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またいの福音書十二章三十八から四十五、新約聖書の二十三ページをお開きください。
またいの福音書十二章三十八から四十五節、新約聖書二十三ページでございます。
では、お読みいたします。
またいの福音書十二章三十八節、その時、立法学者パルサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。
先生、私たちはあなたから印を見せていただきたいのです。
しかしイエスは答えて言われた。
悪い官員の時代は印を求めています。
だが、預言者ヨナの印のほかには印は与えられません。
ヨナは三日未晩大魚の腹の中にいましたが、同様に人の子も三日未晩地の中にいるからです。
二ネベの人々が裁きの時に、今の時代の人々と共に立って、この人々を罪に定めます。
なぜなら、二ネベの人々はヨナの説教で悔いはれためたからです。
しかし、みなさい、ここにヨナよりも勝った者がいるのです。
南の女王が裁きの時に、今の時代の人々と共に立って、この人々を罪に定めます。
なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。
しかし、みなさい、ここにソロモンよりも勝った者がいるのです。
汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら、休み場を探しますが見つかりません。
そこで出てきた自分の家に帰ろうと言って帰ってみると、家は空いていて、掃除してきちんと片付いていました。
そこで出かけて行って、自分よりも悪い他の霊を7つ連れてきて、みな入り込んでそこに住みつくのです。
そうなると、その人の後の状態は、はじめよりもさらに悪くなります。
邪悪なこの時代もまたそういうことになるのです。
聖火隊の賛美201番に続いて、たかとり牧師より、救い主の印と題して説教をしていただきます。
03:51
聖火隊の賛美201番に続いて、たかとり牧師より、救い主の印と題して説教をしていただきます。
聖火隊の賛美201番に続いて、たかとり牧師より、救い主の印と題して説教をしていただきます。
聖火隊の賛美201番に続いて、たかとり牧師より、救い主の印と題して説教をしていただきます。
聖火隊の賛美201番に続いて、たかとり牧師より、救い主の印と題して説教をしていただきます。
聖火隊の賛美201番に続いて、たかとり牧師より、救い主の印と題して説教をしていただきます。
06:36
おはようございます。
ヤシ様はこれまでに神の国は近づいたと神の国の宣教を続けてこられました。
ところがこの二十八節で、しかし私が神の見た目によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなた方のところに来ているのです。
とそのように言われました。
これはユダヤ人にとりましては重大な問題であります。
彼らは旧約以来、長い間、メシアによるところの神の国の実現を待ち望んで、その実現の時を今か今かと、本当にこの待ち望んでやってきたのであります。
ですから神の国が既に来ているとするならば、そのように宣言するシュー・イエス・キリストはメシアであるのかという問題が当然起こってまいります。
立法学者やパリサイ人のうちのある者たちは、ヤシ様の言葉を聞き咎めて、早速その証拠を見せてほしいとヤシ様に迫りました。
38節を見ると、その時立法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。先生、私たちはあなたから印を見せていただきたいのです。
主はこれに答えて、悪い会員の時代は印を求めていますと言われました。
旧白聖書はイスラエルによるこの不信仰の背信を神に対する裏切りであるとそのように言っています。
それは神に対する会員の罪を犯しているとそのように言っているわけであります。
したがってイエス様がここで会員の時代と言っているのは、イエス様の時代の人々が不信仰であり、神様に対して背いているということを示しております。
そしてこの会員の時代は今日も同じく続いていることを思わされます。
日本においても邪悪と不義は行われ、不信仰の人々、イエス様を本当に信じようともしない、また神様のもとに来ようともしない多くの人々がおります。
09:08
