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2019-10-13 50:01

2019/10/13:本当に必要な『活』とは

2019/10/13 ウェルカム礼拝

尹善鎬牧師

マルコの福音書 -34

00:01
みなさん、おはようございます。
今日、教会のウェルカム礼拝にようこそいらっしゃいました。
久しぶりの方々、家族の方々、また、いつも教会の信徒の皆さん、よくいらっしゃいました。
それではですね、お座りのまま結構ですので、左右の方々と挨拶と会話しましょうか。
お座りのまま結構だと思います。
今日は普段と違って丸テーブルになってますけど、前に方向を向くのが難しいかもしれませんが、
耳だけ立ってくださって、お話を聞いていただけたらと願っております。
1歳の赤ちゃんから、幼稚園生、小学生、中学生、大人の皆さん一緒にですね、ファミリーとして一緒に礼拝できること、本当に感謝いたします。
一言お祈りいたします。
そこでイエスは彼女にこう言われた。
娘よ、あなたの信仰があなたを治したのです。
安心して帰りなさい。
病気にかからず、健やかでいなさい。
私たちは哀れに、私たちに平安を与えてくださる主よ、
今日もここにあなたを求めて、あるいは主の御言葉を期待して、あるいは誘われてこられた一人一人の上に、
その魂の上に、神様御自身があなたの御声を聞かせてくださいますが、
そして今日、本当に私たちにとって最も大切なものは何なのか、
それを知り、あるいは気づき、そして命を得て帰ることができるように、神様どうぞ祝福してください。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
トンカツではありません。
03:02
まず今日読んでくださった聖書のお話は、先にお話をしたいと思います。
子どもたちにもね、分かりやすいお話かと思うので、子どもたちにもよく聞いてくださいね。
イエス様がいつものように、弟子たちといろんな町を回りながら、
時には聖書をお話ししたり、時には病気の人を癒してあげたり、
時には悪霊に取り憑かれている人を癒したりする活動をイエス様がしておりました。
ある町に入られました。そこに入ったら、常にイエス様は多くの人の病気を癒したり、
そういう話を、噂を聞いたから、多くの人々がイエス様のところにやっていくわけなんです。
イエス様、私の病気も癒してください。私の娘の病気も癒してください。
それで、その町に街道、街道と言ったら今の教会道のような集会場なんですよね。
その集会場の管理するやいろさんという人がいました。
その人がイエス様に来て、イエス様に本当にもう懇願して、もう切に切にですね、お願いしました。
イエス様、私の娘が今死にかけています。死のうとしています。
どうかイエス様、もう家にいらしてくださって、私の娘の上に手を置いて、祈って癒してもらえませんか。お願いします。
と、このやいろさんがお願いしたんですね。
そしたらイエス様が、そうしましょう。あなたの家に行きましょうと、向かっている途中でした。
もうたくさんの群衆とありましたね。たくさんの人が行ってですね、もうイエス様が行くところ、前から後ろから、押しつけられるように押し迫られているところでした。
今日、一人の女の人が出てきました。名前は知りません。
でも彼女のひどい、つらい病気がありました。
それは聖書が、十二年の間、長血を患っているとあります。十二年です。長いですよね、皆さん。
ひとつの病気で一年とか、あるいは何年とか、かかっていてもつらいのに、十二年もですから、本当に大変だと思います。
ここにですね、これは医学専門書じゃないので、病名が書かれているわけではありませんが、長血を患っていた。
06:03
それでいろいろ各社の言及によれば、女性としていわゆる激熱をするわけなんです。
なかなかそれが止まらない。
皆さん、普通に傷ができたら、血がちょこっと、軽い血だったら、ちょっと血が出て、だいたい5分、10分後止まるわけなんですよね、押さえたら。
この女性は十二年も、それが毎日だったのかそれはわかりませんが、長い間この激熱をする病気を患っていました。原因はわからない。
たぶんですね、女性として、もうとてもつらくて苦しんでいたと思うんですよね。
