1. 名谷教会
  2. 2011/05/22:聖日礼拝(旧音源)
2011-05-22 47:44

2011/05/22:聖日礼拝(旧音源)

2011/05/22 聖日礼拝(旧音源)


00:00
それでは、聖書をお読みさせていただきます、マルコの福音書七章十四節。
イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。
みな私の言うことを聞いて悟るようになりなさい。
外側から人に入って人をけがすことのできるものは何もありません。
人から出てくるものが人をけがすものなのです。
イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについてたずねた。
イエスは言われた。
あなた方までそんなにわからないのですか。
外側から人に入ってくるものは人をけがすことができないということがわからないのですか。
そのようなものは人の心には入らないで腹に入り、そして川やに出されてしまうのです。
イエスはこのようにすべての食物を清いとされた。
また言われた。
人から出るもの、これが人をけがすのです。
内側から、すなわち人の心から出てくるものは、悪い考え、不貧行、盗み、殺人、
肝陰、動欲、鈍欲、横島、欺き、高職、妬み、そしり、たかぶり、愚かさであり、
これらの悪はみな内側から出て人をけがすのです。
それでは、聖火体の377番に続いて、内田牧師より内側を清めと題して説教をしていただきます。
この一日を
御恵み御祈り御祈り
あふれしゅれに
あるやすらに
あさしずらに
03:01
めいによさべたり
みえぐびをまなびおれは
まふれしゅれに
あるのぞみ
あさしずかに
あたらしみをみかたげおれは
まふれしゅれに
あふれしゅれに
おはようございます。
今日もこうして皆さんとともに礼拝をお捧げできる特権を感謝いたします。
今日も御言葉が開かれております。
今日の御言葉をいただく前に一言お祈りをいたします。
諸々の天は神の栄光をあらわし、大空は見ての業を示す。
この日言葉を彼の日に伝え、この世知識を彼の世に告げる。
恵み深い天の父なる神様、あなたの皆をたたえます。
私たちが精霊様に教い出されて今御前に集っております。
この礼拝の主なるあなたを拝して礼拝をお捧げしております。
どうぞ天においてあなたが受け入れ、清めてくださるようお願いをいたします。
また、今日備えられたプログラムの一つ一つが祝福されていますことを心よりありがとうございます。
共に祈り、また共にあなたを賛美し、またあなたから御言葉をいただかんとしております。
どうぞあなたが今日私たちに語ろうとしておられることを
御言葉を通して告げてください。
しもべたちは待ち望んでいます。聞きます主をお語りください。
06:06
生きて今もなお私たちの主であられるあなたがどうぞ最後までともにいてお導きくださるようお願いをいたします。
語るものは等しくまた欠けたものですから
どうぞ精霊様が御言葉を持って聞くものを養い、そして最後までこのしもべが務めを全うできるようにお支えください。
すべてを委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
私たちは何事におきましてもテーマを持って取り組むあるいは生きていくということが大事だなと思うんですね。
テーマというのは何か一つの何々は何々とは何かというのを掲げてそれに追求していくというんでしょうか。
答えを求めていくんですが生きるとは何かとか皆さんの職場やあるいはお家のことあるいは趣味のことでもいいんです。
何々とは何かということを追求していくわけですね。
私たちこの場でありましたら教会とは何か私は常にそういうテーマを持っておるものですね。
もちろん私自身牧師とは何かというのを常に意識の中に覚えながら過ごしております。
答えを見つけるのはなかなか難しいんですがそれを追求していく。
礼拝とは何かということも大きなテーマの一つです。
ですから礼拝とは何かいろいろ答えがあったり教えられたりもしておりますが
自分の中で何か礼拝とは何かこういうことなんだ。
しかしそれを言葉にうまく言えないままモヤモヤとしたものがあったんですね。
