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2022-07-24 38:38

2022/07/17:会堂司ヤイロ

2022/07/17 聖日礼拝

犬塚直樹牧師

マルコの福音書 -24,35-43


00:00
皆様、おはようございます。このマイクがハオリングしているので、小さい声の方がいいでしょうか、私。大きくてもいいですか。
多分皆さんが声が小さいので、マイクの音量を大きく上げているので、ハオリングをしていると思います。
ですからどうぞ、お祈りをする方も、司会をする方も、ぜひうかり大きな声と言いますか、
小さな声じゃなくて、小さい声も普段よりも少しだけ大きな声でお願いします。
では一言お祈りをしましょう。
めぐみ深い天の父なる神様、あなたのお身があがめ、心いっぱい賛美を申し上げます。
今日こうして礼と誠をもって礼拝いたしますが、禅僧から黙祷に至るまで、すべてのプログラムを通してあなたを礼拝いたします。
目的はあなたを礼拝することでありますから、どうぞその一つ一つを祝福してくださるように。
また御言葉を通して、この朝あなたは私たちに何を語ろうとしているのか、
また御言葉を通して私たちは何をもってこのところから使わされていくのか、
どうぞそのことをしっかりと教えてあげますように。
またどうぞ一人一人漏れなく、イエス様と共にこのところから帰っていくのではなくて、
使わされていくことができますようによろしくお願いいたします。
これからの時を待ち望み、イエス様の前を通してお祈りいたします。
アーメン。
さてイエス様は墓場に住み着いていたこのゲラサ人を癒し、
そしてまた船に乗ってカペナウムに帰って参りました。
そこには多くの人たちが待っていたわけであります。
その時にカイドウツカサヤイロという人が飛んできて、
先生今私の娘が心臓です。どうか助けてください。
と言ったのであります。
その願いに応えて、ヤイロの家に行く途中で、
永知を患っていた女性の奇跡が行われたのは先週のことであります。
学んだ通りであります。
さてこのところに、永知の女性の癒しとカイドウツカサヤイロの娘のよみがえり、
その奇跡が交互に関連しあって同時に行われているのはこの箇所であります。
そこには理由があって単なる一致ではありません。
03:04
どうぞ皆さんよく聖書を見てください。
どちらも十二年の年月があります。
永知を患った女性は十二年間患っていました。
ヤイロの一人娘は今年は十二歳になって、当時のことでありますけれども、
親離れをして結婚もできる年頃になりました。
ですからその娘の成長を見ることがヤイロにとっては何よりも嬉しかったわけであります。
その娘が鬼徳になって死にかけている。
このルカの福祉書には一人娘と書いてあります。
彼にとってかけがえのない娘であります。
永知を患う女性も、またヤイロもこの二人は必死でありました。
けれども自分に起こった悲劇をどうすることもできなかった。
永知の女性は自分からイエス様に近づいていったという視点で、
すなわち人の観点で救いが描かれています。
このヤイロの娘は万策尽きてもうダメだというところからの神様の観点から救いが描かれています。
癒された女性は自分の手を持って手を伸ばして癒されました。
イエス様の衣を掴んだ訳であります。信仰を持って。
生き返ったヤイロの娘はイエス様の方が二手を伸ばして彼女を立たせた訳であります。
そのように両方が結びついています。
人間の視点からあるいは神様の観点から。
でもどちらも言えることは、イエス様は病気も死も支配されるお方だということであります。
さて、カイドウ・ツカサ・ヤイロという名前は、
神様の眼差しが注がれている人、あるいは神様に呼び覚まされた人という意味であります。
その名前が印していることは、その人が気づいていなくても神様の目が変えずその人に注いでいるということ。
06:09
注がれているように、たとえ彼が倒れても神様が立ち上げてくださるということであります。
おそらくこのヤイロという名前は、ヤイロのお父さんが自分の息子が生まれるときに
どうぞこの息子が神様との関わりの中で、神様の眼差しがいつもその息子に注がれていきますよという思いで