たぶん女性ですから、そっとしたら子どもを持つこと、出産をすること、普通の女性としての生活も不可能だったのかもしれない。
遠い距離の移動や旅行もできなかったかもしれない。
何より、当時このイスラエルの社会においてですね、この血を流す病気に関わるということは、このユダヤ人、イスラエル人の風習として、汚れたものとして普通の正常的な生活が、社会生活ができなくなるということなんです。
家族とも一緒にできない時もあり、懲りされるわけですね。
時には死にたいと思っていたかもしれません。いつもどこかに隠れていたのかもしれません。
友達を作ることも、会うことも、家族と会うこともできない、そういう時もあったかもしれません。
生きは生きているんだけれども、実は生きていないのと同じだったのではないでしょうか。
そんな辛い病気を長い間患っていた、知らない女の人が、このイエス様の噂を聞いたんです。
多くの人々の臓器を癒したとか、悪霊を追い出したとか、それでこの女性は、この街にイエス様が降られたんだから、
まるで言葉でありますよね、藁を掴むみたいなね、藁でも掴んで何とか、そんな思いでですね、イエス様のところに来たわけなんです。
09:03
このままでは生きられない。一回でもいいから、イエス様に出会って、イエス様に祈ってもらおうと。
子どもたちもよく知っていますか。それでイエス様のところにこの女の人がやってきました。
分かりませんが、今日皆さんの中で、この女性のような気持ちでここに来られた方がおられるかもしれません。
あるいは何となく来られたかもしれません。しかし、イエス様が皆さんお一人お一人をこの場に招いて下さいました。
今日の聖祖のこの十二年間流しを患ったこの女性がイエス様に出会ったように、イエス様が皆さんに会いたくて、イエス様が皆さんにふりあいたくて、皆さんを一人一人招いて下さいました。
この女の人は、今日聖祖に書かれていますけれども、長い間いろんなお医者さんに出会って、癒してもらおうとしましたけれども、誰も癒してくれなかった。
もうお金を全部使い果たしてしまうだけでした。ひどい目にあわされるだけでした。自分の持ち物を皆使い果たしてしまったとありますからね。
今もそうでしょう。本当に原因をわからない何病みたいな病気で、何十万円、何百万円、何千万円、お金もないのに、この病気を治療するために、この病院、あの病院、回って回って、もっと至極の場合は海外まで行って、それでも、そういう場合も現代にもあるんですよね。
今から二千年前の話ですから、これはもっとひどかったと思うんです。それで、この女性は、イエス様の話を聞いて、たぶん駆けつけてきたんじゃないでしょうか。
多くの群衆がいるから、たぶんイエス様があそこまで、あそこらへんにいらっしゃって、この全部いっぱい群衆がいる。この女性が後ろにいたならば、そこをなんとかして、イエス様のところに軽く落ちて、やっと届いて、そして、
もう、今のところイエス様に祈ってもらおう、そういう場合じゃない。でも、イエス様のあのお着物に、それを触るだけで、触れるだけで、自分の病気はきっと治るんじゃないか、という思いで、彼女はどうしましたか。
12:15
イエスの着物に触った。それは、今日の二十八節を見ると、お着物に触ることでもできれば、きっと治ると考えていたから。
イエス様のこのお着物に、もうその裾でも触れば、きっと私のこの十二年のこの辛い病気を癒してもらえるんじゃないか、治るんじゃないかと、小さな小さな希望みたいなものを、それを持って、藁でも使う思いで、イエス様のお着物に触ったんですね。
他の聖人は、きっと救われる、という言葉でも。
皆さん、この女性はですね、この時にイエス様のこととか神様のことが全部わかっていて、あるいはイエス様がお話したことを全部信じ切っていたから、こうしたわけではないんです。
もう噂で聞いただけなんですよ。まだイエス様に会ったこともないんですよ。イエス様の話を、今日皆さんみたいに立派にですね、何十分も何時間も、あるいは毎日みたいに聞いているわけではないんです。
あるいはイエス様がおっしゃるですね、復活とか、最後の祭輪とか、そんな話を聞いてもいないし、聞いたとしてもそれを全部わかって信じて、揉み込んでいて、受け入れることができたから、イエス様の服に触って、治るかもしれないと思ったわけではないんですよね。ないんです。
