1. 名谷教会 podcast
  2. 2011/03/06:聖日礼拝(旧音源)
2011-03-06 31:50

2011/03/06:聖日礼拝(旧音源)

2011/03/06 聖日礼拝(旧音源)


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ご着席ください。 本日の聖書をお読みいたします。
本日の聖書箇所は、マタイの福音書、 新約聖書マタイの福音書13章の1節から23節まででございます。
新約聖書の24ページをお開きください。
それではお読みいたします。 新約聖書24ページ、マタイの福音書13章1節から23節まで。
その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
すると、大勢の群衆が身元に集まってきたので、 イエスは船に移って腰を下ろされた。
それで群衆は皆浜に立っていた。
イエスは多くのことを彼らにたとえで話して聞かされた。
種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 蒔いている時道端に落ちた種があった。
すると鳥が来て食べてしまった。
また別の種が土の薄い岩地に落ちた。
土が深くなかったのですぐに芽を出した。
しかし日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
また別の種は茨の中に落ちたが、茨が伸びて塞いでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
耳のあるものは聞きなさい。
すると弟子たちが近寄ってきてイエスに言った。
なぜ彼らにたとえでお話になったのですか?
イエスは答えて言われた。
あなた方には天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
というのは、持っているものはさらに与えられて豊かになり、持たないものは持っているものまでも取り上げられてしまうからです。
私が彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また悟ることもしないからです。
こうしてイザヤの告げた予言が彼らの上に実現したのです。
あなた方は確かに聞きはするが決して悟らない。
確かに見てはいるが決してわからない。
この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。
それは彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、私に癒されることのないためである。
03:01
しかし、あなた方の目は見ているから幸いです。
また、あなた方の耳は聞いているから幸いです。
誠にあなた方に告げます。
多くの預言者や偽人たちがあなた方の見ているものを見たいと切に願ったのに見られず、
あなた方の聞いていることを聞きたいと切に願ったのに聞けなかったのです。
ですから、種巻きの例えを聞きなさい。
見国の言葉を聞いても悟らないと、悪いものが来て、その人の心に巻かれたものを奪っていきます。
道端に巻かれるとは、このような人のことです。
また、岩地に巻かれるとは、見言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れる人のことです。
しかし、自分の家に根がないため、しばらくの間そうするだけで、見言葉のために困難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまいます。
また、茨の中に巻かれるとは、見言葉を聞くがこの世の心遣いと富の惑わしとが、見言葉を塞ぐため身を結ばない人のことです。
ところが、良い地に巻かれるとは、見言葉を聞いてそれを悟る人のことで、その人は本当に身を結び、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍の身を結びます。
以上でございます。
では、成果体に賛美をしていただきましょう。
成果体の賛美、新成果271番に続きまして、高取牧師より種巻のたとえと題してメッセージをしていただきます。
イビサケトン アレルヤトン
にめぐみ深き種に栄えあれ
今も後も限りなく
生かれからかわよい座諸共に
イビサケトン アレルヤトン
世の夢幻し楽しみながら
もはや我を動かさず
06:04
栄えの憎みをしかえる我は
イビサケトン アレルヤトン
にめぐみ深き種に栄えあれ
今も後も限りなく
生かれからかわよい座諸共に
イビサケトン アレルヤトン
日は減り輝きに空は晴れて
悲しみは盛り上がち
喜びの歌にあふれる我は
イビサケトン アレルヤトン
にめぐみ深き種に栄えあれ