そしてある聖書の講演会に行ったときにその講師が礼拝とはライブであるとおっしゃったんですね。
ああこれだと思ったんです。礼拝はライブだ。
ライブというのは皆さんもご存知のように生放送であるとかコンサートでもCDで聴くのではなくその生のコンサートを聴きに行くということですね。
まさに礼拝とはライブなのだ。
ライブですからそこに何が起こるかわからないという。
それがまた楽しいと言うんでしょうか。
それが面白いという表現はいいのか悪いかわかりませんが
09:03
そういうことがあるわけですね。
二十人三十人四十人百人千人おれば何か起こるわけです。
一人一人が生きたものとして集っているわけですし
まさに生きておられる神様がここにおられるわけですからまさにそれはライブですね。
もちろん私も司会をしていまして間違うこともあります。
それもまた一つのライブということですね。
あるいはそれこそ笑ったり泣いたりそんなことも
これはライブでないと味わえないところですね。
そういう教会の魅力あるいは礼拝の魅力というのは
やはりそのライブの中にあるんだと思うんですね。
そうでなければこの礼拝を何かビデオに撮って
それをまた暇なときに見ればいいわけですが
この週の初めの日の朝決められた場所決められた時間に
私たちが集うということはそこに行ける誠の神様
そして私たちみんな生きているんだそのものが集まって
神様を褒めたたえそして礼拝をする
そこに神様は何か起こしてくださるそういう礼拝
だから今日行けなかった
でも今礼拝でどんなことが起こっているんだろう
そして来週は必ず行くぞ
それはそこにそのライブとしての礼拝
その魅力に取り付かれたものはもう行きたくて仕方がないわけですね
ですから礼拝の中でいろんなことが起こったとしても
それは驚くに値しないわけです
なぜならライブだからそういうことを私たちは覚えて
今日もこの礼拝を私たちは今持っているわけですね
私自身もいろんな礼拝を今まで捧げさせていただいて
ある教会で私が講談に見言葉の順番が来ましたので
講談に立とうとした時にある兄弟が
先生今から明かしをさせていただいていいですか
おおライブやなと
でも兄弟ちょっとごめんなさいね
今プログラムがまだあるから今はちょっとできないけど
後で礼拝終わってから少し時間を設けますから
その時にしていただけますかということでしたんですね
はいわかりましたというようなことですね
それはもう今も覚えてますね
あるいは私が見言葉を取り継いでいる時
12:02
使徒行伝の中であれはいすかりお手のユダがいなくなって
使徒をもう一人誰か選ばないといけないというような箇所だったんですね
誰を選びましょうかというような見言葉
その時ちょうど選挙の時期だったんですね
教会の前が道路で車が入って
誰を選びましょうかという時に
マイクで私に一票どうぞよろしく
ライブやなと思いましたね
もうそういうことがやっぱり礼拝の中であるっていうのは
本当に楽しいって言いましょうか
何が起こるかわからない
それがライブの礼拝の魅力なんだろうなそう思います
私たちはそういうふうにして何かテーマを持って
これを追求していく
その時にいろんな発見があるんだと思うんですね
今日のテーマは内側と外側という
そういうテーマで見言葉からいろいろと教えていただきたいと
そう思うわけです
まず初めに私たちはサムエル記の
もし開けられたらいいですが
開けられなくても聞いていただいたらいいと思いますが
第一サムエル記の16章のところで
神様がサウル王をもう自分は見放している
次にふさわしい王を見つけようと
このサムエルに命じなさったわけです
サムエルよお前は次に王なるものを見つけてきなさいと
そしてベズレヘムのエッサイというところに行きなさいと
そこに息子たちがいるから
彼らの中から王にふさわしいものを選びなさいと言われたわけです
そしてサムエルは言われたとおりにエッサイのところに行きます
そしてその息子たちを呼んで一人一人いわゆる面接をするわけですね
そして第一サムエル記の16章6節
彼らが来たときサムエルはエリアブという人
この人を見て確かに主の前で油を注がれるものだと思った
しかし主はサムエルに仰せられた
