より先に神の国に入っているのです。
09:04
ここにも神の国が出てくるんですね。
ではパリ才人って立法学者たちってどんな人なんだろうとね、
簡単にわかりやすく話をしましょう。
当時ですね、パリ才人とか立法学者たちは簡単に言いますと、
パリ才人たちは宗教指導者たちで、
教会のような街道が街々にあるんですね。
そしたらその街道で礼拝の司会を務める、
その街々の長老のようで宗教委員のようでですね、
そういう奉仕をしました。
また彼らはですね、旧約聖書、
当時まだ新約聖書書かれていない時代ですから、旧約聖書、
特に孟聖五書、宗石、出江寺仏、
特に礼拝、満月、新明の立法の部分にものすごく詳しくて、
もうすらすら暗記していて、それを教える先生たちでした。
牧師みたいなね、そういう人々。
ラビと言われて先生と言われてですね、そういう人々でした。
だから彼らはですね、聖書を知る知識はどうでしょう。
素晴らしいんですよね。
礼拝を丸暗記するほど素晴らしい知識を持っている学者、
そして宗教指導者でした。
また立法学者たちもね、また家の分子でよく出てくるんですけれども、
彼らはいわゆる初期ですね、初期。
旧約聖書、今のようにね、プリンタで印刷できるわけじゃないですから、
それをいちいちですね、手書きで書くわけなんですよ。
もうものすごく時間がかかるんですね。
例えば旧約聖書に新科学日本語の聖書は、
この太い文字で漢字の種という漢字があるでしょう。
それを書くときに来たら、
温めて全身を清い洗ってから、
そのアドナイという漢字、
その漢字じゃなくてアドナイという字を書く。
それほどですね、熱心に彼らは聖書を書き写して、
そしてそれを人々に配ったり、
その写本をですね、管理したり保管したりね、
あるいはそれを朗読したり、
そういった奉仕をする人々が立法者たちでした。
だからですね、彼らはどういう人々でしょうか。
それだけ見ても、いずれの中で聖書を一番よく知っている、
たくさん聞いている、そしてたくさん書いている、
人々にその聖書を教えている人々である先生なんです。
12:04
彼らの宗教性、知識だけ見ればですね、
イスラエルではもう最高なんです、一等なんです。
彼らの聖書の知識、神を知る知識、宗教的経験は、
イスラエルでは最高だったと言えると思います。
もちろん皆さん、聖書を知る知識や神を知る知識がいらないんですよ、
そういう話では決してありません。
それはね、素材として我々には本当に必要なことであります。
ところがですね、イエス様は、
あなた方、パリサイ人、立法学者とね、
もう直接ですね、イエス様が指してですね、
あなた方は長男のようなものだ、
口先でははいわかりますと言っているんだけれども、
行っていない、それがあなた方だとね、言っているんです。
なぜでしょうか。
彼らは素晴らしい宗教性を持っていました。
宗教的な経験も豊富だったでしょう。
聖書や神を知る知識もとても素晴らしかったと思うんですよ。
それは確かにその通りに素晴らしいんですよね。
聖書を教えてくれているし、書き方として配っているし、
本当に必要な人々なんですよ。
ところが彼らには決定的な失敗があった。
罪があった。
欠けているところがあった。
何でしょう。
彼らは聖書、孟子の立法を知る知識、宗教的な経験、
たくさんの形書、法師は持っていましたが、
聞きは聞きましたが、聞いてはいましたが、どうですか。
それにふさわしい行いがなかったということになります。
身体に耳が二つあって、聞きはしましたけれども、
心の耳がないから聞いていないということなんです。
ところがこのパリサイビット・リッポカシバツに対する
このメッセージは、イエス様だけではなく、
この時間を遡っていきますと、
大体3年前、イエス様がこの働きを始められる前に、
イエス様より先に来て、アラノで叫んでいった一人の受言者がいました。
誰でしょう。
バプテスマ・ヨハネ。
私は思うんですよ。
確か皆さんの心の声を読める、読心術があればいいなと思って、
何か聞いても皆さん大体心の中で答えているから、