今も後も限りなく
生かれからかわよい座諸共に
イビサケトン アレルヤトン
夜を咲いて日々の空へ羽ばれる
スパイの角に立つ時
見つかりの歌に合わせて叫ば
情けの形アレルヤトン
にめぐみ深き種に栄えあれ
今も後も限りなく
生かれからかわよい座諸共に
イビサケトン アレルヤトン
おはようございます
イエス様はよくたとえ話をなさいました
この種まきのたとえはイエス様が話しなさった
多くのたとえの中でも特によく知られているたとえであると思います
イエス様はガイラヤコのほとりでこのたとえ話をされました
09:02
上辺に座っておられたイエス様そこへ大勢の人々が身元に集まってきました
もうイエス様が立っておられるところがなくなるほどの人々であります
そこでイエス様は船に乗って船に移って腰を下ろされた
群衆はみな浜に立ってイエス様のそのお話を聞いたのであります
場所はガイラヤの湖畔大自然の中です
イエス様が船の中から浜にもながっている大群衆に向かって話されるその人々の背後には
ガイラヤコを取り囲んでいる山々がよく見えたのでありましょう
ごつごつした岩山大きな広い畑緑の木々そして空の鳥
こうしたこの大自然の中でイエス様はあらゆる目に見えるものを取り上げて
自由に神様について語られました
イエス様は本当に素晴らしい例え話の語り手であられました
神の国天の御国は私たちにとって見ることも触ることもできません
しかしイエス様は全てを御存じであります
イエス様は神の御元からこの世においでくださったお方です
ですからイエス様は私たちがこの目で見たり触ったりすることのできるものを用いて
神の国についてお話しくださいます
例え話は天国の意味神の国の意味を説明するものです
例え話を通して私たちは神の国について名を教えていただくことができます
そして神の事実神の真理を見出させていただくことができます
船の中に座っておられたイエス様の上には畑で種をまいている人が見えていたことでしょう
種まきが種をまきに行きました そしてその種は4種類の土地に落ちました
まず最初の土地は道端の固い土地であります
多くの人に踏み固められています
種は土の中に根を下ろさなくてはなりませんがそれができません
道の上に落ちたままです
次に土の薄い土地岩地に落ちました
薄い土の下には岩があります
その岩の上に薄く土がありました
ここに落ちた種は太陽にぽかぽかと温められてすぐに芽を出しました
そしてその小さな芽は成長し始めたのです
けれども下には硬い岩があるために根を伸ばすことができません
強い日差しが土を乾かすと小さな芽はひし折れてついに枯れてしまいました
12:02
それから3番目の種は茨の中に落ちました 雑草が生い茂る土地です
その土地は非常に濃いと言います柔らかです
根も下ろすことができます
けれども強い茨が同時に生えてきます
茨には尖った棘があります
茨は何の役にも立たないものでありますが他の良い種に比べるとその成長は早いです
結局茨に巻き込まれてしまって茨に負け実を結ぶに至ることができません
3番目の土地はよく耕された本格的な畑です 柔らかい良い畑です
石もなければ下に岩もない茨も生えていない 種は土の中に深く根を下ろし
そしてよく育ってついに豊かな実を結びました
これらの話は誰が聞いても分かるお話であります 分からないことは一つもありません
イエス様のたとえは全てその表面に現れたところは 誰が聞いてもよく分かることです
この分かりきったことただあるがままに見られるその出来事の奥に
神の国の深い真理をイエス様は語っておられます
旧説に耳のある者は聞きなさいとそのようにおっしゃっています
このたとえが何を意味しているかは自分で考えて悟りなさいと イエス様はおっしゃっているわけです
普通の場合たとえは分かりにくいことを 分かりやすくするために用いられます
しかしここでイエス様は神の国の奥には 敵たちには明らかにすることが許されているけれども
群衆にはそれが許されていない だからたとえで語るのだとおっしゃっています
イエス様のこのたとえは理解力のある人には 神の国の奥にを示すものとなりますけれども
理解力のない者には神の国の奥にを隠して 分からなくするその働きがあることを教えています
ですから耳のある者は聞きなさいと言われて 聞く者の理解力に任せておられます
日本の伝統的な芸術や職人がたぎのあらゆる分野にも このような奥にというものがあります
師匠のしていることを見てそれを盗むかのようにして 自分のものとしていく
このような方法で奥にを得得していきます このようにして光学心を持って積極的に学ぼうとする人は
やる気のない人よりはるかに早く習得することができて 上達していきます
学びとは師匠に真似ることであると思うんですね 神の国の奥にも同じことが言います