ヤイロという名前を付けたんじゃないだろうかと思います。
そういう祈りを込めて名前が付けられました。
さて、ヤイロには12歳になる一人娘がいました。
この大事な一人娘が死にかけていたわけであります。
ヤイロは、イエス様のところに来て助けを求めました。
普段、カイドウズカサがイエス様に頭をたれるということは考えられませんでした。
カイドウズカサというのは単なるカイドウを管理しているというのではなくて
安息日の礼拝についてプログラムを考え、誰が聖書を読み、誰が説教をするのか
それを考える立場の人であります。
その地域の有力者であり、指導者であり、人々の尊敬を集めていた人
この地域の名手といいますか、長老であります。
他人に頭を下げられることがあったとしても、自分で頭を下げることはありませんでした。
それほど偉かった。
今まで聖書を学んだように、この時はイエス様とユダヤ人たちの指導者において
その関係においては難しくありました。
彼らの間では、あのイエスを何とかして殺したいという思いを持っていたわけでありました。
カイドウズカサという立場から考えるならば、
ヤイロはイエス様と対立してもおかしくない立場でありました。
多分ヤイロの身内の中には、イエス様にお願いすることはやめてほしいと言われたかもしれない。
09:07
ユダヤ教からするならば、イエス様を招くということは、もう仲間外れにされるということ。
仕事もなくなってしまうかもしれない。あるいは自分の名誉もなくなるかもしれない。
けれども彼は恥も世間体も捨てて、カイドウズカサというその働きを捨ててですね、
イエス様の前に手をつけて、きれいにしたい。
私の娘を助けてください。きれいにするほど優しいお父さんだったんです。
彼は死にそうになっている娘を前にして、全く無力でした。
先週学んだように、長篠雄一郎と同じように、様々な医者を呼んだかもしれない。
あるいは様々な薬を飲んだかもしれない。
でももう死にそうになっているわけであります。
ですから立場もメンツも関係なく、イエス様が来られたということで
カペナウムのところに行ってひざまずいて、どうぞ娘を助けてくださいと言ったんです。
私はここを読むときに、いつも思うことがあるんです。
ああ、こういう父親でありたい。
イエス様の足元にジェーブして、私の幼い娘が死にそうです。
どうかおいでになって手を置いてください。どうぞ娘を助けてやってください。
娘のために全てをしている父親であります。
私たちはそういうお父さんのような、皆さんの肉の父親、優しいお父さん、
あるいは厳しいお父さん、あなたを愛してくれているお父さん、またそうでないお父さん。
天の神様は私たちのために、御子イエス様をこの地上に送ってくださりました。
イエス様も恥も外分も捨てて、十字架にかかってくださりました。
私たちは、皆さんもそうでしょう。何年何月に救われたのかどうか、
12:04
けれども何十年前でしょうか、何年前でしょうか、皆さんはイエス様を信じて救われました。
ある人よりも先に救われているはずであります。
ある人よりも先に救われているものは、聖書を見るときに、それは霊の親であると。
牧師も教会役員の方々も、あるいは修衛師教師も、教官一人一人が、
どうやったらこの人が救われるだろうか、恵まれるだろうか、成長できるだろうか、
神様の前に記念させるものがあります。霊のお父さんです。
皆さん、知識や名誉や財産や、あるいは人間力がなくてもいいんです。
一番大切なところはここなんです。
けれども教会の中には、もう信仰の大人として成長していいにもかかわらず、
あるいは霊のお父さん、お母さんになっていてもいいのにかかわらず、赤ちゃんのままの信者さんがいます。
やいろのように、子供のために、あるいは霊の子供のために、切れ伏したことがないクリスチャンがおられます。
つまり私たちは、やいろのように、当然自分たちの子供のためには祈るでしょう。
けれども神様の前に本当に切れ伏して、根幹できる霊の親であるかということが問われるわけであります。
そういう人がおられる人は幸せです。
あなたのために神様の前に切れ伏してくれる人、またあなたも切れ伏す人、すると神様の業が始まります。
そういう教会は強いんです。
15:04