それを聞ける、読める能力があればいいなと答えてくれないから。
バプテスマ・ヨハネなんですね。
15:01
このマタイノ福音書3章ちょっと行きましょう。
このマタイノ福音書3章ですから、
イエス様がここでヨハネに千年バプテスマを受けて、
いよいよ公の生涯が、イエス様の活動が、働きが始まる直前の話ですね。
ヨハネがそこに叫ぶかのように語ったメッセージは、
まさにこのパリサイピトとかリッポ学者、
彼らに対するメッセージなんです。
一節からご覧くださいね。
その頃、バプテスマのヨハネが現れ、
ユダヤのアラノで教えを述べていった。
二節。
悔い改めなさい。天の御国が近づいているから。
この人は預言者イザヤによってアラノで叫ぶ者の声がする。
主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよと言われたその人である。
それから七節。
新約マタイノ福音書4ページですね。七節ご覧ください。
しかし、パリサイピトやサドカイピトが大勢バプテスマ受けに来るのを見たとき、
ヨハネは彼らに言った。
マムシの生たち。
誰が必ず来る御怒りを逃れるように教えたのか。
それから八節。
それなら悔い改めにふさわしい身を結びなさい。
悔い改めにふさわしい身を結びなさい。
そして続いて九節に、我々の父はアブラハムだと心の中で言うような考えではいけない。
あなた方に言っておくが、神はこの石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
どういう意味でしょうか。
このヨハネも、このパリサイピト、サドカイピト、彼らはこう自分たちで自負してこう思っているんですよ。
俺はもうアブラハムの子孫だ。
だからもう神の子供であって私は大丈夫。
もうこんな素晴らしい血統の子孫だからとね。
こんな自負というかプライドを持ってですね、たくさんの知識を持って本当に傲慢なものですけれども、
彼らに何がなかったんでしょうか。
悔い改めにふさわしい身を結んでいなかった。
18:03
アブラハムの子孫という血統はいいかもしれません。
旧約聖書を知っている知識は素晴らしいものです。
教えることはありがたいことです。
しかし悲しいことに彼らにはその知識が行いに移っていない、実践されていない。
そして悔い改めがなかった。
それにふさわしい行いが欠けていたということなんですね。
今日のタイノクニション21章のイエス様のお話は、
このパプテスマのこのメッセージとよく似ているんじゃないですか。
知らなっているんです。
そうすると、ちょっと簡単に言うと、
パプテスマユアーネが働き始めたあの頃から、
今このタイノクニション21章は大体大ジャパンにいって3年が経ったわけなんです。
イエス様が3年働かれて十字架に書かれたわけですからね。
大体3年。どうでしょうか。
短い時間かもしれませんが、そんなに短い時間でもない。
3年が経った今も、彼らは残念ながら悲しくも何も変わっていない。
相変わらず悔い改めにふさわしい身が行いがない。
知識が実践される、そして自分たちの高慢を悔い改めがそこにはない。
そうすると、推測できることがあります。
パプテスマユアーネがこういう叫んだ時から、
彼らは毎週変わることなく、
街道で礼拝をして、誓いをして、聖書を教えて、聖書を書き写して、
宗という言葉を書く時には清めて、そして書いて、
そんなふうに宗教活動はずっとしてきたということになります。
しかし、そういう宗教行為はありましたが、そこには悔い改めと、
それにふさわしい行いがなかった。
これはある意味で本当に奇跡なんです。ミステリーなんです。
皆さん、21世紀のこの時代に私たちが、
タリサイ人、サトカイ人、立法学者のようなものとなってはいけません。
私は大丈夫と思ってもならないでしょう。
私はたくさん知っていると思ってもならないでしょう。
私たちは皆、罪人であって、自己中心的なものであって、
21:03
時には聞く耳が塞がれていて、聞いても悟らない。