彼の要望や背の高さを見てはならない
私は彼を退けている人が見るようには見ないからだ
人は上辺を見るが主は心を見る
そういうことが書いてあるわけですね
私たちはこの箇所から説教あるいは自分なりにいろいろと見言葉を学んだことですが
おそらく人は上辺を見るが主は心を見るという主題成句で
15:09
主は心を見るという説教が多く語られると思うんですね
私自身もそういうことをしたことがあります
主は心を見る
しかし私たちが聖書を開くときに
神様の言葉として一字一句おろそかにしないんだというところに立っていますから
一つ今日は
人は上辺を見るというこの言葉を取り上げてみたいと思うんですね
ですからまず第一に
今日の外側と内側の問題についての第一は
外側のこと
これを考えてみたいと思うんです
私たちがこの生きていく中で
いろんなことの外側と中にある内側隠れているもの
そういうものを考えていくときに
この見言葉が示すように人は上辺を見るということ
これは決してないがしろにしてはいけないと思うんですね
これも一つの話なんですが
確か良寛和尚の話だったと思います
和尚がまだ修道僧で貧しいみなりをしていました
そしてお経を唱えるために家々を訪れていくわけですね
その家の前でお経を唱えるというようなことをしておったわけですね
その家の前に来たときにその家の主人が出てくると
そこにみなりの貧しい坊さんが立っている
そしてお経を唱えているわけですね
主人はなんだみすぼらしい坊主じゃないか
もう薬病神貧乏神でもついたら困るから
もうあっち行ってくれと門前払いをしたわけですね
その後良寛和尚は立派な和尚になって
そしてまた何年か後その街そして同じところ
そして以前お経を唱えたその家のところでまた同じようにお経を唱えておった
それに気づいた主人が出てみますと
そこになんと立派なお坊さんがお経を唱えていてくださる
これはこれはもうなんとありがたいことか
家の物に呼んで何か器物にお汁を持ってきて
これでもどうぞ召し上がってくださいと言ったわけですね
18:02
良寛和尚はそれを念ごろにいただいて
なんとその器に入った汁をパッと衣にかけたわけですね
主人はびっくりして何をなさるんですかということですね
良寛和尚曰くあなたは私にではなくこの衣にその汁を捧げたのだから
この衣に汁を捧げるのがいいのではないかということを言ったわけですね
良寛和尚に失れば私という人物は昔も修道僧のときも今も変わらない
もちろん見なりが変わっているかもしれない
しかしあなたは私の着ている衣外側を見てそう判断したんだから
私もそうだと思ってそのようにしただけですということを言いたかったんでしょうね
まさに人は上辺を見るわけです
もちろん私たちはもう十分知っております
目には見えませんけれども大切なものがあるんだということ
そういうものは十分知っております
しかし私たちが人間社会で生きていく上で
人は上辺を見るんだということも決して無視できないことだということですね
インターネットでいろいろな質問箱とかいうものがあって
それに対して自由に答えをかけるようなそういうものがありますよね
そういうのをいろいろ調べてみますと
世の中の人たちはこの外見で判断するというのをどういうふうに見ているのか
そんなことを調べてみたんですが
何で外見で判断するのよという質問に対して
一つの回答はそれは生まれたばかりの子どもは外見で判断しませんよね
外見で判断するというのは経験から来ているんですよ
自分の経験から例えば意地悪そうな顔をしている人は怖そうだとか
いつもにこにこしている人は優しそうだとか
そういう経験によってそこから想像をして判断するんだという答え
あるいは初対面である場合は
その人の仕草とか表情とかそういう外見でしか
人を判断することはできないのでそうせざるを得ません
21:01
あるいは本来ならじっくり付き合って腹を割って話して
本心を引き出してそして判断すればいいのですが
それもなかなか難しい時間がない
だから瞬時に判断するしかないのでそうするんですということですね
だいたいそういう意見が多いですね
人がそれぞれ好きか嫌いかの判断はまず目から飛び込んでくる
感覚的な視覚の情報が先にくるので