とても強い素晴らしい信仰を持っていたからではないんですよ、実は。きっと治ると考えた。きっと治ると考えていた。ある意味ですね、小さな小さな信仰みたいなものを、イエス様ならきっといやって思われるかもしれない、それぐらいの信仰だったんです。
15:00
ちょっと油断というか話をすると、このキリスト教の信仰に対してですね、それぞれ国の、私が世界を回ったわけではありませんが、聞いて、あるいはいろんな選挙主とかの話を聞いて、間接的に、あるいは私が言ってみて感じたところから言うと、
日本の方々は、とても考え深いですよね、だいたい。考え深い。いいところだと思うんですよ。また、だいたい真面目であられますから、この信仰を持つ神様を信じることに対しても、この聖書の話とか、僕が言うこと、イエス様のイエス様がね、聖伝によって生まれたこととか、
死んだものが三神に生みがえられたとか、天に登られたとか、シャイリンが来るとか、それを全部信じていないから、私はキリクリチャーにはなれないと思う方が、特に日本の中には大勢いらっしゃるかなと思います。
不思議にですね、私はそれを悪く言うわけではありませんが、中国とか韓国とかあるいはポーランドアジアの選挙主の話を聞くと、そこまで知らなくても、例えばイエス様の復活がまだ信じられなくても、シャイリンがまだピンと来なくても、でもイエス様が本当に私の趣味を許してくださった救い主ならば、信じてみよう、みたいに宣告を始めるんです。
でもね、なぜか日本はね、なかなかそれがハードルが深い。とても、皆さんも新都なんですよね。もう慎重で慎重で慎重で、石橋も叩いて渡らないほど慎重でですね、もう叩いて渡ったらこれが潰れかもしれない、それで新都で渡らないみたいですよ。
それで一歩を踏み出すのはなかなか難しい。
ときには皆さん、全部が知らなくても、全部が知らなくても、あ、本当にイエス様がいて、自分の趣味を許してくださって、永遠の命を与えるその方がいらっしゃるならば、身を寄せてみよう、とみたいなね、そういう思いが起こされたらいいんじゃないでしょうか。
この女性が、そうなったんですよ。イエス様はまず全部聞いているわけではありません。全部わかっているわけでもありません。
でも、イエス様の着物に、ちょっとだけ触るだけでも治るかもしれないと思っていただけなんですね。
それでどうなったんでしょうか。イエス様の着物に触ったんですよね。すると29節、ちょっと聖書から出してくれますか。皆さんちょっと前の方、あるいは聖書を開いて見てみましょう。
18:11
29節、一緒に読みましょうかね、皆さん。よろしいですか。一緒に、せーの、するとすぐに血の源が枯れて、ひどい痛みが治ったことを体に感じた。素晴らしいですね。
彼女自身が感じることができたんですよ。12年も痛みがあって、しかもこの血を流していたこの病気が、イエス様の着物を触るだけで、それをちょっとだけ触れるだけで、
12年の痛みが、恥が、苦しみが、辛さが、もう吹っ飛ばされて消えてしまったんですよ。素晴らしいことが起きました。
血の源が枯れたとあるんですよね。だから二度と流しをすることはなかったんでしょう。もう枯れてしまったんだから。素晴らしいことが起きました。ひどい痛みが治りました。
今まで女性として、なんと恥と辛さを、苦しみを、痛みを抱いていた彼女が、イエス様の着物に触れるだけで治るかもしれない。
と、この切羽詰まったみたいな気持ちで、なんとかしてみようと思った、その彼女。イエス様からこの力が出ていって、彼女を癒やしたわけなんです。
この女性は、12年間の辛さが消えてしまいました。この日、イエス様に出会って、彼女の人生は、生活は全く変わりました。
血から命へ変わりました。恥から幸せに変わりました。呪いから福に変わりました。悲しみから涙から笑いに変わりました。
なによって、イエス様の着物に触れてみよう、きっと治るといった、あの小さな小さな重い信仰のゆえでした。
そしてそれは、すべては、イエス・キリストに出会ったから起こった恵み・祝福でした。
そしてですね、多くの群衆に迫られていたところ、イエス様は、自分の体から、内から、力が出ていったことをイエス様はわかりましたね。
21:09
