1. 名谷教会
  2. 2011/01/16:聖日礼拝(旧音源)
2011-01-16 27:34

2011/01/16:聖日礼拝(旧音源)

2011/01/16 聖日礼拝(旧音源)


00:01
聖書を拝読いたします。聖書の箇所は、
ローマ人への手紙5章の1節から11節まで。
ローマ人への手紙5章の1節から11節まで。
聖書の後ろの方の新約聖書、296ページでございます。
296ページでございます。
ローマ人への手紙5章1節。
ですから、信仰によって義と認められた私たちは、
私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。
また、キリストによって、今私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、
神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
そればかりではなく、観覧さえも喜んでいます。
それは観覧が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、
練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた精霊によって、
神の愛が私たちの心に注がれているからです。
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められたときに、
不経験な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。
情け深い人のためには進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、
彼によって神の怒りから救われるのはなおさらのことです。
もし敵であった私たちが、
巫女の死によって神と和解させられたのなら、
和解させられた私たちが、
彼の命によって救いに預かるのはなおさらのことです。
そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった
私たちの主イエス・キリストによって、
私たちは神を大いに喜んでいるのです。
聖火体に賛美していただきます。
新聖火232番。
その後、たかとり牧師より主イエスを信じる恵みと題して
03:01
メッセージをしていただきます。
聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
06:00
新聖火体に賛美していただきます。
新聖火体に賛美していただきます。
今、読んでいただきましたこのローマ人の手紙、
このところに、シュエスを信じる恵みについて書かれてあります。
私たちは、目に見えるものを信じて生活をしております。
信じるということは、信用する、信頼する、
すなわち、自らをその信じたものに任せることであります。
契約を交わす時も相手を信じて、信用して大切な判を押します。
ものを買う場合も、目で見て新しいものや日付の古くないものであることを確認して信じて買います。
こうして信用する、信頼するということが基本的なこととして行われることによって、
私たちの生活は営まれております。
そして私たちの生活のルーツを探っていくと、神様と私たちというその関係にたどり着くことができます。
神様はこの宇宙をお作りになり、太陽を作り、月、星、そして私たちの住む地球を作られた神様ですが、
この神は私たちをも作ってくださって、私たちが幸せになることを願っておられます。
それは私たちがこの神御自身を目には見えませんが、
信じて神様との正しい関係に生きるものとなることを神様は求めていらっしゃるわけですね。
ところが人間は幕東の神に対して背き、罪を犯してしまいました。
神様から離れたところで生活するようになり、神様に対して罪を犯し続けています。
しかし神は私たち人間が滅びてしまうこともないようにと、一人のイエス様をこのように救わせてくださりまして、十字架にかけ救いを与えてくださりました。
全てが終わった、完了したとイエス様は十字架の上で宣言されましたが、
その救いの御業が完成したことをイエス様は宣言して、それから約2010年というその年月が経っておりますけれども、
永遠の精霊によってこのことが本当に現代の私たちにも当てはまる、また当てはめてくださるというその神様の働きが今もなされています。
ですから私たちは誰であっても、どんな人であっても、神の御子イエス様を信じるときに、全ての罪汚れは許されます。
そして信じるものを神様は義と認めてくださいます。
罪あるものに罪のないものとしての立場、身分を与えてくださる。
09:04
義とされるということはそうした恵みであります。
本当に罪ある私たちが罪のないものとされていく、神の子供としていただくことができる、そして本当に素晴らしい神の祝福に預けられることができるようにしてくださる。