それで判断するしかないということですね
ですからおそらく良寛和尚の話もそうですが
その人が見たことで判断するということですね
それをいいとか悪いとかということよりも
人は上目で判断するんだということを自分たちが学習をして学んで
それならばどういうふうに自分たちはそれに対応していけばいいのかということをしていけばいいんだな
そういうふうに思うんですね
そういうことを本に表した人がいました
それは人は見た目が9割という本ですよね
それくらい人というのは上目で判断する
見言葉にありましたように人は見た目あるいは外見
そういうもので判断するんだということですね
でも決してそれが全てではない
それがあっているとか間違っているとかそういうものではない
私たちはもっともっとその人の本質
あるいはその人がどういう長い年月生きてきたのか
その人の背景にあるものをもっともっと知ろう
あるいは知りたいという
そういうものをやっぱり持った上で人と接していく
あるいは自分もそういうふうに見られているんだとするならば誤解を受けないように
あるいは自分の本当のことを知ってもらうためにもどうしたらいいのかというのを
私たちの側もそれに対応していく
そういうことが必要であろうと思うんですね
こういうことは日常三半時いろいろあろうかと思うんです
ある大学生の息子さんがお母さんにジーンズ洗っておいて出しました
それで洗濯がなされてそのジーンズが帰ってきたときに
えらい怒りました
何をするんだお母さんとこんなことしたらだめじゃないか
どうしてよあなたのジーンズの膝が破れていたので
24:03
縫ってあげたのがどうしていけないのか
いやこれは違うんだこれはファッションでこれはかっこいいんだと
いやお母さんにすればそんな破れた格好で外に出たらいかんでしょうと
人がそれを見て何と思いますか
いやいやいやそれはお母さんは時代遅れで
これは私たちのファッションでかっこいいんだ
それぐらいやっぱり違うわけですね
でもその息子さんが就職活動に行くときは
リクルートスーツに身を固めてきちっと散髪して行くわけです
ですから心配ご無用破れていてもそれは彼らのファッションですね
そんなことがあるわけです
でもお母さん50代60代70代にすればそんな格好で人前に出たらっていう
そういうものが擦り込まれてますから
そういう時代に生きてきたわけですね
人は上辺を見るんだよだから損を知ってはだめだよ
誤解を受けてはいけませんよというそれも大事
しかし自分たちの感性とか
これが僕たち私たちの目指しているものだ
これが自由なんだ
これが解放されているということなんだというそういう主張
それも受け入れていけるようなそういうところでしょうね
私たちは内側と外側との問題において
もう一度この人は上辺を見るというそのことを
これを一つのテーマとして決してこうだという答えはありませんが
それぞれの自分の中でこれを整理していく
それが大事だろうと思います
二つ目に挙げられることは偽善ということです
偽善者ということですね
イエス様もこの御言葉を通して御言葉の中に
イエス様が言われた言葉の中で
この偽善者のことを徹底的に御批判なさっている箇所があります
そもそも偽善というのはもともとの意味が
昔のお芝居で仮面をかぶって何かを演じるという意味なんですね
ですからいわゆるその役を演じるために
学者はそれになりきらないといけない
本来の自分ではないけれどもそういう振りをして役を演じるわけですね
そういうことから偽善者ということが出てきたわけですが
当時のイエス様は蔡司長や立法学者
パリ蔡人の中にこの偽善者が多くいることを指摘なさったわけです
27:00
例えばマタイによる福音書の6章の中で
6章1節から少し読んでみますと
人に見せるために人前で善行しないように気をつけなさい
そうでないと天におられるあなた方の父から報いを受けられません
だから施しをする時には人に褒められたくて
街道や通りで施しをする偽善者たちのように
自分の前でラッパを拭いてはいけません
誠にあなた方に告げます
彼らは既に自分の報いを受け取っているのです
あるいはまた祈る時
偽善者たちのようであってはいけません
彼らは人に見られたくて
