2022-06-26 26:50

#111/22/6/26 自由を得るために

ガラテヤ5:1-6からの礼拝説教。2022年6月26日録音。パウロは5章において、自由について語ります。前半部分ではその自由と聖霊の関係を語ります。そのことを視野に1.自由を得させるために、2.聖霊による希望と渇望、3.聖霊によるサポートの3つの点から学びましょう。

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キリストは、自由を得させるために、私たちを解放して下さいました。ですから、あなた方は固く立って、再び奴隷の首輝きを終わされないようにしなさい。
よく聞いて下さい。私パウロがあなた方に言います。もしあなた方が滑稽を受けるなら、キリストはあなた方に何の益ももたらされないことになります。
滑稽を受ける全ての人にもう一度はっきり言っておきます。そういう人には立法全体を行う義務があります。
立法によって、義徒を認められようとしているのなら、あなた方はキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。
私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、見た目によって待ち望んでいるのですから、キリストイエスにあって大事なのは、滑稽を受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。
以上です。
今日このところから、自由を得るために、と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
梅雨が明けませんけども、とてもですね、暑い日が続いておりますね。
今週も梅雨が明けるんではないかという話もありますけれども、そんな中ですけども、共に言葉から御精霊について関わること、命の水と言われてますけどもね、精霊についてまた学んでいきましょう。
パウロはですね、自由について5章で語っています。
今日見た箇所では、自由と精霊の関係を語ります。
このことを、師範に3つのことを学びましょう。
最初に申し上げておきますが、精霊ということはですね、なかなか聞かないし、極端な立場の人たちが過度に強調して、20年以上30年以上前はそういう精霊についてアレルギーもあったんですが、改めてこの精霊というのがですね、私たちクリスチャンが地上の生涯を歩む上で欠かせない存在、イエス様が今見えない中、精霊こそが私たちの頼りだと。
そういうことを多くの学者も言っていますので、学んでまいりましょう。
最初の点は、自由を得させるためにということです。
この御言葉を読んでみましょう。5章1節3、キリストは自由を得させるために私たちを解放して下さいました。
ですからあなた方は固く立って、再び奴隷の首輝を負わされないようにしなさい。
私、読みながら感じましたけどね、なかなかマスク生活から自由にならない。
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読んでてもですね、苦しくてですね、まさに不自由の中にありながら、説教を取り継いでおりますけれども。
それ以上にですね、当時のユダヤ人に影響されたガラティアのクリスチャンは危機に晒されていました。
どんな危機か。
ここでパウロが言っていることはですね、活礼と、そしてそれから始まって、食べ物や祝祭日の立法を守ることを問題にしているわけです。
立法を守るということに関して。特に活礼が問題になっています。
ユダヤ人の男子、そしてここではガラティア人のクリスチャンの男子にですね、活礼を許容した。
しかしもし活礼を受けなければならなければ、それはイエス様の贖いの意味を無きものにするんだとパウロは指摘します。
続けてパウロはこう言うんですね。読める方読んでみましょう。
活礼を受ける全ての人にもう一度はっきり言っておきます。そういう人には立法全体を行う義務があります。
活礼とか、それから食べ物とか、祝祭の決まりではなくて、全部の旧約の立法、再義立法を守るべきだ、そこまでするのが本質だ、本筋だとパウロは厳しく求談しているわけです。
しかしそれはまさに奴隷の状態に後戻りすることなんですね。
この活礼を受けて立法を守るというのはどういうことかというと、それは神様に受け入れてもらうための努力を自分でするということなんです。
それはですね、どういう状態に陥るか、食べ物について何を食べるか食べないかということを終始気にしていなければいけません。
もういつも私ここで口すっぱくしているんですけどね、日本人困ります。もうすぐ7月は何が来ますか?