まず第一に私たちは学ぶことは、イエス様というお方は必死の願いに応えてくださるということです。
やいろの必死の願いにそれを引いてくださって、一緒に出かけていきました。
皆さんはイエス様に必死に願うことがあるでしょうか。
もう一度私たちは信仰の源泉に立ち帰りたいと思います。
その必死の願いは何でしょうか。
教会の必死の願い、それは人が救われるということです。
そして救われたクリスチャンが精霊に満たされるということです。
私たちは街道建設のために必要なものが与えられるように、そして様々な課題について祈ってまいりました。
そして教会が立ち上がった。
それで終わりというのではなくて、どうぞ皆さん、この街道が用いられるよう、
その用いられるということはどういうことなのか。
それは人が救われるように、そして救われた人が精霊に満たされるように、やいろは必死に願いました。
ところが、途中で邪魔が入ったというのもおかしいわけでありますけれども、
25節から12年間も長丁を患う女性の記事が出てまいりました。
そのところは先週学んだところであります。
この場面でやいろは自分の娘が死にかけているわけであります。
やいろに仕草をしないで、イエス様早く来てください、と思ったのではないでしょうか。
多分長丁の女に話しかけているその時もイライラしたと思います。
もう心では自分が先に言って、イエス様を引っ張っているんです。
早くしてください、早くしてください。
今、ケースには書かれていませんけれども、イエス様は歩きながら他の人にも神様の言葉を語り、
18:08
多くの癒し者にされたんじゃないだろうかと無言で歩いていかれなかったと私は想像するわけです。
やいろなりの必死に長々と終えない事情がありました。
でもイエス様にはイエス様のスケジュールがありました。
そういう光景を思い出すと、何度も言いますけれども、やいろはイエス様を引っ張っていく様子。
イエス様の前に行って、早く来てください、早く来てください。
そういう状態ではなく、皆さんはラザロのところを思い出しませんでしょうか。
イエス様が愛しておられるラザロが病気で死んでしまいました。
イエス様は早く駆けつけないで、その場所に尚しか留まっておられました。
イエス様にはイエス様の計画がある。
やいろにはイエス様が自分の家に来なくても、見言葉だけで娘が癒されるというような信仰がなかったのでしょうか。
イエス様の見言葉だけで癒されるツロフェニキアの女性であるとか、
百人大帳の下辺の癒しであるとか、お言葉を持ってイエス様は癒されました。
そんな立派な信仰は私にはありませんよ。
やいろと同じように、ひとりよがりで自分のことしか考えられない信仰で、
その問題の解決の方法も時も、私の思うようにしてもらいたい。
神様の時と方法は知りません。
彼は言いました。イエス様、娘のところにやってきてください。
そして手を置いて救われるように祈ってください。
方法を、自分が考える方法をイエス様は言ったわけです。
指導権は自分なんです。
彼は必死だから神様に委ねるという信仰を見失ってしまったのかもしれません。
委ねるということは、問題解決のこの時と方法を神様にお任せするということです。
21:12
信仰というのは、自分が考えている方向に神様が働いてくださる、働いてほしいということではありません。
それを遥かに超えて、自分の考えを遥かに超えて、神様の時と方法を持って宮蔵を成してください。
ローマリドの手紙の8章の28節を覚えていらっしゃるでしょうか。
神は神を愛する者たち、すなわち御計画に従って見された者たちと共に働いて、万事をお行きとなるようにしてくださることを私たちは信じている。
神様の時に神様を愛する一人一人が、本当に神様は私にとって一番良いことをしてください。
それを信じるものであります。
皆さんの中に、何かこのことは神様に委ねることができない、お任せきれない障害はないでしょうか。
自分の考えや、あるいは自分がやりたいことが強すぎて、それに合致するならば信じるけれども、
自分の都合の良い方法で、自分のために神様を利用するという信仰に向かう宮蔵が行われます。
でも宮蔵は後で食い荒らされました。
でもいいですか、皆さん。ここを見てください。いいですか。
イエス様は、まだ未熟なヤイロの信仰に合わせて、その求めに応じて彼の家に行ったんです。