人々はイエス・キリストがメシア、すなわち救い主であることの印を求めています。
その印とはイエス様がメシアであることの証拠を意味しています。
メシアの印、救い主の印、それは39節から42節。
イエス様は唯一の印として妖言者ヨナの印のほかには与えられないと、そのようにこのところでおっしゃっています。
ヨナは宣教のため神様からニネベに派遣されました。しかし彼はそれに従いませんでした。
ニネベとは違うタルシュ域の船に乗り込んだのであります。
そしてこの会場で嵐に出会いました。
船は今にも転覆しそうになったので、荷物を捨て人々はクジを引きました。
誰が原因でこの嵐になったのかということを探るために、そのクジはヨナにあたりました。
そこでヨナから訳を聞きますと、神様のおっしゃることに背いていたことがわかりました。
そこでヨナは海に投げ込まれまして、太陽に飲まれ、その腹の中で三日三晩を過ごしました。
その中でヨナは自分の神様に対するその罪を背いて、本当に自分勝手な方向に行こうとしたその罪を認め、悔やわためました。
神様はヨナの悔やわための祈りを聞いて、彼を太陽の腹から吐き出させられました。
それからのヨナは二度目に行って、神様からのメッセージを伝えたのであります。
四十節、ヨナは三日三晩、太陽の腹の中にいましたが、同様に人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
この出来事を踏まえてイエス様は、ご自分が十字架につけられて殺されること、そしてこの墓の中に葬られ、三日目に復活するというそのことを示されました。
救い主の印、メシアの印は十字架と復活によって明らかにされると、そのように言われたのであります。
イエス様は立法学者やパイサーウィッチたちがいかに不信仰であるかを、ヨナの時代の人々と比較して述べています。
四十一節、二度目の人々が裁きの時に、今の時代の人々と共に立って、この人々を罪に定めます。
なぜなら二度目の人々は、ヨナの説教で悔いをはためたからです。しかし見なさい、ここにヨナよりも勝った者がいるのです。
ヨナが太陽の腹から出て二度目に行って人々に神の言葉をたたいた時、人々は本当に心から悔いをはためました。
ヨナの言葉を神の言葉であるとそのように信じ、神のメッセージであるとそのように聞いた二度目の人々は、これは大変だとそのように思って、
待ちをあげて悔いをはため、神様のメッセージに、ヨナのその言葉に従いました。
12:05
つまりこの二度目の人々は、ヨナの言葉を神からの言葉として信じて受け入れたわけであります。
それに対して立法学者やパリサイ人は、このヨナの説教に勝るイエス様の神の御子のその説教を聞いたとしましても、少しも信じようとしませんでした。
それゆえに悔いをはためて信じた二度目の人々が、裁きの場に立って罪に定める時が来るであろうと、そのようにここでイエス様は言っておられます。
あなた方は昔の人たちとは比較にならないほど、本当に素晴らしい良い機会が与えられているのにもかかわらず、
神様に背き不信仰であるため、神を認めることができないでいるからであると、そのようにおっしゃっています。
またソロモンの時代には南の女王がソロモンの知恵を聞くために、わざわざ地の果てからやってまいりました。
ところがソロモンよりも遥かに勝っているイエス様が、神の言葉を語り、ソロモンの知恵以上の知恵を示してメシアとしての奇跡を行っているのに、
立法学者やパイサイ人は心を本当に固くないにして、なかなか信じて受け入れようとはいたしません。
不信仰な人はいつの時代にもいるものであります。昔も今も不信仰な人々は、きっと信じようとしません。
信じないので裁きの場で罪に定められ、永遠の滅びに運命づけられています。
メシア救い主の印は、きっとの十字架と復活です。十字架を信じることによって、罪の許しをどんな人であっても、受けることができるわけです。
そして復活を信ずることによって、死の恐れから解放されることができます。きっとの復活は、永遠の命の保障です。
北海道の札幌市に岡本綾子ちゃんという10歳になる女の子がおりました。この子は白血病にかかっていました。
白血病と宣告されたとき、お母さんは、真っ先に考えたのは、綾子が死ぬことを恐れてほしくない、泣き叫んで死ぬよりは、恐れずに静かに亡くなってほしいということでした。