それで、「誰が私の着物を触ったの?」と聞きました。どういう意味か、たくさんいるからわからなかったでしょう。
でもイエス様はわかりました。その話を聞いて、女の人はイエス様に33節、「女は恐れおののき、自分の身に起こったことを知り、イエスの前に出てひれうし、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。」
たぶんですね、その時短い時間だったかもしれませんが、彼女は今まで自分のこのつらい病気の話を、それでもうこのままでは生きていけないと思う。
それでイエス様は噂を聞きました。イエス様の着物に触れるだけで治るかもしれないと思って、勝手に触りました。イエス様。
でも私はこの12年間のこの病気が、この時、その時、もう瞬間、枯れて治りました。痛みがなくなりました。イエス様。
そう打ち明けてくれました。その時イエス様は、彼女は憐れんでくださいました。34節の御言葉に、こうあります。ちょっと聖書から字幕に出してください。
そこでイエスは彼女にこう言われた。
「娘よ、あなたの信仰があなたを治したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すくやかでいなさい。」
皆さん、何と優しいイエス様のお声なんでしょうか。イエス様は彼女を叱るのではない。
なんで、勝手に母さんのその力を返せみたいにね。
イエス様は神様だから、全知全能の神様だから、彼女の辛さも、ひどい痛みも、その恥も、苦しみも、すべて知っておられました。
そして娘よ、なんと優しい、これはイスラエル人にとってはとても優しい呼び方なんですよね。
あなたとか、じゃなくて娘よ、愛のこもった呼び方で娘よ。
今日皆さんにイエス様が娘よ、あるいは息子よ、我が娘よ、我が息子よと呼んでくださっておられますね。
あなたの信仰があなたを治ったので、安心して帰ります。恐れることはない。
24:00
安心して、この安心という言葉が平安と同じ似たような言葉なんですね。
ここで私は、この教会が、キリスト教が伝えているイエス・キリストがどんなことなのか、ここに大事なポイントがあります。
短く三つのことを話したいと思います。
第一、イエス様は私たちを憐れんでくださる、日本語の憐れむ、どういう意味ですか皆さん、憐れむ。
かわいそうに思う、不憫に思うと辞書に書かれているんですね。
でも、聖書的の憐れむという言葉は、苦しみを痛みを共にするという意味があるんです。
皆さん、イエス様は、この十二年間長くて患っていたこの女性の痛みを、苦しみを、恥を、死にたいその心境さえも、イエス様は共にしてくださっています。
共に感じてくださった、共に泣いてくださった、共に心を痛めておられた、それをイエス様が憐れんでくださった。
共に泣いて、共に苦しんでいてくださった。
これがイエス様の憐れみの第一ステップですね。
普段、私たちも自分の周りに、夫、妻、子供、本当に親しい友達、自分の真実を、恥ずかしいところ、あるいは悔しい気持ちでも、それを打ち明けることができる人が周りにいたらいいんですよね。
ただ、要りませんよという話ではありません。一人でも二人でもいたら、本当にいいと思うんです。
何もわかりませんが、意外と、本当に自分の心の中にある恥ずかしいところ、つらさ、人にはなかなか言えない、そういう話を、本当にもうね、丸々ですね、丸裸になって打ち明けることのできる、そういう人を持っている人は、そんなに多くないようです。
だから、現代人は孤独なんですよ。孤独が五人の国があっても。
皆さん、しかし、イエス様は、皆さんの、あなたの心の喜びも、ひどい痛みも、苦しみも、そのつらさも、憐れてくださるんです。
27:14
共にいてくださるんです。
人はですね、誰かがですね、誰かが何かつらい話を聞いたら、ああ、そう、そうなの、大変だよね、はい、さよなら、大体一人くらいかもしれませんね。
ああ、そうなの、はいはいはい。ところでね、また別の話題に変わってしまってですね、あるいは私が話されているように、せっかちな人がですね、もう聞いて、聞いていないふりをしても、どこかに行ってしまうのね。
そんなこともよくあったりする。
イエス様は、憐れんでください。共にしてください。
でも、人も、大体ここまではできるんですよね。