聞いても、それにふさわしい悔い改めとその行いがない。
そんな私たちが、我々一人一人であるということ。
それを神の前に素直に、正直に認めさせていただきます。
私自分自身がそうだと思っております。
主よ、私がタリサイ人です。
私が立法学者のような傲慢な者です。
主よ、私が偽善者であって、私が傲慢な者であって、
聞いても、知識があっても、それにふさわしい行いがありませんでした。
と、今、主の前に悔い改めさせていただきます。
このタリサイ人立法学者たちのような、彼らに対するイエス様の心は、
単なる理由なき怒りではないんです。
彼らに対する悲しみなんです。哀れみなんです。
そんなにたくさんの知識を持っているにはかかわらず、
なんで、それにふさわしい恋改めと行いがないんだろうか。
それがあればよかったのに。
神様がどれだけ悲しまれるんだろうか。とね。
イエス様の心は、咲かれるような痛みと悲しみのメッセージなんです。
皆さん、今日も同じでしょう。
私たちが、たとえ神に対する知識が、聖書を知る知識が欠けていても、
足らなくても、あるいはよくわからなくても、むしろ知っている言葉に従っていけば、
育った言葉を一つ一つ、一日一日、従って行っていく人を主が喜ばれます。
次男のように最初ちょっと反抗するかもしれませんが、
すぐに悔い改めて従う子供を主は喜ばれます。
聖書に書かれて出てくる言葉の中で、日本語の訳は、いろんな言葉で訳されています。
例えば、聞く、聞き従う、聞き分ける、いろんなその場の意味を生かして、
この進化訳が訳されていると思うのですが、
実は全部一つの言葉であって、その言語の意味は不思議に、
日本語で一番ふさわしいのは、聞き従う、その言葉だと思うのです。
24:06
聖書に聞くという言葉は、単なる体の耳で聞くという意味ではないのです。
聞いて従う、その通りに行う、それが一つの単語なんです。
だから、聖書の言葉で、有名な新明紀の六章の一節、二節に、
聞けイスラエル、イスラエルよ聞きなさいという言葉があります。
シェーマーイスラエルという。
聖書に聞きなさいという話は、この体のこの耳で聞きなさいという話ではないわけです。
聞いて従いなさいという意味があるのです。
その通りに行いなさいという意味があるのです。
だから皆さん、私たちが神の御言葉をたくさん聞いてここまで来たと思うのです。
信仰生活を30年されたとしたら、30年毎週の日曜日を、
あるいは水曜日、祈祷会を数えると何千回になると思うのです。
時間としたら、何千時間、一万時間以上になるかもしれません。
たくさん聞いたわけです。それが無駄であるわけではないのです。
大事なことなのですが、聞いてその後のステップなんですか。
従うこと、聞いて行うこと、これが大事なのです。
ちょっと一箇所で、ヨハネの福音書を開きたいと思います。
ヨハネの福音書10章27節、ちょっとそこに開きましょう。
ヨハネの福音書第10章27節、199ページですね。
新約聖書の199ページ、ヨハネの福音書第10章27節。
そこを見ると、ここには聞き従う、聞くという言葉を、
日本語にふさわしく、いわゆる意味訳して、聞き分けという言葉を使いました。
27節、一緒に読みたいと思います。いいですか。
せーの、私の羊は私の声を聞き分けます。
また私は彼らを知っています。そして彼らは私について来ます。
ここにですね、私の羊は家様の羊、ヤギではなく、
27:03
救われた者として神の民である羊は、どうですか。
家様の声を聞き分ける、これを言語の意味として言うならば、
家様の声を聞き従う、声に聞き従うという意味があるんです。
聞き分ける、聞くだけではなく、聞いて従うということなんです。
だから27節の最後に、そして彼らは私に、どうですか、ついて来ます。
聞き分けることができた、聞き従うからついて行くんですよ。
それが羊なんですよね。羊が聞いて、これは僕の羊飼いなんだ、聞いて、
でもついて行かない、そしたらダメなんですよね。
聞いて、聞き分けたならば、イエス様について行くこと。