その時、死の恐怖を取り除けるのは、このキリスト教の信仰以外にないと直感しましたと、そう本当に思われて、このいたとき、幸い看護さんの中にですね、クレシャルの方がおられまして、僕との交流も始まり、この綾子ちゃんは信仰に導かれていきました。
そしてこの綾子ちゃんはイエス様を信じて救われました。死期が近づくにつれて明るくなり、見舞いに訪れた人を逆に慰めや励ましを与え、病床のその友を信仰に導きました。しかしこの2年半の闘病生活にこの終わりを告げ、ついに焦点されました。
15:01
日記の中にお母さんへこのように書いています。綾子ちゃんが病気になったことは良かったんだよね。イエス様を信じることができたものね。だからママも頑張ってください。とそのように書いてあったと言います。
小さいことにも感謝する子でした。何がそうさせたのか分かりませんが、とにかくイエス様と天国のことを純粋に信じていました。死ぬのが怖いとは一言も言いませんでした。とお母さんは語っておられます。
イエス様は神様の印です。それは世長二年目の人々に対して神の言葉であり、ソロモンがシバの女王に対して神の知恵であったのと同じであります。イエス様に会って私たちは神様に、この唯一誠の神、天地万物をお作りになったこの創造者のある神様に出会います。
私たちはイエス様において神と出会ったとき、応答を迫られます。何かしら応答しなければなりません。学者パリサイ人のように冷たい敵意を示すか、民衆のように無関心を示すか、それとも二年目の人たちやシバの女王のように神の警告に、また神の真理に耳を傾け、それを謙遜に受け入れるかどうか。
キリストに対していかに応答するかによって、その結果も当然違ってまいります。救い主であることのしるし、十字架と復活を信じ、神の祝福に預かる、私たちは本当に幸いであります。そしてこの幸いを、なおまだこの祝福に預かっていない、この幸いに預かっていない多くの人々に明かししていかなければならない、その使命が与えられています。
この邪悪な時代に生きる邪悪な人はどうなっていくのでしょうか。イエス様はこの43節のところで例えを持って、かいらの邪悪さを指摘しています。
けがれた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を探しますが見つかりません。そこで出てきた自分の家に帰ろうと言って、帰ってみると家は空いていて、掃除してきちんと片付いていました。そこで出かけて行って、自分よりも悪い他の霊を7つ連れてきて、みんな入り込んでそこに住みつくのです。そうなるとその人の後の状態は始めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまたそういうことになるのです。
私は大変人間が好きであります。神に反抗するために、神様に立てつくために、悪魔はその道具として人間を選びました。そしてこの人間に取り付きました。人間を用いて神に逆らい、自分の働きを全うし、勝利して神の業を破壊しようといたします。悪魔の目的はここにあるわけですね。
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悪魔は自分の悪巧みをするために人間を好みます。自分本位の人間も悪魔の奴隷であります。人は人を好みます。人を求め人を愛します。けれども自分の利益にならないと思ったならば、もうその愛は変わってしまいます。憎しみに変わってしまいます。悪魔に最も可愛がられている人にとっては、愛することは憎むことです。
自分本位が濃厚であります。悪魔の世界に住む人間の愛情はそれを物語っています。しかしイエス・キリストは違います。イエス様は私たち罪人を受け入れ、愛してくださいます。ご自分のその利益を捨てて、神のこの糸高き位を捨てて、罪人の世界にまで下ってくださいました。さらにどん底まで下ってあらゆる恥を身に受け、私たちを救う道を全うしてくださいました。
十字架の道を一筋にすんでくださいました。それは一から十まで、皆私たちのため、私たちの罪が許され、私たちのその罪が清められ、神の愛が心にそがれるようになるために十字架にかかってくださっております。そしてこの永遠の命を与えるために、イエス様は十字架の上で儚いの業を成し遂げてくださいました。これが神の愛、アガペの愛であります。