よく聞いてあげて、何時間も何度も何度もですね、聞いてあげることはできることもできるでしょう。
しかし、第二のステップからは、人間にはできないことを、イエス様にはできるということです。
イエス様の憐れみの第二のステップは、その痛み苦しみの根源を取り除いてくださることです。
今日の御言葉に、さっき読みましたけれども、29節に、するとすぐに血の源が枯れて、ひどい痛みが治った。
長血のこの血の源が枯れました。ひどい痛みがなくなりました。
もうこの苦しみ、痛み、吐き、辛さの根本をですね、その根っこを引っ張って取り除いてくださった。
きれいにしてくださっただけなんですよね。
皆さんが信じようが信じないような奇跡は、昨日も今日も明日もあたたせにもいく。
この女の人のような小さくてもいいんです。小さな機体感でもいいかもしれません。
それを持ってイエス様のところに来れば、イエス様が皆さんの心を見てくださる。
そして憐れんでくださる。そしてそのひどい痛みのあるいは病気のこの根元を主が癒してきれいにして取り除いてくださる。
その機体を持とうではないでしょうか。その機体を持ってイエス様に祈り求めようではないでしょうか。
もしも今日お集いの皆さんの中で、私の人生にも何か奇跡が起きてほしいなと思う方がおられますか。
30:04
この病気を癒してほしいと、この問題を解決してほしいと願われる方がおられるでしょうか。
そうすれば、イエス様に祈り求めてみてください。
この女の人のようにイエス様のお着物に触れること実際にはできませんが、心からイエス様を掴んでみようではないでしょうか。
イエス様は皆さんを憐れんでくださる。そして苦しみ痛みを共にしてくださり、何よりその問題、その病気の根源を、その根っこを取り除いてくださる。
三番目、イエス様の憐れみの三つ目のステップは、平安をお与えになることです。
イエス様はこの女の人にですね、病気を癒してくださった。
そして最後に、安心して帰りなさい。病気にかからずすくやかでいなさいとおっしゃったように、平安をお与えになる。
イエス様は私たちが何かの緊張や不安や恥の中に暮らすことを願ってやられません。
私より私のことをもっと言ってやられるイエス様。
私の心や私の思いや、あるいは私の涙を隠れている私のすべてのことをすべて言ってやられるイエス様が私たちに与えてくださるのは、安心、平安なんです。
この女性には癒しと共に平安が与えられる。
けれども、他の場合を見たら、病気を癒してその後にイエス様がある場合には、二度と罪を犯さないようにしなさいと言われる場合もあります。
罪、癒しと平安を一緒に与えてくださる。
今日もここにおられる皆さん、子どもも大人もですね、いろんな不安や焦り、心配などがあったりするんじゃないでしょうか。
台風がやってきたらそれで不安があるし、高齢になりますと妊娠になるんじゃないのかな。
運転して事故を起こすんじゃないのかな。
ちょっと体の境地が悪くなったら、がんじゃないのかな。
あるいはお金があればあって不安であって、お金がなければないから不安であって、
33:05
家族を先に亡くされて不安であって、生きている人には不安が絶えないかもしれませんね。
皆さんそれは、皆さんも否定できないでしょう。
そんな不安、焦り、心配、そういったものがもしありますでしょうか。
この今日生徒に出てくる女の人のようにイエス様のところに出てきてください。
もしも肩の上に、心の上に何トンほどの重さで抑えつけられている、そういった不安や心配、焦り、そういったものがあれば、
この女の人のようにイエス様の前に全て下ろして見ていこうじゃないでしょうか。
そしてイエス様を掴んでいようではないでしょうか。
今日の生徒タイトルは、本当に大切な活動とありましたけれども、
今ですね、日本の場合だったら、もう幼稚園生からいろんな活動をやってますね。
それで婚活、休活みたいな活が、ネットで見ていたらたくさんありましたよね。
幼稚園生は幼稚園だから園活、小中高生は部活するから部活、妊娠する生は妊娠するから妊活。
高齢者の方々は、それが何年前か分かりませんけれども、亡くならぬ前の身分整理みたいなことをする、
就活、有料のセミナーもあったりするんですよね。
どこまで必要なのか分かりませんけれどもね。