これは本当に感謝のことであります。
ある年の中高生バイブルキャンプで、中高生の5人の者がフリータイムのときに、10時間だと言いまして了解を得ないでこのプールに入り泳ぎました。
これは規則違反で施設の人からも叱られ、キャンプ委員長の牧師も彼らを叱りました。
カイロはその場で謝りましたが、そのうちの1人は帰っていきました。
あとの4人は集会の前に、他のみんなの前でいけないことをしたと言って謝り、心から悔やみました。
また神様の前にお詫びいたしました。
そしてこのみんながカイロを許してあげて、キャンプは何事もなかったように続けられ終わりました。
1人帰っていった男の子には全員で一言色々と書きまして、なお神様のこの恵みにつながり、また教会に来るように、また神様の愛はあなたを待っていると書き送って、
彼にも悔やみがなされるようにお祈りを捧げました。
自分の過ち、罪を正直に告白し悔やめるときに、神様はその罪を許してくださいます。
そして貴人を信じる者が義とされるという幸いな立場、恵みを受けることができます。
そしてこの義とされた者にさらに神は恵みを増し加えてくださいます。
主を信じる恵み、それは第一に平和であります。
神様を信じる者に与えられる義と認められる恵みは、さらに私たちに神様との平和を与えてくださる。
神様との平和とは、私たちが救いの祝福が満ちている中に置かれるようになったということを示しています。
それは私たちが見て変わったからというのではなく、神様がイエス様のように私たちを本当にありのままで、私たちのありのままを本当に受け入れてくださって、
そして神の怒りからも本当に免れることができるように、本当にそのようにしてくださる神様の本当に大きなあがりみが私たちにそどがれています。
イエス様が神と私たちの間を取りもってくださるので、平和がそのところに与えられます。
罪人が清い神の前に出ることはとてもできません。
けれども清い神の御子イエス様が私たちの御代わりとなって十字架にかかり、贖い、すなわちこの罪からの救い、永遠の滅びからの救いを成し遂げてくださりました。
12:09
ですから今私たちは、神様を罪を裁く怖い厳しい本当に神様だとそのように思って恐れる必要はありません。
神は私たちを御子イエス様の家に私たちを神の子供として受け入れてくださいます。
ここに神様との平和というその恵みが与えられているわけですね。
神様との平和は神との平和和解するということだけではなく、自分との和解、自分との平和を知ることができるようになることをなお私たちに経験させてくださいます。
自分と和解する、自分を受け入れるようになること、本当に自分自身をありのままの自分を受け入れる、本当にそのようにさせてくださいます。
私たちは実にしばしば自分との平和を封印するようなその罪を犯します。
自分を受け入れることができない。そうすると当然神様に対しても不敬意になり不信仰の罪を犯してしまいます。
そんな私たちを神様はイエス様の十字架、主の贖い神業によって信じる私たちを受け入れてくださいます。
そしてこの神様との平和を、そして自分との平和を与えてくださいます。
次に神の栄光の望みを与えてくださって、その栄光を本当に喜ぶこともできるように私たちをなお導いてくださいます。
イエス様を信じる者には神の栄光の望みが与えられます。
まだ完全な神の栄光は表されていません。
それは終末の時、主の御祭輪によって完成されるものであります。
御祭輪とは本当にイエス様が再びこのようにおいでになる。
今は天井にあって、神様の御前にあって、私たちのために問いなしの祈りを大祭祀としてイエス様はその御用をなさっておられます。
けれども、この終末を迎えた時にイエス様は再びこのようにおいでになる御祭輪くださって、その恵みをなお表してくださいます。
今はまだそれを希望として持ちに留まっています。
イエス様を今信じる者は、やがてイエス様が祭輪してくださる時に、栄光のその姿に変えられます。
このことは信じる者にとって大きな希望であります。
コリント2の3章18節に、栄光から栄光へ、主と同じ姿に変えられるというその言葉があります。
この希望を喜びながらイエス様を待ち望んでいくのが、クリスチャン障害、信仰障害、また教会生活の、この教会の本当に礼拝を守ってですね、なおこの障害を送っていく、そしてこの主を待ち望んでいく、それがクリスチャンであります。
荒垣勤という全毛の方がおられます。この方は赤ちゃんの時に女産婦さんが強い目薬をさせたのが原因となって全毛になられました。
15:08
父親はアメリカ人で戦後アメリカにさっさと帰ってしまい、母親は家を出てしまいました。そのためお母さんに育てられました。
そしてバイブルキャンプに行きました時に、キリストを信ずる決心をされたのであります。
それまで恨み、憎しみ、殺意を持ってこの良心のことをずっと思ってこられたそうですが、そんな罪深い自分のためにキリストが身代わりとなって死んでくださった。