四十三節に県あたりが人から出て行ってとあります。自分の働き場所から出されると、まあしばらく休み場を求めます。悪霊の休み場は水のないところ、砂漠のような乾ききったところ、潤いのないカサカサしたところ、これがまさに悪霊の本当休み場にふさわしいところです。しかしどこにも適当な休み場が見つからない。それに人が恋しい。悪魔は人間なしには生きられません。
この家はまた元いた家に帰ってきました。住み慣れた家。四十四節を読みますと、そこで出てきた自分の家に帰ろうと言ってとあります。その家は空いていました。空き家です。実に住むに申し分のない家になっていました。空き家というのは大抵、蜘蛛の巣がいっぱいどころかかっていて、またゴミだらけで住み心地が悪くなっているものであります。
ところがこの家はきれいに掃除がしてあります。しかもきちんと片付いていました。悪霊にとってうってつけの家です。すべての準備ができて、いつでもお帰りくださいとそのように待っています。この例えは何を私たちに教えようとしているのでしょうか。それはイスラエルの人々について語られています。
イエス様が悪霊を追い出したのを見た立法家者パイサイ人が、悪霊の頭ベルゼブルによって追い出していると言いました。清い神の一人の救い主イエスキリスト、どうして悪霊の力で悪霊を追い出すようなことをなさるでしょうか。イエス様のなされた出来事を悪霊によってしたのだということは、いかに彼らの信仰が腐れ果てたものであるかということを表しています。
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例えて言えば、一つの悪霊が追い出されて、七つの悪霊が住んでいるような心であって、全く彼らは救いようのないひどい状態であるということを示しております。イスラエルの民は悪霊を追い出されて偶像信仰から清められました。そしてこの誠の神を信ずる民となりました。
しかし、いつの間にか、肝心なこの誠の神様を外に放り出して、ただ外側ばかり自分たちの姿、形ばかりきれいにしようとしております。まさにきれいにしてある家のようであります。信仰は形式化し、神殿の儀式はお祭りのように盛んになっております。見たところは実に盛んで立派なように見えます。けれどもその内容はと言いますと何もありません。
神の子イエス様がキリトとしてお出になったのに、メシアがお出になっているのに、どういう枠か、そのイエス様を反撃しようとしています。本来ならば真っ先に迎えるはずであるのに、神の家であるべき彼らは全く七つの悪霊、悪魔の伝道となりきっています。しかも表面は形式的な信仰で片付けられています。掃除はよくなされています。しかし神はそこに住んではおられない。
神の見たままそのようなところにはお住みになりません。七つの悪霊につかれた状態、これを私たちに当てはめてみるとどうなるでしょうか。罪を本当に悔い温めて、けれどもキリトを救い主として心に本当に迎えていないとするならば、それはこの状態と同じです。
罪を悔い温めて心をきれいにしたら、心の家に救い主イエス様を迎えて住んでいただく、それが救いであります。私たちが救われるのは見たまの働きによります。見たまによって始めた救いは見たまによって導かれ、見たまになお満たされて完成へと至っていかなければなりません。
見たまの働きを無視して生まれながらの肉の力で信仰生活をしていこうとしますと、悪魔が喜んで近づいてまいります。ですからパウロはガルテ・アゴショ19節からのところで肉の働きについて述べております。肉の働きを行う者は神の国を継ぐことがないとそのように言われています。
肉の働きは悪魔が喜ぶ者であります。悪魔に好きを与えてしまいます。私たちはサタンにつけ込まれる余地をなくさなければなりません。
クリスチャンは自分の罪を悔やため、キリトを救いの人を信じて、このイエス様を心の中に迎えています。そして救われています。キリトの十字架のあがないによって信じている者は義とされ、そして罪の許しを与えられて、新しく精霊によって生まれ変わってですね、神の子供とされ、永遠の命が与えられています。
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けれども救われているが、自我があって精霊の全ての内需、精霊の満たしに預かっていないと、その自我の冷めたぎりによって心の中に戦いが起こり、勝利がありません。そこでキリトの十字架の地上に寄りたのみ、心を清め、精霊の満たしを切に祈り求めます。そしていよいよ神様に近づいていきます。
神様は信じて求めるものに、必ずこの精霊の内需、精霊の満たしを与えてくださいます。