7月の後に来ますね、土曜の牛の日です。
うなぎを食べてはいけない。鱗がない、鱗のない魚は穢れている。穴子もダメです。
そうやって決まっていました。それを食べたら穢れる。だから何を食べていいかいけないかということをいつも気にしなければいけない。
そしてさらに違法人との会食を禁止されていました。
違法人は汚れたものを食べるから。だから誰と一緒に食事をするか、それも気にしている。
もし私たちがそういう滑稽を受けるクリスチャンとしてこの当時いたならば、親戚が訪れてきて、でもその人と一緒にご飯を食べちゃいけないんです。
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彼ら彼女らはこの立法を守っていないから。そんなことをいつも気にしている。
間違いに気が付いたら、極端に言えば神殿まで行って、それ相応の生贄を捧げなければいけない。牛を殺す、ヤマハトを殺す。
そういうことをいつも気にしていなければいけない。まさに奴隷のような生活に後戻りするわけですね。
先ほども言いましたが、これは神様に受け入れられる努力を自分ですることなんですね。
神様の前でいつも自分が正しい立場を維持するために、いろんなものに注意していなければいけない。
神様にいつも受け入れられる状態をいつも保っていなければいけない。そのために失敗したら生贄を捧げる。あるいはしてはいけないことをしない。
そういう奴隷の状態を続ける。もちろんそのためにかつれ屋という当時のローマ社会では差別を受けるようなひどい儀式も問わなきゃいけなかったわけです。
これが奴隷の状態。その中でガラティアのクリスチャンはイエス様を信じた後も、それだけじゃなく自分が罪の誘惑から完全に自由にならないことを実感したわけですよね。
バブテスを負けた人ならわかるんです。洗礼を受けてもバブテスを負けても、自分が政治になるわけじゃないんです。より罪に敏感になるわけです。
ガラティアのクリスチャンも同じです。だからかつれ屋を受けるとか、一生懸命立法を守る生活を送れば、それさえすれば罪と罪の誘惑から逃れられると考えて、
一生懸命この当時の聖書のしきたりに習おうとしました。先ほども言いました。しかしそれがかえって奴隷生活を送ることになってしまうわけですね。
これは今の私たちに当てはめるならば、クリスチャンらしい生活をし続けなければならない。そういう不分立の立法に縛られて生きる。
それは未信者の方であれば、なんとなくクリスチャンのイメージを頭に抱いた、そういう不分立の立法、根拠がないなんとなく感じられる立法。
あるいはクリスチャンであれば、なんとなく教会の人からあるいは親から伝え聞いたものを、そのような根拠のないなんとなく感じられる立法によって、
その固定概念によってがんじがらめになってしまうクリスチャンが少なからずいるわけなんですね。
ある学者は極端な話をこう言うんですね。
義徒された者から罪が消えるのではない。彼らは罪を犯し続ける。
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イエス様を信じてバクテスマを受けても、これがクリスチャンのリアリティだという名当たる学者が言っています。
そして宗教改革を起こしたルターもこう言うんですね。
クリスチャンというのは、理人にして罪人である。矛盾するようなことを言っています。
それはどういうことか。
それはですね、ちょっと難しいんですが、継続的な神様の義人行為、それを受け続けるという、
そうやって義徒を認められ続けるという福音の素晴らしさを別の言葉で表現した言葉なんです。
義徒された者から罪が消えるのはなく、罪を犯し続ける。
理人にして罪人である。だからこそ、神様の継続的な義人の行為が私たちには必要なんですということなんです。
イエス様を信じて、義徒されたって一回の行為じゃないんです。
イエス様を信じた後も神様は絶えず私たちを、あなたは正しいんだよ、罪ないんだよといつも認め続けてくださるというのが継続的な義人行為なんですね。
皆さん最近ね、サブスクリプション聞いたことあります?