そのことを本当に示され、罪を本当に悔やむためにキリストを信じました。
それから帰られて愛する主のために何かをしたい、声のその賜物を与えられていましたので、主を賛美する報酬をするようになられました。
そして今も主のために輝いています。
後になって、この女産婦さんの声の素晴らしさは、メキシコ系の豊かな清涼は父親譲りであることがわかりました。
そのことを感謝するようになりました。
神様のしてくださることはすべてが恵みに変えられるんだなということを明かしされています。
主が御祭りに下さるとき、体に判定のある方もない方もみな栄光の姿に変えられます。
クリスチャンはこの希望が与えられていることを本当に心から喜ぶことができるわけです。
次に3節4節を見ますと、そればかりではなく、観南さえも喜んでいます。
それは観南が忍耐を生み出し、忍耐が練られた神聖を生み出し、練られた神聖が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
観南は呟きや嘆きの対象となるのが普通です。
けれどもクリスチャンは観南をも喜ぶことができると、このところでパウロは書いています。
どうしてでしょう。それは神様から与えられたものであるからです。
それとともに観南を得て神の国に入ることになっているからであります。
人の働き重要性を22節に神の国に入るには、多くの苦しみを得なければならないとそのように記載されています。
それは十字架の苦しみを得て栄光に入られたイエス様の歩まれたその道に他なりません。
イエス様を信じ主に従う私たちがこの終末の時にキリトにある観南に会うのは当然のこととそのように聖者は語っています。
それはまた私たちがキリトにあるということの確かな証拠であるので私たちはこれを喜びます。
観南は忍耐を生み出し忍耐は本当に身をしとめてじっと我慢しながら悪や苦しみが過ぎ去るのを待つというそういう消極的な姿勢よりは
悪に対しては自らを本当に言っていくところの勇気であります。
18:01
立つべきところに揺るぎなく立つことを意味します。
忍耐は練られた品性を生み出しとは言いますが苦しみの中でキリトにある自らをイエス様を仰いで忍耐しておりますと
それこそ本望の信仰本望のクリスチャンであることを表す力を得ていきます。
その力は神様から来るもので練られた品性がなお作られます。
そしてこの練られた品性は希望を生み出すことを知っています。
クリスチャンの生涯はこの希望で貫かれているわけですね。
そしてこの後説にそして希望は失望に終わることがない。
キリトを信じて与えられる希望は確かなものです。
希望が実現する時になって希望となるものはなかったというようなことは決してありません。
希望は間違いなく実現を見ることとなります。
神様の御言葉には間違いがないからであります。
なぜなら私たちに与えられた精霊によって神の愛が私たちの心にそがれているからです。
神の愛は神に背を向けている私たちを救い、死から命へと移すために
巫女イエス様を使わし十字架の上の斜めの備え物として死を遂げさせるほどに実に深く大きいものであります。
そそがれているというのは神の愛がそれほどに圧倒的な勢いで私たちに押し寄せて満ち溢れていることであります。
精霊の力によって神の愛が私たちの心に注ぎ込まれる時に
信仰によってイエス様の再臨を待ち望むその生活が始まり
その中を希望をもって歩み続けていくことができるようになります。
私たちの信仰は単なる思い込みとかまた信心とかいったそういうものではなく
精霊、これは神様の清い霊の働きですけれども
この精霊の働きを受けて神の御業がなされることにより
与えられるもので精霊が信じるものと常に共にいて下さり
こうした私たちの信仰は精霊によって全うされていきます。
精霊によって新しく生まれ精霊によって信仰の完成へと尚導かれていくことができるわけです。
そしてこの六説から十説のところを生み出す時に
弱かった時また罪人であった時敵であった時
キリストは死んでくださって私たちに対する愛を表してくださったということが示されています。
聖書の言う罪人とは神を無視してわがまま勝手に生きていくことであります。
誠の神様に背を向け背いて自分勝手な生き方をすること
そんな神に対して罪人であった私たちのために
天の栄光を捨てて癒やしい肉体をとってきてくださった
それがイエス様です。
そしてこのイエス様は十字架について神の愛を表してくださいました。
罪のために無力とされ神に対して何一つ善を成し得ない時に
21:01
また神に対して不敬犬な状態にある時に
人の十字架系が神の身胸によって起こりました。
人間がその歴史の中で最善また最高の状態にあった時に
神の愛の現れとして十字架があったのではなかったのです。
事実は全くその逆でありました。
正しい人情け深い人
この正しい人とは義務を果たし正義を行う人です。