なんと優しいお方でしょうか。厳しく弱い信仰をとがめませんでした。
自分のスケジュールを変更して、さらにヤイロの強引な願いしに従って歩き出しました。
しかしとうとう間になりませんでした。
イエス様が話している途中、使いの者が来て、あなたのお嬢さんは亡くなりましたと告げました。
もう晩時九時、あたかもイエス様が来るのが遅すぎたかのように、ヤイロはもっとイエス様が早く来てくれたらよかったのです。
24:07
この無念と行き通りの思いがあったと思います。
この長血の女性がイエス様を止めたから、こうなってしまったんだというように、私は恨んだと思います。
けれども、私たちは学ぶ第二のこと。
第二は、イエス様は私たちが希望を失いかけているその時に励ましてくださっている。
もうダメだ。でも恐れるなら私を信じてください。
信じ続けるように求められよかった。
イエス様はもう亜然としてその場で崩れてしまうようなこのヤイロ。
崩れてしまったかもしれませんけれども、恐れないで私を信じなさいと励まされました。
イエス様にとって遅いということはないのです。
イエス様は私たちの人生でどうしても解決できないような問題を解決してくださる。
もう終わった。もうできない。あるいは死んでしまった。
そのように逆端している分野は皆さんないでしょうか。
信仰とは自分の考えている遥か遠くまで広くまで神様の指定に合わせることであります。
彼は娘が生きている時に手を置いて祈ってもらえば助かると信じていました。
けれども死んでしまったならばもうダメだと思います。
私たちも死んでしまったらもうダメだと思います。
はじめに内容はイエス様を引っ張っていくかのように。
イエス様の前に焦りながらイエス様を引っ張っていくような。
そういう彼でありました。
27:01
けれども娘が死んで絶望が襲ってきました。
もうこのところからはイエス様に引っ張ってもらうような足取りだったでしょう。
ただイエス様の後にとぼとぼついて
イエス様の前にどんどん先に向かったのではないと思います。
誰かに抱えられながら、痛みや苦しみを持ちながら、うつむきながら
イエス様の後に従っていったと私は想像するわけです。
そしてイエス様が家に引かれた時にはもう娘は死んでいて
またいの福音書を見るならばもうお葬式がされていました。
お葬式には月ものの亡き女や弔いの笛が吹かれていました。
その後でイエス様はその娘は死んだのではないと言いました。
すると人々はあざけるように笑いました。
私たちに不審の思いがあってもお葬式に笑うでしょうか。
近所の人たちはあまりにも常識が外れていると思ったのです。
皆さん、人々は何を信じていたのでしょうか。
彼らが信じていたこと、弔いのもそうでありますけれども
死ぬことはもう絶望で、もう死んだら何もできない、何の希望もない
ということを信じていました。
では何を信じていなかったのでしょうか。
それはイエス様は死人をも蘇らせることのできるお方。
ですから死は絶望ではなくて、その向こうに希望があるんだということを
信じていませんでした。
イエス様がおられるところには死は存在しません。
絶望もありません。
イエス様は十字架で死んで墓からよみがえられました。
イエス様が墓に入られたことは死を打ち破るためでありました。
イエス様がおられるところには死や絶望はないわけです。
さて、第三番目に私たちが学ぶことは何でしょうか。
30:04
三言葉に力を持たれるというお方です。
三言葉にはあなた方の魂が救う力があるということは、
その三言葉は皆さんがよく知っていらっしゃる箇所であります。
イエス様は大事に、私たちの必死の願いに応えてくださるということでした。
第二は、私たちが絶望を失いかけているときも
励ましてくださるということでした。
第三に私たちが学ぶことは、その三言葉には力がある。
イエス様はたぎた組と娘よ起きなさいと言って、彼女をよみがえられました。
ここに人々は口も聞けないほどに驚いた。
もう言葉が出なかった。
それほど家族は喜び、慰められたことではないでしょうか。
もしヤイヨが、お嬢さんが亡くなりましたという
家の使いの者たちの言葉に従っていたらどうでしょうか。
もう先生をこれ以上患わせる必要はありません。