これが食い改めにふさわしい実であって、聞き従う行いということであります。
だから皆さん、私たちがイエス様の言葉を、イエス様の御言葉を聞く、聞かないというのは、
この耳の聴覚機能を言うわけではないんです。
従うか、従わないかという話であります。
これを、この27節をもって、今日のパリ斎人たちのような彼らを当てはめて考えるならば、
彼は聞きはしましたが、ついて行かなかったわけなんですね。
彼らに知識が足らないからわけではないんですよ。
イエスリアは最高の知識を持っているんだからね、経験を持っているからね。
信仰がなかった。イエス様の羊ではないからなんですよ。
だからついて行かないんです。
もう一箇所開きましょう。
同じ、ヨハネの福音書、8章、45節開いてください。
47節だけでいいと思いますね。
194ページ、ヨハネの福音書、第8章、47節。
これも聞くという言葉、ここにはちゃんと聞き従うという言葉で訳されていますけれども、
47節一緒に読みますね。
せーの、神から出たものは、神の言葉に聞き従います。
ですから、あなた方が聞き従わないのは、あなた方が神から出たものでないからです。
皆さん、このイエス様の言葉は、またこの同じくパリサイ人たちのような、
彼らに対するメッセージでもありますし、
今日の私たちに、クリスタルに対するメッセージでもあるでしょう。
30:03
どういう意味でしょうか。
神から出たものは、神の羊は、神の言葉に聞き従います。
これが大事ですね。聞き従うかどうかなんです。
知っているか知らないかの問題ではない。
従いがつくわけなんですね。
あなた方が聞き従わない。
むし私たちが、イエス様の言葉を、説教を聞いても、御言葉を読んでも、聞き従わない。
従おうと思わないならば、どうでしょうか。
イエス様を信じないからなんですね。
皆さん、神の人は、祝福された人であります。
なぜ、祝福された人なんでしょうか。
それは、神の御言葉を、主の言葉を、羊の声として、100%信じて、受け入れるからなんです。
聞き従うからなんです。
ついていくからなんです。
この体の耳だけで聞くんじゃなくて、
心と魂が聞いて、悟って、従うから、祝福された人なんです。
だから皆さん、信仰生活をしていく中で、最も素晴らしい祝福はなんでしょうか。
それは、神の心を知り、そして聞いて従うこと、
悔やダメに相応し身を結ぶことが、最も素晴らしい祝福なんですよ、皆さん。
ある意味でですね、私たちに神様に対する知識は十分かもしれません。
いやいや、それでも私はあんまり知りませんよ、とおっしゃるかもしれませんが、
ある意味で知識はちょっと足らなくていいと思うんです。
聖書の御言葉を十分全部知り尽くしていなくてもいいかもしれません。
人に聖書を教えることができるほど、分かっていればいいんだけれども、
それができなくてもいいかもしれません。
大事なのは、人を救いに導くこと、悔やダメに導くことは、
神の知恵であって悟りであります。知識ではない。
むしろ御言葉にありますように、知識は人を高ぶらせるんですね。
だから皆さん、私たちに本当に必要なのは、単なる宗教活動ではない。
習慣的な宗教行為ではない。
本当に神の心にかなった悔やダメであり、聞き従うことであって、
主の御声を聞いて、聞き受けて、その通りに行うことであります。
33:07
これが信仰生活で最も素晴らしい祝福であります。
メッセージを送りたいと思います。
大事なのは、神を知る知識も素晴らしいことでしょう。
信仰生活の経験も素晴らしいことでしょう。
それも感謝のことなんですね。
その上にさらに、私たちが神を知る知識を、
神の心にかなった方向に生かしていくための神の知恵としての悟りと、
そして御言葉を聞いたならば、従うことが大事であります。
ついていかない、行いがないならば、実は聞いていないことと同じであって、
それは信じないことと同じであることを、
私たちはこの朝、真剣に心に留めていただきたいです。
神に祝福された人は、主の御声を聞いて従うものです。
お祈りしましょう。