情け深い人とは良きサマリア人のように
人人愛に富んでいる人と言えるでしょう。
そしてこの人は義とか善とかいう何らかの価値が見出される時
自分の持っているものを人にもあげたいとそのように考えます。
最高に価値あることのためには命でも捧げようといたします。
しかし神の愛は全く逆です。
神は私たちが罪人で何の価値もないものであるとしつつも
御子を本当に十字架のその死に渡されました。
この比較によって神の愛が人間のその世界で見られるものとは
全く質の違うものであることが明らかにされました。
私たちのために、私たちに代わって
旧約時代の動物のその犠牲のように
キリストは私たちの身代わりとして死なれたのであります。
キリストが私たちに代わって進んで死んでくださったというそのところに
神の愛がまざまざと表されております。
ヨアネサン賞十六節、有名な言葉ですけれども
神は実にその独り子を綿になったほどに
要愛された、それは御子を信じる者が
独りとして滅びることなく永遠の命を持つためである。
この神の愛を知るために私たちは
自分の罪の状態をはっきりと認めなければなりません。
ある牧師は幼い時両親が離婚され
父親の両親と暮らすようになりました。
両親の愛情を知らないで育ちました。
小学校5年の時に実の母に会い失望しました。
それから大学へ通った時に大学2年の時
実母が既得になり翌日亡くなられました。
大学の友にクリスチャンの方がおりました。
その方を通してキリトの福音を聞きました。
二十歳の時自分のことを理解してくれ、
愛してくれて捨てない人が欲しいとそのように思いました。
その愛の主にイエス様にそのクリスチャンの友達を通して
この知ることが、またこのイエス様に出会うことができるようになったのです。
それから教会生活を送り、洗礼を受ける前に
罪の告白をし、悔いは止めの祈りを捧げ、
キリトの十字架のその姿を本当に心から
その姿を見て、この私のために、この自分のために
イエス様がこんなにも苦しまれ、また尊い血を流し
命を捨ててくださったんだというそのことを本当に信じ
またイエス様の復活を信じました。
24:01
そしてこの自分の罪が全部許されたというその経験をしたのであります。
新しい喜びの涙が流れました。
心が本当に作り変えられるその経験を
この舌とそのように明かしをされています。
私たちはイエス様を信じて罪許され、
祈祷され、そして祈祷された私たちは
神様との平和を与えられます。
そして神の御怒りからなお免れて
神様の本当に素晴らしい救いのその中に
神様の一方的な御愛のその中に
私たちはなお本当に導かれて
幸いな本当に生涯を送っていくことが許されるのであります。
全ての人には最後の審判が定められています。
その時神の怒りが下さります。
その最後の審判についてすらクリスチャンは
本当に信じる者は希望を表明することができます。
現在私たちに与えられている救いは
自らの良い行いにではなく
キリトの十字架に基づいています。
もし私たちが自分の弱さや罪深さを見て
最後の審判に恐れを抱くならば
キリトの死を全く意味のないものにしてしまいます。
私たちは神の裁きの前に立った時
キリトの死と命、すなわち十字架の死と永遠の命への
この復活を信じているならば
何も恐れる必要はありません。
神との和解はキリトの死によってもたらされ
そしてその復活は十字架の恵みに預かった私たちに
最後的な救いをやさせることを確証します。
和解の恵みに預かったものは
救いすなわち救いの完成へと確実に到達することができます。
それより神を喜ぶ
大いに神様を誇ることができるのであります。
死を信じる恵み、それは信じて受け入れるものに
与えられる恵みであります。
そしてこの希望は失望に終わることがありません。
確かな救いと神の大きな恵み
祝福を信じるものにだけ神様は与えてくださいます。
いよいよこの死を信じて
死に従いしていきたいとそのように思います。
それではお祈りをさげます。
愛する天の地のある神様
イエス様をただ信じることによって
私たちに神様との和解を与え
偽道してくださり
神様との平和を与えてください。
また観音をも喜び、また希望が与えられ
神様、本当に神の愛が
心に精霊によって注がれ
いよいよ神様のこの
栄光から栄光へとその姿に変えられていくところの
恵みが信じるものに
与えられていますことをありがとうございます。
どうぞ神様がなお望んでくださって
いよいよ私たちが
27:02
イエス様の身姿に似ていくことができるように
助け導いてください。
また今日この礼拝に
お見えになられておられます
神様と東島へのご家族の皆様
お一人お一人の家にもこの祝福が豊かに
注がれますように精霊様が働いてください。
この時を感謝しますイエス様のお名前によって
お祈りをいたします。アーミン
27:34

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