ルカ十一章十三節に、天の父が求める人たちに、どうして精霊を下さらないことがありましょう、とそのように神様は言っておられます。
精霊に満たされたら、いよいよ神様に我が家を明け渡し、絶えず神様に住んでいただく。そして自分というその家は全部神様にお任せする。神様の御支配のもとに一から十まで絶えず置かれていく、そのような生活を送っていきます。
そうするとその家の主人はまさしくキリスト御自身であります。ミタマ御自身です。私はただ全てをこの主人に従っていけばよい。主人に一切を任せ働いていただく。その時この家はまさに悪霊が追い出されてキリストの家、神の宮となっていきます。
そうであったなら悪霊がまた帰ってこようが、絶対に今度は入ることができないし、寄りつくこともできません。けれども私たちがミタマに一切を一任しないで、自分の力で自分の勢いでこの信仰生活を送ろうとすると、悪霊が住み着くのに手頃な家となってしまう。そういうこともあり得るものであります。
せっかく救いを受けたのでありますから、私たちは自らをこのパイサー人のように悪霊の住処にしてはなりません。私そのものにいよいよ死んで、ただミタマに全部明け渡して、精霊に絶えず満たされていくそのことを祈り求め、その恵みに預かって生きていくことが大事であります。
そのために自我と余を十字架につけようと、側と親人お互いの中でもそのことが言われています。ミタマに満たされている人はどこまでも謙遜であります。低い心です。それはイエス様なしには一歩もやっていくことができない。そういう本質的な弱さをいつも身に帯びているからであります。
そして自らの弱さ、無力さを意識すると、そのところにミタマがなお住んでくださるその家があります。立法学者やパイサー人は精霊の技を穢れた霊による技であるといって、精霊に逆らうその罪を犯しました。それは決して許されることもできないこの罪であります。それは心の邪悪なものはますます邪悪になっていくことを教えています。
私たちはイエス様を信じ、精霊の見出しを求め、見出しを本当に受けて、サタンに突き込まれる余地を全くなくす、そのようなお互いとならせていただきたいと思います。
27:00
人は誰であっても二つのうちどちらかです。ミタマの本当に住む家であるか。そうでなければ悪霊の住む家となっていないか。空き家であるということはできません。
第二ペテロの二章二十節に、主であり救い主であるイエス・キリトを知ることによって世の穢れから逃れ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの我々の状態は初めの状態よりももっと悪いものとなりますと書いてあります。
神様の御前に本当に始めていただいたこの救いをですね、完成に至るまでミタマによってこの導かれて、この教会生活を送り、また祈りと御言葉の生活を送って、いよいよ主に喜ばれ、そして本当に主の御用のために役立つ私たち一人一人と名をならせていただきたいと思います。
それではお祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、今日もイエス様が救い主の印である十字架と復活を示してくださりありがとうございます。
私たちのためにイエス様は十字架で尊い命をお捨てになり、また尊い血潮を流してくださりました。また復活を通して本当に主の恐れから全く解放してくださっています。
このイエス様をいつも私たちは心に覚え、神様御自身の御前にあってどうぞなお信仰生活に励もうとならせてください。
そしてこの世にあっては本当にいろいろと悪霊が働いております。けれどもその悪霊に本当に主よ心を任せることなく、本当にいつも主よ御言葉の盾を持ってこの心を守り、
大主主よ御自身、イエス様御自身がこの積んでおられる心の中でキリストを主と崇めようとありますけれども、どうぞ主よそのことをいつも覚えつつ、
イエス様の本当に十字架に自らをつけ、そして今は本当に生きているのは私ではなくキリストであると、そのように本当に信仰を持って、
いよいよ主よ御自身を告白し、またアンス様に御使いし従うところのものとならせてくださいますように、心よりお祈りをいたします。
どうぞお一人お一人の家に主の祝福と恵みをお与えください。感謝しイエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。