街道や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです
誠にあなた方に告げます
彼らは既に自分の報いを受け取っているのです
ここに偽善者たちよ
彼らの特徴は人に見せるために
あるいは人に見られたくて
そういうことの裏返しとして
偽善というのが出てきているのだということです
あるいは同じく
マタイによる福音書の二十三章のところ
これもイエス様が大変な言葉
きつい言葉でおっしゃっている
イエス様もこんなことを言われるのか
原文でどういうニュアンスか分かりませんが
訳された方はこういう訳をなさっているのですが
マタイによる福音書二十三章の二十五節から
聞いていただいたらいいのですが
災いだ
偽善の立法学者パリサイ人
お前たちは
杯や皿の外側は清めるが
その中は豪奪と包住でいっぱいです
杯の内側を清めなさい
そうすれば外側も清くなります
災いだ
偽善の立法学者パリサイ人
お前たちは白く塗った墓のようなものです
墓はその外側は美しく見えても
内側は死人の骨やあらゆる穢れたものがいっぱいです
そのようにお前たちも
外側は人に正しく見えても
内側は偽善と不法でいっぱいです
この言葉を通して偽善をさばいておられるわけです
当時いわゆるそれこそ形だけの宗教行為
自分たちが表に現れているその部分だけをつくろって
本当の真心のこもった真実な宗教行為なり
礼拝とか祈り捧げものはしていなかった
ということをイエス様は指摘なさったわけですね
30:03
私たちの日々の信仰生活
あるいはこの礼拝においても
あるいは私たちが祈るとき
それこそ施しをするとき
あらゆることにおいて
それじゃ私たちはどうだろうかということを探られるわけです
牧師たちよお前たちは偽善の牧師ではないのかと
言われているようなことももちろん含めて
私たちが一信仰者として
あるいは一クリスチャンとして
あるいはこうして一教会として
世の人々にそれこそ人々に
どう映っているのか
ましてやその世の人たちは
上辺を見る人たちです
そういう中に私たちが生きていく
自分をさらして生きていく
そういうときに私たちはどう映っているんだろうか
そんなことを考えさせられるわけですね
もし私たちが偽善者である
あるいはそれこそ
それでもクリスチャンかと言われかねない
そういう自分を知ってますから
それならばいっそのことを言わずにおこう
あるいはそういうものであるということを
明かししないでおこう
という思いもなきにしもあらず
それが21世紀でもなお
隠れキリスタンをつくるもとにもなるんですね
隠れキリスタンというのはかつていましたね
いろんな迫害虐待を受けるので
それこそ隠れざるを得ない
自分がクリスチャンであるということ
主を信じているということ
何かものが見つけられたら
それこそ火あぶり十字架形に処せられる
隠れてその信仰を守っておったわけですね
そういう隠れキリスタン
しかし20世紀21世紀の隠れキリスタンは
もし万が一それでもクリスチャンかと
言われるのが嫌で
もう言わずにおこう
そっと自分で密かに主を信じていけばいいんだという
でもそれは神様は喜ばれないと思うんですね
私たちはもうそういう迫害や虐待を受ける
時代に生きてはいません
おそらく戦争中戦後も少しあったでしょうか
そういう中で私たちの先輩方が
大変なところを通ってくださったわけですね
隠れもせずそれこそ主を明かしし
33:02
十字架を示し自分もクリスチャンであることを示して
中には処刑されたあるいは牢獄に入れられたという
そういうところを通されたということを知っております
しかしこの21世紀はもうそういう時代ではない
私たちはもっともっとそれこそ全世界に出ていって
全て作られたものに主を明かしし
またこの福音を述べ伝えよう
そういうことができる時代に生きているわけですね
ですが決して隠れる必要も隠す必要もないわけです
ですから私たちは自分がクリスチャンだとか
何々教会のこういうものですという名札をつけて歩いていませんけれども
しかしもし聞かれたならば
私は主イエスキリストを救い主として信じているクリスチャンです
というちゃんと言うようにしないといけないですよね