小さいほど幼稚園生は幼稚園の園活をしますけれども、高齢の方々は病院にお世話になっているから妊活をするんですって。
それもね、そういうことを知っておいて、情報として知っておいて、確かに助かることもあると思うんですよ。
影を引いたら、どこどこの病院が、なかなか効きますよと言われてね、
同じ日々かのように同じ内科なのに、なぜか効く病院があったりするじゃないですか。
そういう情報は確かに役立つかもしれませんが、
でも皆さん、いろんなそれが園活であろうが、婚活であろうが、就活であろうが、
いくら熱心にしてもすいませんが、全ては終わりが来るということなんですよね。
何の活もできない時が来るということなんです。
36:05
ところが、この2000年、数十億名の人々に命と望みを与えてくださったイエス様、
この聖書は私たちに、いろんな活があるんだけれども、最も大事な活がありますよ。
それは復活ですよと、聖書は教えます。
でもね、私はいくら確信を持って終わらせても、死んだ人が蘇るなんて、そんな嘘みたいな話、
信じるわけにはいけないと思っている方が、ここにおられるかもしれません。
確かに信じにくいことだと思うんです。復活、よみがえる。
でもね、今日の聖書に戻りますと、この女性はイエス様のことを全部知っていたからイエス様に、
イエス様を頼りにしたわけではないんですよ。
復活を信じきっていたから、聖書を丸々全部知っていたから、イエス様に頼りにしたわけではないんです。
触れて、触って、治るかもしれない、それぐらいだったんですよ、実はね。
今日、聖書のお話を聞かれてみなさん、
もしも本当に復活があれば、復活の死がおられて、人は死んで終わりではなく、魂はよみがえるんだ。
永遠の命の方向と、永遠の呪いの方向に分かれるんだ。
そうすれば、私もその復活の死にお会いしてみたい。
その復活を自分のものにさせてもらいたいと、そういう思いがするのではないでしょうか。
それが100%確実じゃなくてもいいかもしれませんよ。
藁一本みたいな細いなんかの機体感でもいいかもしれません。
頼りにしてみたい、そういう気持ちでもいいかもしれません。
みなさん、この授業で私たちは、いろんな活動をしても終わりが来ますよね。
みんなに信仰を持っていても持っていなくても、元気であっても元気じゃなくても、
39:06
金持ちでも貧しくても、いろんなことができてもできなくても、みんなに全ての活動が終わる時が来ます。
しかし、イエス様は私たちに、それで終わりじゃないですよ。
私が信じるものには、よみがえりがあり、命がありますよ。
それを受け取ってほしいと語っておられます。
聖書にはこう言われています。イエスは言われた、私はよみがえりです、命です。
私を信じるものは、死んでも生きるのです。
私はよみがえりです、命です。私を信じるものは、死んでも生きるのです。
だから、生きていて私を信じる者は決して死ぬことがありません。
このことを信じますか、復活を信じる者。
永遠の命を得ている者には、この地上の命が終わる日は、新しい世界が始まるんですよね。
聖書には、その時には病気も恥も涙も苦しみも呪いもないと、
本当の平安と本当の喜びがあると語っておられます。
今日の聖書の女の人は、イエス様の着物を触るだけで私はきっと治ると。
イエス様の信仰のゆえに、彼女は癒やされて、新しい人生が始まります。
今日はエルカム礼拝できて、今からこの女の人のように、小さな期待か小さな信仰でもいいです。
皆さんにイエス様を信じてみたい、より誓ってみたい、何か祈ってみたい、
42:02
そういう方々にイエスより信じる信仰にお招きをしたいと思います。
今から神父の皆さんは、周りの方々が本当にイエス様に出会えるように、神に出会えるように、
心から神父の皆さんはお祈りください。
皆さんすいませんが、目を閉じていただけますでしょうか。
目を閉じてくださって、今から私の話に耳を傾けていただきたい。
神父の皆さんは心からお祈りください。
聖霊様がその時、感動と恵みを悟りをお当て下さるように、心から神父の皆さんはお祈りください。
ここにおられる皆さん方、キリスト教が何なのかまだ分からない、理解できないことがたくさんある。
信じたら何か縛られるんじゃないか、変なことが起こるんじゃないか、そういった不安があるでしょう。