奥にを知ろうとして積極的に自分から求めていく人 理解しようとして努力している人には
ますます多くのことが示されていきます しかしそれに反してやる気が全くなく
15:03
無関心なもの 理解しようというその姿勢のない人は その奥にを知ることができないばかりか
神の国はますますその人からこの遠い存在が 遠ざかってしまうのであります
順一節にというのは持っているものはさらに与えられて 豊かになり持たないものは持っているものまでも
取り上げられてしまうからですとイエス様が言っておられます イエス様が語られたたとえを聞いて
なんだわかりきったことを話しているだけではないかと 言われる人もいるかもしれません
そう思われたらただそれだけしかありえません けれども心して聞く人には
そこに他には得られない素晴らしいその宝を掘り当てることができます
こんなことかそんな素晴らしいことならわかっていると言って去っていく人と
なお残ってこれは一体どういうことなんだろうかとさらに求めてくる人には
イエス様は奥にそのたとえの奥にあるその意味を教えてくださいます
イエス様が教えているように堅くなな心でいるならば14節15節にありますように
これはイザヤ書のこの予言の言葉でありますが あなた方は確かに聞きはするが決して悟らない
確かに見てはいるが決してわからない この民の心は鈍くなりその耳は遠く目はつぶっているからである
それはかいらがその目で見その耳で聞きその心で悟って立ち返り私に癒されることのないためである
このことがその通りのこととなってしまうとそのようにイエス様は言っておられます
イザヤは神から示された言葉を持って民のところへ行きました そのときに次のような現象が起きたのです
全ての人が神の言葉を受け入れない 神の言葉によって見えないものはますます見えなくなっていく
聞こえないものはなお聞こえなくなっていく 悟らないものは心は鈍くなり立ち返って癒されることがない
心を堅くならないものはますますその堅くなさをあらわしていく
神様を信じないキリストを信じないものはますます露骨に信じないことをあらわしていきます
神の国が語られるところにはまずこのようなことが起きてくるとそのようにイエス様は言っておられます
確かに本当にその通りであると思います 神の御言葉に触れ始めるとまず自分自身が
いかに神の御言葉神の御言葉を受け入れるのか
神の国がわからないものであるかまたどんなに神の国を信じられないものであるか
そしてどんなに堅い心のものであるかということが表されてきます
そこで多くの人は興味を失いあるいは躓いて去っていってしまいます
しかしそのわからない中でこれは語られているその言葉がつまらないのではなくて
自分の方に問題があるのだと悟った人は神の御言葉になお聞いていこうといたします
そしてこのイエス様についてきます
18:00
なお分かりたいとそのように願って求めてきます
求めをそうすれば与えられるであろうとイエス様が語られた通りであります
その約束がその人になされていきます
そこから神を信ずる世界への第一歩を踏み込むスタートが始まります
そしてこの次にはその深い意味が理解できるようになってきます
人の力で無理にでも信じさせようとしましても
そのようにどんなに力を尽くしてもですね
なかなか信じさせることはなかなかできません
神の御言葉はそれ自体に力があります
御霊は今も働いておられます
ですから語るべき御言葉を語ったなら
あとは本当に神様にこの委ねてお任せする
それより他にありません
それにしても心を固くなりして心を閉ざして信じようとしない人は
神様が本当に悔いをはためて救いに預かるチャンスを与えられません
十五節
この民の心は鈍くなりその耳は遠く目はつぶっているからであると
そのようにこの伊沢が言っている通りです
それは彼らがその目で見その耳で聞きその心で悟って立ち返り
私に癒されることのないためである
何と言っても幸いな人は見える目を持つ聞こえる耳を持っている人です
主の弟子たちの目はイエス様が見えていました
イエス様の御声を聞く耳心の耳霊の耳が開かれていたのです
だから幸いですとイエス様はここで語っておられます
ルカ8章の十四節を見ますとこのたとえの意味はこうです
種は神の言葉ですとそのように書かれています
神の国の福音それが種です
種は種自ら生えていく力根を下ろす力を持っています
そしてこの実を実らせる力があります
神の言葉の種私たち人間の心の中に受け取られていくならば
種と同じように神の言葉自体が私たちの心の中に働いて
新しい神にある出来事が起こってきます
神様の言葉には命があります
そしてそれぞれの土地は神の言葉を聞いた人々の心の状態を表しています
第一は道端ですね
道端に例えられているその人は
御国の言葉を聞いても悟らない人々のことであります
神の御言葉を受け入れようとしない固い心