ですから私たちはこの人がどう自分を見ているのかということの恐れのために
もしそれでもクリスチャンか
それでも教会としてよくやっているなというようなことを
もし言われたらですよ
もし自分はそういうことで隠れている
言わないということであるならば
その時にはもし聞かれたら言えばいいと思うんですね
でもそういう中で
それでもそんなあなたでもクリスチャンなのということを
言われた時に私たちは二つのことをすべきだと思うんですね
その一つは
そうですこんな私でも神様は見放さず見捨てず
私を愛して救ってくださったんです
このお方を私は神として信じています感謝しています
あなたも聖書を読みませんか
あなたもこの神様を信じませんかということですね
もう一つはこんな私を救ってくださった
それも命を懸けて救ってくださったこの命の恩人である
イエスキリストに恥をかかせてはいけない
もう二度とあなたでもクリスチャンなのとは言わせないぞと誓うことですね
そしてどうか神様私が救われたことを心から感謝し
そして私は死を明かしできるようなものにしてください変えてください
36:02
そうして日々神様の恵みとまたその哀れみにすがって
一歩一歩歩み出していけばいいと思うんですね
また聞かれたらはい私はクリスチャンですと
あるいはあなたもこの聖書を信じませんか読みませんか
私の信じている神様を信じませんか
やがての時あなたが信じている神様なら誠の神様に違いない
それじゃ私も信じましょうそういう証が立っていくんだと思うんですね
ですから決して私たちは恐れてはならないひるんではならない
この私をさえ憐れんで救ってくださったその神様を明かししていくんだ
もちろんその主を私たちが愛しまたその主の望まれているように歩んでいけるように
そういう祈りを絶やさずに一歩一歩主に近づいていけばいいんだと思うんです
決して私たちは偽善になろうと思って偽善である人なんていないと思うんですね
ただ私たちの弱さというんでしょうか
この人は上辺を見る私も人を上辺で見てしまう
そういうお互いの中でどうしようとこんなんでいいんだろうか
もっともっと立派にならなければもっともっと経験にならなければ
そういう思いが外に現れてくることもあると思うんですね
でもそういう外の自分と内側の自分はやがてどんどん近寄って
ぴったり一つになる時が必ず来るんだ
そのことを信じて祈りつつ主に従っていけばいいんだとそう思うわけです
三つ目のことは内側のことですね
ここでイエス様がおっしゃったことは
外から口に入る者は外から中に入ってくる者は人を汚さないんだ
それはやがて腹に収まり河谷に出ていく
河谷という言葉にその意味がわからない人もいますよね
それで大体の年代がわかるんですが
河谷というのはどういうふうに言えばいいんですか
おトイレですよね
イエス様というのは本当に生活に密着したことを言ってくださるのでよくわかります
私たちがいただいたものを食べたものは胃袋を取って腸を取って出ていく
39:00
それはもちろん菌のついたものや腐ったものを食べるとお腹は壊しますけれども
それが私たちの心や人の魂とか内側を何かダメにしてしまうということではないでしょう
そういうことをイエス様は弟子たちに言われたわけですね
ですから少々汚れていても何か手を洗わないで何か食べてもそれは出ていくものだし
もっと大事なものはこういうことなんだ
要するに人の内側から出てくるものが人を怪我しあるいは人を傷つけ人を悩ませるんだと
私たちが日常茶飯事のように見聞きしておりますいろんな事件ありますよねトラブル
そういうものはみな内側から出てきたもの
それはすなわち人の心から出てくるものだ
それが人を怪我し人を傷つけ人を悩ませあるいは自分自身をも傷つけ悩ませそして怪我するのだ
それはすなわち悪い考え不貧困盗み殺人
簡易貪欲横島あざむき高職妬みそしり高ぶり愚かさというようないわゆる罪なのだ
その私たちの内側にあるその罪が例えば言葉を通しあるいは私たちの行いを通して外に出てくるんだ
ですから私たちが人に晒しているこのものはそれはもとを正せば私たちの心の中内側にあるものが現れてるんだと
そういうわけです
安様は大変なことをおっしゃってるわけですね