そういった確信が100%なくてもいいんです。
今日皆さんがここに集まっておられるのは偶然ではないんです。
一人一人のために、私たち教会員は祈ってきました。
この本当の命に触れるように、本当の神様に出会えるように、主がくださる平安を受け取っていただきたいと願って、祈って祈って、この日を準備してまいりました。
今、イエス様は皆さんの心をその塔を叩いておられます。
神様は、身を私は塔の外に立って叩く。
誰でも私の声を聞いて塔をあげるなら、私は彼のところに入って彼と共に食事をし、彼も私と共に食事をするとイエス様は語っておられます。
神は実にその一人がお若いになったほどに、よう愛された。
それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を持つためであるとイエス様は語られました。
皆さん、全てのことには時があり、チャンスがあります。
今日は恵みの日、救いの日なのではないでしょうか。
45:05
心を開いて、まだわかないことがたくさんあっても、イエス様をイエス・キリストを救い主として、永遠の主として受け入れようではないでしょうか。
心を開いて、信じてみようではないでしょうか。
そうすると、イエス様は皆さん方の人生に心の中に入ってくださって、その苦しみを、あるいは喜びを共にしてくださる。
そして、永遠の命をお渡しになります。
それが聖徒が言う、永遠の命というものであります。
今からお招けします。
まだわかりませんが、ここしか言う通りに、イエス様を受け入れて、信じてみたい、信頼していきたい、まだわからないことがたくさんあるんですけれども、
そういうふうに思われ方おられるでしょうか。
そうしたならば、そういう思いが少しでもするならば、今、静かに手を挙げて、その心の気持ちを表していただけないでしょうか。
イエス様を信じてみたい、迷うことはありません。
皆さんが今、手を挙げることだけで、皆さんの人生は、今日からもう一度お尋ねします。
本当に復活があり、イエス・キリストが私を愛し、私に平安を与えてくださるならば、そのイエス様の手をもう掴んでみたい、と思われる方おられるでしょうか。
静かに手を挙げていただけないでしょうか。
はい、手を挙げてください。ありがとうございます。
イエス様は皆さんを平安に導いてくださいます。
幸せに導いてくださいます。
そして癒やしをおはたになります。
では、手を挙げてくださった方々のために、あるいは他の方々のために、私がお祈りをさせていただきます。
私はあなた方に私の平安を与えます。
私があなた方に与えるのは、与えるのとは違います。
あなた方は心を騒がせてはなりません。恐れてはなりません。
神は実に、その人ごりごをおはたになったほどに、与愛された。
48:02
それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。
アーメン。
神様、感謝します。
今日のこのウェルカムリアイを、多くの教会員が祈って祈って、今日の日を祝いしてまいりました。
そして、今日、このように多くの方々を送ってくださって、本当に主よ、心から感謝いたします。
今、イエス・キリストを信じると、まだよくわかりませんが、小さな二人さん貧困をもって、手を挙げてくださった一人一人の上に、
主よ、どうぞ、あなたの永遠の命をお与え下さい。
呪い、滅び、地獄ではなく、天国の喜び、永遠の命をお与え下さることを感謝いたします。
どうか、主よ、その方々の上に、今日から今から、本当にこの聖祭に登場する女の人のように、平安でいなさい、健やかにいなさいとおっしゃった、
そのイエス様の恵みが、癒しが、力が、幸せが豊かに、まだ自信がない、確信がない、よくわからない、
手を挙げるのを謝れる方々の上にも、主のときに、一歩も早く、主のときに、
本当に大切な復活を受けることができる恵みを主よ、どうぞお与え下さいますように、お願いいたします。
主よ、後のプログラムの上にも豊かな恵みと喜び、祝福をお与え下さいますように、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
50:01

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