もうイエス様は来なくていいんじゃないでしょうか。
ということであります。
そこで諦めたらどうなっていたでしょうか。
そうではなくて、恐れないで私を信じなさいという言葉に支えられて
イエス様に従ったんです。
イエス様の招きに応えてどうぞ歩む道は
死の力を超えていくことを知ってください。
死を超えていくわけです。
イエス様は本当に憐れんでくださって
死んだ娘を生き返らせました。
けれども、明日死ぬことはあります。
私たちは今日死ぬかもしれない。
サイリンがなければ、すぐになければ私たちは一人残らず死んでしまいます。
しかしイエス様がここで言っていることは
33:03
イエス様に会って死んでもなお生きるような
永遠の命を与えてくださるということを言おうとしているんです。
この娘は生き返りました。
けれども、あと何年でしょうか、何十年でしょうか
その先には死にました。
彼一人として、その時にはこの肉体的な
癒しがなされたとしても、もしサイリンがなければ
私たちは死んでまいります。
あの有名な甦ったラザロ。
でもラザロでさえも、どこかの時点で死んでいきました。
イエス様を信じたら災難に遭うということではありません。
絶対にこの病気に悩まかることがなくなるというわけでもありません。
サウルは自分に襲った肉体のために
3度この肉体の棘を取り除いてくださいと言ったけれども
聞かれませんでした。
でもその結果がどうであれ
クリスタンはイエス様にあって生死を受け
自然災害から助け出されるかもしれない。
でも自然災害から助けられなくても
それに代えることができるでしょう。
病気においては癒しというのがあるでしょう。
癒されることもたくさんたくさん見てまいりました。
でも癒されなかった方もいます。
でも癒されなかった方はその病気をあったとしても
それを信仰を持って乗り越えている人を何人も見てまいりました。
ある人は死の入り口から生還した方もいます。
それができないけれども
イエス様の永遠の命を望みを持って
滅されていた方々もいます。
そうです皆さん。
私たちは様々なこれから多くの出来事がありますけれども
右や左どちらに転んでも
イエス様によって勝利をすることができるという信仰が与えられています。
このマルコがこの声を大にして言おうとしていることは
イエス様は死んだ者をも蘇らすことのできるお方。
その最後の敵は死である。
それに何の手差しもできない。
けれどもそれで終わりではないんだということであります。
36:05
イエス様は諸女マリアを通してこの世にお入れになりました。
何のためでしょうか。
血を流し、罪の贖いを感知し
死んで蘇り、信じる者には永遠の命を与え
確かに死にに近ち。
信仰を持っていくならば
たとえこれから私たちはどのような局面に出会うかもしれないけれども
それを遥かに乗り越えることができるという恵みを皆さん持っているんですよ。
私たちはその人生で悩みます。
翻弄します。つまづいてしまいます。
ギャイロはもう泣きました。人々も泣きました。
そういうところにイエス様が来てください。
皆さんの信仰は今どこにあるでしょうか。
ギャイロのようにイエス様が来てくださらないから
もうイライラしているような状況でしょうか。
あるいはもうダメだ。
もう結果が出ている。
もう結果が出ているのでイエス様は必要ではないと考えているでしょうか。
でもどうぞ何度も言いますが
実はもうダメだというところに
イエス様を見出すチャンスがあるわけがあります。
ダメだというところまで行かないと
私たちは神様を頼らない人たちがいっぱいたくさんいます。
ですからもう私が言う言葉は
もう皆さん耳にタコが3つも4つも出てきているかもしれませんが
新学校に出学すること
自己の絶望と神の体の自分の絶望
もうダメだというところを通らないと
神様の栄光を愛することができない。
今も私のそばに生きてくださって
必死の願いに応えてください。
見事を思って恐れるな私である
しっかりしなさいと声をかけてください。
そして私よりも先に先にと進んでいってくださって
その問題を解決してください。
お方です。
そのことを信じますか。
お祈りをいたしましょう。
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