あるいはこれはおそらく聖書のおそらく中心テーマの一つだと思うんですね
要するに私たちが神様の喜ばれないようないわゆる的外れのようなものを私たちが心の中内側にいただいているならば
それがもととなっていろんなものを醸し出してくるんだということですね
これは何とかしなければいけない神様どうすればいいんですかというそんな思いにもなるわけです
ある人がお家に雲の巣っていうんでしょうか雲の糸がありますからそれを掃除するんで取ったわけですね
そしてやれやれと思ったらまた何日かすると雲の糸がパーっと張っている
42:01
もう何回しても同じようなことである人がそんないくら糸を取ってもだめですよ
雲を取らないとなるほどそうですよね
コマーシャルにも何とかはもとを立たなきゃだめというのがありましたよね
そのもとを立つということいわゆるイエス様がおっしゃっているのはそのことだと思うんですね
内側がすなわち人の心から出てくるそのもとになるものが口からで行為となり私たちの外に現れて
それが人を怪我し傷つけ悩ませまた自分自身をもそれで傷つき悩んで苦しむわけですね
ですからどうかこの内側にあるもの私たちの心の中にあるもの
もしそういうものがあるならばどうかそれを取り除いてください清めてください
ですから私たちは今日もう一度外側と内側を考えるときにどちらも大事
そしてこの内側にもし問題があるならばそれを何とか清めてください
そしてそれはどうすればいいんですか
それもまたは見言葉から導いていただきたいと思うんです
ヨハネの第一の手紙の一章の中で皆さんもよくご存知だと思います
巫女イエスの血は全ての罪から私たちを清めます
巫女イエスの血が内側を心の中を清めてくださるんだ
もし私たちが自分の罪を言い表すなら神は真実で正しい方ですから
その罪を許し全ての悪から私たちを清めてくださいます
それを私たちは信じるときイエス様はその中に入ってくださって
私たちの悪のもと罪を一切清めてくださるんだ
それを疑ってはいけない
聖書が言う限りそれは本当にそうなのだ
イエス様の血が清めてくださるんだ
全ての悪から私たちを清めてくださるのはイエス様であり
そのイエス様が流してくださった血潮なのだ
その血潮をいただいて私たちはどうぞこの内側私のもとにあるもの
それを清くしてください
その祈りを絶やしてはいけないんだ
それは信じるならば必ずできる
先週も言いましたようにきっとできる
このきっと治るきっと救われるきっとできると
先週ここで一緒に聞いたことでありますが
私はその後何かもう一つ言い忘れたなという何かがもやもやしてました
45:05
何だったのかなということで
それから2,3日してこれだと思ったのは
オバマ大統領がまだ大統領選挙を戦っていた時に彼の一つのスローガンは
イエスウィキャン
これはいいなそうだ私たちはできるんだ
これをいただいて私も祈ろう
イエス様ウィキャン
イエス様アイキャン
イエス様と呼びかけてそして私はできるんだ
でもこれはあんまり外では言わないようにしてください
あの人英語できひんなと思われるので
イエス様ってどんな夏だろうイエス様ってどんなサマーだろう
そうじゃないんですイエス様
イエス様あなたの父よと
あなたのその贖いの業その具合で
私のこの家に救っているその悪その罪は全て清められるのだ
そう信じるならばそうなるのだとそれはできる
聖書はそう約束している限りできるのです
それを信じて今日も使わされていきたいと思います
お祈りします
巫女イエスの地は全ての罪から私たちを清めます
神は正しい方ですからその罪を許し
全ての悪から私たちを清めてくださいます
天の父なる神様
今日も私たちをこうして礼拝に導いてくださりありがとうございます
そして見言葉を通してあなたの身旨を教えてくださったことを感謝をいたします
どうぞ私たちの内側から出てくるものが人をけがすということでありましたから
何としてでも私たちの内側を清めてくださいますように
そしてイエス様の父親をいただいて
私たちの内側から出るものがキリストの愛を明かしするものとなりますように
私たちもあなたを信じて従ってまいります
導いてください
イエス様の尊い皆によってお祈りいたします
アーメン
47:44

コメント

スクロール