御言葉を聞いても何の注意も払わない
このように言っているかもしれません
そんなことで私は私を困らせないでください
もう時間が無駄ですよ
道端の心の人は福音を最初から受け付けようとはしません
このような人は心に偏見を持っています
そうでなければ優仏主義や無神論といった先入観があります
自分の考え思想によって凝り固まっています
そのため既に持っているその考えを乱されるのをとても嫌います
また何かのことで失望するような目にあって
21:01
心が荒んでいる人であるかもしれません
このような人々は道端の心の人
既に出来上がっている既にある自分の知識経験を通しての概念で御言葉を聞きます
ですからその真意を理解することができません
自分の既成概念を基準として物事を判断していくためであります
受けられることは受けるけれども受けられないことは受けない
全てはこの跳ね返してしまう
このような心では御言葉を聞いたとしましても聞き流してしまいます
聞いていても聞いていないかのように思われる
御言葉の種が心に巻かれているのにそれを受けるようとしないので
サタンが来てその種を奪って去っていきます
多くの年を経た人ほど道端の心の人が多いことであるでしょう
伝道者の書純書1節にあなたの若い日にあなたの創造者を覚えよと書かれてあります
既成概念が固まりきらない若い時ほど神の御言葉を受け入れやすいものです
ですから若い日に神の御言葉を聞き
作りの品ある神を信ずるように創造者を覚えるようにと
御言葉は私たち全ての人に進めております
それでは道端の心の人は救われる見込みが全くないのかというとそうではありません
難しい言葉は確かであるかもしれませんけれども
どんなに踏み固められた心でありましても
神の御言葉は働いてこの心を砕き救われるその神の時を与えてくださいます
神の御霊が働いて御言葉が望まれる時
この堅い心の人の既成概念を砕かれて救いを与えられます
人生にはいろいろな試練があります
いろいろなその出来事を通して堅い心の人も砕かれ
御言葉に向かわれるその時を持つように導かれます
ですから年によらないのですけれども
しかし少しでも若い時に神を信じ人の救いに預かることは
いかに幸いであるかということは言うまでもありません
毎年夏になりますとバイブルキャンプが行われます
中高生や青年たちが祈祷の福音を聞いて
祈祷を受け入れ罪を告白し祈祷を信じますと告白します
証会の時涙の証を聞く時こちらまで感動して
共に涙を流すこともあります
私も二十歳の時初めて教会に導かれて神様の愛を素直に信じて
祈祷を心に受け入れ求道して三ヶ月後に洗礼を受け
クリスチャンにならせていただきました
第二の土地はイワジです
イワジに例えられる人は福音を信じても困難や迫害に出会うと
すぐに信仰を捨ててしまう人のことであります
御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるとありますように
非常に感じやすい方です
それは別に悪いことではありませんが
ただその感情ばかりが先立って感情で動いてしまう
24:02
しかし根がない浅い実に分厚らだけの信仰
そのためしばらくは続きますけれども
御言葉のために困難や迫害が起きてくるとすぐにつまずいてしまいます
そして全くも元も子もないような状態になってしまう
信仰生活は感情に左右されていますと
なかなかその信仰生活を送ることができます
教会生活礼拝を守ることにおいても
気分に任せていますと
規律ある正しい教会出席をすることができなくなります
人間だからどんな人でも
聖地礼拝に出席しなければならないのは分かっていましても
その日によって気の進まないことも
時にはあるかもしれないと思うんですね
気分や感情は毎日いろいろな事情で変わります
クリスチャンはキリストにある自由が与えられているので
その時の気分によって礼拝に出席することも
休むことも気分次第でどうにでもできます
しかし私たちは自分のその気分に頓着しないで
神の御心には従いますと言って
従う意識的な信仰を持つものでありたいと思います
体の具合が悪い時は休むことが御心でありますけれども
そうでない時は出席する方が恵まれます
私たちは神様の憐れみと慰めを求めます
また教会で喜びに預かり
親切にされ重要視されるその間は
大いに励まれる方もおられます
けれども教会の持つ苦しみ悩み問題をともに受け止めて
喜びも苦しみもともに分かち合うことを
喜んでできるかというと
そうでない場合もあり得るでしょう
私たちは一人一人が神の御前に
砕かれた魂となって
神に自らの意思を捧げ
そして私の思いではなく御心のままになさってくださいと
そのように祈るものでありたいと思います
しかしイワジの心の人はなかなかそれができないので
この悩んでいます
悲しいことにこのようなイワジの人の信仰生活は
恵まれることができません