実はね、十字架のイエス様の贖いというのは、この神様の継続的義人行為なんですけど、それはサブスクリプションに似ているんです。
低学生、お金を毎月払い続けるとサービス受け放題ですね。
例えば今コロナで流行ったネット動画、ネットフリックスとかフールとかありますけど、毎月お金を払い続ければ好きなだけこの映画とか番組を見放題になる。
食べ物のサブスクリプションはですね、毎月何千円払うといつでもケーキを食べられるとか、何々放題サービス。
実はイエス様の十字架の贖いというのは、義人のサブスクリプションみたいなものなんです。
ちょっと安易な言い方かもしれません。
実はですね、何回も言いますけど、私たちが義とされるのは一回限りじゃない。
神様はイエス様を信じて私たちを一生がいかけて、一生の間ですね、義と認め続けてくださるんですね。なぜか。
まあ別の言い方をすると、神の継続した義人行為なしに、救いのプロセスは頓挫すると学者は言うんですね。
つまりそれは、イエス様の十字架による神様の継続的義人行為というものが必要であり、それが働いているということなんです。
何回も言いますけども、義とされたものから罪が消えることはない。私たちは生涯罪を犯し続けてしまうというのは現実なんです。
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だからこの赤い字であるように、神様の継続した義人行為なしに、神様の救済のプロセス、私たちが生涯かけて救われ続けるというプロセスは成り立たないというんですね。
なぜかというならば、イエス様の十字架による神様の継続的な義人行為がそこにあるからなんです。
つまり、イエス様の十字架のあがないの死は、私たちが一生かけて犯す罪の罰を全てになってくださった。
イエス様の一回の十字架の宮座が私たちの罪の罰を全てになってくださったというその食材行為にあたるからなんです。
この定格性で言えば、毎月払わなくて、もう一回の十字架によって、生涯分の全て罪の罰の報酬をイエス様が払って償ってくださったということなんです。
だからイエス様の十字架のように、神様は私たちをいつも義と認めてくださるんですね。
ですから私たちは、いつも神様の継続的な義人行為、いつも自分を義と認めてくださるという十字架の宮座に頼っていくわけなんです。
ですから私たちは、罪を犯してしまうかどうかビクビク生活する必要はないんですね。
そしてまた、罪に気が付いたということで、何か食材のための行為をしなければいけないということはないんですね。
神の家で話をすれば、わざわざ教会に来て罪の生贄を捧げるとか、そんなこともしなくていいわけなんです。
実はこれがですね、私たちは立法から解放されて、自由を得たということなんですね。
罪を犯してしまったとしても、罪がやめられないとしてもですね、この罪の支払いについてビクビクする必要はなく、いつもイエス様の十字架の贖いを仰ぐことができる。
こうして私たちは罪の罰と、この自分を義とする立法の束縛からですね、この解放された。
いつも立法を守らなきゃいけないという、そのような束縛から解放されて自由になったということなんです。
さあそれと関係して2番目。
聖霊による希望と渇望ということですね。
今日の5章5節を読めるかというふうに読んでみましょう。
私たちは義とされる望みの実現を信仰により、見た目によって待ち望んでいるのですから。
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パールが言うことはこういうことですね。
私たちは完全に義とされる日を待ち望んでいる。
これは今の1の内容と関係しています。
私たちが完全に義とされる、すなわちですね、今と違って全く自分の罪やあるいは誘惑に悩まなくなる日ですね。
その日を待ち望んで今を生きるということなんです。
それはどういう時かというと、私たちがイエス様と同じ姿、罪なき栄光の姿に変えられる日が来る。
その日を待ち望んで今を生きるということなんです。
その日はいつ来るか、それは私たちが地上の生涯を終えた時に訪れるんですね。
実は清伝による希望と渇望の渇望とありますけれども、この渇望とは何か。
それはですね、私たちが自分の罪なき姿やありように憧れるということです。
そしてですね、そのことに時には苦しみが伴うんですね。
自分が罪を犯してしまう、罪に心が誘惑されていってしまうというそういう自分に葛藤を覚える、そういう苦しみが伴います。
そしてその中で自分の体が完全に肉の誘惑から自由になる日を待ち望むという渇望が生まれてくるわけです。
ここから贖われたい、自由になりたい。
実はですね、その罪なき姿への渇望ということも精霊の働きなんです。
考えてみてください。
私たちがかつて罪の中にあった時、それが当たり前だと思った時はですね、自分の罪に悩むこともありませんでした。
また、義に対する、神の前で正しく生きるということに対する上書きもなかったわけです。
ですから、この義に対する渇望というのもですね、精霊が私たちの中に働いている証拠でもあるわけなんですね。
そしてこの希望にはですね、必ず実現するという覚約、約束が伴っています。
なんとなくその日が来るなというぼんやりしたものではないわけです。
例えばですね、どんなのがあるかなと思ったら、今皆さんどうか分かりませんが、夏休み。
夏休みという待ち遠しいですよね。
で、夏休みは必ず来ますね。
まあ言い方は悪いですけど、学校の成績が良い子も悪い子も関係なく必ず夏休みは訪れます。
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だから夏休みを待ち望む、その夏休みへの希望というのは確かな希望なんですね。
で、必ず夏休みが来る将来の喜びというのは、今を生きる希望になるわけです。