その岩が邪魔をしているためであります
次に茨の地二十二節
また茨の中に巻かれるとは御言葉を聞くが
この世の心遣いと富の惑わしとが御言葉を抑えるため
身を結ばない人のことです
茨の中に落ちた種これは根も深くおります
茨のよく生える土地は良い地であり豊かな土地です
芽を出し成長していきますけれども
同時に茨が生えてきてその茨によって塞がれてしまいます
茨とはこの世の心遣いと富の惑わしであるとここに言われています
これらによって塞がれるため身を結ぶことができません
茨の心は信仰がある程度成長しますけれども
同時にこの世への求めも強く
この世と神の国の両方を持っていこうとします
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二心そのため御言葉の種が塞がれて身を結ぶことができず
中途半端な信仰でなかなか成長することができません
私たちは岩地茨それは肉と世に次ぐその心を指しています
岩を除き茨を抜かなければなりません
第四は良い地であります
良い地は岩地のその肉を十字架につけ砕かれて
また茨の世に次ぐその心も十字架につけて取り除き
一切をイエス様に明け渡し世に対しては本当に死んだものとなり
自我に本当に死んだものとなって信仰によって死んだものとみなし
肉と世に打ち勝って見た目に満たされて生きる人の心です
良い土地の心になると福林の実を豊かに結ぶものとなります
御言葉を聞いて悟りそれで精霊に満たされて
人々にしっかりと踏みとどまり
境界生活に励み神の御心を行っていきます
ここに百倍六十倍三十倍の実が結ばれていきます
正直な態度で神の言葉を聞いて忍耐を持って
神の御言葉を守ろうではないでしょうか
そのようにしていくとき神様は不思議な仕方で
だんだんと私たちの願い感情思想行動にまで
神の恵みが染み通ってついには神に喜ばれるものとなり
人にも有用なものとして多くの実を結ばせていただくことができます
まず食い合うための実を結びそしてこの御玉の実を結び
そしてさらに神の実を結ぶために神に用いられるたらぐびと
証人にさせていただかなければなりません
十三年ぶりに東京に帰ってきたクレシアンの夫人が
三十年来の幼馴染二人と再会しました
彼女たちはそれぞれ家庭を持ち幸せそうに見えました
けれども病気や家庭の問題を抱えていました
何度目かに会ったとき勇気を出して彼女たちに
キリストの福音を伝えたそうです
そうすると少しは関心を示しましたけれども
結局時間の束縛を受けるのではないかとか
経済的な心配をして福音を受けるようとはしませんでした
けれどもよく考えてみるとかつての自分もそうだったと
そのように思ったそうです
目に見えるものばかりに寄りたのんで
自分の力で何とかしようとしてきた
しかしどうにもならなくなったときに
この牧師夫妻との出会いが与えられ
祈っていただいて御言葉を教えていただいて
心の中の岩漏を取り除いて
頼らせてくださる助け手を主はあらかじめ備えていてくださった
おかげで与一になることができたと
その方は感謝をしておられました
そして今度は自分が先に救われたものとして
助け手になればならないと示されたといいます
家具たちの握っているものが何かを知り
30:01
それらを手放すことができるように
取り直していくことによって
主は必ずその人たちの心を与一に変えてくださることを信じて
一週間に一度は家に招いて
整備された教育心の持ち主になっていくときに
他の人を皆様の救いに導く
尊いその奉仕のために
用いられる人になっていくことができます
かつては私たちも道端岩地茨の心を持っていましたが
今はキリストにあって
そのような心を取り除いていただいて
与一とならしていただき豊かに身を結ぶ
お互いと名をならしていただきたいと思います
それではお祈りをいたします
天皇 父なる神様
今日も神様の御前に
礼拝をしたげるこの時を渡り下さり
私たち一人一人に七夕の盾を通して
与一になるようにとイエス様が
本当に心から願い 祈り
そして私たちに期待しておられることを覚えて
ありがとうございます
どうぞ私たちのうちに
もしこの道端の心や岩地茨の心があるとするならば
それを全く全て十字架に持っていって
そのところで解決していただき
今生きるはキリスト
本当に精霊に満たされて
主を与一にしていただくことができるように
どうぞお一人お一人の中に
神様はその御業を行ってくださいますように
よろしくお願いいたします
主よありがとうございます
全てを主の御手に届けます
どうぞこの新しい一週間も
主が共にいてくださって
どうぞ私たちを祝福し導いてください
イエス様のお名前によってお祈りをいたします
アーメン
31:50

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