つまり私たちは夏休みではなくて、必ず将来自分の体が完全に贖われる日が来る。
必ずイエス様と同じ姿に変えられる日が来る。
それが言い換えれば罪なき栄光の姿に変えられる日が来る。
その日を必ず来るという、それは確約されている。
それが確約されていて、その日を待ち遠しいと思って臨んでいく、それが希望なんですね。
栄光の希望とも言い換えられています。
あるいは罪だけではなくて、イエス様と同じく、罪も病も死も関係ない、
病や死からも解放された栄光の姿に変えられる日が来る。
それも希望になるわけなんです。必ずその日が来る。
そしてその希望はですね、今の困難を乗り越える希望にもなるんです。
そしてその希望というのは実は、私たちに与えられている精霊によって確証される、
私たちの心に確かなものとして与えられるわけなんですね。
パウロがローマ書の5章3節5節でこのような希望を述べています。
そればかりでなく、観難さえも喜んでいます。
それは観難が忍耐を乱し、忍耐が練られた品性を乱し、練られた品性が希望を乱すと知っているからです。
ここから読めるかと読んでみましょう。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら私たちに与えられた精霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ローマ5章3から5節。
私たちの心に与えられた精霊が、私たちの神の愛を知らしめ、
そして必ず観難の先に栄光の希望があるということを確証させてくださるということですね。
最後、精霊によるサポート、支えということです。
ある学者はこのように言うんですね。
精霊は私たちに父なる神への祈りを与え、生涯にわたって私たちを支える。
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しばらく前にですね、精霊は私たちの心に、
あば父よという祈りの心を与えるということを学びました。
それはイエス様の霊であるがゆえに、イエス様と同じく神様をお父様と親しく呼べるという祈りでしたね。
それだけではなくて、生涯にわたって私たちを支え続けてくださるのが精霊の働きなんですね。
私たちは必ずこの精霊の助けを体験します。
どういうことか、これはですね、精霊によって力が与えられてですね、
例えば良いことをしたいという願いが与えられるわけです。
動機が清められる。
あるいはその良いことを行うための力が与えられたり、
逆に悪を避ける力を精霊によって私たちは与えられる、授かることができるんですね。
ですからどうぞ必要なときに祈ってみてください。
神様約束の精霊によって私に力を与えてください。
そのように祈ってみてはいかがでしょうか。
実はですね、この精霊による力、精霊によるサポートというのはですね、
私たち一人一人が体験するしかないんですね。
こういうものだ。
いろいろ人によって違うわけなんです。
同時にですね、時として誘惑に負けてしまうことも私たちにはあるんです。
でも最初の点を思い出してください。
私たちの罪は消えることがありません。
しかし神様はイエス様の十字架の上にいつも私たちを罪なき、義なるものである、
神様との関係をいつも保ってくださる。
そういう義人の宣言をして私たちの関係を神様はいつも保ってくださるわけですよね。
こうやってうまくいったり、うまくいかなかったり、
つまづいたりしながら私たちは精霊の力を生活の中で体験していくわけなんです。
そしてまたこの義に飢えていくわけです。
この義に飢えていくということも精霊の働きでしたね。
そしてまた自分は必ず今は不完全だけども将来神によって義が完成して、
神様と神様の時にイエス様と同じ栄光の姿に変えられていく、
その希望が与えられていくわけです。
これも精霊の技ですね。
そしてその精霊によって自分が神の前で義とされ続けていることの自由ということを知っていくわけなんですね。
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そのような葛藤や喜びや精霊の力を体験していく、
そういうプロセスを通して私たちはイエス様の姿に日々変えられ続けていく。
イエス様の新姿へとこの地上で変えられ続けていくわけなんですね。
この精霊の御業をパウロが語っている御言葉を最後に読んでこの時を閉じたいと思います。
主は御霊です。そして主の御霊のあるところには自由があります。
私たちは皆顔の覆いを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、
栄光から栄光へと主と同じ形に姿を変えられていきます。
最後だけ読んでみましょう。
これはまさに御霊なる主の働きによるのです。
第2コリント3の17から18
お祈りしましょう。
神様皆お賛美いたします。
私たちは自由を得るために神様によって召されました。
どうぞ私たちがこの世の幼稚な教え、様々な間違った立法によって再び奴隷に陥ることがないようにどうかお守りください。
と同時に私たちはこの地上にいる間、罪の現実、肉の弱さに直面します。
どうかその中で御精霊の力、御精霊の自由を知り続けることができるように導いてください。
またあなたによって偽とされているその幸いを知り続けることができますよ。
そしてやがてあなたにあって完全に偽とされる、栄光の姿に変えられるその望みを日々抱いて歩むことができるようにどうか導いてください。
これらの願いと感謝をあなたの約束してくださった御精霊の導きにお委ねして、私たちの主イエスキリストのお名前によってお祈りします。
アーメン
それではしばらく主にお答えして祈りましょう。
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